第5話 星の輝き

 好き。それは味にたとえるなら甘かったり、苦かったり、人によっていろんな味がする。例えば今、それが目の前にあったとすると、一体何味なんだろう。……想像してみる。

 しかし、答えは出なかった。理由は単純明快だ。隣に座っているリリアの声が、脳に響いているからだ。

 水着を買った日から数日。俺たちは海辺のキャンプ場を目指すべくバスに乗っていた。

「まだかなあまだかなあ! 早く海で遊びたーい!!」

 ようやく海を見ることができると、リリアは数日前からこんな調子だ。

「危ないから大人しくしてろよ」

 窓に顔を引っ付けて景色を舐めるように見ているリリアに声をかける。

「うるさい。静かにしてほしかったら今すぐ海を持ってきなさい」

「無理言うなよ!」

「ふん」

「あんたたち相変わらずねえ」

 うしろの席から、綾音の呆れたと言わんばかりの声が聞こえた。

 俺たちは相変わらず言い争いが絶えないでいた。とはいっても、最近はリリアも落ち着いてきた感じがある。現に、俺の隣にいるリリアは、俺の言葉を受けてその身を座席へと預けた。

「ま、あんたがどうしてもって言うなら大人しくしてあげるわ」

「どうも」俺は苦笑交じりに言った。

「でもさ、喧嘩するほど仲がいいって言うよね。しょうちゃん!」

 どうして俺に振るのか。俺はうしろを振り向いた。リリアと同じ窓側の席、それが絵梨の席だ。立ち上がり、俺たち二人を満面の笑みで見ている。

「どうだか」

 俺は淡泊に答えた。すると、俺の言葉を聞いたリリアが声を上げた。

「何よ! 私と仲良くしたくないって言うの⁉」

「はぁっ⁉ そんなこと言ってないだろ!」

「ひどい……。あんなことやこんなこと……いっぱいしたじゃない……」

「なっ……何言ってんだよ。てか、他にも人いるんだからそういうこと言うなよ」

 バスの中と言えども、ここは一応公衆の面前。そんな場所で誤解を招く表現をされては困る。困る、というかもう言ってしまったんだから時すでに遅しだ。前の座席から顔を出した淳平の罵声が飛んできた。

「おい! 星吾! 最低だぞ!」

 そして、続けざまに聡太の声。

「全く……星吾がそんなやつだったなんて……。残念だよ」メガネの位置を直す音が聞こえた。

 お前は本読んでたんじゃなかったのかよ。文字を追いつつ人の話も聞くとか……聖徳太子の親戚ですか。

「こ、こいつの言ってることは全部でたらめだからな!」

 俺は必死に訂正を試みた。しかし――

「何よ! 一緒に水遊びしたりホタル見に行ったりしたじゃない。あれは全部嘘だったって言うの!?」

 え? あんなことやこんなことって……そういうことを指してたのか?

「あっ……いや……そうじゃなくて。俺はてっきり――」

「うわあああ星吾のばかあ! 絶交よ絶交!」

「はあ⁉ 何でそうなるんだよ」

「こら、星吾。リリアちゃんに何てことを。もうお前にリリアちゃんは預けられねぇ。代わりに俺がリリアちゃんの傍にいる」

「なっ……」

「まあ! 淳平くんかっこいい」怒りに満ちていたリリアの瞳が、淳平を捉えた瞬間、キラキラと輝いた。「あーどうしよっかなあ。淳平くんの方が優しいし、それにかっこいいしぃ」

「ふん、優しくなくてかっこよくなくて悪かったな」

「あ、拗ねた?」

「別に」

「拗ねてるー。淳平くん、星吾拗ねてるよ!」

「ほんとだ! おもしれーな!」

 二人してけらけらと嗤いやがって。我慢できなかった俺は――

 パチン。

 リリアにデコピンをお見舞いしてやった。いい音が鳴った。

「いったぁーい! ちょっと、何すんのよ!」

「ふん、すっきりしたぜ」

「ちょっと! 私にもやらせなさいよ」

「何でそうなるんだよ!」

「い、い、か、らあ!」そう言ってリリアは肉薄してくる。

 俺は必死に抵抗の姿勢を見せる。それでもリリアは指に力を込めながらぐいぐい近寄ってくる。

 俺たちが周りのことを気にせず激しい攻防を続けているのを見た絵梨が、一言、何か呟いたのが聞こえた。

「やっぱりお似合いね」


 それからしばらくすると、トンネルに差しかかった。車内が一気に暗くなる。すぐに視界が晴れるかと思いきや、トンネルはどうやらもったいぶっているようだった。俺たちにその先の光景をなかなか見せようとしない。

「ねえ、まだトンネル抜けないの?」

 リリアがじれったい様子で訊いてきた。

「……もうすぐだよ」

 俺の言葉を聞いたリリアが窓に顔をくっつけて前方を見ようとする。そして――。

 目が暗闇に慣れていたから急に強い光を受けると、反射的に目を細めてしまう。

 しかし、それもほんの束の間のこと。やがて目はその光に適応していく。

 空高くに昇った太陽。その光をいっぱいに受けて煌めく青い青い海。どこまでも、どこまでも続いている。

「わあ……」

 リリアは窓に張りついて紺碧の海を見つめていた。その瞳の輝き様といったら……。まるで未知なる世界に魅せられた子どもの眼差しのよう。

「星吾! ねえ! すごい! あれが海!?」

 急に振り返ってきて顔を近づけてくるんだから驚いた。

「うん、あれが海だ。感想は?」

「きれい!」海に引けを取らないくらい目をキラキラさせて期待通りのことを言うから、

「やっぱリリアもそう思うか」俺も頬を緩めた。

「でもさ、海って何で青いの?」

 ごもっとも。しかし、俺には答えられない問いだ。その務めは……。

「僕がお答えしましょう」顔を見なくてもメガネのフレームに手をかけたのがわかる。そしてその声は普段よりも数倍生き生きとしている。これが聡太だ。

「海が青いのは、太陽の光と関係があります。そもそも太陽の光は――」

 目的のキャンプ場へは海が見え始めてから程なくして着いた。聡太は海だけでなく海洋生物から深海生物に渡るまで様々なうんちくを披露したが、もう誰も聞く耳をもたない。こいつの話は無駄に長いのだ。

 冷房の効いていた車内から一変、そこは灼熱地獄といってもよかった。

「暑い……」

 山と海。自然に囲まれた場所故に自然の声も普段より盛況だ。

「セミ……うるさいな」と淳平。

 淳平の言葉を最後に、俺たちは動きをとめた。暑い……暑すぎる!動きたくない。っていうか動く気力が湧いてこない!

 とはいうものの、その場に立ち尽くしていては干物になるのも時間の問題。俺は乾燥ぎみの声帯を振るわせた。

「とりあえずコテージに行こう」

 俺たちが予約したキャンプ場には大きく分けて二つのエリアがある。まずはテントでキャンプする人向けの広場。そしてその奥、山を少し進んだところにあるコテージ。

 普段はコテージが人気ですぐに埋まるらしいのだが、前の客がキャンセルし、幸運にも俺たちはコテージを予約できた。

 広場を通り抜ける。すでにテント設営に汗水垂らしている体格のいい男性がいた。その近くには小さな子どもが二人、そしてその二人を優しげな眼差しで見つめている女性がいた。その四人が家族だってことは一目瞭然だった。

 どこにでもある優しい景色。知らない間に口許が笑みを形作っていた。

 山に足を踏み入れると、驚くことに先ほどとは打って変わって空気が冷たかった。まだ昼前だから少し暑いけど、夜になると相当冷え込みそうだ。念のために上着を持ってきてよかった。

「涼しいねー」絵梨が空気を吸い込んで言った。そうだね、とリリアも頷く。

「もうだめ……早くコテージに……」

 涼しい顔のリリアや絵梨とは対照的に、綾音は萎れていた。

「お前運動部なんだから体力あるだろ」

 俺がそう言うと綾音はうー、とか細い声を出すだけだった。熱中症は怖いからな……。俺は水を飲ませた。

「もう広場に出たくなくなってきたぜ。早くコテージでひと休みしたいな」と淳平。

「コラ。弛んでちゃだめだよ。コテージ着いたら昼ご飯の準備があるんだから。淳平、分かってるよね」

 聡太は問い詰めるように言った。

「分かってるって。いちいち真面目すぎるんだよ、お前は」

 淳平の言葉を聞いた聡太は、メガネのフレームに指をあてるだけだった。汗が流れるよりも、メガネがずれることの方が気になるらしい。

 緩やかな坂道を上っていくこと約五分。コテージが見えてきた。俺たちが予約したコテージは他のものよりも一番小さいやつだ。それ故に見つけるのは容易かった。

「あー見えてきた」と絵梨。

「やっと着いたぁ……」綾音はなおも萎れていた。

 コテージの中に入ると、思いのほか整然としていて安心した。荷物を下ろし、部屋に不備がないか確認する。……よし、大丈夫そうだ。

「それじゃあご飯作るよ!」

 前々から気にはなっていたが、今日はやけに聡太のテンションが高い。こんな聡太も珍しいなと思っていると、

「あ、私も手伝う!」リリアが聡太に声をかけた。

「え、あ、う、うん……。お願いします……」

 大きく見えていた聡太が一瞬でそのオーラを縮ませた。

 やっぱりまだリリアに慣れないんだな。非科学嫌いの聡太が、非科学を目の当たりにして動揺するのは無理もない。でも。

 リリアはそんなことお構いなし! とでもいうように聡太の隣に立った。肘が触れるか触れないかギリギリの距離。俺は自然と声を出していた。

「おい……近づきす……」

 ぎ。

 ああ、よくないな。これは俺にでも分かる。これは、紛れもない嫉妬という感情だ。

 ぎこちなく口角を上げる聡太。その表情はどこか満更でもないように見えた。

 二人を見ていると心苦しさを覚えた。俺はそれを追い出すためにコテージをあとにした。

 視界には木、木、木。その間隙から射し込む日の光が眩しい。俺は階段を降りようとした。が、うしろの扉が音を立てたのを聞いて足をとめた。

 そこには、淳平がいた。

「よ! 何、探検でもしに行くの?」淳平はニッと笑顔を作った。

「まあ、そんなとこ」

「じゃあ俺もついてくよ」

「……おう」

 一人にしてくれ、なんて言えなかった。言ってしまえば怪しまれるに決まってる。

 歩くたび、パキ、パキと枝が割れる音。どこかで聞こえる鳥の囀り。木々の合間を縫って吹き込む風が心地いい。都会に住み慣れた俺にとって、それらは新鮮そのものだった。心が清んでいくのがはっきりと分かる。先ほど溜まっていたわだかまりが溶けていくと思えた。けど……。

「お前、聡太とリリアちゃんのことずっと見てただろ」

 こいつは、あっさりと俺を現実に引き戻してきやがった。

「バレてた……か」

 俺は苦笑する。

「お前のことなんてお見通しなんだよ」

「…………」

 バレないと思ってたけど……。やっぱ……こいつには勝てないな。すごいよ、淳平は。

「いつからだ?」

「え?」

「いつから俺がリリアのこと……」その先は言えなかった。だから飛ばして続けた。「知ってたんだ?」

 淳平は数秒俺を見たあと、くすりと笑った。そして、正面に向き直った。

「いつからって。そうだな……もうかなり最初の方からかな。納涼祭の辺り?」

「べ、別に納涼祭のときは何とも思ってなかったさ」

「それは、自分が気づいていなかっただけだよ」

「…………」

 確かに、俺は自分の気持ちに気づくのが遅かった。自分の気持ちに気づけたのは、つい最近。こいつや絵梨がヒントをくれたからだ。自分の気持ちに気づくのに他人の力を借りたなんて……。気づかせてくれてありがたい反面、一人で気づけなかった自分が情けなく思えてきた。

「まあさ、リリアちゃんかわいいし、いい子だし。ちゃんと気持ち伝えろよ」

「でも……」

「でもじゃねえよ!」淳平の声が急に鋭くなった。驚いて俺は足をとめた。「お前、リリアちゃんが宇宙から来たって言ったよな? それってつまり、いつかは元の星へ帰らないといけないってことだろ?」

「…………!!」

 そうだ……。淳平の言う通りだ。ばかか俺は。そんな重要なことを忘れていたなんて。

 ずっと一緒にいるって思ってた。それがもう、当たり前になっていたから。些細なことで笑って喧嘩して、振り回されて。それがもう、俺の生活の基礎になっていた。

 しかし、いずれリリアは俺の前からいなくなる。俺は心のどこかでそうなってほしくないと思っていたに違いない。だからこそ、俺はその未来が来るわけないと忘れることにしたんだ。

「俺は……俺は一体どうすればいい……」

 恥も強がりもかなぐり捨てて俺は希望の言葉を待った。

「……あ」

 少し間があったから、何かいいことを言ってくれるものだと期待していたが、淳平は何かに気づいただけだった。そして、俺をおいて坂道を駆け上がっていく。急にどうしたのかと訝しく思っていると、淳平が振り返って叫んだ。

「しょーごおー! こっち来いよおー!」

 怪訝に思っていても仕方がない。俺は淳平の元へ駆け寄った。

「見てみろよ」

 淳平は木々の間を指差して言った。俺はその間を通り抜けた――。

 そこは、小さな小さな広場だった。現在地は山の中腹にも満たないはず。そんなところにこんな開けた場所があったなんて。

 そこには、中央に大きな岩があるだけで、その存在感を俺たちに知らしめていた。

「今夜はきっと満天の星空だ。ここはお前に譲る。だから台詞、考えとけよ」

 ウィンクと同時に額からきらり、一粒の汗が滴った。どうしてこうもこいつは爽やかなんだ。

 ありがとう、と口を開きかけたが、淳平が続けた。

「あー腹減ったなー。コテージ、戻ろうぜ。もうできてる頃だろ」

 そう言って踵を返した淳平。その一連の動作は、「感謝はいらねえ。そんなの、水くせえだろ」と言っているようだった。

 ――ありがとな、淳平。

 俺は、心中でそう呟いた。

 昼食をとった俺たちは、早速海に行くことにした。

 コテージから歩いて約五分のところにビーチがある。ビーチの更衣室は混んでいるかもしれないという結論にいたった俺たちは、コテージで着替えることにした。俺たち男子が先に着替えを済ませると、リリアたちは早く出てってよ、と俺たちをコテージから追い出した。

「ちっ、リリアちゃんの水着姿はお預けかよ」

 淳平が地面に転がっていた小石を蹴飛ばした。石は不規則な軌道を描いて道端で停止した。

「彼女がいるのに何言ってんだか」と皮肉ったのは聡太だった。

「瑛子は瑛子。リリアちゃんはリリアちゃんだって!」

 ここまで潔いと逆に清々しい。

「お前だってリリアちゃんの水着姿、見たいだろ?」淳平が続ける。

「べっ、別に僕は興味ありませんですし……」

 聡太の癖だ。動揺すると言葉遣いがおかしくなる。それは、つまり興味があるってことを意味している。

「あーだめだめ。残念だけど、今夜星吾が告白すんだよ」

 告白……。

「はあっ!? な、何言ってんだよ」

 俺のリアクションを見た淳平は、何か変なこと言った? とでも言いたげに首をかしげて見せた。

「お前そういうことさらっと言うなよ」

「何で。別に聡太になら言ってもいいだろ?」

「いいけどさ……」

 タイミングってもんがあるだろう。まあ、張本人のリリアがいないだけましだけど……。

 聡太を見る。俺が告白すると知って、どんな反応を見せるだろうか。

「…………」

 聡太はだらしなく口を開き、瞬きせずに俺を凝視していた。

「聡太?」

 かなり衝撃的だったのだろう、呼びかけても返事がない。

「おい、聡太!」

 淳平が聡太の肩を叩くと、ようやく我に返ったようだ。

「えっ、あ! 何?」

「何じゃねえよ。そんなに驚くことか? 二人を見ていたら気づかなかったかなー」

「むー」

 聡太は唸り声と睨みつけることで、淳平の皮肉に反抗を示した。

「ごめんごめん。聡太にはそういうの難しかったよな」

 と、淳平は詫びたつもりだったが、聡太には通じなかった。

 聡太は、それすらも皮肉と受け取り淳平の脚に蹴りを入れた。

「いってえ! 何すんだよ!」

「ふん。僕は淳平みたいに遊び人じゃないからね」

 言い放つと、聡太は胸を反らしてずかずかと歩いていった。

 顔を歪める淳平と俺は互いに顔を見合わせる。どちらともなく、苦笑い。

「まあ、とりあえず海行こうぜ」

「そうだな」

 俺たちは聡太のあとを追った。


「うわー人多いなー」

 淳平の言葉通り、ビーチは人で賑わっていた。海で泳ぐ人、海の家で休憩する人、友人に埋められている人。いろんな人がいるけど、それぞれが思い思い海を満喫している。

「よし、じゃあ僕たちも――」

 聡太がパーカーを脱ぎながら興奮気味に言った。しかし、淳平が制止する。

「まあまあ慌てるなよ。海は逃げないからさ。綾音たちがまだ来てないだろ?」

「そうだけど……」

 出鼻をくじかれて、聡太はしかめっ面だ。

「もう少し待ってようぜ。場所取りも必要だしさ」

 そう言って淳平は辺りを見渡す。しかし、きょろきょろしているだけで次の言葉がない。

 そんな淳平に対してしびれを切らした聡太が一点を指差して言った。

「……あそこなんか、いいんじゃない?」

 聡太の棒読みと化した声に、別段反応を示すわけでもなく、淳平はその場所を見やって言った。

「おお! さすが聡太! 頼りになるぜ」

「ふんっ」

「あはは……」と苦笑する淳平が俺に助けてくれとアイコンタクトを送ってくる。

 何で俺が、とは思ったが小さくため息を吐くだけに留めておいた。

「聡太、淳平は放っておいて先に場所取ってようぜ」

「そうだね」

「何でだよ!」

「淳平はアイス頼んだー」俺は手を振りながら淳平から遠ざかっていった。

 聡太と二人、並んで歩く。メガネの奥の小さい瞳が、太陽の強い光を遮ろうとさらに小さくなっている。

「ねえ、星吾」小さな声で、聡太が呟いた。「星吾は、リリアちゃんのことが好きなの?」

「……まあ、あいつってさ、わがままでツンツンしてて印象最悪だけどさ。いいとこもあるんだよ」

 あえて好きとは言わなかった。うん、と肯定もしなかった。しかし、それでも聡太には伝わったらしく、「そっか」と短く呟いた。

「僕、応援してるからさ。頑張れよ!」

 聡太がこちらを見上げ、笑みを投げかけてくる。「僕、思ったんだ。彼女は宇宙人だけど、ちゃんとした人なんだなって。僕らと何も変わらない、人なんだなって」

「……聡太がそんなこと言うなんて……。やっぱリリアはすごいな」

「そうだね。彼女のおかげで、僕は何だか変われそうな気がするよ」

 聡太のその瞳は、以前よりも真っ直ぐに見えた。これまで聡太に、こんなにも凛々しいさまを見たことがあっただろか。

「よし、この辺にしよ――うぶっ‼」

「聡太あっ⁉」

 立ち止った聡太の顔面に、どこからともなくビーチボールが飛来してきた。メガネが飛ぶ。聡太も飛ぶ。

 ……物理的には強くなったわけではないな。


「遅いな」

「うん、遅いね」

「リリアのやつ、一体何に時間かかってんだよ」

 俺たち男子は三人横に並んで座りながらかき氷を食べていた。三人とも、無心で食べ続けながら海を眺める。

 俺が、ストロースプーンで液体となったかき氷をすすっていると、背後から呼ぶ声がした。

「うおっ!」

 振り向いた淳平がそんな声を上げる。鼻の下が伸びている。俺は淳平を小突いて目で知らせる。

 すると、咳払いを一つして手を振った。

「おーい! こっちこっちー」

 淳平の声を聞いたリリアたちが駆け寄ってくる。

 ここで、ようやくリリアがどれほどすごいのか改めて実感した。

 周りの視線がリリアに注がれる。その美貌、そのスタイル。異星のお姫様とは知らない人たちは、グラビアアイドルかモデルかと思っていることだろう。

「ごめん、お待たせ」と詫びてきたのは絵梨。

「いやーリリアちゃんかわいいね!」と淳平。ちょっと目がヤバいんですけど……。

「すごいよね、リリアちゃん。水着初めてなのに着こなすなんて。みんな見てるよ」と絵梨。

「そんなことないよ。選んでくれたのは絵梨ちゃんと綾音ちゃんじゃない」

「ちょっと、あたしたちはどうなのよ!」

 リリアにだけ感想を述べた淳平に向かって、綾音が高圧的に言った。

「え、あ、いやーその……」言葉を濁した淳平の目線は綾音とリリアの胸元を行き来する。そして、「残念、だな」

 綾音のこめかみに怒りマークが見えた気がした。しかし、それは幻ではなかった。

 苦笑する淳平の顔面めがけて、持っていたビーチボールを驚異的な速さで投げ込んだのだ。淳平はそのまま砂浜に大の字で倒れ込んだ。ノックアウト。

「ふんっ。いい気味だわ」

 あはは、と苦笑する絵梨。リリアは淳平の傍にしゃがみ込んで指でツンツンしている。

聡太に至っては呆れた様子で淳平を見ていたが、埋葬の準備を始めていた。

「あ、そうだ」思いついたように、綾音が声を上げた。「絵梨、ちょっと」

 それだけで絵梨は何かに気づいた様子で、うんと首を縦に振った。

 訝っていると、俺は綾音に手招きされた。一体何なんだ。

 埋葬中の淳平たちから離れたところで、綾音たちは立ち止った。そして――

 俺は綾音に強引に肩を組まれた。

「おい、一体何だよ」

「へへーん。あたしももう知ってんだかんね!」

「何をだよ」

「とぼけてもむだ。あんた、リリアちゃんのこと好きなんでしょ」

 今更かぶりを振っても意味がない。しかし、俺は遠回りの表現をする。

「…………悪いかよ」

 そう言うと、絵梨がくすりと笑った。

「やっぱり。それで、どうなのよ」

「どうって、何が」

「感想! ほら、好きな人の水着姿を見て何か思うことはないの?」

 そう言って否応なく視界にリリアを入れられる。

 思うことはないのって。そりゃあ思うことはあるけどさ……。

淡いブルーの水着を纏ったリリア。淳平に砂をかけようと、砂をかき集めている。そうすると、自然と胸の部分が窮屈そうになる。ちょっと水着小さいんじゃないか、と余計なことまで考えてしまう。

 って、俺は一体何の心配をしているんだよ。俺は慌てて顔を逸らす。

「あ、何、照れてんの?」と綾音が冷笑を浴びせかけてくる。

「しょうちゃんかわいい」などと絵梨もからかってくる。

「うっせえ」

「ま、頑張んな。あたしたちも手伝ってあげるからさ」綾音が肩に手を置いてきた。

「ふん、お前らの手なんか必要ねーよ」俺は綾音の手を払って距離をとった。

「あーら強がっちゃって。素直にアドバイスを受けたらいいのに」

 俺はその言葉を、顔をそむけることでいなした。そして、横目でもう一度リリアの姿を捉える。頬を伝う汗。眩しいほどの笑顔。あれがリリアだ。俺は、あの笑顔を守るって決めたんだ。

 と、俺の視線に気づいたのか、リリアが顔を上げた。視線が交錯する。そのとき、もちろん俺はリリアの瞳を見ていたわけだが、何を勘違いしたのかリリアは己の胸へと視線を落とした。つられて俺もその部分に焦点を合わせる。そして、再び視線が合わさる。

 リリアの顔に怒気が宿った。ああ……終わったな。

 俺に理不尽な制裁が下ったのは、そのすぐあとのことだった。


「ほら、足つけてみ。大丈夫だから」

「がんばってリリアちゃん!」

 リリアは形のいい眉を顰めながら、恐る恐る足を上げた。

「何をそんなに怖がってんだよ。ただの水だろ。まあしょっぱいけどさ」俺がそう言うと、リリアは勢いよく振り向いてきた。

「うるさい! 何かこういうのって緊張するの!」

 わかんないなあ。

 俺が首を傾げていると、リリアは再び足許に目を伏せた。

 足先に力を入れると、張りついていた砂が落ちた。そして――

「ひゃっ!」

 熱いものが手に触れたときみたいに、リリアは水に足をつけるとすぐにひっこめてしまった。

「冷たい……」

「どう、気持ちいいでしょ?」

 絵梨が打ち寄せる波に向かって小さく跳ねた。水が辺りに飛び散る。

「うん……」リリアは先の感覚を思い出しながら言っているようだ。「気持ちいい!」

 リリアの表情が柔らかくなった。今度は、躊躇いなく水に足をつけた。

 海デビューだ。

「よし! 遊ぼ、リリアちゃん!」

 絵梨と綾音がリリアの元へ駆け寄った。

 リリアはバシャバシャと足で海水を蹴りあげては無邪気な笑みを作り、そして他の二人に水をかけられては、「しょっぱーい」と言いつつ反撃する。

 リリアたちの周りを飛ぶ水は、彼女たちによって息を吹き込まれたかのように空中でダンスし、キラキラと煌めく。

「楽しそうだな、リリアちゃん」突然、淳平がそう言った。

「ああ」

「あんまり見惚れてたらまた叩かれるよ」

 聡太が俺の頬を見て苦笑交じりに言った。

「なっ。う、うっせーよ」俺はいまだジンジンと痛む左頬をおさえて言った。ったく本気で叩きやがって……。「大体、あれはリリアの勘違いで――ぶわっ⁉」

 続きは、勢いよく放たれた水流によってかき消された。

「ははっ、やった! 星吾撃沈!」

 綾音がよし! と、拳を形作った。

「くっそよくも……」

 頭を左右に振り、水を払う。目を開けると、綾音たちが水鉄砲を構えて立っていた。まだ勝負は始まっていないというのに、三人ともすでに勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

「星吾!」

 淳平の声。そして、視界に一丁の銃が割り込んできた。

「不意打ちを食らってしまったが、勝負はこれからだ! いけるか?」

 俺はしばしその銃を眺めた。もちろん、本物ではない。プラスチックで作られた拳銃型水鉄砲だ。しかし、プラスチック製とはいい、深い黒で塗装されたその表面が太陽に反射し、それなりのリアリティを醸し出している。

 俺はそれを手に取ると、立ち上がり、言った。

「もちろんだ。負けてたまるか」

「よし、いくぜ!」

 淳平が合図する。俺たち三人は互いに顔を見合わせ意気込んだ。

 こうして男子チーム対女子チームの水上バトルが火蓋を切って落とされた。

「相手が女子だからって手加減はしねえ!」

 俺は躊躇いもなく右手に握った銃の引き金を引いた。射出された水が、リリア目がけて一直線に飛んでいく。

 リリアはしゃがみ、海水を補給していた。隙あり。もらった!

 しかし、すんでのところで俺の攻撃は防がれることになった。視線を、リリアを守ったやつの方へと向ける。

 絵梨が、その清楚な姿にそぐわない重々しい水鉄砲を構えてしてやったりという顔で俺を見た。

「しょうちゃん! リリアちゃんはまだ水を汲んでいるとことだったのに。不意討ちなんてひどいよ!」

「へっ。勝負を仕かけてきたのはそっちの方だろ! 不意討ちもなにもあるかってんだ」

 俺は再び銃を構えた。標準を絵梨にシフトチェンジする。食らえ!

 しかし、引き金を引こうとした瞬間、リリアがそのままの姿勢でライフル型の水鉄砲を向けてきた。水の補給が終わったらしい。

「よくもやってくれたわね! いっけえー!」

 リリアの声とともに、装填された水が等間隔で吐き出される。

 またしても照準をリリアに変えることを余儀なくされた。しかし、反応が遅かった。綾音、絵梨も加勢し一斉掃射を仕かけてくる。水弾の数が多すぎる。これでは全てを相殺することは不可能だ。かわそうにも必ずどれかには当たってしまう。被弾は免れない。こうなったら……。

「淳平! 聡太!」

「おう!」

「任せて!」

 二人の声を耳に、俺は迫り来る水弾を狙ってトリガーを引いた。

 パシャパシャとギリギリのところで水が垂直落下する。いくつか攻撃を防いだものの、次から次へと水弾が襲ってくる。それは――。

 左右から別の水弾が敵の攻撃を防いだ。

「あっ!」絵梨の声が聞こえた。

「何ですってぇ……」綾音の悔しさに満ちた声。

 ナイスだ。

 一人で防ぎきれないのなら三人で防げばいい。そのためのチームだ。

 まさか全ての攻撃が通らないなどとは想像していなかったのだろう。リリアたちの攻撃がやんだ。

 周りには大勢人がいる。それなのに、いつの間にか周囲の音が遠ざかっていた。

 訪れた静寂。それを破ったのは誰だかわからない。再び激しい攻防が始まった。いや、どちらももはや守りはしていない。攻め合いだ。

 撃って、撃って、撃って。そして撃つ。

 いつしか俺たちは闇雲に水鉄砲を乱射していた。あちらこちらに水のラインが飛び交う。

 もちろん、わいわいと騒ぐのは悪くない。しかし、これは勝負だ。一方は勝利を手にし、もう一方は敗北を手にする。

 残念ながら勝つのは俺たちだ。少し卑怯かもしれないが、奥の手を使おう。

 俺は目を閉じ、集中した。そして――。

 これが最後だ! 魔法の力を借りて俺は引き金を引いた。

 通常、一度につき一つの水弾しか射出できないはずの拳銃型水鉄砲から、一気に三つの水弾が放たれた。威力は弱めたつもりだが、他のよりも明らかに違いが見て取れた。ちょっとやりすぎたかな……。

 魔法を使うのは少しずるい気もするけど、勝負を終わらせるためだ。

 降参といって手を上げるのは気が引けた。かといって向こうの方も自分たちから勝負を仕かけた手前、降参はみっともないと考えるはずだ。すると、手段があるとすれば……魔法しかないだろう。

「なっ! 何よあの水鉄砲!? そんな技使えたの!?」おかしいと悟ったのだろう綾音が、怒りを含ませた声で言った。

「くっ……。まだまだぁ!」絵梨はなおも対抗の姿勢を貫く。

 嫌いじゃないぜ、そういうの。などと勝者を気取ったのが運の尽きだったのだろうか。

「私にまかせて」リリアが口角を上げて言ったのが聞こえた。

 どうして。負けるとわかっていてもどうして笑っていられるんだ。何か策でもあるというのか。

 怪訝に思っていると、リリアの唇がかすかに動いた。言葉は聞こえない。だが、俺には十分だった。

「まっ……まずい! 淳平、聡太! 水を補給しろ!」

「どうして」

「いいから! 早く!」

 俺の焦る様を、二人は見るからに疑問符を浮かべながら見ていた。そして二人は渋々とたった感じで水を汲み始めた。

 遅い!

 いや、とうの昔に遅いのだ。俺が魔法を使ったときから、俺たちは負ける運命だったんだ。つまりそれは、不正行為はするべきではない、と知らしめているのでもあった。

 俺の放った水弾は、リリアたちの目と鼻の先で急停止した。そして、空中に浮いた水玉は進行してきた方向とは逆へ動き出した。加速を続けるそれは、気づけば俺たちの目の前まで迫ってきていた。

「なっ何いいいい⁉」淳平が声を張り上げた。

「アンビリーバボー……」聡太の言葉には諦念の色が含まれていた。

「く……っそおおおおおおお‼」

 勝負あり。俺たちの負けだ……。


「ほら、水に顔つけて」

「いや」

「いやって。つけないと練習にならないだろ」

「うっさいわね。わかったわよ。やればいいんでしょ」

「…………」

 先ほどからずっとこの調子だ。俺がレクチャーすると何かしらの反抗を示す。まあ、そのあとには指示通りにしてくれてはいるのだが。

 そもそも、なぜ俺がリリアの水泳指導をすることになったのかというと……。

 もちろん、俺自らが志願したわけではない。ということはつまり。他でもない、あいつらの所為だ。顔を巡らし、やつらを見る。

 綾音があれこれと指示を出し、淳平と聡太がせっせと城を作っていく。

 迂闊に城のてっぺんに手を出した淳平がその箇所を崩してしまった。間髪入れず綾音が叱責し、それを見て聡太が笑う。淳平を指差した拍子に、聡太もまた城を崩してしまった。遠くからでも綾音のこめかみに血管が浮き上がるのがわかった。

 ……っち。無邪気に騒ぎやがって。

 あいつらの計らいで俺たちは二人きりになれた。それについては感謝すべきだ。でも。あいつらは本当に俺のことを応援しているのか。城を作ってはいるもののちらちらと横目で見てきては、くすりと笑ったり親指立てたり。どうみても俺をいじって楽しんでいやがる。

 俺が顔をしかめていると、リリアが水をかけてきた。

「うおっ⁉ 何すんだよ!」

「あんた、ずーっとあっちの方見てるけど。何。あっちに混ざりたいわけ?」

「いや……別にそういうわけじゃ……」

「…………。あっそ」

 睨み、頬を膨らまし顔をそむける。

 俺は仕方なく苦笑し、「ごめん」と謝る。

「さ、続けようぜ」俺は手を差し出した。

「……わかったわよ」

 そう言ってリリアが差し出した俺の手に自分の手をのせようとしたときだった。

「いたっ」

 リリアが顔を歪めた。

「おい、どうした?」

「何かに刺された」

「どこ」

「ここ」

 リリアが右足首を見せてくる。しゃがみ、目線の位置に足首を持ってくる。

「ああ。クラゲか何かがいたのかな。赤くなってる」

 俺が少し腫れたところを指で撫でると、リリアは眉根を寄せた。

「あっごめん。痛むか?」

「う、うん……って。あんた私の足に触りすぎなのよこの変態!」

 足を引っ込め俺の手から離れたかと思うと、その足で俺はひと蹴りお見舞いされた。

「あがっ!」

 何も蹴ることはないだろうに……。俺は大の字になったまましばらく波に体を預けることにした。


「ふあー遊んだ遊んだー」

「日が暮れてきたねー」

「そろそろ晩飯の準備すっか」

「そうね」

 十分に海を満喫した俺たちは、一旦コテージに戻ることにした。

淳平たちのあとに続こうとしたところで、リリアがまだ来ていないことに気づき、振り返る。

「おーいリリア? 帰るぞ」

 体育座りの姿勢でじっと海を見つめていたリリアは、俺の声に反応し、振り向いた。

「あ、うん」

 しかし、また海に向き直る。

「リリア?」

「先、帰ってて。私もうちょっと海を見ていたいから」

「…………」

 まあ、初めての海だもんな。ずっと見ていたいのもわかる気がする。

「おい、星吾」

 いきなり背後から肩を組まれた。淳平だ。

「な、何だよ」

「リリアちゃん、待ってるんだよ。星吾が来るの」

「はあ⁉ そんなわけあるかよ」

「とにかく、行ってやれよ。バーベキューの準備はこっちでやっとくからさ」

「淳平……」

「でも、なるべく早く戻って来いよ。肉なくなっちまうぞ」

 ニシシと、小さく笑って淳平は絵梨たちの元へ駆けていった。

 淳平が絵梨たちに何やら話している。すると、四人が一斉にこちらに振り向いた。そして口裏を合わせたように四人同時に親指を立ててきた。

「…………」

 ったくあいつら。どこまでからかえば気が済むんだよ。

 俺は淳平たちに背を向けると、リリアを見やった。俺たちのやり取りには気づいていないようだ。

 ある程度の距離まで近づくと、リリアは俺に気づいた。

「星吾。みんなと一緒に帰んなかったの?」

「まあ、な」

「ふーん」

 じっと、俺から視線を離さない。何だかそんなに見られると息が詰まってしまう。気がつけば俺はリリアから目を逸らしていた。

 白のパーカーが夕陽を受けてオレンジ色に染まっている。時折吹く風がその艶やかな髪をなびかせる。

 そんな目の前の景色を純粋にきれいだなと思ってしまう自分がいる。

「昼間に見る海もいいけど、夕暮れ時の海もきれいだね」

 リリアのその言葉で俺は我に返った。

「あ、ああ」

 少し離れたところでリリアと一緒に海を見る。昼間よりも格段に人は減り、たまに視界を横切るけど全然気にならなかった。

 人が減ったのと同時に、海の声もよく聞こえるようになった。その音に耳を傾けていると、単調のようで少し高かったり、低かったり。長かったり、短かったりするのがわかる。それが耳に優しくてつい聞き入ってしまう。

「ねえ星吾」

 顔を海に向けたままリリアが俺の名を呼んだ。顔をリリアに向け、言葉を待つ。

 しかし、待ってもリリアの言葉はなかった。訝しく思い、口を開きかけたときだった。

「……ごめんね」

 俺はその言葉の意味を理解できなかった。急にどうしたんだ。何に対しての謝罪なんだ。全くわからない。

 だから俺はその真意を問おうとした。

「どうしたんだよ。急に。お前らしく――」けど。

 夕日に照らされたリリアの横顔には光る雫があった。きらり、それはリリアの頬に留まっていたいとでもいいたげに惜しむかのようにゆっくりと伝っていく。そして、ぽつり、音もなく砂浜に落ちた。

「リリ……ア……?」

 はっと我に返ったようにリリアは手で涙を拭った。

「あれ、何これ。いつの間に……。おかしいな」笑って取り繕っているけど、その声は微かに震えていた。「えへへ。変なとこ見られちゃったな」

 …………リリア。

 訊けなかった。その涙の訳を。訊いてはいけないような気がした。だから俺は、なるべく明るい声で言った。

「貝殻、探そうぜ」

 潤んだ瞳で見上げてくるリリア。そんなリリアに近づき、俺は手を差し出した。

「…………」

「ほら、行くぞ」

 リリアはじっと俺の手を見たまま動こうとしなかった。だから、俺は膝に置いていた手を無理やり取ってリリアを立たせた。

「あっ」

 照れくさかった。今すぐにでも海に飛び込みたい気持ちだった。それでも、リリアの手を握っていられるのなら。もう少しリリアを直接感じていられるのなら。それも心地よく感じられるかもしれない。


 日は完全に落ちた。辺りから聞こえてくるのは虫の声と、少し離れたコテージからの子どもたちの笑い声だけ。

 やはり山の中は肌寒く感じた。コテージのベランダで風に当たっていたが、これでは風邪をひいてしまう。

 俺が部屋に入ったのと同時にリリアたちが風呂から戻ってきた。

「お、戻ってきたか」

 鞄を漁っていた淳平が顔を上げ、言った。その手には花火の袋があった。

「わあ何それ! おもしろそう!」

 リリアが目をキラキラさせて言った。

「ふっふーん。これはねえ花火ってんだ。おもしろいぞー」

「早くやりたーい!」

「おし! じゃあ海行くか」

 夕方のときとは違い、リリアはすっかり元気になった。

 鼻歌を奏で、スキップしている。よかった。

 俺がそんなことを思っていると、綾音が肩を組んできた。

「ねえ星吾。あのあとどうだったのよ」

「どうって」

「私も聞きたい!」

 横から絵梨も入ってくる。

「別に何もねーよ」

「うっそだぁー」そう言って綾音が横腹を小突いてくる。

「いて。ほんとだってば。何もないよ」

 実際、あると言えばあるけど、綾音たちの期待するような「ある」とは違う。本当のことを言ってしまうと面倒なことになりそうなのではぐらかす。

「ちっ、つまんなーい」

 俺から離れると綾音は俺を突き飛ばした。少しつまずいたが、体勢を立て直す。

「とっとと告白しなさいよ」

「ちょ、リリアに聞こえるだろ」

「いいじゃない。もう聞いてもらったら? おーいリリアちゃーん!」

 綾音が少し離れたところを歩くリリアに向かって呼びかけた。

「お、おいやめろって!」

 慌てて綾音の口を塞ぐ。

「んんー! んっんー!」綾音が力ずくで俺の手を引き剥がした。「何すんのよ意気地なし! そんなだからいつまでたっても――」

「……するよ!」

「え?」

 俺たちのやり取りを笑って見ていた絵梨も、その顔から笑顔を消した。

「告白……するつもりなんだ。このあと」

「…………」

 しばし沈黙が流れる。言ってしまった。いつかは言わなきゃいけないことだけど、今は言いたくなかった。俯き、再び歩を進める。

「うおっ⁉」

 歩き始めたのと同時に、またしても綾音が肩を組んできた。

「まじで⁉ 場所はどこ⁉ 台詞は⁉」

「言うかよ!」

「頑張ってねしょうちゃん。応援してるよ!」

 絵梨が胸の前で小さく握り拳を作る。

「ああ、うん。ありがとう」

「ほーら。シャキッとしなさい。シャキッと」

 綾音が俺の背中を叩いた。つんのめりそうになる。「くよくよしてたら頼りないって思われちゃうわよ」

 その通りだ。尻込みしていたって何も解決しない。

 何だか助けられてばっかりだな。

 綾音と絵梨を見ると、感謝の気持ちと自分の不甲斐なさが混じった笑みがこぼれた。綾音たちも、俺の表情をくみ取ったのか慎ましげに笑って見せた。


「じゃあリリア、ここ持って」

 リリアに花火を渡す。少し強張った表情で花火を見つめている。

「よし、火、つけるぞ」

「うん……」

 ライターに火を灯す。リリアの整った顔が浮き上がった。そのまま火を花火に近づけ、しばらくすると。

「うわっ! あぶねえ」勢いよく火花を散らし始めた。その先端が俺の方に向いていたため、危うく火傷しそうになった。「リリア、あっち向けろ」

「あ、うん」

 そう言ってリリアは花火を海の方に向けた。

「きれい」しばしの間、リリアは緑色の光を眺めていたが、出し抜けに吹き出した。

「リリア?」

 急に笑い出すものだから、俺は怪訝に思った。

「あんた、驚きすぎなのよ。うわっだってさ。あはは!」

 リリアは先刻の俺の真似をしてみせた。似てない。ていうか真似するな!

「やめろよ……」俺が恥ずかしさをおさえながら言うと、

「ほれ」

「うわっ。だからあぶねえって!」

 リリアが花火を向けてくる。

「ほれほれー」

「やめろー」

 なおも花火を近づけてくるリリアに、俺は立ち上がって逃げ出した。

「あ、逃げた! 待てコラァー!」

「待てと言われて待つやつがいるかよ!」

「うるさいわね。待てって言ってんだから素直に待ちなさいよー!」

「やなこったあー!」

 夜の砂浜で追走劇が始まった。

 追いかけられてすぐのことだった。リリアが手に持っていた花火が突然消えてしまった。

 あっけなく終わりそうだな。

 そう思い、速度を落としかけたときだった。

「リリアちゃん、これを使え!」

 声の主である淳平の方を見やると、火をつけたばかりの花火が宙を舞っていた。

 そして、それがリリアの手に収まった瞬間、赤い閃光が迸った。

「なっ⁉」俺は慌てて脚に鞭を打った。「なんでリリアの味方すんだよおおお‼」

 ……静かに花火楽しみたかったな。

「はあ……はあ……」

「もう……充分だろ……」

「そこまで本気出さなくたっていいじゃない……」

「あぶねーだろ火傷したら」

「魔法使えるんだからいいじゃない」

「よくねーよ!」

「あーあ、疲れた」

「そりゃこっちの台詞だ」

 俺たちは夕方よりも近い距離で並んで海を眺めていた。

 昼間のときよりも波は穏やかで、水平線の彼方に浮かぶ大きな月がその光を海面に映していた。時として海の向こうから風がやって来てさざ波が広がる。

 寄せては返す小さな波を見ていると、リリアの声がした。

「夜の海ってとても幻想的ね。月の光がゆらゆら揺れてきれいだわ」

「そうだな」

「海って初めて見たけど、一日で何度も表情を変えるのね。すごくおもしろいけど、どれもきれいだった。また見たいなあ」

 そう言ったリリアの表情は微笑んでいたけど、どこか儚げな色も見えた。

 自分でもわかっているのだろうか。もうこの星にはいられないということが。

「また、来ようぜ」

「え?」

 だから俺は言ってやった。

「海が見たくなったら、いつでも連れてってやるからさ。だから……」

 だから、ずっと一緒に……。

 俺がそう言おうとしたところで、リリアが声を上げた。

「あ! みんな待ってよー!」

 うしろを振り向くと、淳平たちが足音を忍ばせて立ち去ろうとしていた。あいつらなりの配慮だったんだろう。だけど、運悪くリリアに気づかれてしまった。

 淳平たちは気づかれてしまったと苦笑い。

「あー。そろそろ行くか」

 俺も苦い笑みを漏らし、リリアに言った。

「そうだね」

 もう失敗はできない。


「ごめん、気づかれちまった」

 コテージへ戻る途中、淳平がそんなことを言ってきた。

「何でお前が謝るんだよ。気遣ってくれたんだろ。礼を言うのはこっちの方だって」

「星吾……」

「次こそは絶対言ってみせるからさ」

 俺は淳平の左胸に拳を押しつけて言った。

「ああ、頑張れよ」

淳平も俺の左胸に拳を押しつけてきた。

「なーに二人で熱い友情交わしてんのさ!」

「うおっ」

 俺たちの間に割り込む形で肩を組んできた聡太。俺たちよりも背が低いため、左右にいる俺たちが聡太を支えて空中浮遊させていることになる。

「そもそも、二人がいい雰囲気だから二人っきりにしようって言ったのは僕なんですよ」

「え、まじで?」俺は聡太の言葉が信じられず、淳平を見た。

「うん、そうなんだ」と淳平は言った。

「僕だってやるときゃやるんだよ」カチャリ、メガネを直す聡太。

「見直したぜ、聡太」

 俺がそう言うと、聡太はにやりと笑みを浮かべた。メガネが月光に反射して少し怖い。

「星吾、僕には恋愛がどういうものかよくわからないけど、応援してるから」

「ありがとな、聡太」

 聡太は小さく笑った。

 コテージに到着すると、みんないつ俺が告白するのかとそわそわしていた。

 絵梨は部屋の中をぐるぐる回っているし、綾音はなぜか柔軟を始めた。

 淳平も落ち着きがなく、聡太なんかは鞄に詰め込んでいた本を次から次へと速読している。内容が頭に入っているのか怪しいくらいの速さだ。

 さすがにみんな一斉に落ち着きがなくなったので、リリアもそれに気づいた。

「みんな、どうしたの急に。何か変だよ?」

 リリアの言葉はみんなに届いていないらしい。なおもそれぞれ思い思いの行動を取っている。

 バレちゃまずい。俺は淳平の元に寄って、リリアには聞かれないように声をひそめて呼びかけた。

「おい、淳平」

 何度か呼びかけると我に返ったように俺に気づいた。

「ああ、何」

「何、じゃないって。みんなそわそわしすぎ。これじゃバレちゃうよ」

「そ、そうだな。で、どうすんだ」

「どうするって」

「いつ告白すんだよ」

「そうだな……」

 俺はしばし考えた。淳平から目を外し、壁にかかった時計を見る。現時刻は十時前だ。

「もう少ししてから」

「だめだ、今すぐ告れ」

「は? 何でそうなんだよ」

「お前のことが気がかりで仕方ねーんだよ! とっとと告って終わらせろよ!」

「てか、今告ったらそれこそだめだろ! みんながそわそわしているのにリリアだって気づいてんだ。ここは時間をおいて、リリアの警戒を解くことが優先だろ」

「そんな悠長なこと言ってるとリリアちゃんの気持ちが変わっちまうかもしんねーぞ! ああもう、俺、リリアちゃんに言ってくる!」

「あ、こら待て!」

 淳平がリリアのところへ向かおうとしたから、俺はとめようとしたんだ。しかし、次に起こったことは予想の斜め上をいくことだった。

 俺たちはいつの間にかヒートアップしていたらしく、リリアがすぐそばまで来ていたことに全く気づかなかった。

「二人して何してんの」

 目を丸くして俺たち二人を交互に見やる。

「あ……リ……リリア……」

 もしかして……気づかれてしまったのか。

「な、なあリリア……」

「何?」

「俺たちの会話、聞いてた?」

 俺は覚悟をしてリリアに訊ねた。

 少し間があって、リリアは口を開いた。

「ううん。喧嘩っぽくなってきたから止めようとしたんだけど。二人とも、大丈夫?」

 俺たちは顔を見合わせ、二人同時にため息をついた。

「な、何よ。ため息なんかついちゃって」

「いやあ、何でもないよ」

「そっか。で、何の話してたの?」

 まだつっかかってくるのか!

 さて、どうごまかしたものか……。

 こっそりと淳平に目配せする。何かうまい言い訳を言ってくれというアイコンタクトだ。しかし、淳平はそれを華麗に受け流した。

 こ、こいつ……。

 淳平に対し憤りを覚えたが、そのとき、閃いた。これは逆にチャンスだ。

 俺は口の端を上げると言った。

「これからみんなで何するか考えてたんだよ。な、淳平」

 淳平も今気づいたのだろう、やられた、という顔だ。

 しかし、リリアには気づかれてはいけないので仕方なく俺に合わせるしかない。

「そ、そうなんだよー」

 少し棒読みっぽいが、まあ大丈夫だろう。

「そっか。それで何するの」

「んーババ抜きでいいんじゃねーかな」

「何それ」

「あ、リリアは知らないよな。ルール教えるからさ。おもしれーぞ!」

 何とかごまかせたようだ。

 リリアが離れていくのを見計らって、淳平が声をかけてきた。

「はあ、やられた」

「へへっ」

「笑ってんじゃねーよ。まあ、俺も考え直してみたんだけどさ。確かにちょっと気にしすぎてたかも。ババ抜きのあとは絶対告れよ」

「ああ、わかってる」

「よし、じゃあやるか、ババ抜き」

 こうして告白までの間、ババ抜きをすることになったのだが、このあとちょっとしたハプニングに見舞われることになるなんて、当然俺は知る由もなくて。このときはババ抜きをただ純粋に楽しんでいた。そう、疲れを意識するまで……。


 意識が戻り始めたとき、俺はまだ若干の心地よさを感じていた。それでもやがてはその心地よさも失せていき、次第に電気の明かりに目が反応するようになって、俺は飛び起きた。

 目をこすり、まだ開ききらない視界で周囲を見回す。

 みんな気持ちよさそうに寝ている。聡太なんかは本を抱き枕代わりにしている。

 今は……何時だっけ。最後に確認したのが十時を過ぎた辺りだった。

 短針が十一と十二の間に、長針が六の手前。ということは約十一時半。

 自分でもとっくに気づいている。これは紛れもない……寝落ちだ。

 しまった! と思ったのと同時に、俺はリリアの姿を探した。しかし、リリアの姿はどこにもなかった。

 自分だけ布団で寝たのか、そう思って二階に上がってみるも、誰もいない。

 俺はリリアを探すためにこっそりとコテージを抜け出した。

 こんなことになるなら早く告白しとけばよかった。山を駆け下りながら、俺はそんな思いにとらわれていた。

 広場に出ても、リリアの姿はなかった。

「一体どこに行ったんだよ……あいつ」

 俺はぽつり、呟くと、海の方へと走った。

 階段から砂浜を見下ろせるところまで来ると、足をとめた。しかし、全体的に探してみてもリリアの姿を捉えることはできなかった。

 やはり暗がりだと見落としているかもしれないと思い、降りて砂浜を行ったり来たりしてみたが、あいつはいなかった。

 本当にどこ行ったんだよ。まさか道に迷って帰れなくなったとか……。

 嫌な予感がする。

 とにかくリリアを見つけないと。俺は道路へと続く階段を再び登った。

 そのとき、俺の視界上端には星空があった。こんなきれいな星空、初めて見た。

 都会じゃきっと見ることはできない。人口の光で溢れた場所だと、空に浮かぶ幻想的な輝きは失われてしまうから。

 俺の足は知らずのうちに早まっていた。階段を登り切ると、空を見上げる。

 そう言えば、淳平が言ってたっけ。

 ――今夜はきっと満天の星空だ。ここはお前に譲る。だから台詞、考えとけよ。

 ここ……。

 そうか。あの場所だ。

 俺はあの開けた場所を目指して山に入った。

「いてっ……」

 その場所の入り口は、枝が入り組んでいて入り口と呼ぶにはやや不相応だ。かと言って他に入り口らしい入り口はないので、ここをくぐって行くしかない。

 ガサガサと音を立てながらどうにか入り口をくぐり抜けた俺は、服についた葉を払いつつ立ち上がった。

 広場を見渡す。

 光がないので、じっと目を凝らす。

 暗闇には慣れたはずだけど、リリアの姿を見つけることはできなかった。

 ここにもいないのか。

 あいつ……一体。

 と、そのときだった。岩の近くで何かが動いた。俺はそれを見逃さなかった。

「リリア……?」

 俺はゆっくりと岩に近づいた。そして裏側を覗き込むと――。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 身を縮こまらせ、耳を塞ぎながら呪文のように同じ言葉を何回も繰り返しているリリアがいた。

 最初に出たのはため息だった。しかし、落胆ではなく、安堵のため息。見つかってよかった。

「おい、リリア」

 きつく耳を塞いでいるせいで、リリアには俺の声が聞こえないらしい。俺は荒い動作でリリアの手を引っぺがし、耳元で大声を出してやった。

「リリアさああああん!」

「わああああっ!」

 リリアは文字通り飛び跳ね、反射的に俺の頬をビンタした。痛い。

「何すんだよ!」

「幽霊なんか怖くない! 怖くない……ってあんた……星吾じゃん。どうしてここに」

「お前を探しに来たんだよ。ってか幽霊って……」

 リリアの隣に腰を下ろし、俺は言った。そして岩にもたれかかる。今日だけで俺何回リリアにぶたれたかな。左頬をそっとさする。

「私を……?」

「……そうだよ」

 リリアは潤んだ瞳で俺を見つめた。そして紡がれた言葉は。

「ふーん」

「ふーん……って! 心配したんだぞ。広場にもいねーし、海にもいねーし。迷子になったんじゃねーかって思ったんだぞ」

「よく見つけたじゃない」

「他人事みたく言うなよ。ったく」

「あんたは心配性なのよ」

「…………」

 心配性とかじゃない。心配するに決まってんだろ。

 俺は心中でそう言ったつもりだった。しかし、声に出ていたらしい。

「え、何?」

「え、もしかして言葉に出してた?」

「は? 意味わかんない」

「いや、それならいいんだ。ははは……」

 どうやら聞こえてなかったみたいだ。

「ところで、あんたどうしてこの場所を?」

 リリアが訊ねてきた。

「お前こそ何でここ知ってんだよ」

「私は絵梨ちゃんにこの場所を教えてもらって。あんた誘って一緒に星見ようかなって思ったんだけど、あんたぐっすり眠ってるし。

「う……。はあ、ほんとは俺の方から誘うつもりだったんだけどな……」

「え、何?」

「ああ、別に」

「それで、あんたはどうしてこの場所を?」

「俺は淳平から教えてもらった」

「なーんだ」

「…………」

「…………」

「くっ……くくく」

「ぷ……あはは」

 どちらからともなく俺たちは吹き出した。

 このとき、俺は再確認した。リリアと一緒に笑い合うのがこんなに愛おしく感じるなんて。やっぱり、リリアのことが好きなんだってことを。

「ねえ、星吾」突然、リリアが立ち上がった。「岩の上に登らない? この岩、座椅子みたいな形してるのよ」

 立ち上がり、岩を見上げる。

 確かに、リリアの言う通りだ。石でできているだけであって、それは座椅子そのものだった。

「そうだな。まずは俺が登るよ」

 岩の上には風で舞ったのだろう葉が積もっていた。俺はそれを下に落としてから、リリアの手を引っ張った。その手の温もりを感じると、息が苦しくなる。だけど妙に心地よくもあって。

 リリアが岩の上に立つと、手が離れた。ただそれだけのことなのに、離れた手から喪失感が心の中に侵入してくる。

「うわー何かすごい!」

 リリアは俺の心境なんか知らない。それは当たり前のことだ。だから俺も自分に訪れた喪失感を払うために、リリアと調子を合わせることにした。

「確かに何かすげーな!」

「うん、何かすごい!」

「ああ、何かすごい!」

「何かすごいね! って、あんたばかにしてるでしょ」

「あ、バレたか」

「ばか」

 俺たちは大きすぎる座椅子岩に寝転がった。二人で寝転がってもまだ数人横に寝そべることができるほど、それは巨大だった。

 視界には空を埋めつくすほどの青い光の粒。

ずっと見つめているとその距離が近づいて見えたり、遠くに見えたりと錯覚を起こす。

 夏の大三角形はどれだろう。大きな光を三つ探そうとするけど、あまりにも星が多すぎてわからない。そもそも、夏の大三角形が何座なのかとか俺は知らないじゃないか。

「きれい……」

 リリアがつぶやくように言った。

「ああ、きれいだ」俺は空を見つめたまま相槌を打った。

 しばらく無言で星空を眺める。

 この幻想的な世界をリリアと二人きりで。かげかえのない一瞬だけど、大切にしたい永遠に思えた。

 目に映る無数の星。背中に伝わる石の冷たさ。風が木々を揺らし、隣からリリアの甘い香りを運んでくる。

 リリアがすぐ近くにいることを意識すると、息が詰まる。でも、こうして同じ空間を共有していることに心が優しさで満ち溢れていることも事実だ。

「……くちゅん!」

 突然、リリアがかわいらしい声を上げた。

「もしかして、寒い?」

「うん、冷えたみたい」

 上着を羽織ってきてよかった。俺はそれをリリアに着せた。

「あ、ありがと……」リリアは俺の上着を小さな手で引き寄せた。「あ、あんたは大丈夫なの……?」

「大丈夫だよ、俺は……くしゅっ!」

「ほら、やっぱり寒いんじゃん」

「あはは」格好つかねーな、俺……。

 リリアは羽織った俺の上着をしばらく見つめた。もしかして一緒に羽織ってくれるのか……。

なんて都合のいいことは実際なくて。俺の上着はリリアには少し大きいけど、さすがに二人分は厳しい。リリアもそのことには気づいているようだ。

「一緒に羽織ることは無理ね……」

 俺の淡い期待は儚く散ってしまった。

 そのはずだった。

 まさかリリアが自分から俺の手を握ってくるなんて。

 すべすべしたリリアの手のひらが温かい。驚いて俺はリリアを見た。

「か、勘違いしないでよね……。借り作りたくないだけなんだから」

 恥じらいを隠しきれないといった感じで、俺から顔を背けるリリア。その仕草がかわいくて、つい俺も顔を背けてしまった。

「べ、別にそんなこと気にすんなよ」

「いいの! 私は気にするの! それとも、私と手をつなぐのが嫌だって言うの!?」

「い、いやそうじゃない……。そうじゃない」

「……そっか」

 またしても沈黙が訪れた。

 俺がリリアの手を握り返すと、リリアもまたそっと握り返してくる。

 リリアと同じように星空を眺めるけど、その意識はもはや星にはいかず、つながれた手にいっていた。

 横目でリリアを見ると、右手で両膝を抱えて座っていた。左手の先には俺の右手。俺の手は特に大きいというわけではないが、リリアの手と比較すると大きく見えた。

 リリアの性格は気が短くて大雑把だけど、本当は手とか小さくて女の子らしいところもあって。

 そんなリリアが俺は――。

「俺は……」手をつないだまま、俺はリリアに向き直った。リリアも俺を見つめる。

 暗闇の中でもその煌めきに満ちた大きな瞳。まるで宝石みたいだ。

「俺は……リリアが……リリアのことが……」

 言ってしまえ。星の力を借りて。言え!

「好きだ……」

 そう言った俺の声はいつもと違って聞こえた。きっと緊張のせいで声が強張っていたんだ。

 刹那、視界の端で一筋の星が流れた。そして、星が一気に輝きを増した気がした。驚きに溢れたリリアの顔がはっきりと見えたからだ。

 リリアの顔を見つめていると、恥ずかしさで今にも逃げ出したくなる。でも、ここで逃げ出すなんてことをしたら台無しだ。振られても、それは受け入れなければいけない。

 リリアを正面に捉えたまま、俺はリリアの返事を待つ。

「私は……」

 そのときだった。入り口付近から葉と葉が重なって揺れる音がした。

 俺たちは一斉に岩の上からその辺りを見やる。

 何やら葉擦れの音に混じって、声が聞こえる。まさか……。俺は岩から飛び降りると、入り口に向かって駆け出した。

「まずい! 星吾に気づかれた! 逃げろ!」

 淳平の声がした。……もう遅いよ。

 みんないち早く逃げようとしたんだろう、それが仇となって大きな音がした。

「お前ら……」

 転んだままの淳平たちを睨む。

「あ、あはは。やあ、星吾」

 顔に笑みを浮かべる淳平だが、その声は上ずっていた。

「やあ、じゃねーよ! よくもやってくれたな!」

「ごめん! 悪気はなかったんだよ……」

「ごめんね、しょうちゃん。つい……」

「まあ、少しはしゃぎすぎた。ごめん」

「ぼ、ぼくは何も見てませんからさ」

「お前が一番気にしてたくせに」

「ぎくっ……」

「はあ……もういいや。みんなが助けてくれたから告白できたしな」

「でも返事聞けなかったじゃん」

「いいんだよ、別に」

「よくないよ! リリアちゃんの気持ち、ちゃんと聞こうよ!」

「いいんだ……」

 俺が静かに言うと、淳平たちは口を噤んでしまった。

「じゃあ、俺リリア連れ戻してくるから」

 俺は振り返りざまに軽く手を振り、リリアのところへ向かって行った。

 逆にあいつらがへまをしてくれてよかったかもな。リリアの答えを聞かなくて済んだ。

 何だよ、さっきはどんなことでも受け入れるって決めてたのに。やっぱり振られるのは嫌だな。

「リリア……その……戻ろうか」

 岩の下からリリアを呼ぶ。

「う、うん……」

 やっぱりぎこちない。

 降りようとするリリアに手を差し伸べる。しかし。

 リリアは俺の手を握ろうとはせず、そのまま飛び降りた。

 体がふらついたから、支えようとしたけど、するりと身をかわされてしまった。

「リリア……」

「きょ……競争だよ。よーいドン!」

 リリアは俺から逃げるように走り去って行った。

 告白……するんじゃなかったかな。


 等間隔で針が動く音がする。寸分の狂いなく同じスピードで刻み続けるその音を聞き続けてどれくらい経っただろう。

 俺は天井を眺めたまま眠れないでいた。

 どうして告白なんかしてしまったんだろう。今更になってそんな後悔が渦巻く。

 好きだと言ったあとのリリアの顔が何度もよみがえっては消えた。

 絶対無理だよなあ……。

「はあ……。ああああもう!」

「うるさいよ星吾……」

「ご、ごめん」

 そんな感じで悶々としていると、ようやく睡魔がやって来てくれた。

 やっと眠ることができる。そう思ったときだった。

 誰かの足音が聞こえた。

 こんな時間に……トイレか?

 俺は気にせず瞼を閉じた。しかし、耳に届いたのはトイレの扉ではなく、玄関の扉が開く音だった。

 怪訝に思った俺は起き上がり、一階を見下ろしたが、すでに誰もいなかった。階段を降り、コテージから出る。

 すると、視界の左側に広場に向かって山を下っていく長い髪が見えた。間違いない、リリアだ。

「リリア!」

 俺はそのうしろ姿に向かって叫んだ。途端、リリアは振り返ることもなく走り出した。

「くそっ! 何で逃げんだよ」

 俺は見失わないようにそのうしろ姿を追った。

 リリアは広場を横切ると、そのまま道路に飛び出した。海に沿ってそのまま突き進む。その方向は――。

 白い砂浜が見えてきた。そして、そこに降り立つための階段。そう、リリアはビーチに向かって走っていたのだ。急にどうしたんだ。

 リリアが立ち止まった。俺も距離をおいて足をとめる。設置された電柱の切れかかった電気が、その下にいるリリアを浮き上がらせる。

「どうしたんだよ、リリア。また海見たくなったのか? だったら一緒に――」

 俺が言い終わらないうちに、リリアが振り返った。

 ……その眼を見てすぐに悟った。目の前にいるのは、リリアじゃない。

 煌めきに満ちた普段の瞳は、虚ろで輝きがなかった。

「リ……リア?」 俺が足を踏み出そうとした瞬間、リリアの姿が消えた。「……⁉」

 そして息をする間もなく、リリアは俺に肉薄していた。広げた右手の指先には紫色の炎が宿っていた。

 危ういところで俺はリリアの右手首を掴み、攻撃をかわした。

「どうしたんだよ……リリア!」

俺の声は届かない。右手に力を込め、抵抗してくる。普段のリリアからは想像もできない強い力だった。俺が魔法を使わなければ簡単に振りほどかれるほどの……。

 魔法……まさか。

 リリアは操られている……? 魔法を使える誰かに。

 その誰か、というのはあいつしかいない。

「お前……もしかして――」

 リリアは口元を歪めると、不可解な言葉を紡いだ。呪文だ。

 危険を感じた俺はリリアから離れた。と同時に、リリアの全身からプラズマが発生し、俺がいた場所に向かって放たれた。

 バチバチとその場所が焼けたのではと思うほどの電撃。

 次にどう出てくるのかと構えていると、リリアはその場から砂浜へと飛び降りた。俺もそのあとを追う。

 リリアがその背を向けて走り去っていくところには黒い影があった。そして、その影の手前まで行くとリリアは足をとめた。くるりとこちらに振り返ったリリアの肩に、黒いマントを羽織ったそいつは軽々しく手を置いた。

「お前……」

 俺は目深かに被ってできた深い影を睨んで言った。

「ふっ……。いいねえその顔。怒りに歪んだ顔ってのは本当にいい表情だ」

 男の声は機械のように無機質で、低かった。

「リリアを離せ」

「できないな」男はくすり、一笑すると、続けた。「なぜなら、この姫は俺のものになるのだからな」

「何……言ってんだよお前……」

 顔は見えなくとも、男が歪んだ笑みを漏らしたのがわかった。そして、リリアの髪を一房、その手に絡めた。

「やめろっ!」俺は叫んだ。

「やめろ ?この女はお前のものではないだろう。そんな権利が貴様のようなやつにあるとでも?」

 男は言うと、手に取ったリリアの髪を顔に近づけた。そして、大きく息を吸い込んだ。

 俺はその動作に、きつく歯を噛みしめることしかできなかった。

 確かに俺はリリアにとってただの契約者でしかない。しかし、俺にとっては大切な人だ。

 男がリリアの首筋に手を這わせた。ヘビのように絡みつくその指が鎖骨付近まで到達する。そして、男の顔が首に近づいたとき、俺は駆け出した。

 が、男が俺をとめた。リリアの首筋に鋭い刃物があてがわれていた。

「くっ……」

「動けばこいつの命はない」

 完全にあいつの手のひらで踊らされている。

「本来の目的は封玉を手に入れることだが、この際余興だ。お前を殺してやる。こいつの手でなアッ!」

 その瞬間、リリアの懐から青い輝きが漏れた。リリアは意に介せず飛び出してきた。虚ろに開けた双眸が俺を捉える。

 前傾姿勢で俺に迫ってくるリリアの両手には水で形成された短剣が月の光で煌めいている。

 リリアに攻撃を加えることはできない。それなら……。

 俺は地面の砂を使って壁を作った。地につけた両手の辺りから長方形型の砂壁がリリアを隔てる。これでリリアの攻撃は防ぐことができる。そう、リリアの攻撃は。

 敵は、まだ別にいる。

 俺がそのことに気づいたとき、すでに男は俺の背を取っていた。

「敵は一人だけじゃないんだよ」

 男が刀印を作ると、周囲に黒い炎が三つ出現した。やがてそれは円形の魔法陣へと姿を変え、針のようなものを吐き出してきた。

「この……」

 俺は前かがみの体勢から、倒立の体勢に変え、天地が逆さになったまま俺は跳躍した。そのとき、伸ばした腕や肩に無数に飛んでくる針が数本かすめたが、歯を食いしばって痛みに耐える。

 空中で俺は体勢を立て直す。慣れない動作ながらも体をひねり、黒マントの男と向かい合う。

 俺はその位置から魔法を繰り出した。そのまま落下速度を利用して男に突進する。

 鈍い音がした。俺の攻撃は相手の右肘でいなされた。

「軽いな」

「くっ」

「ではこれはどうだ?」

 言うなり、男の右手が突如として液状化した。と思ったのも束の間、俺の拳を掴む形で固体化した。

「⁉」

「ふっ、驚くのはまだ早い」

 右手を掴まれて動けない俺に、男は左手を腹部に押し当ててきた。その瞬間、男の手から風が噴出し、俺は後方へ大きく飛ばされた。

 そこへ、宙を舞う俺の背後からリリアが再び攻撃を仕かけようとしていた。

 俺は歯噛みしつつも、海水を操り、自分を包むようにして球体を作り上げた。なおも衰えないそのスピードと相まって、リリアは逆に危険を察知したのだろう攻撃を中断し、回避行動を取った。

 俺は数メートル地面を転がると、魔法を解いた。自分を包んでいた水がバシャっと弾ける。

「やるじゃないか」男は声の調子を上げて言った。「やはり貴様はおもしろい」

「ふざけんな! どうしてお前は国にそむくようなことをするんだ! そんなことしても、いずれは罪を償わなきゃならないんだぞ!」

「国にそむく……? 罪を償う……? 笑わせるな!!」男の全身から魔力が噴き出した。「俺は一度も国に奉仕してきたつもりはない。これは革命なのだ。今の国をよりよくするためのなァ」

「革命……?」

「ああそうだ。エルヴァートが国王の座に就いてからというもの、国は衰退の一途をたどるばかりだ。それが国王の責務と言えるか? そんなのは反逆者がすることだ。俺はエルミナンド王国の新たな指導者として君臨するのだ」

「ばかかあぁてめぇは」

 男の声とはまた別の野太い声がした。しかし、声の主はどこにもいない。

 男の動きに若干の動揺が見られた。しかし、男はいたって落ち着いた口調で「誰だ」と問うた。

「姿も見せないやつに教える必要があるかよ」

 ふ、と鼻を鳴らし、姿なき声が言った。

「誰だっつってんだよォ!!」

 男はその場で脚を叩きつけた。すると、辺りの地面が爆発を起こし、砂浜が穿たれた。

「おーおー荒ぶってるねえ」

 その声は男の仕草を見て、やや高くなった。

「姿を見せないと……」男はリリアを操り、自分の元へ引き寄せた。「こいつが死ぬぞ」

「…………そんなことしていいのかな」

 声に鋭さがこもった。しかし、男もまたリリアの首に黒炎を近づかせる。

 辺りは波の音だけになった。もはや俺の出る幕はない。男と、姿なき声との対峙が始まったのだから。

 と、耳元で囁き声がした。

「星吾さん、姫のことは頼みましたよ。どこかに呪縛痕があるはずです。そこに魔法を使えば中和されます」

 これまでに幾度か彼の声を聞いたが、今回もまた男に気づかれないように変えているようだ。それでも、いつも俺に接するような口調で、それがアルフだと悟ることができた。

 俺は、ああ、と小さく頷き、アルフの出方を窺がった。

 風が地面の砂をさらっていく。波は先ほどよりも強さを増している。月が分厚い雲に覆われた。辺りに濃い影が落ちる。

 俺は息をするのも忘れるほどに神経を研ぎ澄ませていた。一瞬の変化も見逃せない。風に舞うマントの動きや男の手に浮かぶ黒い炎の揺らめきさえもこの目に焼きつけようとする。

 ゆっくりと、月を覆っていた雲が流れていく。それはやがて月の一部を露わにした。敵のマントが月光を受けた、そのとき。

 男の手から炎が消えた。かと思うと、男は驚く素振りも見せずに振り返り、袖口からギラリ輝く針のようなものが飛び出した。

 手元が狂ったのだろうか、男が貫こうとしたところには何もなかった。

 いや、それでは語弊がある。そのことに気づいたときには、何もなかったはずのところから一筋の鮮血が飛び散っていた。

 そう、そこにはいたのだ。アルフが。しかし、姿を消していたため、誰にも見えなかったのだ。唯一、黒マントの男を除いては。

 やつが本当にアルフの存在を意識していたのかはわからない。だが、男の動作には迷いがなかったように見えた。

 そのことを裏づけるかのようにマントの下で男が歪んだ笑い声を上げたのが聞こえた。

「ビンゴ……」

 掠れた声で男は言った。

 直後、男の背後の空間が歪んだ。そして、アルフが現れた。男と同じようにマントを被っていて顔は視認できない。もちろん、男に自分の正体を明かさないためだ。ゆえに俺が男の前でアルフの名を口にすることは、敵の計画を助長することに他ならない。

 アルフは、攻撃を受けたにもかかわらず短く笑んだ。その両手には細い糸が握られていた。それを引っ張ると、いつの間に仕かけたのだろう男の体が呼応して後退した。

 これには男も動揺の色を見せた。振りほどこうと身をゆするも、何重にも縛られているため、まともに身動きが取れないでいた。

 男とリリアの距離が離れていく。ある程度まで距離を離すと、アルフは力の限り糸を引っ張り上げた。腕を振り上げた際、アルフの右肩付近にできた小さな切り口から闇が覗いていたことから、男の攻撃が当たったことを物語っていた。

 男が宙を舞った。

 もちろん、ただ糸を強く引っ張り上げるだけでは成人男性を空高くに引き上げることはできない。魔法の力を借りて成せることだ。

 男は空高く舞ったのだが、これと言ったアクションを起こすでもなく、ただ流れに身を任せていた。

 それはどこか諦観めいた態度にも見えた。しかし、それは見当違いだった。

 男は単にそのときを待っていただけなのだ。

 伸縮性に富んだ糸が伸び切ったところを見計らって、男は全身から魔力を解放した。すると、先ほどとは打って変わって糸は容易く切れ、男に自由がかえってくる。

 男は軽快な動作で地に着地した。

 男とアルフが刀光剣影の気配を漂わせているのと同じように、俺とリリアも一触即発の空間を作り上げていた。

 二対一ではなく、一対一。アルフが助けに来てくれたことで戦局は大きく変わった。これならリリアを傷つけずに助けられるかもしれない。

 俺はリリアがどう出てくるか身構えた。

 が、突然前方から突風が起こった。それはどうやら男が起こしたものらしかった。砂が目に入らないように可能な限り薄目で男を見る。

「……時間か」男は小さくつぶやくと、

「今日はここまでだ。楽しかったぞ」

「ふざけんな! 何が楽しかっただ!」

「お前とはまた近いうちに会うだろう。だが、次が最後だ。俺は国をこの手に治める。次に会う時は新たな国王としてお前が行ってきた数々の罪に対して制裁を下してやる。首を洗って待っておけ」

 そして、男はそうだと付け加えた。

「この際折角だ。新国王の顔を晒してやる。しかとその目に焼き付けておくんだな」

 男はゆっくりとした動作でマントに手をかけた。いや、もしかすると、俺が目に焼き付けようと眼前の光景をスローモーションにしているのかもしれない。

 音もなく男はマントを後方へずらした。少しずつ、でも確実にその顔が明らかとなる。

「お前は……」

 右に左にうねった長髪、刻まれた深い皺。間違いない。デルビンだ。

「我が名はデルビン。デルビン・ゴルグス」

「デルビン……お前……」

 マント下のアルフの表情が強張ったのがわかった。

「さらばだ」

 冷徹な笑みを向け、デルビンは煙霞となって姿を消した。

 デルビンが消えたのと同時に、リリアがその場に崩れ落ちた。駆け寄り、抱き寄せる。

「リリア! おい、しっかりしろ!」

 すると、リリアの右足が淡い光を放った。そういえば、リリアと海で泳ぎの練習をしているとき、右足首に痛みを訴えていた。あのときからすでにデルビンの影は迫っていたというわけか。

「くそっ!」俺は砂浜に向かって拳を突き立てた。

 黒い光はやがて煙へと変わって、空中に消えていった。

「デルビンが消えたことで呪縛が解けたのです」

 アルフがマントを取り払いながら言った。

姿を変えているため、初めて見る姿だった。

 リリアがうう、と声を発し、微かに目を開けた。

「しょう……ご……?」

「ああ、もう大丈夫だ」

「そっか……」

 リリアは安心したのか、再び目を閉じて眠りについた。

 波はこの日一番静かだった。

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