第4話 月は味方だった
思わず大声をあげそうになった。吐き出す間際に慌てて声を小さくする。
「サヤ」
布団の上の人が弾かれるように顔を上げた。
やっぱりサヤだった。
「サヤ」
「フウナ? どうして」
「助けに来たの」
障子を開け放って布団のそばにしゃがむ。うっすらと月明かりに照らされたサヤの顔は驚いていた。背中に触れた。肩甲骨が不安そうに尖っていた。それでも温かかった。
ああ、サヤだ。
「フウナ」
怖いの、と細い声が訴えてきた。
「怖い。信じたくない。わたし、明日はもういないなんて」
明日。
サヤは明日、沼に飛び込む。
沼には
阿芽は牙を持っている。
こうして触れているサヤの体、
肌の下、
血と、
骨と、
内臓、
それらが。
想像したら寒けがした。胃のあたりが苦しくなった。
目の前にいるのに。こうして触れているのに。生きているのに。
気分が悪い。だけどわたしよりサヤの方が苦しんでいる。
だから、ひとつの嘘もないように心をこめて言った。
「わたしも嫌だよ」
「きっと痛いよね。やだな。フウナと一緒にいたい。明日も明後日も、もっと先までずっと一緒にいたい」
「一緒にいようよ」
「でも無理だ」
「無理じゃないよ」
「もう決まっちゃったもの。わたしは明日、沼に行く。怖いけど」
「行かなくていいよ。逃げよう。一緒に逃げよう」
「逃げたらみんなに迷惑がかかる」
「サヤひとりに背負わせたくないの!」
サヤの手を握った。戸惑うように指の動いた手をさらに強く握る。サヤの指先は冷えていた。でも優しい手だ。よく知ってる。
この手を離すもんか。
「逃げようサヤ。ほかの方法を探しに行こう。きっとあるはずだよ。お人身さまなんていなくても、阿芽はおとなしくなるよ」
呼吸が聞こえる。
サヤの心が揺れている音だ。
目の前にいるサヤ。
首筋を月が白く照らしている。
髪の毛が頬にかかっている。
濡れた瞳が見つめてくる。
「ほんとう?」
弱々しい声だった。遠慮がちに探るような声だった。
その声に胸をひっかかれた。
わかるんだよ、サヤ。助けてってサヤは言ってる。そのひと言を押し殺しているんだって、わかるんだよ。だって友達だから。いちばんの友達だから。
「絶対あるよ。探しに行こう。そしたら迷惑なんてかからない。みんな喜ぶよ。ね?」
刺されているように胸が痛かった。痛みが熱だった。熱がわたしを支えてくれる。少し怖い。怖いけれど、生まれた決意を声に出した。
「もし見つからなかったら、わたしも一緒に飛び込むよ」
「そんな」
「でもそんなことにはならないから大丈夫。いちばん良い方法が絶対ある。それを探しに行こう。二人で見つけよう」
サヤがわたしを見ている。暗闇じゃなくて、もっと明るい、星とか月みたいなものをこの不安そうな目に見せてあげたい。その光のなかを歩いて、安心できる場所まで連れて行ってあげたい。
「うん」
大きく頷いて、サヤは強く手を握り返してくれた。
稲穂が月明かりで泳いでいた。
祭司さまの家を堂々と玄関から出て、静まりかえった家や畑の脇を黙って通り抜けてきた。行くあてもなく、ただ
冷やかすようにたまに風が吹いた。湿って汚れた古手拭のようなにおいがして気持ち悪い。
月が追いかけてくるねえ、とサヤが笑った。
うん、と返事をして横顔を見つめた。さっきよりも、それどころかいつもよりもずっと穏やかに見える。
何を考えているのかな。
本当に穏やかな気持ちでいてくれたらいいけど、そんなわけないよね。
本音を知りたくて、でも聞けなくて、落ち着かない。
とにかくサヤがなんの憂いもなく笑えるようにこの事態を解決しなきゃ。
虫の声とかすかな雨音を聞きながら、ふと思いついた。
「ねえ、獣はだめなのかな」
「え?」
「人じゃなくて、獣。山なら狸とかいるし……村の鶏とか、犬とか」
「だめって聞いたよ」
「そうなの? 試したの?」
「うん、昔やったって聞いたよ。でも阿芽は食べなかったって」
「そっかあ」
サヤが死なずにすむのなら、と考えて思いついたことだったけれど、あっけなく却下だ。何かほかの手立てはないだろうか。
「祭司さまにね、聞いたの」
サヤが静かに話し始めた。月の光がサヤの髪をつややかに照らしている。とても綺麗だった。
「どうしてわたしなんですかって。そしたらね、神託だからって。そう言うんだけど、わたし納得できなくて考えたんだ。たぶんね、たとえばお父さんは、お母さんたちを守らないといけない。お母さんはね、具合を悪くしてるんだ。健康な人じゃないとお人身さまにはなれない。病気の人を食べて阿芽に何かあるといけないから。沼に何か起きて、
そうか、と思ってしまった。
すぐに腹が立った。
なんでもないことのように話すサヤの言葉にそうかもしれないと納得しかけた自分が許せなかった。
野矢芽は白矢の沼に咲いている花だ。水面から何本も突き出している。長い茎の先端に白い花びらを密集させていて、それがまるで白い矢が立ち並んでいるように見えるから「白矢の沼」と呼ぶらしい。
この花は阿芽の死骸から育つ。
阿芽は死ぬとほかの魚に食べられる。身をかじられて骨のあらわになった阿芽が沼の底に沈んでいるそうだ。この死骸から阿芽は芽吹くという。
茎の先端についている白い花は、本当は花じゃなくて葉っぱだ。近くで見ると緑色の葉が白い粉のようなもので覆われているのがわかる。
この葉っぱは薬になる。とてもよく効くと評判で、町での売れ行きもいい。だから村の大人たちは沼に舟を出し、野矢芽の葉を摘む。
「神託って、そういうこと? じゃあわたしでもいいじゃない」
「フウナには兄弟がいない。わたしにはお兄ちゃんがいるから」
「そんな理由?」
「大事な理由だと思う」
「で、でも、それならもっと兄弟がいっぱいいる家だってあるじゃない」
「なにか、あるんだよ。わたしがぴったりだった理由が」
落ち着いた様子で言い切るサヤに、なんて言葉を返したらいいかわからなかった。
あの部屋でサヤが眠っていなかったことを思い出す。みんなが寝静まったこの時間まで膝を抱えて考え続けた結論なんだろう。サヤは必死に受け入れようとしていたんだ。
胸に泥を詰め込まれて、さらにかき回されたような気分だった。吐き出したいのにうまく吐き出せない。
それらしい理由で納得して受け入れてしまうのは嫌だ。かといってそれをサヤに押しつけるわけにいかない。
どうしたらいいんだろう。
どこに正解があるんだろう。
わからない。
わからないけれど、はっきりしていることがひとつだけある。せめてこれだけは伝えたい、わかってほしいという思いで、サヤに告げた。
「サヤがいなくなるなんて嫌だからね。わたしはサヤが大好きなんだから」
「フウナはいつも優しいね」
サヤは口元だけで笑っていた。
「そういうフウナがわたしも大好きだよ」
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