第4話 ホタルのヒカリ
あの襲撃から約一週間。俺は制服に身を包み、玄関先でリリアを待っていた。
「おい、もう行くぞ」
「少しは待ちなさいよ」
「もうかれこれ三十分近く待ってるんですけど……」
それからしばらくしてリリアが現れた。その顔には嬉しさが滲み出ていた。
「ねえ! どう似合ってる!?」
リリアは小さな子どものようにはしゃいでその姿を見せつける。ひらり、紺のスカートが舞う。
リリアは、俺の通う高校の制服を着ている。なぜそんなものをリリアが着ているのかというと――絵梨が貸してくれたからだ。ここ最近、絵梨が俺の家にリリアに服を持ってきてくれたのだ。お洒落な服はもちろん、もしかしたら制服が必要になるかもしれないと言って制服まで貸してくれた。まさか本当に着るときが来るとは。さすがは絵梨。そういう勘の鋭いところが絵梨らしいなと思った。
「まあまあかな」
「素直じゃないねえ。正直に似合ってると言えばいいのに」
「うっせえ」
二人で家を出て、並んで歩く。
俺たちは今、学校に向かっている。夏休み真っ最中だというのに、なぜ学校なのかというと――
「ねえ、あんた夏休みでしょ? どうして学校に行くの?」
「……補習」
自分の口からは言いたくないが、それが答えなんだから仕方がない。
「補習? 何それ」
俺はそれで理解してもらえると思っていた。しかし、それでも眼前のお姫様はさっぱりといった感じだ。これ以上、己の体たらくを言葉にしたくはなかった。そうすることで、いかに自分が愚かなのかを否応なく突きつけられるからだ。
「せ……成績が悪いやつは休み返上で……」
やはり言っている最中で苦しくなった。さすがにリリアもそこまで聞くと理解したようだ。
「あはは。あんたばかだったの!」
「嬉しそうに言うんじゃねー」
「だって。まあ、星吾らしいっちゃらしいからいいじゃん」
「何だよそれ」
しかめっ面で答える俺をよそに、リリアは愛くるしい笑みを浮かべる。
リリアと出会って一週間と少し。この生活にもそろそろ慣れてきた。
あの納涼祭の襲撃以来、敵が俺たちを襲ってくることはなかった。何一つ変わり映えのしない日常。変わったことがあるとすれば――
まずはリリアの俺に対する評価だ。あれ以来、俺はリリアと同じ部屋で寝ることを許された。さすがに同じベッドではないが、俺はソファを愛用している。案外安眠できるものだ。
そして、俺の魔法。俺はいつ敵が攻めてくるかわからない状況の中で、やはり手だてがあるとすれば、リリアのくれたこの魔法しかないと考えた。目には目を魔法には魔法を、だ。あれから暇さえあれば俺は魔法の練習ばかりしていた。その甲斐もあって、リリアも驚くほどに扱いが慣れた。これで少しは対抗できるだろう。
リリアの悲しむ顔は見たくない。笑っていてほしい。俺はそのためにこの力を使うと、そう決めた。
どうしてそう思うようになったかは自分でもよくわからない。でも、なぜかそう思わずにはいられないんだ。
隣を歩くリリアを見ると、あの襲撃から完全に立ち直ったと思わせるほどに陽気な笑みを湛えていた。その笑顔を見ると俺も自然と頬がほころぶ。
そんな俺に気づいて、リリアは鋭い目を向けてくる。もうそれは決まりごとみたいになっていたから、俺は別段言い訳を考えることもなくやり過ごす。
「何にやけてんのよ。私がいくらかわいいからってそんなに見つめない。鑑賞料取るわよ」
「はいはい」
「あっ、こら。ちゃんと聞いてんの!?」
「わかったからさっさと学校行くぞ」
「こらー。待ちなさいよー!!」
教室の窓側。開け放たれた窓からは真夏の風が吹き込んでくる。確かに暑いけど、どこか爽やかだ。教室には俺と、椅子を後ろ向けに座って俺の勉強を怪訝に見つめるリリアだけ。
教室に置かれたぼろい扇風機がカタカタ音を立て、手に持ったペンがコツ、コツと新たな軌跡を作っていく。
セミがシャワシャワと鳴く。その声に負けじと遠くで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。勉強するにはもったいない。あの少年たちのように解放された世界を冒険したい。今この補習という檻を蹴り飛ばして煌めく夏を満喫したい。手を伸ばせば届くけど、届かない。そんな歯痒いときが一番つらい。
汗が頬を伝う。ゆっくりと、そして急に、緩急をつけながら机に落ちたとき、リリアと俺が同時に声を発した。
「ねえ、これどういう意味なの?」
「あーーーもうやってらんねえええええ!!」
俺の叫びに目を丸くするリリア。
「何よ急に。びっくりするじゃない」
「ご……ごめん」
「で、あとどれくらいなの」
「えーっと……」
隣の机に置いたプリントの束を一枚一枚数える。
「……十二枚」
まだ二桁かよ。余計やる気がなくなってしまった。
「はあ……。とっとと終わらせなさいよ。退屈じゃない」
ため息をつきたいのは俺の方なのに。
突然、リリアがすっと立ち上がった。どうしたんだと思って伏せていた目を上げる。リリアは指先で机に触れながら教卓の方へ歩いていく。教壇に立つと振り返り、勢いよく机に手を置き俺を見る。
「大河星吾! それじゃあこの問題解いてみて!」
廊下の向こう側にも響き渡るほど溌剌とした声でそう言ったリリアの顔は、とても満足気に見えた。
「そっちこそ何だよ急に」
「えへへ。先生の真似。どう? 似てた?」
「全然」
「ふん! あんたに聞いた私がばかだったわ。私に構ってないで早く終わらせてよね」
お前が聞いてきたんじゃねーかよ。でも、俺はリリアがそういうやつだと知っているからいちいちそんなことは言わない。代わりに短くわかったとだけ伝える。リリアもそれで了解したようにうっすらと笑みを作った。
それからやっとのことで課題プリントを仕上げた俺は帰るべく廊下を歩いていた。
「帰る前にアイス奢ってよね」
「しゃーねぇなあ……」
「当たり前じゃない。どれだけ待ったと思ってるのよ」
確かにこいつを待たせたのは事実だ。だから仕方ないと言えばそうなんだが……。
「あ」
突然リリアが何かに気づいて声を上げた。彼女の見つめる方向を見ると、一人の女性教諭がこちらに向かって歩いて来ていた。
俺の担任だ。先生も俺に気づくと、「いいところに来た!」と暑さで歪めていた顔をほころばせて駆け寄ってきた。
「おい大河。お前暇だろ。少し手伝ってほしいことがあるんだ」
「はあ……」
気づけば俺たちはプールにいた。
「いやあ納涼祭のとき、お前もびっくりしただろー。急に校舎が壊れたんだもんな。いやー誰にも怪我がなくてよかったよかった」
担任の先生は一人大きな口を開けて笑った。対する俺たちは笑えないでいた。なぜなら、その元凶が俺たちにあるからだ。当然、俺たちはことが大きくなる前に立ち去ったから、あの事件はある種学校の七不思議になっているという噂だ。そんなことは露知らず、先生は続ける。
「そこで、だ。いま補修工事に先生たちも精を出していてな。他にも掃除しなくちゃならないところがあるんだが手薄になっている状況なんだ。というわけで協力してくれ」
ここまで連れて来ておいて今更頼まれてもな……引けないだろ。俺は引きつりそうな顔を何とかごまかして頷いた。対するリリアはというと……完全に引きつっていた。
夏の日差しを遮るものは何もない。じりじりと照りつける太陽は俺たちの体力を奪っていく。
「暑い……」
「暑いな……」
「どうしてこうなるのよー‼」
手に持ったブラシを乱暴に打ちつけながらリリアが叫んだ。
「仕方ないだろ。捕まっちゃったんだから」
「あんたには危機感が足りないのよ。もっと注意しなさいよね。全く」
「無茶言うなよ……」
「もう無理……」
ブラシを支えにしてリリアが崩れた。
「アイス二本買ってやるからもうちょっと頑張ってくれよ……」
「うー暑いー」
「はあ……」
俺が額の汗を拭ったその瞬間、顔に水流が直撃した。
「うぶっ⁉」
「あはははは」
リリアが手元にあったホースの水を俺に向けて発射してきたのだ。
「や、やめろよ!」
「やーだよー」
悪戯な笑みを浮かべてなおも水をかけてくる。こうなったら……。
俺は足許にあったもう一つのホースに手を伸ばした。ホースの口を指できゅっと押さえて勢いをつけて――
「うわあー!」
水は一直線にリリアに直撃した。
「へへっ。どうだ」
「こ……このお!」
こうして俺とリリアのくだらないバトルが火蓋を切って落とされた。
「はあはあ……」
荒い息を吐きながらその場にへたり込む俺とリリア。お互い制服はびしょ濡れ状態だ。でも、こんな日にはかえって気持ちいいくらいだ。
結局俺たちの戦いは疲労のために休戦ということになった。視界いっぱいに広がる青い空をぼんやりと眺めながら息を整える。
上体を起こすと、リリアは大の字のまま空を眺めていた。
俺は立ち上がり、リリアのところまで歩く。足を踏み出すたびにピチャピチャと音がする。俺がリリアを覗き込むと、閉じていた目を開いた。手を差し伸べようと右手を出しかけたとき。俺は気づいてしまった……気づいてはいけないことに。
先の戦いで俺たちは全身濡れた状態だ。ということはつまり……その下に着ているものが透けて……。
俺のいかがわしい視線に気づいたリリアは、自分の胸元を見る。と同時に顔を真っ赤にし、叫びながら俺にとどめの一撃を叩き込んだ。
…………俺の負けだ。
「どさくさに紛れて下着覗くなんて最低」
「仕方ないだろ……」
「何であんたは反省しないのよ!」
「いってえ足踏むな!」
「ふん!」
ふいっと顔をそむけながら俺から遠ざかっていくリリア。胸の位置には俺のカッターシャツが巻かれている。もちろん、透けるのを防ぐためだ。
はあ、とため息をつき、俺はブラシを動かす。もうそろそろいいんじゃないか。結構掃除したはずだ。
プール全体を見渡して状況を確認しようとする。すると突然、ある一点の空間が歪み始めたかと思うと、空気を詰め込んだ袋を叩いたときのような弾けた音が響いた。
その音ともに現れたのは黒猫だった。猫がそんな魔法めいたものを使うはずがない。ということはつまり……猫に化けた誰か。俺はブラシを剣代わりに戦闘態勢をとる。
「安心してください。私です。アルフです」
出し抜けに、猫がそんなことを言った。俺は予想外のことに「アルフ?」としか返せなかった。
「はい。例のごとく本当の姿を晒してバレてはいけないので、今回は猫に化けました」
俺がアルフの猫姿をまじまじと見ていると、リリアが近づいてきた。
「で、どうしたの。何か掴めた」
「ええ。でも、ここで話すのは……とりあえず星吾さんの家に戻りましょう」
「そうしたいんだけど……」
俺が渋るのに猫アルフは首をかしげた。
「掃除……ですか」
俺が説明すると、アルフは頷いたように首を縦に振った。
「では少し力をお貸ししましょう」
そう言うと、アルフは右の前脚で二度地面を叩いた。すると、叩いたところから水が溢れ出し、周りに広がっていった。踵の位置にも満たないほどの水の薄い層が辺り一面を覆う。それを確認すると、次にアルフは、左の前脚で一度だけ地面を叩いた。すると、地面が水を吸収するかのように水が引いていった。水気を失ったプールの底は先ほどとは打って変わってきれいな青色をしていた。
「おお……」
俺が感嘆の声を漏らすのを聞いて、アルフは自分の前脚をペロリと舐めた。
「さっすがアルフー!」
リリアはそう言ってその場を滑って見せた。危ないと思ったのも束の間、リリアは俺の危惧する事態を起こしてくれた。
「あっ」と声を上げたリリアに次いで、俺とアルフも短く声を上げた。
俺が手を伸ばすもリリアに届くことなく虚空を掴んだ。そして――。
鈍い音がプールに響いた。
「ちょっと。お店の中くらい降ろしてくれてもいいでしょ!」
「いいから少し黙ってろ」
「いやだー恥ずかしいー!」
「あの、アルフさんもストロベリー味でいいかな」
俺は背中から聞こえるリリアの言葉を無視してアルフ猫に訊ねた。
「ニャー」
近くの駄菓子屋でアイスを四本(内二本はリリアのもの)買って俺たちは家を目指した。
俺とリリアがひどく濡れていること、そして何よりその濡れた二人が人目を気にせずわーわー騒いでいるから、過ぎ行く人々の視線を強く感じる。
「何であんたにおんぶされなくちゃいけないわけー。もう最悪」
「お前が足滑らせるからだろ」
「だってー」
「まあまあ、ここは星吾さんのご厚意に甘えておきましょうよ。姫様」
「ふん。元はというとあんたがきれいにし過ぎるからよ、アルフ」
「わ、私の所為⁉」
「あの先生かなり驚いてたじゃない」
「うう……」
猫姿のアルフがより一層小さく見えた。……アルフも大変なんだな。
背中にリリアを強く感じる。足を踏み出すたびにリリアの濡れた髪が首筋をくすぐり、プールの匂いに混じってリリアの匂いがする。こんなにリリアを近くに感じたことってあったっけ。そういえばあったな。納涼祭の夜。あのときも背中にリリアを感じていたっけ。
どうしてか。全身に冷水を浴びた所為かな。リリアが近くにいることに嫌な感じがしない。それどころか、もう少しこのままでいたいと思っている自分がいる……。
「…………!」
一体何を考えているんだ。変なこと考えるな。俺は愚かな思考を振り払おうとリリアを背負い直した。
「な……何よ。重いっていうの」
リリアが躊躇いがちに訊いてきた。
いつもは強情で見栄っ張りなリリアにもこんな乙女らしい一面があるんだな。
「あはは。リリアもそんなこと気にするんだな」
俺がそう言うと、リリアは言葉にならない声を漏らした。その反応がおもしろくてくすりと吹き出した。
「笑い過ぎだあっ! このバカ!」
「いてっ! 膝かっくんすんなよあぶねーだろ!」
「うるさい。さっさと運べ!」
「……はあ」
家に着くと、濡れた制服を乾かして着替えた。それから昼飯の準備だ。
「今日はそうめんだけどいいかな」
「私は何でも大丈夫です。この星の食べ物には興味がありますから」
元の姿に戻ったアルフがアイスを食べながら言った。
「いやーこのソウメンとやらはとても瑞々しかった! 新感覚だ!」
「喜んでもらえてよかったよ」
「ぜひまた作ってください」
「あ、ああ」
昼食のあと、アルフと俺がそんなやり取りをしていると、リリアが痺れを切らしたように咳払いをした。そこで俺たちは会話をとめた。
「すみません姫様、少し熱くなってしまいました。それではお話しさせていただきます」アルフは唇を湿らせてから話し始めた。「単刀直入に申し上げますと、おそらく首謀者はデルビン・ゴルグスかと思われます」
その言葉を受けてもリリアは表情を変えることはなかった。
「デルビン・ゴルグス……?」
もちろん、俺にとっては初めて聞く名前だ。
「はい。彼は私と同じくエルミナンド国王であるエルヴァート様に仕える側近の一人でございます」
「確証はあるの?」アルフを真っ直ぐに見つめながらリリアは言った。
「これをご覧ください」
アルフは透明な板を取り出した。それを机の上に置き、手をかざすと立体画像が出現した。
路地裏らしき場所で男が二人、何かやり取りをしている画像だった。夜に撮ったのだろうか、画像は全体的に暗い。それでも画像左側、うねった長髪の男の横顔には、深い皺が刻まれているのがよく分かった。
「偶然撮れたものなので鮮明ではありませんが、おそらくこの左の男がデルビンです。彼の長髪と深い皺は特徴的ですからね」
「確かに……。でも何であいつが」
「そうなんです。デルビンは物静かで真面目な性格。王にも忠誠を誓っている。理由が見当たらない」
「パパには伝えたの?」
「いえ。だからこそ彼が怪しいなどとはまだ誰にも告げていません。もし私が国で彼が怪しいと言えばそれこそ終わりです。それを聞きつけたデルビンが、あの夜姫様を助けたのが私だと気づいてしまう。不注意な行動はできませんね」
「…………」
リリアは無言でそのホログラムを見つめたままだった。そこに、アルフが付け加える。
「ご安心下さい姫様。一刻も早く証拠をおさえます。それまでは旅行気分でこの星にいて下さい」ニッと白い歯を見せ、そして。「いざというときは星吾さんという頼れる人もいますしね!」
アルフに向けていた視線を俺の方に移す。視線が交錯する。吸い込まれそうになるその瞳。その瞳が一瞬俺からはずれたかと思うと、リリアは口許をくいっと上げる。
「……どうだか」
「何だよ! 頼りないっていうのかよ! 自分で選んだんだろ!」
「仕方ないじゃん。まさかあんたがここまで頼りないなんて知らなかったんだもの」
「よく言うぜ。だったら契約を破棄しろ!」
「やなこったー。大人しく私を守りなさい」
「話が矛盾してる!」
「何をー! 私とやるっていうの⁉」
「望むところだ!」
「ま……まあまあ。二人とも……」
「「うるさい!!」」
「ひいっ……!」
アルフが俺たちの怒りを鎮めるのに苦労したことは言うまでもない……。ごめん、アルフ。
「分身の効力が切れますので、そろそろ。姫様のこと、頼みましたよ」
「ああ」
「では」
そう言うとアルフは姿を猫に変え、現れたときと同じように消えていった。
「はあ……。まさかデルビンがねえ」リリアは後頭部をかきながら言った。
「そいつって悪さするような人じゃないんだろ?」
「悪さどころか、ほんとできた人よ。まさか彼が……。まだ信じられないわ」リリアが天井を仰ぎ、そのまま数秒が経った。それから突然立ち上がり、不安の念を弾き飛ばすように声を上げた。「まあ考えてても仕方ないわ。私たちは私たちのできることをしなくちゃ」
「できることって?」
「それはぁ――」リリアは片目だけを閉じ、言った。「この星を冒険することよ!」
椅子から落ちそうになってしまった。
「何だよ! そんなことかよ!」
「何よ。他に何かあるっていうの?」
「アルフを手伝うとかもっとまともなことがあるだろ!」
「あいつも言ってたじゃない。私に任せろって。私はその通りアルフに任せるつもりよ」
得意げに言いきったリリア。俺は次の言葉を探したが、思い浮かばなかった。
と、出し抜けに携帯が鳴り響いた。
「淳平からだ」
俺の言葉を聞いて、リリアが覗き込んできた。
『海』と、一文字だけがディスプレイに表示されていた。
「ねえ、海ってどんなところー? 私国の外に出たことなかったから知らないんだー」
「海ってのはねぇ青くてすっげー広いんだぜー!」
「わあー早く見てみたーい!」
リリアの水着を買いに行く道中、リリアと淳平が二人で盛り上がっていた。
絵梨と綾音、俺と聡太はその後ろ姿を見ていた。
納涼祭の襲撃から一週間と少し。俺たちが全員そろったのは今日が初めてだった。あの夜、どうにか全員怪我なく助かった(まあ俺は少し負傷したが)のは奇跡かもしれない。
敵の襲撃のあと俺は意識を失い、気がついたときには家路の途中だった。アルフが、空白の時間を説明してくれ、こいつらの記憶を消したと話した。つまり、こいつらは何も覚えていないんだ。敵に襲われたことも、そして……俺が魔法を使ったことも。
リリアが宇宙のはるか彼方からやって来たことは以前に話したが、まだ俺が魔法を使えることは話していなかった。俺自身、自分が魔法を使えることを知ったのは、リリアと出会って数時間後のことだった。そして、翌日に納涼祭だ。確かに話せる機会はあったかもしれない。しかし、現実味のない話を聞かされて半信半疑の状態なのに、さらに魔法使えるんだって追い打ちをかける気にはなれなかった。
みんなは俺が魔法を使えることを知らない。それは当分俺とリリアの二人だけの秘密にしておこうと思う。知られてしまうようなことがあれば、それはそのとき秘密を明かそうと思う。
「あ、そうだ」と淳平が思い出したように声を上げた。「そう言えば学校壊れたんだって。特別棟の三階。俺たちが肝試ししてた場所だよな」
「あたしも聞いた。何でも奇妙な壊れ方だったらしいよ。教室の窓側の壁が大きく口を開けるみたいに壊れてて、廊下側の窓も壊れててさ。一体誰が何のために壊したのかわかんないんだって」
「もしかして幽霊かな」
「そんなわけないじゃん。幽霊なんかいるわけないだろう?」
「肝試しで一番ビビってたのは誰だ?」と淳平と綾音が声をそろえていった。
「べっ……別に僕は怖がってなんかいないですし!?」
「わかったわかった」と綾音が手をひらひらさせていなす。
「でもさ」と淳平が声のトーンを下げていった。「おかしいんだよ。俺、肝試しはした記憶があるんだけど、よく憶えてないんだよ」
他の三人もうんうんとそれぞれ頷いた。
「そうなのよね。確かに肝試しはしたはずなんだけど、途中から記憶がないっていうか。気づいたら家にいた」
「僕、肝試ししたのかどうかすら憶えてないや」
「それはあんたが……」と綾音が聡太を気遣ってか、話すのをためらった。「ま、あんたはそれでよかったんじゃないの」
「おかしな話だよね。ね、しょうちゃんは何か憶えてる?」
俺は傍観に徹していたが、急に絵梨に訊ねられて驚いた。
「お、俺か? 俺は……俺も憶えてないや」
「そっかあー」
気づかれぬよう、そっと安堵のため息をついた。
その後もデパートに着くまでその話題は絶えなかった。俺は始終ドキドキしながらその行く末を見守っていた。
目的のデパートに着くと、俺たちは水着コーナーに向かった。リリアの水着を買いに行くついで、俺も自分のものを買おうと考えていた。
「女子の水着売り場はこっちだから、またあとでね」
「じゃあ俺たちも見てくか」
リリアたち女子三人が早速どれがいいか探しに行き始めたのを見て、俺たちも探すことにした。
探すこと数十分、絵梨が背後から声をかけてきた。俺は振り返り、首をかしげる。
「ちょっと来てくれないかな。男の子の目から見てどれがいいかアドバイスしてほしいの」
男としての意見を求めるのなら淳平が適役なのではと思ったが、口には出さず従うことにした。首肯し、絵梨のあとについていく。
「リリアと綾音は?」
「試着室だよ」
「そっか」
しばらく無言が続いたあと、出し抜けに絵梨が切り出してきた。
「ねえ、しょうちゃん」
「何?」
「リリアちゃんにはもう告白したの?」
何か飲み物を飲んでいたら吹き出していただろう。絵梨の言葉はそれほどに衝撃的だった。
「はあっ⁉ 何だよ急に」
「ふふっ。鈍感だなあ二人とも」
「どういう意味だ」
「そのまんまよ」
「謎だ……」
謎だ。女子はなぜ遠回しに表現したがるんだ。俺は絵梨に相談を受けている間中、その言葉の意味を考え込んでいた。
「じゃあちょっと試着してくるから」
選んだ水着を手に、絵梨は試着室へと消えていった。
「ふう……」
自然とため息が出た。どこかで腰を下ろそうと売り場から離れようとしたときだった。
「ねえ、星吾。いる?」
ひそめた声が、試着室の中から聞こえてきた。リリアの声だった。
「どうした」
試着室の傍まで寄り声をかけた。
「ちょっと助けてほしいの」
「はあ? 綾音はどこ行ったんだよ」
「他の見に行くってそれっきり」
「じゃあ絵梨は?」
「絵梨ちゃん? さあ、知らないよ」
絵梨のやつ、一体どこの試着室に入ったんだよ。これじゃあ俺が助けるしかないじゃないか。
「本当に俺でいいんだな?」
「いいから早く入って来てよ」
辺りを見回して人がいないか確認する。覚悟を決め、俺はその隔たりをくぐり抜けた。
「ちょ、お、お前これは……」
「早く閉めてよ」
「わ、わりぃ……」
どうすればこんなに紐が絡まるんだよ。恥ずかしさで顔を紅潮させたリリアが身をよじって絡んだ紐から抜け出そうとしていた。
「お、おいあんまり動くなって。余計ひどくなる」
「じゃあ早く解いてよ!」
「わかったから。じっとしといてくれ」
うう、と言葉にならない声を漏らしたリリアの瞳にはうっすらと光の粒が見えた。
「あんたにこんな姿見られるなんて……最悪」
「自業自得だ」
沈黙が流れる。俺の指が紐を操る音が狭い部屋に響く。
水着を着ている所為で、リリアの肌が嫌でも目に入ってくる。かなり白い。それにきめが細かくて、指で押すと弾き返してきそうな柔らかさがあるように見えた。きれいな肌だな。素直にそう思った。
「ちょっと、変な目で見てないでしょうね」
振り返り、睥睨してきた。
「み、見てねーよ」
「とっととしなさいよね」
変なところで勘が鋭いのだから困ったもんだ。
それから悪戦苦闘すること数分、ようやくゴールが見えてきた。
「よし、これで終わりだ――」
そう言って紐を引っ張ったときだった。
「リリアちゃーん」
綾音の声が聞こえてきた。まずい! 二人して飛び上がった。その拍子にリリアが体勢を崩して――
「うおっ⁉」
「きゃあ!」
俺はリリアと壁の間に挟まれてしまい、身動きが取れなくなってしまった。
さらに不幸なことに……。体勢を崩したリリアは俺に抱きつく姿勢になってしまい、その柔らかな膨らみが押し付けられて……。
「あ……あぁ……」
顔を真っ赤にしたリリアが潤んだ瞳で見上げてくる。
「ちょ……」
「しーっ! 静かにしててっ……」
次第に綾音の足音が大きくなってきた。
「リリアちゃん、大丈夫?」
「えっ、う、うん。大丈夫だよ!」
「ほんと? あ、かわいいの見つけたから持ってきたよ。開けても大丈夫?」
「ええっ⁉ あーちょっと待って。いま着替えてるからー」
「わかった。じゃあ下から送っとくねー」
「うん。ありがとー」
綾音の足音が徐々に遠退いていく。何とか難を逃れたようだ。
「あー危なかった……」
そう言ってリリアは俺の胸に頭を預けた。しかし、俺が声を掛けようとしたのと同時に、リリアは俺から飛び退った。
「ばっ、ばかじゃないの!? あんたが躓くからこんなひどい目に……」
「俺の所為かよ!」
「最低!」
こんなハプニングもあったが、無事に水着を買うことができた。まさか水着を買うだけでこんなに苦労するとは思ってもみなかったけど……。
「じゃあまた連絡するよ」
「おう。じゃあな」
淳平たちに別れを告げて、リリアと二人並んで家を目指す。
「すっかり日が暮れちゃったね」
「そうだな」
オレンジ色の空には飛行機雲が現在進行形で描かれていた。
同じように空を仰いでいたリリアがそれを見て訊いてきた。
「ねえ! あれ何!? 空を泳いでるやつ!」
「飛行機だよ。言うなれば空を飛ぶ電車かな」
「へえー。やっぱこの星は変わってるね」
「そうかな」
「そうだよ。でも、この星も一日が終わろうとする頃には景色がオレンジ色に染められるんだね。そして真っ暗になっていく。それは私の住む星でも一緒だよ」
残陽を受けたリリアの横顔は紅くて、その瞳は煌めきでいっぱいだった。そして、その表情はなぜか切なそうで、彼女が今何を思っているのだろうかと疑問に思った。
俺の視線に気づいたリリアは、一瞬睨むと、すぐに顔いっぱいに笑みを作り言った。
「ほら、家まで競争! よーいドン!」
「あっ、おい! 待てよ!」
俺は夏の風景に溶け込んだ可憐な少女のうしろ髪を追って駆け出した。
夜の帳。俺が風呂から上がると、バスタオルを肩にかけたリリアがリビングの窓辺に腰かけて夜風にあたっていた。
「風邪ひくぞ」
「大丈夫」
吊るされた風鈴の音が涼しげな音を奏でる。その音に合わせるかのように虫たちの合唱も耳に心地いい音を運んでくる。
「ちょっと失礼」
「あ」
俺は無理やりリリアの横に腰を下ろした。
「こうやって何も考えずにぼーっとするのって意外といいもんだろ?」
俺は両手を支えにして空を見上げた。星が、微かに明滅を繰り返してその存在を慎ましげに主張している。
「確かにそうかもね」
リリアはつぶやくように言った。そして、ポケットから青い玉、スタールを取り出して夜空にかかげた。
「前々から思ってたけどさ、それ、何かのまじない?」
「ううん。ただ、スタールの輝きって一体何なのかなって思ってさ。こうやって似てる光があれば確かめてるの……今回も違うかなー」
「それ、リリアの国の宝物なんだろ。だったらお父さんが知ってるんじゃないのか?」
「訊いたことあるけど、『いずれときが来れば教える』って言葉を濁されたまま」
何かを見るでもなく、聞くでもなく、考えるでもなく。ただ時が流れる。
視界に広がる紺色の海に、一筋の光が流れたとき、俺は立ち上がった。
「ホタル、見に行こう」
川の流れる音が聞こえてきた。そろそろだ。
「ねえ星吾。まだ?」
「もうすぐ」
街灯を頼りに俺は目的の場所を目指す。夜のまだ早い時間だというのに、人の通りは少ない。二人が歩く音、そして遠くの方で車が行き交う音がよく聞こえる。
「ところでホタルって? いい加減教えてくれてもいいんじゃない」
「だめだって。見てのお楽しみ」
俺がそうやって濁すと、リリアは整った顔にしわを寄せた。たまには俺だって困らせる立場になってもいいだろう?
住宅街を抜けると、あの橋に差しかかった。「ここって……」
リリアも気づいたようだ。いつもはそのまま渡るのだが、今回は違う。俺は直進せず、右に曲がった。
河川敷から川を見下ろす。ここからならよく見える。
「あれが、あのヒカリがホタル」
俺の言葉は聞こえていたのだろうか。リリアはじっとその光景に見入ったままだった。
「あれが……ホタル」
リリアはヒカリを見据えたまま足を踏み出そうとした。
「危ない」俺はリリアの手を取って制した。「気をつけろよな」
「あ、うん。ありがと」
俺はリリアを先導してヒカリの元へと斜面を下った。
火の粉が舞うように、ホタルは淡い光の尾を引きながら空中遊泳している。毎年この季節にしか見ることのできない、幻想的な光景。きっと誰しもが見とれてしまうだろうその情景は、夢を見ているんじゃないかと錯覚してしまうほどに美しい。
「わあ……すごい」
リリアの顔はホタルのヒカリによって照らし出されていた。その瞳の輝きが、いつにも増して煌めいている。
「どうだ、すごいだろ?」
リリアのその表情を見ると、得意げになってしまう自分がいた。
「すごい! すごいよ!」リリアはまだ濡れた髪を勢いよく振りながらこちらに向き直ってきた。同じシャンプーを使っているはずなのに、やけに甘い香りが鼻腔をくすぐる。「こんなにきれいな生き物、初めて見た」
そう言うとリリアはまたヒカリを追い始めた。
俺は佇立したままのリリアから離れて、一際強いヒカリを放っているホタルに近づいた。そっと、音を立てずにその距離を縮めていく。
…………今だ!
俺は両手でそのホタルを捕まえた。
「ちょ、ちょっと! あんた何してんのよ!?」
リリアは俺の素早い動きを見て、ホタルをつぶしたと勘違いしているのだろう。俺はリリアの元へと戻った。
「大丈夫、捕まえただけだから」
俺はリリアの誤解を解いてからしゃがむように言った。
二人してしゃがんだところで、俺は密閉した手を少し開いた。
その瞬間、黄緑色のヒカリがぱあっと輝いた。近くで見るホタル。明るく光ったかと思うと、今度はその光を消滅させる。
時間を忘れて見入ってしまいそうになるのを、リリアの声がとめてくれた。
「星吾、ありがとね。私、この星に来てよかったよ」
ホタルを見たまま、リリアはそんなことを言った。リリアが素直に感謝を述べるなんて。何だか調子が狂う……。しかし、それだけではなかった。
リリアはその瞳をホタルから俺に移すと、微笑んだのだ。屈託のない笑み。幻想的な光に映った夏の少女の笑みに、俺は――。
吸い込まれた。
と、同時に俺の手からホタルが飛び出した。ホタルは、ふわりふわりと遠ざかり、他のヒカリに混じって分からなくなった。リリアがあっ、と短く声を発したけど、俺は何も反応を見せなかった。だって、俺にとってはそんなことどうでもよかったから。
それから俺たちは家に戻ったんだが、何かがおかしい。心の中が支配されたような感覚。追い出そうとしても言うことを聞かない。でもそれは嫌だけど、嫌じゃない。
これは、夏の所為? それともホタルの所為?
このとき、俺は気づいてしまった。絵梨の言っていたことが何を意味していたのか。
俺は……リリアのことが……。
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