第4話 ごめんね

 僕は大学四回生になった。

 毎日就職活動で追われ、日によっては分刻みのスケジュールをこなしていた。不景気だったせいか、どこの企業も前年度よりも採用を控えていた為、僕たちは不運な世代と新聞などのメディアからは言われていた。それでも言い訳なんかしている暇は無く、とにかく必死で一つでも多くのチャンスを臨むしかなかった。

 佳代は地元である石川県の企業と関西圏の企業をどちらも受けていた。更に、佳代は教員免許取得も目指していたので、教育実習などもこなしていて、僕なんかよりもよっぽど大変な毎日を過ごしていた。


 初夏になり、就職活動も落ち着いてきた頃、僕は運よく内定を三社からもらっていた。どの企業に行こうか悩んではいたが、社風が一番自分に合いそうな大阪に本社のある化粧品製造企業に決めようとしていた。一方、佳代は石川にある企業からも大阪の企業からも、内定が来たようだった。

 ある日、僕は久しぶりにモンブランを購入し、佳代のアパートにいた。と言うのも就職活動の間は多忙でアルバイトが出来なかったが、ようやく始めることになり、数か月ぶりの給料を手にしたからだった。僕は佳代の笑顔が見たくて、自慢げにケーキを差し出した。

「あ、モンブランだ。ありがとう、久しぶりだね」

「うん、久々の給料貰ったからね。今日は特に美味しく感じるかもね」

佳代はコーヒーを用意してくれ、僕たちは久々の時間を堪能した。ケーキを食べる彼女はいつ見ても可愛い。少し頬を膨らませて、目が少し弛む感じは僕を凄く癒してくれる。モンブランを完食すると、佳代は何かを思い出したように切り出した。

「ああ、美味しかった。ねえ、耀司、前から言ってなかったけど私、大阪で就職することにしたからね」

「そうなんだ。良いの?金沢に帰らなくても」

「帰ろうかなとも思ったんだけど。だって私には耀司がいるから。それに帰るのはいつでも帰れるからね」

「佳代……」

僕は小さな佳代の身体をきつく抱きしめた。彼女のメッセージは、僕の男としての尊厳を守ってくれた。初めて一人の大人として認められた気がした。

(ありがとう、佳代。俺の為に、そうしてくれて本当に嬉しいよ。僕も君を幸せにしたい、純粋にそう思うよ。ずっと一緒にいたいね)


 僕たちは卒業して社会人になった。お互い別々の会社に入り、次第に会う時間は少なくなっていった。僕の入った企業は土日が休日だったが、佳代が勤めている会社は平日が休みだった。だから必然的に二人で過ごす時間は極端に減った。無理をしたら時間は作れたのかもしれない。だが僕たちは慣れない社会人生活に対応するのに必死で、相手を考える余裕など生まれなかった。

 ある日、佳代の仕事終わりに合わせて、僕は彼女が勤める会社の最寄り駅で待っていた。何分か覚えていないが、少し経つと、彼女と二人の女性が近寄ってきた。僕はすれ違う際に軽く会釈をしたが、佳代は気づいていたのに無視をした。

(え?無視?何で……)

何か裏切られたような気がした。これまで似たようなシチュエーションは数々あった。彼女が友人やサークルの人間といる際でも、アイコンタクトや軽い会釈などは必ずと言っていいほどしてくれたのだった。だから、僕の頭の中に疑問が浮かぶ。佳代は虫の居所が悪かったのか。いや、それとも自分が何か怒らせたのか。わからなかった。時間が経つにつれ、小さかった疑問がどんどん僕の中で膨れ上がっていった。


 数分後、佳代は現れた。そして、近くのレストランに夕食を摂ろうと向かった。駅に着くまでは、久しぶりの彼女との食事を楽しみにしていた。そのレストランには隣接する洋菓子店があり、デザートにモンブランを選べるから敢えてその店にしたのだった。メニューを見て、お互い注文すると、僕は切り出した。

「ねえ、さっき何で無視したの?気づいていたよね」

「え?気づいてたよ。会社の人といたから、そうなったんだけど」

「どういう意味だい?言ってる意味がわからないけど」

「私ね、会社の人には彼氏いないって言ってるんだ。だから、耀司と挨拶すると『誰、あの人?』ってなるでしょ。だから、何もしなかったんだよ」

「はあ?何だよ、それ」

「私のこともわかってよ。色々とあるんだから」

彼女の一言は、僕を高い場所から突き落としたようだった。信じられなかった。何度も何度も(嘘だろ)と黙ったまま、連呼していた。僕はそれまで同期入社の人間との研修などで、他の女子社員から何回も「山崎君、彼女いるの?」と聞かれた。だがその都度「いるよ」と応えていた。中には残念がった女の子がいたのも覚えている。女子社員にしたって、恋人がいると聞いた人間はたくさんいたし、女子だからっていうのは関係ない。

 僕には佳代がいる。でも、佳代には僕がいなかった。僕は深く傷ついた。その後の食事はほとんど喉が通らなかった。毎日新しい生活を頑張っているお互いを称えよう、と考えていたデートプランは脆くも崩れ去った。


 その日以来、僕たちは疎遠になった。それまで、四年間という時間が築いてきた信頼関係は簡単に崩れ落ちた。僕は彼女の言い分が理解できる。おそらく佳代は会社で人間関係を築いていくうえで、恋人がいないと言った方が楽だったのであろう。それは百歩譲って許せる。だけど、せめて謝って欲しかった。嘘ついてごめんね。無視してごめんね。そういう言葉を僕は待っていたのだ。嘘は許せない。でも、大好きな佳代ならば謝ってくれれば許せたのに。

 だが、佳代は謝ってはくれなかった。それからも何回か、彼女と連絡を取ったが、佳代からの謝罪は無かった。僕は彼女と距離を置こうと決心した。


 秋になって、その日は訪れた。僕たちは大阪市内の公園にいた。ベンチに腰掛け、缶ジュースを飲みながら、他愛も無い話をしていた。夕方になり、空が夕焼けに変わると、僕は意を決して告白した。

「佳代、俺達、距離を置かないか?別れて欲しい」

「え?嘘でしょ?何でよ」

「佳代のこと、信じられなくなったんだ。もう、好きじゃない」

「耀司、私達一緒になろうって言ってくれたよね?どうして……」

「ごめん。俺、嘘つかれるの本当に嫌なんだ。しかも謝ってくれなかった」

「ごめんなさい。耀司……私、耀司が大好きだよ。大切に想ってる。でも本当に耀司がそう思うのなら、別れよう。だって好きだもん……邪魔したくないから」

「佳代……ごめんな」

「ううん……」

佳代は泣きじゃくっていた。周りには数人いたが、彼女には誰がいようが関係ない。僕は彼女の頭をずっと撫でていた。そして、何度も彼女の眼からこぼれる涙をハンカチで拭う。だが何度も何度も、彼女の涙は流れてきた。嗚咽している彼女を見ると、堪らなくなり何度も抱きしめた。そう、僕は佳代を愛していた。「好きじゃない」と言ったのは嘘だった。愛していたからこそ、嘘をつかれたのが嫌だったのだ。


 二人が恋人の時間はあっけなくピリオドを打った。僕は彼女と別れて、真っすぐ帰宅するのが厭で、一人で公園に立ち寄った。すると、僕の涙腺は一気に崩壊した。四年間という期間なのか、彼女への想いなのか、嘘をつかれたことなのか、何が僕を泣かせていたのかはわからない。ただ、悲しい、愛しい、悔しい、色んな感情が僕の胸を張りの様な尖ったもので突き続けた。僕はあまりの辛さにしゃがみ込んでしまった。(苦しいよ、佳代……ごめんな)


 僕は入社して二年目の終わりを迎えていた。それなりに仕事も任せられて、生活も落ち着いていた。佳代と別れて数か月はメールや電話で連絡を取っていたが、一年が経過する頃、連絡が途絶えた。彼女は電話番号を変えたのだ。僕は、佳代と別れてから一年後には新しい恋人ができていた。

 だが、佳代と離れて一年半が経過しても、頭の中から彼女が消えることは無かった。連絡が途絶えた後も。その思いは日を重なるごとにどんどん膨らんでいった。新しい恋人に対しては、そんなに好きじゃなかったのだろう。ある日、思い立った僕は佳代に会いたくて、彼女が勤める会社の最寄り駅に最近購入した車で向かった。久しぶりに訪れた駅は何も変わっていなかった。佳代から無視をされたあの日の出来事が、昨日のことのように容易に思い出せた。

 佳代に何をしたかったのだろうか。謝りたかったのか、まだ好きだと伝えたいのか、何を一番に考えていたのだろか。ただ勝手に身体は動いていた。当然、佳代と会うのだからとモンブランも持参した。


 駅のロータリーで待っていると、二時間ほど経過した時、佳代は一人で現れた。一年半ぶりに見た彼女は少し以前より痩せていた。僕は車から降りて、大きな声で彼女を呼び止めた。すると、彼女は眼を大きくさせて驚いていた。

「え?何で?」

「ごめん、突然来てしまって。どうしても会いたくて、ちょっとだけ話せないかな。帰るんだよね、送っていくよ」

「ううん、今から送別会なの。だから、神戸に行かないといけないの」

「じゃあ、神戸まで送っていくよ」

「うん、じゃあ、お願いするね」

二人は車に乗り込んだ。神戸までなら高速を使わなくて一時間程度で着く。つまり僕に残された時間は一時間しかなかった。色んなことを話したかったが、彼女と会ってなかった空白の一年半という時間が、僕を必要以上に緊張させた。すると自身でも思いがけない言葉を発してしまった。

「久しぶり。彼氏はいるの?」

「はあ?何よ、いきなり。まあ、いないけど」

「そうなんだ。送別会って、ひょっとして仕事辞めるの?」

「うん、ちょっと色々あって退社するんだ。金沢に帰ることになって」

「ごめん、俺のせいで大阪で働くことになったのに……」

「そうだね、耀司の嘘つき!全部、耀司のせいだよ」

「本当にごめんなさい……」

「うそ、冗談よ!これは私が決めたことだから、耀司のせいじゃないよ」

僕は車を運転しながら、一年半前の別れを思い出していた。それまでの充実した時間とは一変し、彼女との別れは僕の人生に大きな穴を開けた。彼女の存在の大きさを失って初めてわかった。

 ずっと好きだった。「好きじゃない」と言ったのは嘘だったと伝えたかった。もうすぐ三ノ宮駅に着こうとした頃、時間が差し迫るのがわかり、ようやく胸の奥につかえていたものを取り出した。

「俺、本当はずっと佳代が好きだった。好きじゃないって言ったのは嘘なんだ。あの時は、ただ謝って欲しかっただけだったんだ。ごめん……」

「え?今更、そんなこと言わないでよ。私、耀司と別れてから本当に辛かったんだよ。あれから耀司がずっと頭から離れなくて、すごく痩せたし、仕事にも影響してみんなに迷惑かけて……一年経って、やっと落ち着けたんだよ。もう、やめてよ、そんなこと言うの」

「そうだよな、今更だよな。ごめん、俺が悪い。金沢に戻っても、頑張ってね」

「耀司、色々とありがとう。私に幸せな時間をくれて。じゃあね、さようなら」

「さようなら……」

佳代は、颯爽と車を降りた。そして、一旦僕を見て手を振った後、人混みへと消えて行った。

 僕は彼女が見えなくなるまで、運転席で佳代を見つめていた。彼女が視界から消えた瞬間、勝手に涙が溢れてきた。そして佳代の為に買ってきたモンブランは彼女の手に渡ることなく、寂しそうに佇んでいた。僕は無造作にケーキを素手で取り出し、齧り付いた。

(懐かしいな、佳代の味がする。ああ俺は何で、あんなことしたのだろう。佳代は確かに嘘をついたけど、結局自分じゃないか、嘘をつき続けたのは。嘘をつかないって決めたんじゃなかったのか?何で素直になれなかったんだよ。ただ、もう佳代はいない。自業自得だよな……)

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