第6話 二人の想い

 ペン先がコツコツと音を立てながら紙の上を走っていく。腕を休めることなく次々と答えを書き出していく。それももう限界だ。文字が確実に雑になっていくのを見て、俺は手をとめた。

「あー……」

 両手を天井に向け、伸びをする。手から零れ落ちたペンがカラカラと机の上を転がった。

 補習最終日。このテストで八〇点以上取ることができれば無事合格だ。

 しかし、俺の憂慮は合格できるかどうかということではない。

 窓の方に顔を向けると、グラウンドの隅でリリアたちが談笑している姿があった。

 帰りのバスの中で、俺はあの夜のことをリリアに訊ねた。リリアが余計な心配をしないように、あくまでも遠まわしに。しかし、リリアは何も覚えていないという。つまり、あの夜の出来事は俺とアルフしか知らないということだ。キャンプは何事もなく、楽しい思い出の一つとして幕を閉じた。あいつらにとっては。

 風を受けながら、俺はあの夜、デルビンがその姿を消したあとのことを思い出す。

 ――星吾さん、もう時間がありません。

 ――アルフ……。

 ――デルビンが姿を晒したのにはきっと訳がある。きっと私に対する罠だ。これほどまで露骨に罠を仕掛けてくるとはなめられたものだ。

 ――アルフ……俺はどうすればいい。

 ――そうですね……。おそらくデルビンは勝負に出てくると思います。国もそろそろ本格的に姫を拘束するつもりです。

 ――そんな……。何とかならないのかよ。

 ――国王はあの手この手を尽くして姫の無実を晴らそうとしましたが……デルビンの仕組んだ計画が巧妙で、もう難しいかと……。

 ――くそっ……。何かできることはないのかよ。

 ――私に考えがあります。

 ――アルフ……。

 ――一か八か、賭けてみるしかない。

 そう言ってアルフは国に戻っていった。

 一体どうするつもりなんだろうか。

 妙な気遣いは要らないと、アルフは詳しく教えてくれなかった。ただ、その代りにリリアを守ってくれと言っていた。

 窓の外のリリアは無邪気な笑みを浮かべている。絵梨や淳平たちも楽しそうにしている。

 あいつらはあの事件を知らない。それでいいんだ。何も気にすることなく、残りの夏休みを過ごしてくれさえすれば、それでいい。

 夏ももう終わる。日差しはまだ強いけど、セミの声もそれを悟ってかあまりうるさくなくなってきた。

 秋の気配が確実に近づいていた。

 夏が終わると、リリアはどうなるんだろう。そんなことわかっているのに、俺はそう思った。ずっとあの笑顔を隣で見ていたい。

「リリア……」気づいたときにはすでにあいつの名を口にしていた。

 思い返すと不思議な夏休みだった。いきなり空から降ってきたと思いきや、突然契約だとか言い出すし。おまけにわがままでお姫様だし。最初はとにかくパニックになったっけ。でも、それも時間が経つにつれて慣れるようになった。

 あいつと同じときを過ごすうちに、俺の中に恋の意識が芽生え始めた。初めのうちはそれになかなか気づけなくて。気づいた、いや、気づかせてくれたのは淳平たちだった。あいつらにもいろいろと助けられたな。

 リリアは、どうだろう。俺といて、みんなといて楽しかったのだろうか。そうだと、いい。

 と、突然頭頂部に衝撃が走った。そこで俺は現実に引き戻された。

 目の前には試験監督の先生がこめかみに青筋を立てて恐怖の笑みを浮かべていた。

「あら、何かおもしろいものでもあるのかしら?」

「いえ……何も」

「そう。だったら……早くしなさい」

「……はい」

 とりあえずテストを終わらせよう。

 グラウンドに出ると、リリアが俺に気づいた。しかし、すぐに視線を逸らされてしまった。代わりに絵梨が、ひょいひょいと手招きをしている。

「お、星吾。お疲れさん。はいこれ」

 淳平が手渡してきたのはチラシだった。

「花火……」

 この町では毎年八月の終わりに大きな花火大会を催す。

 町に住む人々はもちろん、隣町の人も数多く訪れるほど大規模な大会。

「夏休みももう終わっちゃうだろ? だからさ、最後の思い出作りに花火を見に行こうって」

 チラシから顔を上げ、みんなを見回すと、うんうんと首を縦に振っていた。

 そこで、リリアと目が合った。

 俺の方は特に何ともないのだが、どういうわけかリリアから目を逸らされた。

 以前なら「こっち見んな変態!」と鬼の形相もとい小鬼の形相で一蹴してきたリリアだが、最近はずっとこの調子。

 原因は明白だった。俺の告白だ。

 俺の告白を聞いてからというもの、リリアはどこか俺を遠ざけているみたいだ。口数も少なくなったし、あまり顔も合わせようとしない。

 そんなに嫌だったのかなと妙に気まずいものを感じる。

 俺たちの関係に知ってか知らずか、淳平は続けた。

「星吾、聞いてる?」

「ああ、うん」

「今日の六時、学校集合で」

「わかった」

「よし、じゃあアイス買いに行こうぜ。もちろん星吾の奢りで!」

「ちぇっ。わかったよ……」

 こいつらも俺のために待っててくれたんだ。感謝の気持ちを込めてそれくらいはしないとな。

 俺たちは学校を出た。

「じゃあ、リリアちゃんは私の家に来た方がいいんじゃない?」絵梨が言った。

「うん、そうする」リリアが首肯した。

 俺たちはアイスを食べながらこれからのことを話し合っていた。

 リリアは着付けのため、このまま俺の家には帰らず、直接絵梨の家に行くつもりらしい。

 俺は反対だ。

 あの事件があったばかりだ。リリアを俺から遠ざけるわけにはいかない。それに、もし絵梨と二人でいるところを襲われてしまっては絵梨にも危害が及んでしまう恐れもある。

「俺も、ついて行っていいか」

「どうしたの、急に」絵梨が小首をかしげる。

 絵梨のみならず、淳平たちもみな同様に怪訝な表情を浮かべる。

「あ、いや別に。大したことじゃないんだ」

「ふーん……」と絵梨は不気味な笑みを浮かべる。「愛してるねえ」

「なっ!?」

「ごめんごめん。いいよ。しょうちゃんもおいでよ」

「リリアちゃんも別に構わないよね」

「…………」

 リリアはアイスに視線を落としたまま無言を決め込んでいた。

 どうしたのと絵梨が顔を覗き込む。

「え、ああうん。何でもないよ」

「そう? 何か元気ないね。大丈夫?」

「そ、そんなことないよ! あー花火楽しみー!」

 リリアは笑顔を取り繕って言った。

 やっぱり俺の所為だよな……。どうして告白なんかしてしまったんだろう。

 リリアへのやりきれない想いを胸に、俺は絵梨の家に向かった。

 

 午後六時。学校に着いた俺たち三人は、校門付近で他の三人を待っていた。

 五分も経たないうちに綾音を皮切りに、淳平と聡太もやって来た。

「よし、全員集合したな。行くか!」

 まだ空は明るく、花火が上がるまでにはだいぶ時間がある。しかし、人が多く集まるため、早いうちに行動しておかないと場所がなくなってしまう。現に俺たちと同じ考えを持った人が結構な数見られる。

 少し出遅れたか。そんな懸念を胸に抱いていると、淳平が声をひそめて俺を呼んだ。

「なあ星吾。お前、リリアちゃんと何かあったろ。やっぱり告白したからか?」

「……ああ」

「そうか……。俺は上手くいくと思ってたんだけどなー」

 何でかなー、と淳平は両手を後頭部へとあて、虚空を見上げた。

「それはこっちの台詞だ」

 俺はため息をつき、うなだれた。

「でもさ、俺は告白したことに意味があると思うぜ」淳平が人差し指を立てて言った。「相手に自分の想いを伝える。それってこの世で一番かっけーんじゃないかな」

「……よく言うぜ。お前、告白したことないくせに美化しすぎなんだよ」

「あはは、まあ告白ならされるんだけどな」

「ちっ……嫌味かよ」

 どうしてこいつがモテるのか本当に謎だ。やはり顔か。そういうものなのか。

「まあまあ。それよりさ、星吾。お前それだけで諦めるつもりか?」

「え」

「リリアちゃんからいい返事もらえなかっただけで諦めんのかって聞いてんだよ」

「それは……」

 諦める? そんな文字、今の今まで俺の中には存在していなかった。たったそれだけのことで諦めるほど、リリアへの想いは途切れちゃいない。

「そんなことない。俺はいまでもリリアが好きだ」

「そうこなくっちゃ」淳平はニッと笑った。「お前にとっおておきの穴場スポットを教えよう。そこで、リリアちゃんと二人で花火見ろ」

「淳平……」

 淳平はまたしてもニシシと笑って見せた。

「うわあもう人いっぱいいるねー」

 町を二分化するあの川に辿り着いた。土手から河川敷を見下ろすと、そこにはすでに大勢の人が見やすい場所はないかと首を巡らしていた。

「あ、あの辺りなんてどう?」

 綾音が指差した辺りを見ると、その場所には人が少ないことが分かった。川岸に降りると、人が視界を狭めて見えにくいのかもしれない。

「よし、聡太! お前の出番だ!!」

 淳平がそう言ったときにはすでに聡太は、「こんなもの、朝飯前さ」とその小さな体を器用に折り曲げて人の隙間を縫っていった。

 こういうときに聡太は役に立つ。背が低い分、人込みの中でもすいすいと先へ進むことができる。

 聡太自身、自分の身長に不満を持っていて、効率よく背を伸ばせる方法はあーだこーだと科学的側面にたって持論を振りまいている。(しかし、どれも効果がなくて本人は諦めている模様)

 それでも、たまにはこの身長を活かすこともできると、自分の身長を受け入れている節もある。

 程なくして聡太がこちらに手を振っているのが見えた。俺たちは土手を下りていく。

「何とか席取れたねー」

 浴衣にしわができないよう、絵梨が慎重に腰を下ろした。

「時間あとどれくらい?」綾音が訊ねた。

「えーと。あと三〇分くらいかな」俺は携帯のディスプレイに表示された時刻を読み上げた。

「まだ時間あるね」

「じゃあ俺たち何か買ってくるよ」淳平は立ったまま、俺に合図してきた。「星吾、それから……リリアちゃん」

 リリア? どういうつもりだ?

 リリアも訝しく思ったようで、俺とともに当惑した色の瞳を淳平に向けた。

 しかし、当の淳平は何でもないといった風に俺たちが立ち上がるのを待っていた。

 俺はリリアに視線を送った。リリアも俺を見る。

「行こっか」

「……うん」

 あまり乗り気ではない俺たちは重い腰を上げた。

「じゃあ、行ってくるから」

 淳平を先頭に、俺たちは露店へと歩き出した。

「おい淳平」少し歩いたところで、俺は淳平を呼んだ。「どういうつもりだよ」

「え、何が」

「いやだから! 俺とリリアのこと知ってんだろ」

「ああ、さっき聞いたしな」

「だったら――」

「だからこそだよ」

「え」

 言っている意味が分からなかった。

「あのなあ星吾」淳平がうしろをついて来るリリアを一瞥し、声をひそめて言った。「もうすぐ花火が始まるだろ。俺がこうして二人を連れ出さなかったらお前、リリアちゃんをあの場所に連れて行けないだろ?」

 そこで俺は悟った。これは淳平の計らいだと。何かあるとは思っていたが、そういうことだったのか。

「俺はこのまま店を回る。星吾はリリアちゃんを連れてあの場所に行け」

「……ああ、わかった」

「しっかりやれよ!」

 背中をバシッと叩いてきた。そして。

「あーあれうまそー!」

 先ほどまでの演技力はどうしたのかと思ってしまうほど棒読みで言い放ち、俺たちを残して淳平は人混みに紛れてしまった。

「あ、淳平くん……」

 リリアが小さな声で言った。

 リリアと二人取り残された。そのまま突っ立っていても仕方がないので、うしろを振り返る。

「なあ、リリア」俺がリリアを呼ぶと、リリアはやや伏し目がちに目を合わせてきた。「行きたい場所があるんだ。ついて来てほしい」

「うん」

 リリアはこくりと頷いた。

「ねえ、ここ入ってもいいの?」

 リリアが辺りを見回しながら言った。

「もうじき取り壊す予定らしいから、大丈夫。それに誰も来ないし」

 俺は立ち入り禁止のテープを跨いだ。

 淳平から教えてもらった場所。それは、取り壊し予定のビルだった。川の近くに建っていて完全に人の気配はなく、二人だけになるのに適していた。さらにもう一つ、このビルの屋上からは川を一望でき、周りに人がいないことも手伝って夜空に陶酔することができそうだ。

 心の中で淳平に感謝しつつ、俺は屋上への階段を登り始めた。

 屋上へのドアは鍵がかかっていた。しかし、俺は魔法を使用しドアを開けた。

 視界には澄み渡った空がどこまでも広がっていた。星がちかちかと瞬き、煌めく花が咲かないかと待ち望んでいるかのようだった。

「とりあえず座ろうか」

「うん」

 屋上にはベンチが一つ、申し訳程度に置かれていた。ちょうど二人が腰かけられるほどの小さなベンチ。そこに俺たちは腰を下ろした。

 キャンプ場でのあの場面が思い出される。場所は違えど、暗い世界で二人並んで夜空を眺めるのは似たような雰囲気がある。

 あのときは少し肌寒く感じたが、いまは花火を待ち望む人の熱気によってか、少し暑いくらいだ。

 ちらっと横目でリリアを窺がうと、内股に揃えた太ももの上で両手を握りしめていた。


 リリアがリリアらしくなくなったのは俺の所為。俺の告白の所為。それはわかっている。だったら、いっそのこと思いきり振ってくれ。リリアの方がくよくよすることないではないか。

「リリア――」

 俺は重い口を開いた。

 と同時に夜空に一輪の花が咲いた。視界が鮮やかな赤に染められる。花が開いた音、衝撃。それらが体中に駆け巡る。

 花火が打ち上がり始めた。空に目を向けると、咲いた花は夜空へと溶け込み、その名残が漂っていた。

 人々の歓声が湧きあがる。その声に応えるように、次から次へと花火が煌めく。

 その光景に俺たちは無言で見入った。花火の種がゆらゆらと夜空高く昇り、音がやんだところでその花を咲かせる。眩い輝き。体の奥底にまで響いてくる音。俺たちが砂浜でした花火とは到底比べ物にならない。

 花火はいつ見てもきれいだけど、見入っていると儚くて、切なさもやってくる。

 ……なぜだろう。

 うっとりする光景のはずなのに、夏の風物詩のはずなのに、俺の心はそこに溶け込もうとはしない。何かがずっと引っかかったままだ。

 リリアを見る。花火が打ち上がるごとにそのきれいな顔が、その瞳がキラキラと輝いた。心なしかいつもより瞳が濡れているような気がした。

 きれいな目だ。この目に見つめられたが最後、俺はいつしかリリアに恋をしていた。

 やっぱり今でも好きだ。たとえ叶わなくても、俺はリリアの笑顔が好きだ。

「ねえ、星吾」夜空を見上げたまま、リリアが口を開いた。その横顔の輪郭、首から肩にかけてのラインが彫刻のように美しい。「私ね、ずっと考えてたの。……星吾が私に告白したあとずっと」

 リリアは上目遣いで俺を見た。目と目が合わさると、リリアは続けた。

「私は星吾のこと、どう思っているんだろう。どう感じているんだろう。それが今までわからなかった。だから、少し距離を置こうとした。そしたら何かわかるかもしれない。そう思ったの」

 リリアは俺から目をはずすと、空を見上げた。その口許はかすかに微笑んでいるように見えた。簪が花火にきらりと光った。

 そして、勢いよく立ち上がった。くるりとこちらに振り返る。リリアの背後で花火が咲き、リリアを暗くする。はっきりとは確認できないが、リリアの顔はうっすらと笑んでいた。

「星吾! 最初に出会ったときのこと、憶えてる?」

「え。何だよ急に」

「わずかな魔力を使って、この星の、星吾の元に来た、あのとき。もうずいぶん昔のように感じる。でも、はっきりと憶えてる」リリアは懐かしむように話す。「他の生徒に混じって、星吾は驚いた顔してた」

「あ、当たり前だろ……。いきなり空から降ってくるんだからさ」

「ふふ、そうね」リリアは口許に手をあて、小さく笑った。「でもね、それだけじゃないよ」

 俺が首をかしげると、リリアは「誰よりも驚いてた」と付け加えた。

「そんなことねえよ」

「それから星吾は運命共同体になった。ああ、あんたはそれが一番驚いてたわね」

「そりゃ突然キ……キスとかありえないだろ」

「いつか星吾はどうして俺を選んだのかって訊いたよね。本当の理由、教えてあげよっか」

 俺が「何だよ」と言うと、リリアはくすりと笑って一言、「何となくだよ」

「いつかのときと一緒じゃねえか」

 そうしてリリアはまた微笑んでみせる。

「いろいろあったけど、私たちは一緒に暮らすようになったね。星吾が料理できるなんて、私びっくりしちゃった」

「まあ、得意だからな」

「どれも美味しかったなあ」

「いつでも作ってやるよ……」

「うん、ありがとう」

 リリアが望むのなら、俺はいつだって作ってやる。それで笑顔になってくれるのなら、それ以上のことはない。

 リリアは続ける。

「あんたと暮らすようになっていろいろしたね。夏祭りではしゃいだり」

「俺の方が射的上手かったろ?」

「プール掃除したときは変態魔法使ってくるし」

「あれは事故だ」

「ホタル、きれいだったね」

「そうだな」

「海もきれいだった」

「ああ」

「二人で見た星空はもっときれいだった」

「うん」

「だからね」リリアは満面の笑みを浮かべた。「星吾と出会えてよかった」

 そして、リリアは目を閉じ、大きく深呼吸をした――

「私も、あなたのことが好きです。大好きです」

 その瞳から、一筋の涙が頬を伝った。それはやがて音もなくリリアの頬から零れ落ちた。

 それは種のように昇っていく。あの紺色の空へ。どこまでも。

 遠くの星のように煌めいたかと思うと、それは空一面に広がった。涙の花が夜空に光を放つ。流星のように、空の彼方まで青白い光が流れていく。

 好きという魔法の呪文。それが涙に呼応して涙の花火が咲いたんだ。

 近くで人々の感嘆の声が上がる。でも、それはどこか遠い出来事のように感じる。俺はリリアと二人、別の世界にいるかのようだった。

「俺も好き。リリアが好きだ」

 気づけばリリアへの想いを口にしていた。

「うん、知ってる」

 暗がりでもわかるほどにリリアの頬は赤く染まっていた。その姿が儚げで愛おしくて、抱きしめたくなる。

「ねえ、星吾」リリアは真っ直ぐに俺を見つめたまま、言った。「私にキ――」

 その背後。建物の下には梯子やその他、ここに来るための道具など存在しないはずなのに、リリアの背後に黒い影がぬっと現れた。黒いマントが風になびく。

「リリア!」

 リリアへと手を伸ばす。しかし、その距離は一歩届かなかった。届け。自然に踏み出す脚。リリアとの距離が近づく。あと少し。リリアが俺の手に自分の手を重ねようとしたそのとき。

 俺は吹き飛ばされた。激しく地面を転がり、ドアに衝突した。背中から全身に痛みが走る。

「星吾!」

 デルビンに羽交い絞めされたリリアは、必死にもがく。

「……学校で待っている」デルビンは一言だけそう呟くと、闇へと消え去ろうとする。

「星吾!」

 リリアの姿が消える直前、何かが煌めくのが見えた。それはこちらに飛んでくる。

「これは……」

 受け取ったのは、スタールだった。

「リリア……」

 俺が屋上から出ようとしたときだった。

 爆音が辺りに響いた。そして悲鳴。

 下の河川敷を見下ろすと、屋台の一つが赤々と燃えていた。そして、秩序を失い我先にとその場から離れようとする人々の姿がそこにはあった。

 何とかしないと。

 そう考えている間にも隣の屋台へと火は燃え移り、今にも爆発の連鎖が起きそうだった。

「くそっ……」

 俺は川の水を操り、屋台の上から浴びせかけた。すると、火はすぐに消えた。俺はそれを確認すると、一目散にビルを抜け出した。

 外に出ると、逃げ惑う人でいっぱいだった。

 家族だろうか、友人だろうか、名前を呼ぶ声や泣き声で辺りは騒々しかった。

 逡巡していても仕方がない。意を決して俺は人混みの中へとその身をねじ込んだ。

 今すぐ学校に向かわなくちゃいけない。他人のことなんか気にしていられない。

 俺はうしろからの圧力に負けないように、体を前へ前へと進める。

 どうにか橋のところまでたどり着いた。

 橋には二つの車道があり、それらを挟むようにして歩道が伸びている。

 現在は花火大会中なので、車道は封鎖されており、車の通りはない。したがって、進路が規制されることはなく、わりとスムーズに避難が進んでいるようだ。

 ここからは一気に飛ばそう。そう思って走り出そうとした俺の背中を、淳平の声がとめた。

 振り返ると、息を切らした淳平と、他のメンバーがいた。

「探したぞ、星吾」

 肩で息をしながら、淳平が言った。

 たとえ道が開かれているとはいえ、人波の中ということもあり、立ち止まる俺たちを横目で睨んでくる人たちもいる。俺はその視線をかわしながら、言った。

「リリアが消えた」本当は連れ去られたけど、みんなに迷惑はかけられない。「俺はリリアを探しに行くから、お前らは先に帰ってろ!」

 俺は踵を返し、今度こそ走り出した。背後から名前を呼ばれたが、俺は振り返ることなく速度を上げた。

 ……リリア。無事でいてくれ。

 逸る気持ちをおさえるように、俺は右手にあるスタールをきつく握りしめた。手の中のスタールは、かすかに光っていた。


「早かったな……」

 デルビンはフードで顔を隠してはいなかった。悪に歪んだその顔から漏れる笑みに、俺は悪寒が走るのを感じた。

 そして、その横。アルフが両手をうしろに縛られて拘束されていた。

「アルフ……」

 アルフは変装をしておらず、元の姿で歯噛みしている。

「くっ……星吾様……」

「ハハハハァ!!」不快な笑い声が、グラウンドに響いた。「こいつも愚かなやつだ。まんまと罠に引っかかりやがった」

 クックックと押し殺したような声で嗤うデルビン。

「俺が姿を晒したあのあと、こいつは賭けに出たみたいだな。まさか変身術で王に化けようとするとは。とんだ禁忌を犯してまでこの小娘を救いたかったようだが、それももはや叶うことはない」

 デルビンは蛇のように指を動かし、リリアの顔に這わせた。リリアの顔が恐怖に歪む。

「やめろ! リリアを離せ!」

 言うと、デルビンは再び乾いた声を上げた。

「お前、こいつに散々振り回されたんじゃねーのか? そんなやつをかばってどうする。……もしかしてお前、こいつに惚れてんのかァ」

 俺は答えず、穴が開くほどに睨んだ。

「図星かァ! おもしろいやつらだ。異星の民と恋に落ちるなど前代未聞、聞いたことねーよ」

 ゲラゲラとなおも嗤い続けるデルビン。憤りが込み上げてくるが、リリアが囚われている以上手を出すことはできない。きつく握りしめた拳がふるふると震える。

「さあ、俺にも計画がある。そろそろスタールを渡してもらおうか。どうやらこいつは持っていないらしいから、お前が持っているんだろう?」

 デルビンはゆっくりとした動作で右手を差し出してきた。

「星吾! あんたは逃げなさい! アルフも捕まっている以上、もう勝ち目はないわ」

「…………っ!?」

 何、言ってんだよ。そんなのリリアらしくない。いつも勝ち気でわがままで、どんなに不利な状況でもその顔に不敵な笑みを浮かべていた。それがリリアだったのに。それがリリアのはずなのに。そんな顔……するなよ。

 俺は認めない。まだ何か方法はあるはずだ。こんなに容易く諦めちゃだめだ。それなのにリリアは……。

 俺の憤りはさらに増大した。握りしめた拳が痛い。

「星吾! 突っ立ってないで早く逃げなさい!」

「うるせえっ! 俺に命令するな!」俺は真っ直ぐにリリアを見て声を張り上げた。「俺はお前を助ける。助けるったら絶対に助ける。だからお前は大人しくしてろ!」

 リリアは何も返してこなかった。その代わり、その双眸から光る雫が零れ落ちた。そして、ハッと気づいたように手で拭うと、ふくれた顔をして俺を見る。不平そうな顔をしてはいるが、その瞳には信じているという想いが感じ取れた。

 ありがとうリリア。俺はそれだけで強くなれる。

「おい、そこの皺くちゃ!」

 俺が蔑むと、その皺だらけの顔にさらに深い皺ができた。

「スタールを渡してほしかったらその前に礼儀をわきまえな」

「何だと……貴様」

「その貴様とかいうの。よくないなー」

 俺は挑発すべく、スタールを取り出し放り上げは取るを繰り返した。

 それは効果てきめんだったらしく、デルビンはリリアを突きのけて飛び出してきた。

 そのスピードたるや蛇の如し。俺は息をする間にその距離を詰め寄られていた。

「ガキが……」

 デルビンはスタールに手を伸ばした。が、俺は魔法で牽制することで、辛くも阻止することができた。

 しかし、ここでデルビンの目の色が変わった。

 虚空を掴んだその手から音もなく双刃の剣が出現した。月光に照らされて冷ややかな輝きを放つそれは、一振りで空中に恐ろしいほど鮮やかな白銀の尾をひいた。

 頬に微かな違和感を覚えた。黒刃の切っ先が俺の頬をかすめたんだと理解したのは、デルビンの顔が冷たく歪んだからだ。

 俺は再び魔法を使用し、その隙に飛び退る。

「いやァ……やっちまったなあ。つい我を忘れてしまった」わざとらしく肩を竦めるデルビン。「それにしても、まさかこんなガキの手に踊らされるなんてな」

 俺は、やつの言葉に耳を傾けず意識を集中させた。クリアな音とともに俺の右手に白銀の一振りが出現した。

「ほう……物質化までこなすとは。やはりお前はおもしろいやつだ」

 デルビンは漆黒の刃を構え直す。

 以前にもこのようなことがあった。張りつめた空気、研ぎ澄まされた感覚。すべてが減速しているような錯覚に陥る瞬間。俺の目は、デルビンの氷のような刃に注がれていた。

 そして、その刃が一閃した瞬間。俺は地を蹴った。

 剛毅果断、俺は剣を振り下ろす。

 刃が空を斬る鋭い音がしたかと思うと、耳をつんざく高い音が鳴り響く。

 デルビンの魔力だろうか、噛み合った刃と刃からビリビリとした嫌な感覚が伝わってくる。

「軽いな」デルビンは今一度柄を握り直すと、グッと力を込めた。すると、バチバチと黒い電撃が迸り、刃を伝って襲ってきた。

 俺はそれを振り払うようにして鍔迫り合いを解き、間合いを取った。

 だが、デルビンはすかさず攻撃を仕かけてきた。双刃を巧みに操り、連撃を放つ。俺の力任せの振りとは全く違う、無駄のない動き。

 どうにか攻撃を防ぐも、やはり一撃、二撃体をかすめる。

「これだけじゃないぞ」

 余裕の表情でそう口にすると、剣を握った反対の手から魔法を放ってきた。

 攻撃を防ぐのに集中していた俺は、魔法をまともに食らってしまい、須臾の間隙ができる。

 デルビンはその隙も見逃さない。前のめりになった俺の顔に拳を加え、のけぞったところに長剣の乱れ突きが襲う。

 攻撃を受けた俺は激しく飛ばされる。細めた視界に、鮮血が映る。

 受け身の体勢をとれないまま、俺は地面に倒れ込んだ。

「星吾!」

 耳元でリリアの声がする。目を開けると、大粒の涙を流したリリアの顔があった。

「もうやめて! もういいの! あんたが死んだら……私……私っ」

 嗚咽を漏らし、俺の頭を胸に抱く。

 そんなことしたら血が付くぞとか、ここで負けたらお前が苦しむだろとか、そもそも泣くなよとかいろんな思いが浮かんでくる。

「所詮はガキだ。大した剣術も持たぬ小僧が調子に乗りやがって。これは罰なんだよ。天罰なのだ」

「何が天罰よ!」リリアが食ってかかった。「あんたみたいな悪魔、私が倒してやるわ」

「ハハハハ。お姫様、ご冗談を。全く面白くありませんよ」

 リリアの全身はわなわなと震えていた。握った服の袖がきゅっと引っ張られるのがわかった。

 俺は目を開け、リリアの腕から出ようとする。

「星吾……。もうやめよ、ね。もう……諦めよう……」

「いやだっ!!」

 俺はリリアの胸倉を掴んでいた。腫れた目がすぐ近くにある。絶望に苦しむ目、俺を心配する目、諦めようとする目。そんな目だった。

 だから俺は許せなかった。諦めて暗い毎日を送ることを受け入れようとするリリアを。何より、リリアを笑顔にすると誓った自分自身に。

「俺は諦めない。ここで負けて、死んで、幽霊になったとしても……俺はお前を守る。そう……決めたんだ」

 掴んでいた手をすっと離し、剣を拾い上げる。俺はふらつく体に鞭打って剣を構え直す。

「まだやるってのか」

 垂れ下がった長い前髪の隙間から、蛇のような眼が覗く。

 俺は大きく呼吸を繰り返す。一回、二回、三回。全身全霊で感じる「瞬間」を待つ。

 …………。全てが無になっていく。視覚や聴覚、感覚という感覚がなくなっていくようだ。自分が立っているのかさえわからなくなる。

 暗闇の中から一筋の光が浮かんだ。それは光をも飲み込もうとする漆黒の闇を染め上げ、やがて視界が白に塗り替えられた。

「ハアーーーーー!」

 息を吐きながら距離を詰める。

 デルビンは形成した魔法陣から見たこともない生き物を召喚した。

 翼の生えた犬、湾曲した牙を向けて突進してくる猪のような生き物。魔獣と呼ぶに相応しい生物たちが猪突猛進してくる。

 光り輝く刀身を真横一文字に振り払うと、衝撃派が発生し、黒炎と帰した。

 と、その炎の陰から魔法が飛び出してきた。デルビンはこれを狙っていたのだろう。

 俺は速度を緩めることなく、俺は突き進む。不意をついてきた魔法は今更かわせない。ドッ、ドッと魔法が直撃し、痛みが走る。歯を食いしばり耐える。デルビンが直接放ってきた魔法は剣で一刀両断した。

 そうして俺は地を蹴り、飛び上がった。

 二度、三度敵の魔法が襲ってきたが、俺は剣を振り、弾き返した。

 渾身の一撃。これで終わらせる。振りかぶった剣から込めた魔力が漏れ出す。

 俺はデルビンを両断する勢いで剣を振り下ろした。

 互いの剣が交錯した瞬間、辺りが明るくなった。風が舞い、髪を揺らした。

 浮き上がったデルビンの顔が鮮明に見える。飛びでんばかりに開かれた血走った眼。鉤鼻に寄せられた皺、そして口許は相変わらず不気味な笑みを作っている。

「おおおおおおっ!!」

 俺はそのおぞましい顔に飲み込まれないように咆哮する。

 俺とデルビンの魔法がぶつかり合い、激しい閃光が迸る。

 と、デルビンの剣に亀裂が入った。ゆっくりとだが、その範囲を広げていく。

 いけ。いけ。いけ!

「…………っ⁉」

 デルビンの顔に不気味な笑みが浮かんだ。どうして。このままいけば俺がデルビンの魔法を打ち破り、確実に負けるはず。それなのに、眼前の男は勝利を確信したような顔をしている。

 やがてそれは訪れた。俺は漆黒の刀身をへし折った。バシュッという魔法がかき消される音が響く。

 とどめだ。

 振り切った剣を構え直し、再び振り上げる。攻撃を弾かれ、体勢を崩したデルビンの目が大きく見開かれる。血走ったその目が俺を貫かんとしている。

 いや、それは目だけではなかった。それを悟ったのは、俺の視界に鮮血が飛び込んできたときだった。

 攻撃してきたのは、俺が折ったデルビンの剣先だった。デルビンは体勢を崩しながらもそれに魔法をかけ、俺を刺そうとしたのだろう。しかし、幸運にもそれは俺の肩口をかすめるにとどまった。

 折れた剣先がぐるぐると回転し、デルビンの元へ戻っていく。そう思いきや、剣先はその姿を蛇へと変え、俺に襲いかかってきた。

 かわすことは可能だったはずだ。だが、予期せぬ攻撃を受け、混乱している中でのデルビンの追撃は思考の妨害をしてきた。俺は反撃する間もなく、蛇に自由を奪われてしまった。手からすーっと剣が消えていく。

「残念だったな」デルビンはふっと短く息を吐いた。「まあ、お前もよくやった方だよ」

 言いながら、デルビンは詰め寄ってくる。ゆっくりとした足取りだが、確実に近づいてくる。一瞬間、どこかこの張りつめた空気を惜しんでいるかのように感じた。もう少し、勝者の気分を味わっていたいとでもいうような、そんな足の運び方だった。

 まだ……俺は負けちゃいない。

 俺は全身に力を込めた。

「無駄だ」デルビンは俺を一蹴した。「貴様の負けだ。諦めろ」

「くっ……」

「最後に、何か言うことは?」

 デルビンとの距離は一メートルにまで迫っていた。そこでデルビンは足をとめた。

「俺は……諦めない。お前を倒すまでは」

「そうか……。なら、死後の世界でもがんばることだな」

 そう言ってデルビンは折れていないほうの剣先を俺に向けた。その切っ先から闇の魔法が出現した。光をも飲み込もうとするほどの黒い球体が徐々に拡大していく。その周りを、これも黒いプラズマがバチッバチッと音を立てている。

 本当に、終わってしまうのか? こんなやつに、負けるっていうのか?

 まあ、よく考えてみれば当然のことか。相手は魔法の世界に生きる住人だ。そんなやつ相手に魔法で勝とうなんて無理な話だったんだ。

 デルビンの目は、これからの未来を映しているかのようだった。デルビン自身は輝かしい未来を見ているだろうが、俺には光のない目にしか見えない。

 お前を倒してリリアを救う。ありがちな英雄物語がもう少しで完成するところだったのになあ……。その未来もここで散ってしまうのか……。

 ごめん……リリア。俺、格好つけただけだったな。でも、逃げるだけの時間は稼げたと思う。逃げてくれていたら、俺が幽霊になってリリアを守ろう。だから少しの間だけ、お別れだ……。

 闇の魔法がようやく溜まりきったらしい。デルビンは顔を上げ、無機質な声で言った。

「……死ね」

 収縮したかと思うと、わずかに拡大し、漆黒の光線が放出された。これが体を貫通すれば、俺は死ぬ。それは明白だった。

 さよなら、リリア……。

 俺が目を閉じかけたときだった。何が起こったのか、俺はわからなかった。

 頭を強く打ったからなのか。いや、時間が経つにつれて整理できるようになってきた。

「リ……リリア……どうして……」俺の声はこれでもかというほどに掠れ、震えていた。「そんな……何で……」

 俺の胸に横たわるリリアはかすかに笑んでいた。腹部からはじわじわと血が広がっていた。

「な……んでか……なあ……。体が……勝手に……動いちゃった……」

 力なく喋るリリアの頬に、俺の涙がぽたぽたと滴った。

「泣か……ないで……星吾……。私は……これで……よかったと……思っているの……」

「よ……よくなんかねえよ!! 俺はお前を助けるって約束したのに……それなのに……こんなの……こんなのって……」

「私ね……」リリアはなおも話し続けようとする。「やっぱり……星吾が好き……。だから……星吾を守って……死ねるなら……もう……思い残すことは……ないよ……」

 視界が涙で滲む。滲んでリリアが見えない。いくら涙を堪えようとも、それは堰を切ったように溢れ出し、とまらない。

 と、リリアが震える手を伸ばし、何かを掴んだ。それを俺に差し出そうとする。俺はリリアの手を取り、それを受け取る。

「スタール……あいつから……絶対に守ってね……。約束……だよ……」

 そう言ってリリアは手を下ろした。

「お……おい……リリア……リリア!!」

 閉じていた目を開け、俺を見る。

「星吾との夏……楽しかったなあ。もっと……一緒にいたかったなあ……。大好きだよ……星吾……」

「リリア……リリア!!」

 俺はリリアを力の限り抱きしめた。わかってはいるけど、泣きわめくと目を覚ますと思った。

 リリアの目から涙がこぼれた。それは俺の手に握ったスタールへと落ちた。そして、俺の涙もスタールに落ち――。

 その瞬間、スタールがかつてないほどの輝きを放った。その光はやがて俺の視界を奪った。

 次に目を開けたときに見たのは、辺り一面白の世界だった。全くの白一色で、何もない。あるのは俺と、胸に抱いたリリアだけ。二人だけの世界。

 突然、天から一筋の青い光が降ってきた。流れ星……? 眺めている間にも、それは鈴のような音とともに地面に落ちて、きらり、小さく煌めいて消失した。そしてそれが描いた軌跡は紺色へと変わっていた。

 最初の一つが落ちてから、次々と星が降っては白の世界を紺色に染めていった。

 幻想的な光と音が世界を一新する。光の向こうに見慣れた建物が見えた。あれは……学校?

 白かった地面は茶色になっていた。これは……グラウンド?

 胸に抱いていたリリアが光の粒になって消えていった。

 俺の肩の傷もなくなっていった。

 やがて、最後の星が天頂で瞬き、光の環が空に広がった。

 そうして、すべてが動き出した。

「星吾!」

 耳元でリリアの声がする。目を開けると、大粒の涙を流したリリアの顔があった。俺は地面に横たわっていた。

「もうやめて! もういいの! あんたが死んだら……私……私っ」

 嗚咽を漏らし、俺の頭を胸に抱く。

 確か、これは俺がデルビンの攻撃を受けたあとのことだったような……。そして俺はこう考えていたはずだ。そんなことしたら血が付くぞとか、ここで負けたらお前が苦しむだろとか、そもそも泣くなよとか。

「所詮はガキだ。大した剣術も持たぬ小僧が調子に乗りやがって。これは罰なんだよ。天罰なのだ」

「何が天罰よ!」リリアが食ってかかった。「あんたみたいな悪魔、私が倒してやるわ」

「ハハハハ。お姫様、ご冗談を。全く面白くありませんよ」

 リリアの全身はわなわなと震えていた。握った服の袖がきゅっと引っ張られるのがわかった。

 俺は目を開け、リリアの腕から出ようとする。

「星吾……。もうやめよ、ね。もう……諦めよう……」

「大丈夫」

 俺はリリアの肩に手を置いた。腫れた目がすぐ近くにある。俺はその目をじっと見つめた。すると、リリアも俺の手に自分の手を添えてきた。小さいけど、安心感をもたらしてくれるその手。その手の温もりがあれば、俺は再び立ち上がることができる。

「俺は諦めない。リリアを笑顔にしてみせる。だからさ、俺に力を貸してくれないか?」

「うん……」

 俺たちは手を絡め合い、どちらからともなく唇を重ねた。まだわずかに残っていたデルビンへの恐怖の残滓が抜けていく。

 そっと唇を離し、微笑む。剣を拾い上げ、立ち上がった。

「まだやるってのか」

 垂れ下がった長い前髪の隙間から、蛇のような眼が覗く。

 俺は大きく呼吸を繰り返す。一回、二回、三回。全身全霊で感じる「瞬間」を待つ。

 …………。全てが無になっていく。視覚や聴覚、感覚という感覚がなくなっていくようだ。自分が立っているのかさえわからなくなる。

 暗闇の中から一筋の光が浮かんだ。それは光をも飲み込もうとする漆黒の闇を染め上げ、やがて視界が白に塗り替えられた。

 目を開けようとしたとき、俺は閉じた目の中にリリアを見た。俺の隣に立ち、そっと手を差し出していた。

 リリアの顔は優しい笑みで満ちていた。

 ありがとうリリア。一緒に終わらせよう。

「ハアーーーーー!」

 息を吐きながら距離を詰める。

 デルビンは形成した魔法陣から見たこともない生き物を召喚した。

 翼の生えた犬、湾曲した牙を向けて突進してくる猪のような生き物。魔獣と呼ぶに相応しい生物たちが猪突猛進してくる。

 光り輝く刀身を真横一文字に振り払うと、衝撃派が発生し、黒炎と帰した。

 魔獣だけではない。本来ならその影から飛び出してくるはずの魔法も、魔獣もろとも打ち破っていた。

 不意討ちに失敗したデルビンは目を見開き、驚きを隠せない様子だった。

 俺は速度を緩めることなく、突き進む。デルビンは魔法を闇雲に撃ってきた。俺はそれを剣で一掃した。その衝撃でデルビンはその場に倒れ込んだ。

 そうして俺は地を蹴り、飛び上がった。

 二度、三度魔法が襲ってきたが、俺は剣を振り、弾き返した。その隙にデルビンは体勢を立て直す。

 渾身の一撃。これで終わらせる。振りかぶった剣から込めた魔力が漏れ出す。

 俺はデルビンを両断する思いで剣を振り下ろした。

 互いの剣が交錯した瞬間、辺りが明るくなった。風が舞い、髪を揺らした。

 浮き上がったデルビンの顔が鮮明に見える。飛びでんばかりに開かれた血走った眼。鉤鼻に寄せられた皺、そして口許は相変わらず不気味な笑みを作っている。

「おおおおおおっ!」

 俺の中からはすでにデルビンに対する恐怖心は消え失せている。それでも俺は、咆哮した。

 俺とデルビンの魔法がぶつかり合い、激しい閃光が迸る。

 と、デルビンの剣に亀裂が入った。ゆっくりとだが、その範囲を広げていく。

 デルビンの顔に不気味な笑みが浮かんだ。不利な立場にいるにもかかわらず、勝利を確信した笑み。

 しかし、俺は気にすることなく剣に力を込める。それが何も意味を成さないということを確信しているからだ。

 やがてそれは訪れた。俺は漆黒の刀身をへし折った。バシュッという魔法がかき消される音が響き、デルビンは反動を受け、吹っ飛び、地面を勢いよく転がった。

 振り切った剣を構え直し、デルビンとの距離を詰める。

 デルビンは上体を起こし、自身の剣を引き寄せようとした。しかし、俺はそれを魔法で弾いた。地面に落ちていた漆黒の剣は宙を舞い、四散した。

「なっ……」

 デルビンの顔に恐怖の色が浮かぶ。近づいてくる俺に向かって闇雲に魔法を放ってくる。しかし、それは俺がかわすまでもなく虚空に消えていった。

「ヒィッ……」

 デルビンはその目に涙を浮かべ、俺を見上げた。震えるデルビンに俺は、かつてないほどの憤りを覚えた。

「よくもリリアを……」

「ハッ……ハッ……」

「お前だけは……お前だけは……」俺は歯噛みして、デルビンを睨みつけた。「ぜってえ許さねえっ!!」

 剣を握り直し、振りかぶる。デルビンが口をあけ何かをつぶやいたが、俺には聞こえなかった。そして――。

 俺の体は剣を振りかぶったまま動かなくなった。まさかデルビンの魔法かと思ったが、目の前の男はなおもわなわなと震えている。それでは、一体誰が……。

 突然、背後から強烈な光とともに突風が吹いた。俺は目を細めつつもその正体を見ようとする。

 すぐに光と風はやんだ。そしてその中から現れたのは、厳めしい顔をした男だった。

 身の丈は優に二メートルを超え、堂々とした出で立ちで辺りを見回している。

 カールした白髪を額の真ん中で分け、頬まで垂らした髪がかすかに揺れる。

 彫りが深く、目元には濃い影ができている。鼻は高く、白髭を蓄え、それに覆われた口許はわずかだが横に引き結ばれているのが見えた。

「パパ……」とつぶやくリリアの声が聞こえた。ということはつまり……あの人がリリアの父であり、国王……。

 朱色を基調としたマントを翻しながら、リリアの元に行き、抱き寄せた。

「パパ……パパ……」

 リリアは大きな胸に飛び込んだ。リリアの父は優しく抱きしめ、言った。

「リリア……怖い思いをさせたね。もう大丈夫だよ」

 渋くて深みのある声だった。リリアのもたらす安心がその手なら、この人は声だなと思った。

 首を巡らし、リリアの父は俺の方を向いた。そうして気づいたように、ああ、とつぶやくとこちらに歩み寄ってきた。

 俺はなおも動けないままだった。たとえリリアの父であるとわかった今でも、その巨躯が近づいてくるとなると、少し気圧されてしまう。

 それが表情に出ていたのだろうか、リリアの父は俺の肩に手を置いた。その瞬間、俺の体に自由が戻った。突然のことだったので、俺は上げていた両腕を制御できず、そのまま下ろしてしまった。剣が地面に突き刺さり光の粒となって消えた。

 光の粒が漂う中、リリアの父が言った。

「君がうちの娘を助けてくれたんだね。本当にありがとう」

 俺はリリアの父を見上げるだけで何も答えることができなかった。その顔は最初に受けた厳かな印象とはかけ離れ、穏やかな表情だった。

「リリアの元へ行ってあげてくれないかな」

「はい」

 そうして俺はリリアの元に駆け寄った。

「星吾!」俺が屈んだ瞬間に、リリアが抱きついてきた。体勢を崩し、そのまま倒れ込む。

「星吾……ありがとう」

 俺の胸に顔を埋め、リリアは嗚咽交じりに言った。

「リリアの助けがあったからだよ」

 俺はリリアの髪をそっと撫でた。

 俺たちが抱き合っていると、声がした。

「デルビン……」

「くっ……貴様が治める国など……衰退を辿る一方だ……。今こそ俺が……」

 鎖を手首にはめられた今でも、デルビンは抵抗の意思を見せていた。

「確かに、わしの所為かもしれん。わしの力が及ばなかったのが原因で、国も、そしてお前のような反乱因子を生み出してしまったのかもしれん。わしはなぁ……」そこでリリアの父は言葉を切り、そして言った。「お前を時期国王として推薦するつもりだったのだ」

「…………っ⁉」

 デルビンの目が見開かれ、そして顔をそむけて言った。

「そんなこと……今更……」

「そうだ、今更だ。わしに迷いがなければこんなことにはならずに済んだのかもしれない。……すまない」

 デルビンはリリアの父の顔を見ようとはせず、歯をギリギリと強く噛んでいた。

 リリアの父は立ち上がり、校舎の方に向かった。そこには、横たわる影――アルフがいた。

「アルフ、お前には助けられた。ありがとう」

「……いえ、何とか無事に事態が収束に向かっているようで何よりです」

「もう少しで迎えが来る。お前は休め」

「はい」

 ちょうどそのとき。雲を切り裂いて白い光が発生し、そのままグラウンドに降り注いだ。そこから黒いマントを羽織った人が四人、現れた。

 リリアの父が何やら耳打ちをし、マントの四人は頷いた。

 二人ずつがデルビン、そしてアルフを連れ、また光の中へと消えていった。

 アルフが消える直前、俺を見つけると深々とお辞儀をしてきた。

 光の筒はやがて小さくなって完全に消滅した。辺りが再び闇に包まれる。

 この空間にいるのは俺とリリア、そしてリリアの父の三人だけだ。先ほどまでとは打って変わって静けさが訪れた。

 静寂を破ったのが、リリアの父だった。こちらに向かってくる。

「リリア」

 俺は離れるように促したが、リリアはそのまま俺に抱きついたまま離れようとしない。聞こえていないわけじゃないと思うんだけど……。まあ、いっか。

「君には何度礼を言っても足りないくらいだ。それでも感謝の気持ちを述べさせてくれ」

「いえ、そんな」

「国の問題を他の星にまで持ち込んでしまって、本当にすまない。怪我はしていないかね?」

「大丈夫です」

「そうか」

「あの」そんなことよりも俺は知りたいことがあった。

「何だね」

「どうしてここがわかったんですか。それと、スタールって一体……何なんですか」

「ふむ……」

 少し急き込みすぎたか。リリアの父は難しい顔をした。

「そうだね、一つずつ話していこうか。まずはどうしてここがわかったのか。君には少し分かりにくいかもしれないが、私たちの星には、投影鏡というものが存在するのだ。私にしか扱えない貴重な道具で、想像するなら、ふむ、水たまりかな。器に水を浸し、魔力を送ることで使用できるものでね。空間を超えて見たいものを見ることができるんだ。普段は何か事件が起きない限り、使わずに保管してあるんだが、今回はかなりの大事件だったからね。投影鏡を使おうとしたんだ。しかし、デルビンはそれを見越していた」

「それって」

「うん。投影鏡が壊されていたんだ。投影鏡は特別な素材で作られており、元通りにするのに時間がかかるんだよ。そしてやっとのことで、リリアを見つけることができた。まあそれにはアルフの力があったからこそなんだがね」

「アルフは、何をしたんですか」

「簡単に言うと、ハッタリをかけたのだよ。デルビンみたく、国に背くつもりだった役人は他にもいたそうだ。彼らは一つの組織を作り、デルビンを筆頭に結束していた。アルフは、私に変化し、その集団の一人に偽の情報を流した。私がアルフを時期国王に任命するとね。そうして待機させていた分身の元へデルビンがやって来た。アルフはそれを録画し、証拠として記録したんだ。デルビンもまさか国で一番重い罪を犯してまで対抗してくるなどとは想定していなかったんだろうね。それでも洞察力の鋭いデルビンは、それに気づきアルフと戦闘になったらしい。証拠は隠ぺいできたと思ったらしいが、さすがアルフだ。瞬時に複製を試みていた」

「アルフはどうなるんですか」

「……私には判断しかねる……委員会が審判を下すんだ。たとえ状況が状況でも定められた規律は絶対だからね。でも大丈夫。アルフは私が何とかしてみせる」言って、リリアの父は微笑した。

「えっと、次は何だったかな。そうだ、スタールについてだね。これについては……リリア、お前にも話しておかなくちゃいけない」

 リリアは俺の胸から顔を上げて、自分の親を見上げた。

「準備はいいかな」

 リリアは小さく頷いた。

「じゃあ話そう。スタールとは――」言い始めると、リリアの父はスタールを掌に乗せ、魔法で浮かせてみせた。掌の上を、まるで生物のようにふわふわと浮遊している。月明かりに反射して幻想的な青い光を放っている。「星がその命を尽きるときに生まれる光を集めてできたものなんだ」

「星の光……?」

「そう。古代から、我々の星では、星のもつ不思議な力を重視していた。特に、その命が尽きるときに発する強烈な光には凄まじいほどの魔力が含まれているんだ。古代の人は、国の繁栄と平和を願ってスタールを作った。そして、私たちの国では、古代からスタールを代々受け継ぐ習わしがあった。私が国王になり、それを守る立場になったとき、ある魔法をスタールに施した。何だと思うかね」

 正直わかるはずもなかった。しかし、思い返してみると、スタールは度々光を放つことがあった。そしてその条件は――。

「何か、危険を察知するような魔法ですか?」

「すごいね、まさにその通りだよ。ただ、「リリア」の身に危険が及びそうなとき、という条件付きだけどね」

 その言葉を聞き、リリアは「パパ……」とつぶやいた。

 リリアの父は微笑み、続けた。

「リリアが危険な目に遭いそうになると、投影鏡を通して知らせるようになっていたんだ。しかし、さっき説明した通り壊されてしまったからね……。それと、実はもう一つスタールに魔法をかけていたんだ。それはね――」

 リリアの父は、俺たちの顔を交互に見た。何かを探るようなその眼差しに、俺は少したじろぎたくなってしまったが、どうにかこらえた。そうしてリリアの父は、少し複雑そうな笑みを作って言った。

「大切な人を守りたい、愛したいという二人の想いに反応するという魔法をかけたんだよ」

 俺は先刻の出来事を思い出した。俺とリリアの涙がスタールに落ちたあと、スタールの輝きに包まれ、過去に戻ったことを。

「それがどんな力を発揮したかは私には分からないが、きっと二人の助けになったはずだよ」

 俺たちは互いに顔を見合わせた。大粒の雫が流れた跡の残る頬を指で撫でたかったが、何せ触れる状況ではないだろう。

「さて、一通りの説明はしたはずだけど、何か訊きたいことはあるかな」

「あの……」

 これは、訊いてもいいことなのかどうか、迷った。でも、口を開いてしまった以上あとには引けなくなった。

「何だね」

「これから、どうなるんですか」

 これには二つの意味があった。まずは、リリアの父とリリア。そして二つ目は、リリアの住む国。抽象的だったが、リリアの父はそれらの意味も汲み取ってくれたようだ。

「ふむ、どうなるんだろうねえ。私にもわからん。でも、私には君が命をかけて守ってくれた愛娘がいる。それで十分だ」

 月が雲に隠れ、そして再び姿を現したのと同時に、リリアの父が言った。

「さて、そろそろ戻るとしようか。リリア」

 俺たち二人は、その言葉を恐れていた。終わりを意味する、その言葉を。

 離れたくない、ずっと一緒にいたいという願いは、はやり星と星という果てしない距離においては届かないのかもしれない。それでも俺は、リリアの隣にいたいと思った。そう思わずにはいられなかった。

 リリアも同じようだった。俺の胸から離れた今でも、その小さな手は、俺の裾をきゅっと掴んでいた。

「パパ……あのね……」

 リリアがそう言うと、リリアの父はため息をつき、言った。

「一日だけ。それならいいよ」

 その顔は、連れて帰りたいという思いと仕方ないという諦めの思いがせめぎ合いをしていた。

 俺たちは、気まずい立場のリリアの父の手前、嬉しさを顔に出せずにいた。それでも、ほんの小さく笑った。

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