幻想への旅

高瀬拓実

幻想への旅

 学校帰りに、最寄り駅を降りずにそのまま電車に乗っていたくなった。いつもならここで降りるけど、なんだか今日は旅をしてみたくなった。ふと、そう思った。

 真夏の昼前、今日は午前中の授業で終わり。だから、いつもは窮屈な車内もこの時間帯ばかりは向かいの窓からの景色を見渡せる。窓の外は遙か彼方に水平線が広がっている。夏の空に浮かぶ白くて分厚い雲、そしてその下に敷かれている煌めく海。開いた窓からは常に風が吹き込んでくる。潮の匂いが鼻腔を撫でた気がした。

 車内には僕の他に四、五人ほど乗客がいる。静かに目を閉じている人もいれば、読書に勤しんでいる人もいる。長閑な空間。いつしか僕は、この穏やかな空間に溶け込むようにして瞼を閉じていた。

 どれくらい眠っていただろう。目を開けると、車内には僕以外誰の姿も捉えることができなかった。他の人たちはどこかで降りたんだろう。ということは、ここは終点の可能性が高い。扉はすでに開いていた。僕は降りようと扉に近づいた。しかし、違和感を覚えてすぐに足をとめた。

 ガラスか、水晶のようなものでできたプラットフォームの床が淡く澄んだ青い光を放っていた。扉の左右に設えてある手すりに手をかけ、恐る恐る片足をつけてみる。コツンというクリアな音がホームに反響する。どこか心地いい音色のようにも聞こえる。

 僕は電車を降りると、そのまま改札を出た。外は円を描くようにして階段が左右に伸びていた。階段の幅は人二人がどうにか通れるくらいの狭さで、階段を挟んで白塗りの壁が天高く伸びている。まるで迷路の中に放り込まれたようで、僕は息苦しさを覚えた。脱出しなくちゃと思ったけど、少し冒険してみたいなとも思った僕は左へと階段を登って行った。辺りは驚くほどひっそりと静まり返っていて、自分の足音しか聞こえない。途中、階段が左右に分岐していた。僕は直感で右を選び、再び登り始めた。

 それにしてもここは一体どこだろう。駅の表札は朽ちていて何が書かれてあったのか判断できなかった。それに、こんな迷宮みたいな町が果たして近くにあっただろうか。立ち止まり、空を見上げる。

「…………!!」

 何の変哲もない青い空。ではなかった。青すぎる。いや、紺色と言った方が適切だろう。夜空のような色をしているのに太陽光が降り注いでいる。本当に、ここは一体どこなんだろう。

 ふと、視界の下に何かが光ったのを捉えた。空から視線を移す。すると、右へとカーブしていく階段が建物の外壁で見えなくなる辺りの壁に、青い光の渦が見えた。駆け足でその場に向かう。自分の目と同じくらいの位置にそれはあった。かすかにゴゴゴという音が聞こえてくる。まるで吸引でもしているかのようだ。

 僕は何を思ったのか、右手をかざしてみた。すると、光の渦は弾けたように強い光を放ち、僕を包んだ。

 目を開けると、そこには理解しがたい光景が広がっていた。どうやらここは迷宮のそとらしく、目の前には柵があった。そして、柵のその先は――

 果てしない空だった。

 雲がすぐ近くを流れ、やがて視界を晴らす。見渡せば城や正方形のような、様々な形をした町が浮いていた。

 そう、ここは空中都市だった。おそらく、僕が今いる場所は迷宮から突き出た崖か何かなんだろう。柵があるにせよ、跨げばすぐ下は……。僕はゆっくりと後退し、気づけば壁にぺたりと張りついていた。風が音を荒げて勢いよく吹き付けてきた。飛ばされないようにその場に座り込む。

「一体……どうなっちゃったんだ?」

 再び前方を見やって、すぐのことだった。遠くに浮かんでいた町が激しい閃光を放った。かと思うと、音もなく崩れていった。僕は瞬きするのも忘れてその光景に見入っていた。

「そんな……町が……」

 僕の驚きをよそに、突然、上の方から聞きなれないサイレンのような音が鳴り響いた。何か嫌な予感がする。頭上を見上げる。ここからでは見上げても高くそびえる迷宮の壁しか見えないけど、その向こうの方から戦闘機のようなものが飛んでくるのが見えた。その戦闘機を目で追うべく、再び正面に向き直る。すると、遠くの方で十数個の光点が散見された。おそらく同じような戦闘機だろう。発していた光が明滅したと思いきや、その数秒後。耳を聾するような爆音と大きな揺れが起こっった。見上げると迷宮の外壁が落ちてきていた。幸い、その砕片は空の底へと姿を消すだけで、僕には当たらなかった

 ――――戦争。

 刹那にそう理解した。でも、僕にはどうすることもできない。爆音は次から次へと轟き、いつ真上から岩塊が落ちてくるかわからない。僕には祈ることしかできなかった。

 またしても前方の光点が明滅を繰り返した。まずい!早くここから逃げないと!でも、ここに来るときにあったはずの光の渦は見当たらず、逃げ場はなかった。と、迷宮の向こうから飛来してきた黒い戦闘機が突然不規則に光をパパッと放った。すると――。

 攻撃を仕掛けてきた戦闘機との中間付近で爆発が起きた。双方の戦闘機は相手の出方を窺がっているのだろうか、その場に停滞し、動かなくなった。それから少しして、どちらからともなく矢のように動き出した。両翼は光の刃らしきものを纏っていて、それに切られた機体は閃光を放って爆散。空中は攻防を繰り広げる戦闘機が入り乱れていて、それはあまりにもおぞましい光景だった。

 と、回避を繰り返していた機体がついに斬撃を受けてしまった。でも、高速回転していたプロペラ部をかすめただけで機体は消失しなかった。右に左に不規則な移動を繰り返しながら落下していく。その姿は次第に大きくなって――。

 こっちに向かってきている!

 そう悟ったのも束の間、黒煙を上げながら機体は目と鼻の先まで近づいていた。逃げ場を失った僕には、悪あがきとして身を縮こませることしかできなかった。

「……っ!!」

 やがて訪れるそのときを覚悟し、目をきつく閉じ、歯を食いしばった。

 爆音、そして爆風。

 ついにそのときが来てしまったのかな。いや、何かがおかしい。痛みを感じない。怪訝に思った僕は恐る恐る目を開けた。そこには、僕をかばう形で、もう一機の機体がホバリングをしていた。表面を白く透明なバリアみたいなもので覆われているそれは、爆散した機体を受けても傷一つ付いていなかった。何がどうなっているのかいまいち理解に苦しんだ。僕は死ぬはずだったのに、まだ生きている。それも、謎の戦闘機によって助けられて。一体なぜ。どうして。

 僕の混乱をよそに、機体が僕に対して正面に向き直った。そして底部辺りから重い金属音が響き、二つの筒が姿を現した――。

 う、撃たれる⁉

 僕の混乱はすぐに解けたようにも思えた。でも、じゃあ何で助けたんだという新たな疑問が生まれてくる。再び生命の危機に立たされた僕。今度こそ助からないだろう。僕にはこの状況を打開するような強力な魔法も武器もない。せめてもの抵抗として、隅の方に後退する。しかし……。どうやら、その必要はなかったみたいだ。

 大きく口を開いた機関砲は何も吐き出してはこなかった。僕はその機体の指示者であるパイロットを見透かすように窓を見やる。若干の開閉音を耳に、操縦席の窓が開いた。黒いヘルメットを被り、身動き一つせず、僕だけを見据えているようだ。どこか冷たく感じられた。言い換えれば、人ではなく、機械のような。と、操縦士は両手を頭にあてた。そしてゆっくりとヘルメットを脱いだ――。

 機械なんかじゃない。人間。それも女の子だった。呆気にとられた僕は、ただただその姿を見ているしかなかった。

 流れるように長くて金色の髪がさらさらと風に舞った。少し鋭さのある眼はスカイブルー。鼻梁が通っていて、唇は薄く、全体的に見て西洋人だと思った。僕は驚きのあまり間の抜けた顔をしているに違いない。戦闘機を操るパイロットは、冷徹で大柄な男のイメージがあった。でも、今目の前にいるのは凛とした美少女だ。武装してはいるものの体の線は細く、僕のパイロットに対するイメージを壊すのには十分だった。

「ねえきみ。そんなところで何してんの?自殺?だったら手伝ってあげようか?」

 いまだ衝撃から回復しない僕にとどめの一撃。一目見たときから気が強そうな印象は受けたけど……。しかも英語とかフランス語を話すのかと思ったのに日本語。脳の処理が追いつかない。

 出し抜けに、狙いを定めるかのごとく機関砲が音を立てて微かに動いた。僕は咄嗟に両手を突き出して彼女の行動をとめようとする。

「ち、違う違う!そんなんじゃないよ!僕はただ道に迷って……」

 彼女は僕の言葉を聞くと、そのまま無言を決め込んだ。僕の言葉が本当なのかどうか定めようとしているのだろうか、その沈黙が恐ろしく感じられた。やがて、謎のパイロット少女は、はあ、とため息をつくと、

「なーんだ、そんなことか」と、どこか残念そうにつぶやいた。「でもどーしよっかなぁー。きみ、一般の人には見えないし……。かと言って消すわけにもいかないしなあ」

 パイロット少女は悩む素振りを見せてから、あっ!と短く声を発し何か閃いたようだ。

「きみ、死にたくなかったらとっとと乗りな

 そう言って彼女は目で後部座席を示した。


「怖かったら目、瞑っときなよ」

 どうしてこうなったんだろう。僕は目まぐるしいスピードで過ぎ去っていく景色を視界に捉えていた。絶え間なく起こる一瞬の強い光も、爆発も、呼吸をしていればすぐに遠くの出来事になっている。気に留める暇もない。まさか戦争に巻き込まれるなんて……。

 僕、死んでしまうのかな……。

 自分の置かれた立場を改めて考えていると、機体が急に下降した。次いで直進。

「うわあっ!!ちょ、ちょっと!!」

 僕は短く声を上げる。

「うるさい!少し黙ってて」

 彼女の声は研ぎ澄まされた刃のような鋭さを帯びていた。

 それもそうか。今は戦争中。死と隣り合わせなんだ。不規則な軌道で空を飛び回る機体。敵の攻撃を受けたらそれまでだ。僕は彼女の言う通りに目を固く瞑り、無事を祈った。


 次に彼女の声が聞こえてきたとき、僕たちはとある場所にいた。気分が悪かったけど、どうにか戦闘機から下りる。すると、前方に神殿らしき建物があった。見るからに相当昔のものらしく、柱が折れていたり神殿そのものが欠けていたりと荒廃した印象が強かった。それ以外、この場所には他に何もなかった。

「ここは……」

「ずっと昔からある神殿跡よ。一般人はちゃんとした避難場所があるけど、きみはどうみても一般人じゃないからね。特にその白と黒の変な服とか」そう言うと彼女は僕の制服を一瞥した。一体どこが変なんだろう。いたって普通じゃないか。そう思ったけど、口を開こうとはしなかった。「ま、あたしの気まぐれできみは助かったわけ。その意味、わかる?」

 ゴールドの髪を大げさに振り払って彼女は言った。少し挑発気味な態度が癪に障ったけど、ここは素直に感謝を述べておく。

「いい?あたしが迎えに来るまできみは神殿の中に隠れていなさい?ま、死にたいんならてきとうな場所から落ちればいいわ」彼女はヘルメットを装着しながら言った。「何か言い忘れたことはないかしら……。それじゃじっとしてるのよ」

「あの!」僕は踵を返しかけた彼女にを呼び止めた「君は一体……誰なの?」

 彼女は僕の声に動きをとめ、こちらを見やってため息をついた。

「あたしはアリア。ただのパイロットよ。えーときみの名前は?」

 アリアは早く出発したいとでも言いたげに早口でまくし立てた。

「僕は良太。よろし――」

「あーわかったわ。変な名前ね。そんじゃ!」

 アリアは僕が最後まで話すのを遮って、振り向きざまに手を振りながら駆け出していった。それからすぐにアリアは飛び立っていった。一人取り残された僕は、遠くから聞こえてくる微かな炸裂音を耳に、神殿に近づいていった。等間隔にそびえ立つ円柱の隙間からは、暗く淀んだ神殿内部への入り口が見える。数十段ほどの階段を登る。それから円柱の間を通って神殿の内部へと足を踏み入れた。

 神殿の中には何もなかった。ただ、神殿の中央に崩れ落ちた屋根の一部が、小さな山を作っていた。そのため、ある程度の光が神殿の中に降り注いでいた。太陽光は抜け落ちた屋根の周りが細かい砂になって落ちてくる様をありありと露呈させている。

 僕はとりあえず壁伝いに歩いてみることにした。壁に近づいてみてわかったけど、何やら不思議な絵が刻み込まれていた。でも、この神殿は外観からして相当古いということはわかっている。刻まれた絵もほとんど何が描かれてあるのかわからない。ただ、人と人の手がつながれているように見える気がする。

 何気なく僕がその絵をなぞったときだった。ゴゴゴという地鳴りが足を伝って全身に響いてきた。僕はぞの場に身を伏せた。やがて大きくなっていくそれは、どうやら神殿の奥の方から聞こえてくるようだ。少しすると地鳴りは収まった。僕は安全を確認すると、その音源の方へと向かった。

「これは……一体……」

 そこには、石盤が出現していた。それには何か文字のようなものが記されていた。僕は石盤の文字が目の位置にくるようにしゃがむ。見たこともない文字だ。それらは直線が何本か交差したり、並列したりすることで文字を形成しているようだ。

 初めて見た文字。なのに、僕はそれを読み始めた。

「……天に手を触れしとき……世界は一つになる……」

 文字を最後まで読んだとき、その下に絵が描かれてあることに気づいた。石盤を見たときは単なる汚れだと思っていたけど、これは絵だ。

 黒い半円。そしてそれに手をあてている人。

 首をかしげる。全くわからない。一体どういう意味なんだろう。怪訝に思い、不思議な文字と絵を睨むように見ていたら、ある考えが芽生えた。と、そのとき。突然うしろから短く声が聞こえた。

 そこには太陽の光を受けて、驚いた表情を顔いっぱいに作っているアリアがいた。

「きみ……それは一体……。なんで……その文字が読めんの……?」

 アリアは眼を大きくさせ、全く理解できないといった表情をこちらに向けてくる。

「そんなの僕だってわからないよ」

「…………」

 僕の言葉が聞こえているのだろうか、アリアはただその場に佇立している。だから、僕は「あの……」と様子を探るように声をかけた。

 アリアは我に返ったようで、「えっ、なに!?」と反応した。

「僕に考えがあるんだけど」

 彼女にそう告げると、彼女は神妙な面持ちで僕を見てきた。


「まあ、こんな争い続けてても意味ないからね。きみ……ああ、名前なんて言ったっけ」

「良太」

「そう、良太の賭けに乗ってみるわ」

 言うなり彼女は戦闘機を浮遊させた。僕は体全体でそれを感じる。アリアは上方向に期待を動かした。ぐんぐん高度を上げ、ある程度飛行を続けると、水面に小石を投げ込んだときのように空が歪んだ。訝しがってうしろを振り向くと、神殿は跡形もなく消えていた。

「結界……」

 僕はそう呟いたけど、アリアはそれには答えず、操縦に集中していた。

 やがて近づいてくる紺色の空。吸い込まれているんじゃないかと錯覚してしまう。そう、僕はこれからあの石盤に描かれた絵と同じことをするつもりだ。おそらく、あの黒い半円はこの空のことを表しているはず。だとすると、空に手を触れれば戦争は終わるかもしれない。僕はあの文字と絵からこう解釈した。

「あとどれくらい?」

 僕はアリアに訊ねた。

「もう少しよ――」

 と、彼女が言い終わろうとしたそのとき。

 機体の左を閃光が通り過ぎた。刹那の出来事だったけど、バチバチと電撃を纏ったそれは間一髪のところで機体に直撃するところだった。

「くっ、気づかれた。……十機ほどか」

 アリアは歯噛みした。それから荒々しい動作で操縦桿を前後左右に動かし始める。それに従い、機体は敵の攻撃を絶妙なタイミングでかわしていく。アリアがスイッチを押す。すると、両翼から光のブレードが出現、戦闘機を一刀両断する。防音が施されているらしく、くぐもった爆音が聞こえてくる。

 二、三機ほど倒したこともあって、敵の戦闘機が以前よりも攻撃姿勢を強めた。両翼の光刃はそれぞれ一メートルほども伸び、接触範囲を広めた。さらに、機関砲からはホーミング弾が吐き出され、一斉にこっちへと向かってくる。

「アリア……」

 僕は不安の色を帯びた声で彼女の名前を読んだ。

 アリアが「しっかりつかまってて!」と言うなりさらに速度を上げた。前方には敵の戦闘機が正面を向いている。砲撃の準備をしているらしく、エネルギーがチャージされていく。

「う、うわあぶつかるっ!!」

 目を閉じたと同時に機体が上昇する感覚。下の方から爆発音が起こる。溜めてから発射した砲撃は僕たちではなく、追跡弾といくつかの戦闘機をなきものにしたようだ。

「どうよ!あたしの手にかかればこんなもんよ!」

 アリアは声のトーンを上げて言った。さっきのあれは、狙っていたんだろうということは今のではっきりとわかった。

 でも。次のことはアリアでさえも予期していなかった。

 突然、右翼が折れた。次いで光線がいくつか機体をかすめた。

「……こ、これは……」

 アリアの声はかすれていた。

 上昇したその場所は、いつの間にか敵に包囲されていた。ほとんど装填が完了しかけている筒からは、白い光が網膜を強く刺激してくる。見渡す限りの無機質な黒い塊。冷酷、無慈悲を限りなく放っているようにも感じる。気づけばそれは恐怖へと姿を変えていた。どうすることもできない。ただ、そのときを待つだけの時間。体から血の気が失せていく。どうにか、助かる方法は……。そうだ、アリアは。

「ア……アリア……」

 僕は身を乗り出してアリアを見た。彼女は身動き一つしない。でも、操縦桿を握った手に震えはなかった。

「脱出するわよ」低く、でもはっきりとした声でアリアは言った。「これを持って」

 アリアは僕に八面体の青いキューブを渡してきた。

「あたしが合図したらこれを投げるのよ」

 彼女はそう言うとヘルメットを脱いだ。二、三度頭を振り、髪を整える。ふぅ、と一度大きく息を吐き、手元の赤いボタンを見やる。どうやら脱出装置らしい。それに指を添え、視界には敵戦闘機を捉える。

 装填を終えたようだ。白い光はぎゅっと凝縮したかと思えば、次の瞬間拡大し放射された。

 その直前にアリアは赤いボタンを押していた。戦闘機から吐き出され、僕たちは空高く舞い上がった。眼下には光芒の中で消え去っていく戦闘機があった。

「今よ!」

 アリアは僕に向けて合図を送った。僕は握りしめていた手を開き、キューブを上に向かって投げた。手を放してすぐ、キューブが淡い光を放った。その青い光はみるみるうちに大きくなっていき、僕たちを包み込んだ。その瞬間、僕たちの体は上昇をとめた。光は円形で、僕たちはその中で浮かんでいるようだ。

「なに……これ」

 そとの音も聞こえなくなっていた。不思議な感覚。

「ふう、なんとか助かったわね……」

 アリアは、まるでそこに地面があるかのようにどさっと座り込んだ。

「ねえ、この光、敵に気づかれないの?」

 安心しきっているアリアに向かって僕は不安の種を見せた。

 そんな僕を見て、アリアは眼を閉じ、言った。

「見てごらんなさいよ」

 僕は四つん這いになって下に広がる空を見た。そこには、次々に下降していく戦闘機の姿があった。

「気づいてない……?」

「そーゆーこと」

 はあ、と僕は安堵のため息をつき、空を仰いだ。

「あれ、空ってこんなに近かったっけ」

 もうすぐそこまで空が迫っていることに気づいて、僕は言った。

「ええ、これ、密度が限りなく小さいのよ」アリアは立ち上がりながら答えた。「さ、良太。やってみて」

 アリアは目配せしてきた。僕は首を縦に奮ことで返答する。

 そこに地面があることを意識して、軽く蹴ってみる。すると、すぅーっと体が空へと近づいていく。体に力を入れると、とまった。

 空との距離はわずか数十センチほどになった。目と鼻の先にある空は、まるで深淵の闇への入り口みたいに思える。いや、闇の中にいるこの世界を終わらせるんだ。空は、そのための出口だ。

 そっと、手を伸ばす。僕たちを包んでいる青い光が、伸ばした手のところだけ消滅した。

 

 冷たかった。空に触れるなんておかしいことなのに、張りつく感じがした。


 僕は何も考えずそのままの状態でいた。我に返ったとき、空が割れていた。

「…………⁉」

 見えないガラスでもあったかのように、触れたところから四方八方に皹が走った。次いで破砕音がとどめくのかと思ったけど、少し違った。

 透明な液体が、重厚な音をまき散らしながら降ってきた。

「うわあっ!」

 僕は反射的に後退しようとした。けど、アリアのいるところまで落下してしまった。その際、液体が少し顔に付着した。それは冷たくて、さらさらとしていて顔から滑り落ちていった。

 水……?

 僕が尻餅をついていると、アリアが体を起こすのを手伝ってくれた。

「空に、水があったなんてね……」

 アリアは上を見上げ、ひとりごちるように言った。

「僕も知らなかったよ」

 彼女の見つめる先を見て、言った。

 そこには先ほどあったはずの穴が消えていて、光は再び僕たちを完全に包んでいた。そのため、とめどなく落下してくる水を、光はことごとく弾いていた。

 周りを見渡せば、あらゆる裂け目から水が放散していた。世界が揺らいでいるんじゃないかと錯覚するほどの轟音。飛沫なのか雲なのか、眼下の景色が白くかすんでいた。

 本当にこれでよかったのかな。

 そんな思いがどんどん膨れ上がってきた。その間も水はとまることを知らず、落ち続けていた。

 どれほど時間が経っただろう。僕たちは二人並んで座り、下を見下ろしていた。「あっ」とアリアが声を上げ、僕はどうしたのかと彼女に訊ねる。

「見て、あれ」

 彼女が指差す方向。そこには、水に浮かんだ小さな町が波に揺られているのが目に入った。さらに、全体をよく見てみると、様々な方向からかつては空中都市だった町や城などが、ある一点に向かって引き寄せられるように水の上を移動していた。そこで僕は気づいた。

 これが、世界を一つにするってことだったんだ。

 僕の選択は間違っていなかった。この先、必ず平和が訪れる。気がつくと、安堵の思いから笑みを浮かべていた。そんな僕を見てアリアは小首をかしげて見せた。

「もう大丈夫だよ」

 僕は問われることを予期し、その前に答えた。するとアリアは、ええ、と小さく頷いた。

 ふと、何かに呼ばれた気がした。上を振り仰ぐと、紺色の空の中に白い光があった。

 行かなくちゃ。なぜだかわからないけど、そう直感した。

「アリア。これでお別れだ」

 アリアは一瞬驚いた表情をしたけど、何かを悟ったようで首を小さく縦に振った。

「ありがとう。きみのおかげで助かったよ」

 アリアの笑顔を見ると、僕も自然と笑顔になった。

「じゃあ、行くね」

「ええ。――あっ」

 僕は彼女の声に、再び振り返った。

「ねえ。また、会えるかな」

 そう言った彼女の青い瞳をしばらく見つめる。

「……。会えるよ、きっと。またいつか」

 僕の言葉を聞いたアリアは、小さな笑みを浮かべた。

 僕もまた微笑み返し、そして空を目指して浮遊した。光の中から抜けると、そのまま流れ落ちてくる水の中に入り込んだ。瀑布のごとく落ちてくる水の勢いは相当のもののはずだけど、どういうわけか何の抵抗も受けずに水の中を進めた。

 空をくぐり抜けると、そこは辺り一面水だった。やっぱり、空は水の底にあったんだ。水面には、先ほどよりも強い光があった。僕はそれを目指して泳ぐ。

 全く不思議な世界だった。この先、アリアは争わなくていい日々を送ることができるのだろうか。そう思い、振り返ってみるけど、もうあの世界を見ることはできなかった。

 大丈夫。僕の一抹の不安は、彼女の笑顔を思い出すことで水に溶けていった。

 もうすぐ外に出られる。光がみるみるうちに視界を染め上げていく。そして――。

 視界が光でいっぱいになったその瞬間、塩の味がした。


 アナウンスが聞こえる。最寄り駅に到着したという知らせ。僕は閉じていた眼を開ける。開け放たれた窓からは、真夏だけど爽やかな風が吹き込んでいた。車窓から見える海はまばゆく煌めいている。と、海の底が刹那だけふあっと光ったような気がした。

 警笛が鳴る。こんなことをしてちゃいけない。僕は鞄を持って電車から降りる。扉が閉まり、すぐにホームから出ていった。僕はそれを見届けると、あの不思議な体験について思考を巡らした。

 とても幻想的だった。あの世界は一体何だったんだろう。アリアはどうしているだろう。そんな思いが頭の中を駆け巡る。

 僕は不思議な旅をした。夢のようで、現実のようで。どっちが本当なのかと言われても僕には見当がつかない。だけど――。

 旅はできたんだ。それも思っていた以上の大きな旅が。

 大きく深呼吸をする。そうして僕は、駅のホームを出ていった。

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幻想への旅 高瀬拓実 @Takase_Takumi

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