第2話 姫と、魔法と、四つの影

 空から降ってきたその少女をお姫様と呼んだのにはそれ相応の理由というものが存在する。

 まず一つめはその容貌。ブロンドの長い髪。二重瞼の大きな目。鼻梁も高く、唇の色は薄い。全体的に小さな顔で、誰が見ても美少女と評価するだろう美貌だった。

 そして二つめは、彼女が身に纏っている衣服にある。彼女のそれは、典型的なお姫様ドレスで、ティアラやネックレスなどいかにも高そうな装飾品を身につけていた。

 そんな彼女は今、ドレスについた汚れを払いながら辺りをきょろきょろと見回していた。目を凝らして見ると、彼女の周囲を青白い電気みたいなものがバチバチと纏わりついている。怪訝に思ったが、答えは出なかった。またしてもこの空間は静まり返り、その場にいる全員が謎のお姫様に視線を注いでいる。にもかかわらず、彼女は嫌な顔一つせず、むしろうっすらと笑みを浮かべていた。

「ふぅん。いたって平和そうね。ベストチョイスってとこかしら」

 彼女は俺たちを一人一人品定めするかのように見て言った。そして、俺と彼女の視線が交差したそのとき――

 彼女の大きな目が一際大きくなり、唇が微かに動いた。

 どういうわけか、彼女と目を合わせると心臓が強く脈打つのを感じた。慌てて視線を外す。そして、もう一度少女を視界に捉えると、彼女はゆっくりとした足取りでこちらに向かってきていた。

 …………⁉

 何だよ。俺、殺されんのかな。逃げようにも彼女の澄んだ瞳が俺を縛っているみたいで体が動かない。視線を交わしたまま、俺たちの距離はどんどん縮まっていく。五メートル……一メートル……。視界の端の方で、生徒たちがこちらをじっと見守っているのがわかった。やがて彼女は俺の目の前で立ち止まった。ヒールの高い靴を履いていて、背は俺とさほど変わらない。黒い首輪みたいなものが赤い光を明滅させているのに気づいた。何かのファッションだろうか。

 彼女は一呼吸おいてから、「きみ、名前は?」と訊ねてきた。

「え……?」

 一言そう言うしかできなかった。

「名を名乗れと言っているのよ」

 彼女は見るからに嫌悪感を抱いているみたいで、眉間にしわを寄せた。

 似合わないなと思いつつも、俺は口を開いた。

「星吾。大河星吾」

「そう。それじゃあ――」

 彼女はそう言うと、俺に肉薄してきて、


 キスをした。


 遠くで生徒たちのどよめきが聞こえる。あいつらはこの俺を見て何を思うだろうか。ていうかこれ何ていうドッキリだよ。早くあのプラカード見せろよ。まったく、二学年全員で俺をはめようだなんてどういうつもりだ。俺、何かしたか? それとも何かに選ばれたのか?

 あらゆる可能性を探り、俺の脳は高速回転する。しかし、見事に空回りだ。何も思い当たる節がない。

 お姫様は俺から唇を離した。俺を見る彼女の表情には、恥じらいも何も見つけられなかった。そこでようやく周りからの何重にも重なった視線を感じたらしく、周囲を見回す彼女。小さなため息とともに、俺の手を掴み、「ここは人が多いから移動するわよ」と歩き始めた。

「お、おいちょっと……」

 そんな俺の発言もむなしく、彼女は俺の言葉には答えずグラウンドから離れていった。俺は彼女に引きずられるままに歩を進めた。うしろは……振り返れなかった。


 学校を出て、坂を下り、交差点を渡る。しそして、河川の上に架かった橋を半ばまで進んだところで彼女は足をとめた。

「はあ……」

 ため息を吐くとその場にへたり込んでしまった。

「お、おい……大丈夫か?」

 労いの言葉をかけたにもかかわらず、謎の美少女は振り向くと俺を睨めつけた。

「別に。あんたに心配されるまでもないわよ。ただいろいろあったから一息つきたかっただけ。放っといてくれない」

 ふいっと顔を横に振ってぶっきらぼうに答えたお姫様。いや、超のつくほどのお姫様だ。俺はこの瞬間、そう悟った。

 川の上流から風が吹いてきた。俺が川を見やってすぐ、彼女も同じことをする。ここの川はいつ見ても澄んでいてきれいなんだよな。今日も太陽の光を受けて痛いほどに煌めいている。そうやって川の光に目を細めていると、お姫様は輝いてると呟いた。そう言って彼女はポケットから何やら玉のようなものを取り出した。瞳に近づけて見つめ、一言。

「似てないわね」

 一体何なのかと思い、顔を近づけようと中腰になったところで、またしても睥睨された。

「ちょっと! 見ないでくれる。変態!」

 まだ何もしてないじゃないですか。……いや、まだって……。それこそ変態のレッテルを張られても致し方ない。俺は苦笑交じりに短く謝った。

 ふんと鼻を鳴らし、彼女は立ち上がった。スカートを払い、こちらを振り向く。

「おい! 私を安全なところへ連れていきなさい!」

「……はあ?」

 自分でも素っ頓狂な声だと思った。

「いいからさっさと連れていきなさい!」

 怒っているらしいが、小鬼の形相と形容してもいいくらい恐ろしさを感じない。そう考えてみれば、案外バラに棘はないかもしれない。と思った矢先。

「へ・ん・じ・を・しろー!」

 …………足を踏まれた。


「ここがあんたん家?」

「まあ」

「へえー。……狭そう」

 一応一軒家なんですけど……。やっぱりお姫様だ。

「このご時世だし、防犯設備は導入してあるから大丈夫だと思うけど。広さに関しては……眼を瞑ってくれ」

 家の鍵を開け、お姫様を中に入れる。もの珍しそうにあちこちに視線を投げかけている。ドアをロックし、俺の部屋へ案内する。

「ねえ、ご両親は?」

 美少女に釣り合った高めの声で彼女は訊いてきた。

「仕事。当分帰ってこない」

「ふぅん。そっか」

 俺の両親は今、海外にいる。父はスペインで、母はフランス。二人ともかなり忙しいらしく、何日も家を空けることは珍しいことではない。最近では、二人が帰ってきたのはつい二週間前、夏休みが始まってすぐのときだった。しかし、数日間寝泊まりしたのち、すぐに飛び立って行ってしまった。

 部屋の扉を開ける。閉めきっていたため、中はサウナ状態だ。ただちに窓を開け、空気を入れ替える。

「へえー。割ときれいじゃない」

 ふう、と安堵のため息。昨日掃除しておいてよかった……。

「まあ、てきとうに座ってよ」

 俺は座蒲団を置いて勧めた。

 お姫様は折り目正しくそこに腰を下ろした。そして俺を見つめる。やけに熱い視線だったから、俺は頭に「?」マークを浮かべ思案する。そうだ、わかったぞ。俺は彼女に少し待つよう告げてから、冷えた麦茶を取りに行った。

「……何……この色」

 しけた顔でまじまじと容器の中の液体を見つめるお姫様。そうか、この少女、空からやって来たんだった。そりゃあ気味悪がっても仕方がないか……。って、本当に空からやって来たのか? どっかから飛ばされて来たとかじゃないの? と、極めて可能性の低いことを考えたのち、「大丈夫だから飲んでみ」と言ったら、

「じゃああんたが先に飲みなさいよ」と返ってきた。

 毒見というわけですか。毒なんかないのに。幸い、俺も喉が渇いていたから気がつけば半分以上も飲んでいた。コップを置く。

「ほら、毒なんか入ってないからさ」

 これで大丈夫だろうと思ったんだが、彼女はなおも難しい顔をしていた。

「何だよ」

俺がそう言うと、

「入れ物」

「は?」

「入れ物換えてよね。あんたが口つけたやつなんかで飲めるわけないでしょ!?」

 ……棘だらけだ。


「ふう……」

 お姫様は新しい容器に注いだお茶を一気に飲み干した。

 そして沈黙。そとからのセミの声と扇風機の稼働音だけが耳に入ってくる。彼女は目を閉じたまま髪をなびかせていた。

 風に舞う美少女。亜麻色の髪が本当にきれいだ。顔も、見ていて飽きない。

 突然、頭の中に嫌な映像が流れ出した。彼女が目を開けて、俺の視線に気づき、罵倒してくるという最悪な画。このまま見続けていたらそうなってしまうかもしれない。俺は素早く彼女から目を逸らした。その瞬間やけに沈黙が重く感じられた。だから俺は口を開きかけた。しかし、それは彼女の澄んだ声によって最初の数文字で消えてしまった。

「あんた、名前は?」

 あのとき聞いてなかったのかよ、とは返せなかった。だからもう一度告げる。

「星吾……か。ああ、で、何か言いかけてたけど。何?」

「あなたは一体何者なんですか」

 えらく改まった言葉遣いになってしまったが、この際気にしない。

「宇宙人」

「は?」

「だから宇宙人だってば」

 彼女はいたって真面目な口振りなのだが、俺には冗談にしか聞こえない。俺の心中を見透かせるのか、彼女は冷たい視線を投げかけてきた。

「疑ってるでしょ」

 ずばり言い当てられ、俺は無理に笑みを作るしかなかった。

 はあ、と大きなため息。そして彼女は続けた。

「まあ信じてもらえるなんて思わないけど……。でも、これだけは覚えておきなさい」そう言って彼女は人差し指をピンと立てた。「私とあんたは運命共同体よ」

「何言ってるかさっぱりなんですけど」

「私が捕まればあんたも捕まるってことよ」

「ますますわかんねえよ」

こめかみから汗が滴るのがわかった。

「だって契約したじゃない」

「は? 契約?」

「そ」

 全く身に覚えがない。いつ契約を交わしたというんだ。彼女と出会ってからの数時間を遡ってみる――あ。思い当たる節がった。

「も……もしかしてアレが契約……?」

「そ」

 俺が「アレ」と言葉を濁したにもかかわらず、彼女は即答した。間違いない。

 あのキスが、何かの契約を意味しているのだ。

「あのなあ、契約っていうのは双方が同意のもとで成立するもんなんだぞ。俺は同意なんかしていない」

「したじゃん。名前」

 彼女がそう言うのを聞いて、俺は名前を訊かれたときのことを思い出した。

「お前名乗ってねーじゃん!」

「私は別にいいの。お姫様だもん」

 理不尽すぎる。ていうかこの少女、自分のことお姫様って言ったぞ。本当にそうだったのか。

「おい、今すぐ契約を破棄しろ!」

 俺は至極当然なことを言った。こんな理不尽な契約があってたまるか。

「無理な相談ね」

 しかし、澄ましたようにきっぱりと断ってきた。わざとらしく髪なんか払いやがって。

 体が熱くなってきたのは季節の所為か。いや、目の前の自称お姫様の所為だ。毅然とした態度で俺の言葉を待っている。それはある種の挑戦状のようにも思えた。なめられているとも感じた。やがてそれは怒りへと姿を変えていく。俺は勢いよく立ち上がり、幾ばくか声のボリュームを上げて言った。

「だったら、せめて名前だけでも教えろよ!」

 すると少女は片目だけを開け、簡潔に答えてきた。

「リリア・メルフィレッド・イグレシア」

 リリア・メルフィレッド・イグレシア……。心中で反芻する。外見から日本人ではないことは想像できたが、それではどうして、という疑問が生じる。なぜ、こんなに日本語が上手いのか。しかし、その答えは本人に聞くしかないだろう。俺がいくら頭の中で可能性を検討したって正しい答えが出るはずはないのだ。

 俺がしばし無言でいたからか、彼女は口を開いた。

「あんたとは違って高貴な名前でしょう? 私にぴったりだわ」

 得意げな顔で胸を反らすリリア姫。普段からこうしているような、違和感のない動作だったことは認めよう。

 彼女の揺るがない姿勢を見て、急激に怒りが収まった。俺の負けだ。萎れるように崩れ落ちる。ぬるくなってしまった麦茶を注ぎ足す。すると、すっと無言でコップを滑らせてくる。どうにか嫌な顔をせず、彼女のコップにも注ぐ。「氷」という言葉が出なかっただけ救いだと思うしかないだろう。

 俺は一度大きく呼吸し状況の整理を試みたが、

「……ほんとに宇宙から来たのかよ」

 そう再確認せずにはいられなかった。

「まあね」

 嘘を言っているようには思えない。信じるしかないようだ。

「わかった……。信じるよ」リリアは少しも表情を変えなかった。俺はさらに続ける。「でも、何で俺なんだ?」

「直感。ビビッと来たから」

 リリアは考える素振りも見せずに答えた。そんなもんなのか……?

「わざわざ宇宙の彼方からここに来て、それで俺なのかよ」

「欲しいものがあれば時間だって空間だって超えようとするでしょ。そういうものよ」彼女はそれが当然だという口振りで話した。理解に苦しむ。そう思ったとき、ちょっと違うかなと独り言ちるのが聞こえた。「まあ、行き着いた先に偶然使えそうなものが落ちていたら拾うでしょ。そういうことよ」

 ……まあ、それならわからなくもないが。要は偶然標的にされたということだろう。なんという不幸。嘆息をもらしかけたが、どうにかこらえる。まだまだ訊きたいことがあったので、口を開く。

「それで、宇宙人様の目的は一体何だ。地球の征服か?」

「征服? そんなものに興味はないわよ。そうね、言うなれば鬼ごっこかしら」

 このお姫様は俺の難しい顔をみたいがために言葉を濁しているのだろうか。鬼ごっこのために星を超えるか、普通。どれだけ壮大なスケールでお送りしているんだ。

 冗談であることはわかっていたので、真意を問う。しかし、彼女はあからさまに気だるいといった表情を顔からはみ出んばかりに作った。

「だーかーらあー。つまり――」

 そのときだった。一階の方からベルの音が届いた。来客だ。俺は立ち上がり、話を中断させた。

 来客は淳平だった。顔から滴る汗と荒い息遣いが、彼のこれまでの行動を物語っていた。

「おう、星吾」ドアを開けるとニッと白い歯を見せてきた。「お前を連れ戻しに来た」

 どうせそんなところだろうとは思っていた。短く息を吐き、わかったとだけ伝える。一度ドアを閉め、二階へと上がる。部屋に入ると、リリアは自分で麦茶を注ぎ足し、飲んでいた。

「俺、ちょっと学校行ってくるから」

 こいつを連れていくのは気が引けた。家においておくのも躊躇われたが、妥協した。最善は俺の前から消えてくれることなんだが……。

「わかったわ。お留守番してる」

 …………。無理か。

「帰ってきたら洗いざらい吐いてもらうからな」

 彼女は目を閉じて取り澄ましたように手をひらひらさせるだけだった。憤りがみるみるうちに込み上げてくる。それをどうにか抑えて、最後に一言。

「部屋の中荒らすんじゃねーぞ!」

 グッと親指を立ててきた。……信じられない。部屋を去ろうと扉に手をかけたところで、リリアのあっ、という短い声がした。

「そうそう、言い忘れてたけど、あんたにおもしろいプレゼントがあるわよ」

「へえ、どこ?」

「……もう持ってるわよ」

 リリアの笑顔は悪意に満ち満ちていた。


「星吾。あの女の子、一体何なの?」

 学校へと戻る道中。淳平が訊いてきた。

「宇宙人」

「は?」

 俺は鼻を鳴らした。デジャヴだ。

 俺はリリアとのやり取りをざっくりとだが、話して聞かせた。

「まじ? 騙されてるんじゃないの?」

 淳平は苦笑する。それはつまり、半信半疑ということだ。

「俺も最初はそう思ったさ。でも……」あいつの話し方を思い出す。「嘘には思えないんだ」

 右に立つ淳平はしばし俺を見つめたあと、俯き、言った。

「そっか……。話があまりにも突飛すぎてまだ完全には信じれないけど……力になるからさ、何かあったら言えよな」

 淳平は太陽にも引けを取らないくらいの眩しい笑みを見せてきた。

「……うん。ありがとな」

 淳平は本当にいいやつだ。他人が困っていたらすぐに手を差し伸べる。彼のそういうところに、みんな惹かれていくんだと思う。

 ほんの少し間があって、淳平は思い出したように顔を上げた。

「でもさ、ほんとすごかったぜ! 星吾が連れて行かれたあと、みんな騒ぎまくってたよ」

「はは……そうだろうな。タイミング悪すぎ」

「二年全員の中ってのは厳しすぎたな」

 俺はその言葉にああ、と小さく頷く。

「みんなには何て言ったらいいんだ……」

 俺は空を振り仰いで、言葉を空気中に溶け込ませるように言った。

「そうだなあ……」淳平は考える素振りを見せてから、言った。「こういうのはどうだ? 実はあの子、俺の彼女だったんです! とか」

「リア充アピールかよ。反感買うだろ」

 俺は苦笑交じりに言った。

「無難なのは……やっぱ親戚関係かな」

 それなら、と淳平。

「だよなあ。遠い親戚だってことにして事を収められればいいけど……」

 こうして俺たちは学校に着くまでの間、このあと待ち受けるであろう関門をくぐり抜けるための作戦めいたものを思案し続けた。やがて遠くの方に校門が見えてくると、不安になって不快な汗が滲み出た。

 結果として、俺たちの作戦は成功した。学校内に入ったときから、みんな俺を一瞥してきて居心地が悪かった。友人たちは俺を認めると、駆け寄って来て質問攻めにしてきた。ものすごい圧迫感。そこで、淳平の出番だ。狼狽している俺を見事に救ってくれた。こいつの力がなかったら俺は今頃……。

「あ、来た」

 前方でペンキを塗っていた綾音が、俺の姿を視界に捉えるなり言った。綾音が刷毛を置いて駆け寄ってくる。彼女に続いて近くにいた絵梨と聡太もこちらへ向かってきた。

「しょしょしょ星吾くぅん!? あ、ああああれは一体何の真似ですうううう!?」

 開口一番聡太は日本人らしくない発音でまくしたててきた。こいつは驚いたり非科学的なことに直面したりすると喋り方が変になってしまう癖がある。まあ、もう慣れているからどうってことないけど。

 ふう、と俺はため息をついた。と同時に俺の頭の中ではこの三人のこれからの言動をシミュレーションしていた。これはその結果のため息なのだ。

 俺は、この四人にだけは真実を話そうと決めていた。現に、淳平にはすでに話してある。まず絵梨は信じてくれるとして、次に、綾音はおそらく疑ってくるところがあるだろう。そこまでは大丈夫なんだが問題は……。

 両手を胸のあたりで固く握り締めるその動作は女の子っぽくて顔が引きつりそうになってしまった。大きく見開かれた目は少し赤い。聡太は鼻息を荒くして俺からの言葉を待っていた。こいつにだけは信じてもらえそうにないだろう。だが、俺はそれを見据えての決心だった。四人を人気のない連絡通路に連れて行く。聡太だけが始終子どものようにそわそわしていた。

 人が本当にいないのを確認して、俺は話し始めた。

「ぷっ……あははははははは!!」俺が話し終えたあと、場に流れていた沈黙を引き裂いたのは聡太だった。「いっ……一体何を話し出すのかと思ったら……うっ……宇宙人て……」

 聡太の笑いはなおも止まらない。目尻に光るものが見えた。

 他の三人は静かに口を閉ざしたままだった。だが、聡太の、周りの空気を顧みない笑い声に耐えかねたのだろう綾音が、聡太に粛清の一撃をお見舞いする。

「いった! 何すんだよ!?」

「あんた笑いすぎよ! 星吾が嘘ついてると思ってんの!?」

 俺は少し驚いた。まさか綾音が信じてくれるとは。

「どう考えたって嘘に決まってるだろ! 宇宙人なんかいるわけないじゃん! そんなの非科学的すぎるよ! 皆もそう思うだろう!?」

 そう言って聡太は絵梨と淳平を見た。

「わ……私も嘘を言ってるようには思えなかったなあ」

「俺も。まあ、完全に信じたわけじゃないけどさ」

 聡太は口をぱくぱくさせながら俺に視線を移した。

「……俺もお前が信じるとは思ってないよ。でも、みんなにだけは真実を伝えようって思ったんだ」

 聡太はもう一度俺たちを見回した。それからやや間があって、「嘘じゃないってことだけは信じるよ……」と言ってくれた。

 俺たちはそれぞれ顔を見合わせ、くすりと笑った。どうやら一件落着だ。

「よし、じゃあ作業に戻ろ! あともう少しだからさ!」

「お、おう! 出遅れた分やらねーとな」

「それならいっそのこと、星吾にまかせちゃう?」

「お、いい案だな。賛成だ」

「僕も」

「いっ……。勘弁してくれよぉー」


 全ての作業が終わる頃には、ヒグラシが鳴き始めていた。オレンジ色の夕日が校舎を照らし濃い陰影を作る。それはまた、一日の終りが近づいているということの知らせでもある。二学年は集合したときと同じように、もう一度グラウンドに召集された。そこで最終確認を行って、ようやく納涼祭の準備が終了となった。あとは明日を楽しむだけだ。

 俺たちは体育館脇に設えられた自販機で飲み物を買ってから、帰路に就いた。

「ふう……働いた働いた」

 淳平が一気飲みをして疲れを吐き出した。

「ほんと……帰ったら寝落ちしちゃいそう」

「私も。あ、ところでしょうちゃん」

 絵梨が何かに気づいたようだ。

「リリアちゃんって今家にいるんでしょ? 早く帰ってあげないとかわいそうなんじゃない」

 ああ、そうだ。あいつがいるんだ。俺は知らずのうちに、渋面を作っていたらしく、綾音に心配されてしまった。

「あ、いや……別に」

 俺はそう言葉を濁した。何せ今は準備で疲れてしまっていてあいつのことを話す気になれなかった。

 それからは五人無言で歩き続けた。みんなも作業で疲れたのだろう、誰も口を開こうとはしなかった。俺はというと……。絵梨の言葉が頭から離れなかった。絵梨が話したから思い出したというわけではない。ずっとあいつは頭の隅っこに居座っていた。それが絵梨の言葉によって俺の真正面へと移動してきただけのこと。

 心配していなかったわけでもなく、心配していたわけでもない。ただ、あのお姫様が気にかかっているだけ。……そのはずなんだけど……。

「あ、俺晩飯の支度しないと。スーパー寄って帰るからお先!」

 他の四人があっ、と声を上げる前に俺は駆け出した。考えるより先に体が動くってよく言ったもので、それに似た感じ。そう気づいたのは暫く走ってからだけど。

 適当な材料を買って、俺は店を出た。あいつの分も作らないといけないんだろう。そのため、いつもより手が重い。

 この時間帯の商店街は、本当に人が多い。それもそうだ、行き交う人のほとんどが夕飯の買い出しで目当ての店に足を動かしているわけだから。幅の広い一本道にもかかわらず、店先で立ち止まったり知人と出くわして急に足をとめたりする人で思うように家を目指せない。おまけに自転車なんかに乗って横に逸れる必要もあるんだから困ったもんじゃない。まあでも、こういうことには慣れている。というよりは裏技的なものを知っていると言った方が正しいか。

 俺は一本道に沿って歩を進めていたが、左へと方向転換した。路地裏へと進むためだ。商店街を抜けると今までの喧騒が嘘のように静まり返っている。それは、どこか別世界に放り込まれたような感覚……とまではいかなくても、それに似ているような気がする。早いところでは夕飯のいい匂いが鼻腔をくすぐってくる。俺も早く帰ろう……あいつのことも気になるし。俺は少し足を速めることにした。少し直進し、角を曲がるとマンションか何かの建設現場に差しかかった。その下では風に吹かれたのだろうボールを取りに小さな子どもが走っていた――。

 これは神の悪戯だろうか。いや、悪魔の冷笑だろう。俺はそれをどこかで勘づいていたところがあった。剥き出しの鉄骨に立てかけてあった鉄のパイプが、少年に襲い掛かる。俺があっと声を上げるのと同時に、彼も気づいたらしくうしろを振り返る。しかし、そのまま動かない。いや、動けないのだろう。足がわなわなと震えていた。

 気づけば俺は地を蹴っていた。間に合ってくれ。その一心で足に力を込める。

 不思議な感覚だった。今までに感じたことのない感覚。時間の速度がゆっくりと減速していくような……。

 俺は少年をかばうと、体全体に力を入れた。そうすることで倒れてくる鉄パイプの衝撃を和らげようとした。が、それが功を奏したのだろうか。痛みを全く感じない。と、耳を聾するほどの音が響いた。鉄パイプが激しく地面に叩きつけられた音だ。そう理解すると、俺は訝った。閉じていた目をうっすらと開ける。俺の左右には紛れもない鉄製のパイプが散乱していた。一体どういうことだろうか。あれは間違いなく俺の背中に直撃するはずだった。それなのに、俺を避けるかのごとく、二方向に散らばっている。俺はその体勢のまま暫く考え込んでいたが、子どもの泣き声を聞き、我に返った。

「お、おい……もう泣くなよ。大丈夫だから」

 子どもを離し、頭を撫でる。しかし、一向に泣き止まない。どうにか宥めようとしていると、遠くから母親らしき人がやって来た。他にも、パイプの音を聞きつけたのだろう近所の人たちも集まってきた。大事になりそうだなと困り顔をするも、覚悟を決める。

 ことの一連を説明して、その場は収まった。子どもを無事に守ったことで母親からは何度も頭を下げられていたたまれない気持ちだった。それから俺は帰路に就いたわけだが、買い物袋の中身が心配だった。飛び出すときにそれを投げ捨ててしまったため、食材が悲惨な状態に……。ふう、どうやら無事みたいだ。

 全く何の仕打ちだっていうんだ。俺が何かしたとでもいうのか。昼には自称宇宙人が現れるし、ついさっきは大惨事になりかけた。せっかくの夏休みの貴重な一日が不幸の連続って……。あっていいものか。

 俺は不満を募らせつつもどうにか自制し、いち早く家を目指した。


「ただいま」

 誰もいないわけではないから、一応。かと言ってあのお姫様が「おかえり」なんて声をかけてくるとは到底思えない。

 予想通り、返事はなかった。むしろリリアとかいう少女は夏の幻想でもあったかのように、家の中は静まり返っていた。

 俺は鞄を下ろし、洗面所に向かった。今日は本当に疲れた。だが、まだ一日は終わらない。最後の仕事が残っている。手を洗ってうがいをして、それから台所へ。米を砥ぎ、セットする。そして今日の夕飯の下準備を始める。両親の仕事が多忙なため、家事のほとんどはこなすことができる。とりわけ料理の方には自信というか、やりがいを感じている。昔、両親に褒められたのが大きな要因なのではと思っている。この夏、二人が帰って来たときも手料理を振る舞った。二人は口をそろえて賛辞を送ってくれた。そのとき、父さんは料理人になれよだなんて酒の力で舌が回っているのをいいことに変なこと言い出すし……。

 料理を仕事にするのは少し違うかな、というのが俺の意見。言ってみればこれは趣味に分類される。そう、これは単なる趣味なんだ。

 下準備が終わったところで、俺は額の汗を拭った。

 壁にかかった大きめの時計を見ると、もうすぐ七時前だ。もうこんな時間か。とりあえずリリアの様子を見に行こう。俺はあいつがやけに静かなのに嫌な予感を覚え、自分の部屋に行くことにした。階段を登って最初の部屋。そっと扉を開けると――。

 ヒグラシの声を乗せた穏やかな風が、カーテンを翻していた。ほとんど暮れかかっている太陽の残り火が部屋を染める。その眩しさに目を細めて、部屋を見渡すと……。俺は落胆した。これから何事もなく一日を終えるつもりだったのに、このお姫様はものの見事にやらかしてくれた。

 犯罪だ。まあ確かに、友人の部屋に上がり込めば部屋の中をわけもなく漁るということはよくやったが、これは紛れもない罪だ。俺が警察に部屋を荒らされました、空き巣ですって報告すれば確実に逮捕してくれるだろう。窓が全開で、吹き込む風によってなびくカーテンは先ほど感じたものとは違い、どこか寂寥感が漂っていた。カタカタと音を立てる扇風機の音も儚げだ。

 許さない。これは一発言ってやらねば。俺は大きく息を吸い込み、雷を落とそうとしたのだが……。

 すーすーと小さな寝息が耳に入ってきた。喉の近くまで来ていた怒りをグッと抑える。

 リリアは、ベッドに横になるのではなく、ベッド脇に背を預けるようにして寝ていた。だからどうしたというわけではないが、その姿を見ると怒りが消え去っていく自分がいた。代わりに大きなため息をつき、起こさないように彼女のところまで行く。散乱した本やゲームを踏まないように気をつけながら。そして、ベッドの片隅においやられてあった掛け布団を取り、彼女に掛けようと近づいたときだった。パッと目を開けると俺と目が合った。きょとんとしたその表情からはなぜか目が離せなかった。周りの時間が止まり、世界が俺たち二人だけのように感じられた。彼女の瞳はしっとりと濡れていてきれいだ。見ていると吸い込まれそうになる。

 と、俺がそのままで瞬きせずに彼女を見つめていたのが原因なんだろう、眼前のリリアはこめかみの血管を浮き上がらせ、怒りをはっきりと露わにした。その刹那、俺は冷や汗が滴るのを感じた。

「あ、いや……その……布団、かけようと思っただけで……。別に俺はあっ……!!」

 必死に弁明した努力もむなしく。俺は平手打ちという会心の一撃を食らってしまった。自分でもいい音だなあ、と思ったのが最後、そのままノックダウンした。もう……起き上がりたくない。このまま深い眠りに……。

「バッカじゃないの!? この変態!! 訴えるわよ!!」

 そう思ったが、リリアの怒号がそうさせてはくれなかった。焦点の定まらない目で彼女を見ると、俺から奪った掛け布団で体を包み、防御姿勢をとっていた。喚き散らしたいのはこっちの方だ。部屋をこんなに荒らしやがって。全く……。どうせ片付けるのは俺なんだから手間を増やすなっての。重い体に鞭打ってどうにか起こす。はあ、とため息。……って俺は今日一日で何回ため息ついてるんだ。

「あのなあ……」俺は再び込み上げてきた怒りを抑えようと小さな声で話し始めるつもりだった。だが、無理だ。「一体これはどういうことだよっ‼ 部屋漁るなって言っただろ⁉」

「うっさいわね! 部屋がどうぞ姫様漁ってくださいませって言ったのよ!」

「はあ⁉ ふざけんな! 言い訳も大概にしろよ!!」

「何よ! あんたこそ私が寝てるからって襲おうとしたくせに‼」

「だっ、だから違うって言っただろ! 俺はお前が風邪ひいちゃいけないと思ったからで――」

「あーあんたの言い訳なんか聞きたくない‼」

「なんだと……⁉」

 それこそ目から火花が飛び出し、お互い自分が正しいの一点張り状態だ。両者とも一歩も引く姿勢を見せないままときが流れる。目を外せば負け。向こうもそう思っているのだろう、俺から一瞬たりとも目を逸らさない。俺も穴が開きそうなほどにリリアの整った顔を睨む。

 と、出し抜けにこの緊迫した場にそぐわない音が響いた。いや、鳴ったと言った方が正しいか。その音はたいそう間が抜けていて、鳴らした本人は少なからず羞恥心を抱くものだ。眼前のリリアでさえも冷や汗を流し、頬を紅く染めていた。そして、その両手は自分の腹部を抱え込むようにして押さえられ、苦りきった表情からは「どうして今鳴るのよ!」と心中で自分自身を咎めているのが一目瞭然だった。

 そんなリリアの姿を見ていると、先ほどまでの怒りが完全に消え失せていた。俺は笑っちゃいけないと思いつつも、それをとめることができず、吹き出してしまった。

「なっ、何笑ってんのよ!」

 俺が破顔したことでさらに顔を紅くしてリリアが吠えた。

「いっ、いやごめん。何でもない。夕飯にするか?」

 俺はそう提案したんだが、リリアの方はまだ納得がいかないらしく、怒りメーターが限界値を超えるんじゃないかというほどまでに顔を紅くしていた。そしてリリアは深呼吸して、一言。

「……お風呂」えっ? と俺が訊き返してからすぐに、今度は大音量で復唱してきた。「お風呂入る‼」


 リリアが風呂から上がってきたときにはすでに外は闇に包まれていた。俺はリビングで夕飯の準備をして待っていた。今夜はカレーだ。来客時には無難なチョイスだとは思うが、こいつには適用外だ。何せ宇宙から来た人間なんだからな。とは言っても、じゃあ他の料理を作ったところで彼女にとってはどれも珍しいに決まっている。だから一般論的に考えてカレーなのだ。

 俺の服は嫌がるだろうと思い、母の服を貸した。それに身を包んだリリアがすたすたとテーブルに向かって歩いてくる。いつも使っているシャンプーの香りなのに普段より甘い香りが漂ってくる。なぜだろう……。

 リリアは、カレーという料理を見ても大した反応を示すことはなかった。向こうにも似たようなものがあるのだろうか。

 と、リリアはいきなりスプーンを手に取った。だから俺はストップをかけた。地球、ひいては日本を生きる人にとってのマナーである「いただきます」を教える。

 ほんの少しのお預けを食らっただけなのにリリアは顔を歪ませる。本当にわがままお姫様だ。

「い……いただきます」

 俺はリリアの第一声を待った。何だかそれを聞くまで食べる気になれなかった。

「お……美味しい」

「だろぉ!?」

 嬉しさと照れくささで笑顔が変になっていたかもしれない。これでやっと食べられる。

 しかし、俺があまりにも嬉しさを滲ませて言ったのがいけなかったのか、リリアはすぐに、「ま、シェフでもない素人にしては上出来なんじゃない」という上からの感想へと変えてきた。それでも俺は空腹だったから気にせず食べ続けた。


「ふう……」

 結局リリアは三杯もおかわりをした。おかげで明日の分が尽きてしまった。それでも満足してもらえたことに変わりはないので、よしとしておこう。

「それじゃあ昼間訊けなかったこと、答えてもらおうか」夕飯後、俺たちは自分の部屋へと場所を移し、テーブルを挟んで向かい合っていた。こいつからはまだ訊かなくちゃいけないことがある。「お前の目的は何だ? 昼間は鬼ごっことか言ってたけど、本当は何なんだ?」

 リリアは麦茶をゆっくりと下してから、口を開いた。

「そのままよ。私、追われているの」

「は?」

 昼間のときみたく澄まし切ったように言ってきたが、俺は何か重大なことではないかと直感した。

「これ」

 いつ忍ばせたのだろう、リリアは服のポケットから球体を取り出した。リリアが橋の上で取り出していたものだ。それはゴルフボールよりも一回り小さいくらいの大きさだった。円周は濃紺で、中心に向かって色が明るくなっている。そして、中央は数多の星を閉じ込めたみたいに煌めいていた。

「スタールと呼ばれる宝玉よ」

「スタール……」

「そう。別名『星の封玉』。私はこれが何者かに狙われていたから守ろうとした。だけど……」リリアはそこで一度言葉を切った。それから真剣な声色に変えて言った。「それが相手の罠だった」

「罠?」

「ええ。犯人は私がこれを盗んだように見せかけたの。おかげで私は犯罪者。相手の罠にまんまと引っかかったってわけ」

 肩を竦めるリリア。だが、俺には理解できないところがあった。

「でもさ、だからって自分の住んでいる星から離れなくてもよくないか? 何もそこまでしなくても――」

「そうもいかないのよ。まずこれはエルミナンド王国の秘宝なの。そして私は……その国王の娘なのよ。王の娘である私が、そんなものを盗んだってなったらパパが失墜するのも時間の問題だわ。犯人は……きっとこれを狙ってたんだわ……」

 そう言うとリリアは己の唇をきつく噛んだ。相手の罠にはまったのが許せなかったのだろう。

「もし私が国に残って拘束されてたらパパはもっと早くに王の座を奪われていたはずよ。だからこうするしかなかったの。できるだけ遠くに離れて、時間を稼ぐつもりだった……」

だった、という表現に俺は違和感を覚えた。それが顔に出ていたのだろう、リリアは俺に答えを示してくれた。

「犯人たちから逃げるときに、攻撃を受けてしまったの。それは魔力封じと呼ばれる魔法で――」

「ちょ、ちょっと待った!」

 ? 話が逸れていないか? 魔力封じって何だよ。魔法って何だよ。眼前のお姫様はファンタジーワールドから来たっていうのかよ。思考の糸が絡まってしまわないように整理する。「あ、あのさ、念のために訊くけど、お前……ゲームの中から飛び出してきたとかじゃないよな?」

「は? そんなわけないでしょ。こんなときに冗談言わないで」

「……ごめん」

 ……何で俺が謝ってるんだ。あまりにも信じがたい話だが、もうこの際何だって信じてやる。俺の正面にいる少女は宇宙から来た魔法使い。どこぞのファンタジー作品だよ。しかし、これは紛れもない現実だ。夢なんかじゃない。

 どうにか整理のついた俺は話を再開させた。

「で、お前は魔法使いだけど、相手の魔法にやられて今は魔法が使えないと……。そういうことでいいんだな?」

 リリアは言葉を発することなく、代わりに茶目っ気たっぷりのウィンクを投げかけてきた。やられてんのに何ウィンクなんかしてんだよ。一つため息をつき、「どうすんだよ、もし敵が攻めてきたら打つ手なしじゃん」と付け加える。

「だからそのためにあんたが――」

 その続きは突如として炸裂した破砕音によってかき消された。ガラスの割れる音。一階からだ。今しがた非現実を受け入れる覚悟をしたはずなのに、俺はパニックを起こした。しかし、そんな俺をよそに、リリアはいたって冷静だった。

「……来たわね」リリアは声を低くしてそう呟いた。「星吾! 一旦逃げるわよ!」

「はあっ⁉」

 どうやって逃げるんだよ。ここは二階で、外に出るったって靴は玄関だし、逃げ場ないだろ……。いかにして逃げようかと思考を巡らすも完全にパニックに陥っていて空回りだ。

 俺が何もできずその場に立ち竦んでいると、リリアが手を掴んできた。そのまま窓の外へ――。

「ちょっ、ちょっと待てよ‼」俺の行動にリリアは完全に辟易しているようだった。しかし、俺はお構いなしに言い放つ。「いくら屋根があるからって飛び降りたらただじゃ済まねえだろ⁉ もっといい方法ねーのかよ‼」

「はあっ⁉ あんたまだ使ってないの⁉」

 リリアが話の脈絡に沿わないことを言うから、俺は「何の話だよ⁉」と言うと、「だからプレゼントあげたって言ったでしょ! 魔法のことよ」と返してきた。

「魔法……?」

 まさか……そんな。俺が魔法を使える……?

 そのときだった。勢いよくドアが弾け飛んだ。その衝撃で部屋の明かりが消えた。

「やっと見つけたぞ……」低く、掠れた男の声。それは若干機械で声を変えたように無機質なものだった。「さあ、スタールを返してもらおうか」

 闇に包まれていて相手の姿がよく見えない。リリアは穴が開かんばかりにその闇を凝視する。何かを探るような眼差しだった。

 突然、リリアの胸ポケットがほのかに輝き出した。リリアは刹那だけ目を落としたが、すぐ闇へと戻した。

「そう、それだ。スタールを早くよこせ」

 リリアは闇を睨むと、叫んだ。

「誰だか知らないけど、あんたの狙いはわかっているのよ!! 私をはめて国を落とすつもりでしょ!! そうはさせないわ!!」

「はははははは‼ 何を言うかお姫様。我々は国王の命令の下に動いているのでありますぞ? スタールを渡さないのなら――殺せとも仰せつかっている!」

 その瞬間、顔は見えなくとも目の前の男が笑んだのがわかった。しかし、それは悪意に満ちた笑み。悪寒が走る。

「やれ」という命令が聞こえるのと同時に、リリアが叫んだ。

「星吾! 私を抱いて、脚に力を込めるのよ。さあ早く!」

 もう躊躇などしていられない。俺はリリアを抱きかかえた。そのまま窓下の屋根に降りる。意を決し、道路へと飛び降りた。不思議な感覚。リリアを抱いている分体が重くなっているはずなのに自分の重さすら感じなかった。まるで、鳥の羽にでもなったかのようだ……。

雪片が降り落ちるかのごとく、俺は軽やかに着地した。そのため、地面からの衝撃はなかった。

 これが……魔法の力……?

 家を振り仰ぐと、月光に照らされた敵の姿があった。敵は四人。だが、全員黒いマントで身を覆っていて顔がわからない。

と、やつらは掌を俺に向けてきた。すると、そこから光の玉を発現させ、撃ってきた。

「うおっ⁉」

 もう一度脚に力を込めて地を蹴る。地面が少しえぐれたような感じ。俺は一心不乱に疾駆した。

「星吾もっと速く! 追いつかれちゃう!」

 リリアが俺を見上げて言ってきた。

「うっせえ! こっちは魔法使うなんて初めてなんだよ! お前がもったいぶらずに言ってりゃ練習する時間もあったろうに!」

「何よ私の所為⁉」

「あーわかったから少し黙ってろ!」

 うしろを振り返る。敵は各々屋根を伝って追って来ていた。やはり本物の魔法使いだけあって動きが速い。このままでは追いつかれてしまう。どうしたものか……。

 そうだ、あの場所なら……。風を切っている所為か、脳が冷やされたおかげで、混乱から脱した俺は一つの考えに辿り着いた。このまま逃げていても追いつかれるのなら一か八か賭けてみるしかない。

だからせめて、目的の場所に着くまでは耐えてくれ……。

「しつこいやつめ……」

 冷たさに満ちた声が聞こえてきたとき、敵との距離はさらに縮まっていた。

「くっ……」

 もう目の前だ。あと少し――。

 しかし、俺が柵を飛び越えようとしたところで、敵の攻撃が足許を襲った。地面が穿たれ、その衝撃で俺たちは宙を舞った。だが、そのおかげで俺たちは敵との距離を離すことができた。危なっかしいが、何とか着地に成功。リリアを下ろし、呼吸を整える。

「ばかっ! 追いつかれちゃったじゃ――」

「おい、リリア……。戦い方教えろ」

「はあっ⁉ 何言ってんのあんた!」

「俺の足じゃあいつらを撒けねえ。だったらここで倒すしかないだろ! いいから早く教えろ!」

 俺たちが観念したと見たのか、敵はゆっくりと近づいてきていた。

 それを見たリリアもついに覚悟を決めたらしく、俺に手招きしてみせた。顔を寄せ、作戦を聞く。

「……わかった。隙を作ったらお前があいつらを仕留めてくれ」

「まかせなさい」

 圧倒的にこちらの方が不利だというのにリリアは不敵な笑みを浮かべた。

 俺が戦いの場に選んだのは家から少し離れたところにある広めの公園だった。敷地面積は大きいが、遊具は少なく、戦闘を行うには差し支えないだろう。辺りに人の気配はない。なるべく静かにことを終わらせたいが、そこまで気を配る余裕はない。敵に神経を集中させる。

「くくくっ……やっと降参する気になったか。鬼ごっこも終わりだ」

「どうかな。果たして本当の鬼はどっちか……」

「何ィ……?」

 俺は数回小さく跳ねてから、敵の懐目指して飛び出した。俺の動きを予期していなかったのだろう、須臾の間だけ隙ができた。しかし、それで十分だった。敵が手から炎を出してきた。俺は速度を緩めることなく、ギリギリのところでそれをかわす。そして、一番近くにいる敵に向かって拳を繰り出そうと右手に力を込める。だが、それはフェイントにすぎない。直前で拳を開き、強く念じる。すると手中に白い光の玉が現れた。俺はそれを力の限り握りつぶした。途端、握った手の間隙から眩い光が炸裂。そう、閃光弾の役割だ。敵を貫こうかというほどの光が相手の視覚を奪う。どうやら上手くいったようだ。敵四人は、目元を押さえて悶えている。

 ここでリリアの番だ。俺が閃光を放ったと同じタイミングでリリアは敵目指して駆けていた。俺が横へ移動し、リリアが飛び出す。敵はなおも視野を奪われているため、リリアの姿を目視できないでいる。リリアは黒マントの胸元右側、心臓部に手をあて何かをつぶやいた。それが何なのか俺には分からないが、とにかく敵には有効だった。

 中央の敵が突然跪き、ばたっと倒れた。リリアは次々と不可解な言葉を発しては敵を制圧していく。

 順調に最後の一人となった。リリアが敵に近づき、これで一件落着かと安堵しかけたときだった。俺は直感した。こいつは、「ふり」をしているだけだ!!

 そんなことは露知らず。リリアは相手に手をかけようとする。

「避けろリリア‼ 罠だっ!」

 俺は敵に向かって疾駆しながら叫んだ。俺の鬼気迫る声に反応したリリアは敵を見据える。敵は右手をリリアの頭に向け、光の弾を撃ちこんだ。眉間を貫通するかと思われた光弾は、リリアの背後の地面を穿った。

 弾が撃ち込まれる直前、俺は敵の顔に拳を叩き込んでいたのだ。その衝撃で敵の攻撃はリリアの首元をかすめるだけにとどまった。

魔法の力を借りて常人よりも力を増した攻撃を受け、敵は数メートル地を転がった。リリアが素早く追随し、ピクリとも動かない敵に一言呟いた。

 先ほどまでのやり取りが嘘のように辺りは静かだった。

「終わったのか……?」

「ええ、何とかね」

「ふう……」

 俺はその場に崩れ落ちた。張りつめていた神経が弛緩していく。手が小刻みに震えている。俺はリリアに嘲笑されるのではと恐れ、どうにか見せないように取り繕った。

「ま、初めてにしてはよくやったんじゃない?」

「へっ、よく言うぜ。最後相手の策にはまりそうになったのはどこのどいつだ?」

「なっ、なによ! あれはあんたを試したわけであって……その……だから……」

 闇が落ちているというのに、リリアが頬を真っ赤に染めるのがよくわかった。俺はその仕草がおかしくて盛大に吹き出した。すると、リリアはさらに顔を真っ赤にする。

「ばか! もう知らない!」

 やっぱこいつ、典型的なツンデレだな。いや、デレはないか。

 ひとしきり笑ったあとで、俺たちは敵の正体を確認することにした。

 顔を見ようとして黒いマントを取り払うと、俺は絶句した。

「やっぱりね」

 どうやらリリアはからくりを知っているようだった。

 そこに、顔はなかったのだ。今更気づいたんだが、いつの間にかマントに厚みが消えていた。一体どういうことなのか。

 と、リリアはもぬけの殻となったマントに手を入れ、何かを探し出した。

「あったわ」

 リリアはひし形のクリスタルらしきものを見せてきた。それは五センチくらいの大きさで赤い色をしていた。

「これは傀儡魔法と言って名前の通り傀儡を操る魔法よ。この魔法の強みはわかるとは思うけど、本体が危険な前線に出ることなく敵を攻撃できるところ。でも弱点は、傀儡の解除方法である呪文なの。そしてこれよ。これはコアと言って、これに魔法をかけることで傀儡が動くシステムになっているの」

 そう言ってリリアはコアと呼ばれた四つのクリスタルを握りつぶしていった。雪のようにあっけなく粉々になったコアは、煌めきながら地面に落ちていった。

 なるほど、リリアが呟いていたのは呪文だったのか。だが、どうしてリリアは呪文を使えるんだ。それに、どうして黒いマントの敵が傀儡だと気づいたんだ。俺は疑問を呈する。

「私にもよくわかんないけど、本来備わっている魔力って完全には封じることはできないみたいね。それから、どうして傀儡だと気づいたのかだけど、それは敵の顔が見えなかったからよ」

「それだけのことで?」

「ええ。解除方法を知っている私に、傀儡だと気づかれたくなかったわけね」

「だったら傀儡じゃなくて操ってる本体が捕まえに来ればよかったんじゃねーの?」

「だから言ったでしょ。傀儡を使うのには、前線に出たくない、自分の姿を見せたくないっていう理由があるの。それに、私は魔法が使えない身だから傀儡で十分だと思ったんでしょうね、きっと。まあ、私が魔力を他の誰かに移したとは誰も想定していなかったみたいでよかったわ。でも、それもこの戦闘で明るみになってしまったかもしれないけど」

 俺が怪訝な表情をするのを察してリリアは続けた。

「傀儡魔法の利点は他にもあって、傀儡を通して視覚と聴覚を共有できるの。つまり、相手にはあんたのこともすでに筒抜けだってことになるわね。よかったじゃない」

「よくねーよ! それって要するに俺も命を狙わる立場になったってことじゃねーのかよ!?」

「だから言ったでしょ。あんたと私は運命共同体だって」リリアはそう言ってウィンクをしてみせた。怖い。敵より怖いぞ、こいつ……。「まあそれはともかく、敵の長所は弱点でもあるってことよ。傀儡は四体だから術者は四人分の視野を共有している。だから私はあんたに閃光を放つよう言ったのよ。相手は四体だから、四倍となって光が術者を襲うってわけ。まあこんなところかしら」

 リリアは一通り説明し終えると立ち上がった。だが、すぐに何かに気づいたようで地面を凝視し始めた。長い髪が視界を覆わないように耳元の髪をかき上げる。何かを探しているようだ。

「あっ、見つけた!」

 程なくして、リリアは黒い輪を持ってきた。リリアの首に巻かれていたものだ。バチバチと切断された部分から火花が飛び散っていた。

「それ、何?」

「簡単に言えば追跡装置よ。これを装着された人は位置がバレちゃうの。だからあいつらは私たちの居場所がわかったのよ」

 なるほど、こいつと出会ってから少々疑問に思っていた謎が今解けた。お姫様の衣装と呼ぶにはそぐわない感じの黒いリングは、敵から受けたものだったということか。それが今、偶然にも先刻の戦いではずれたというのは幸運に尽きるのではないか。

「へぇ。じゃあさ、壊れてよかったじゃん。これでもうバレないだろ?」

「そうかもしれないけど、一度ここまで来てしまっている以上あいつらも範囲を絞って探せるわけだから……時間の問題ね」

「そっか……」

 またあんな戦いをしなくちゃならないのか。勝てたとはいっても、それはリリアの力があってだ。単独で勝てる自信など微塵もない。

 そもそもこんな戦闘を続けていたら周りに危害が及んでしまう。現に俺ん家だって……。

 俺ん家……?

「ああっ!!」

 夜の静寂を打ち破らんばかりの大声で、俺は吠えた。

「なっ、何よ。いきなり。うるさいわね」

 リリアは眉間にしわを寄せて迷惑そうに言った。

「俺の家……」

 俺の顔から血の気が失せていく様を、リリアは素知らぬふうに見ているだけだった。


「わあ、ひどい有様ねぇ」

 どうしてこのお姫様は家がこんな状態なのに楽観的でいられるのでしょうか。

 リビングの窓ガラスは、それはそれは空き巣でも入ったときのように割れて、破片がそこらじゅうに散らばっていた。……実際は空き巣以上に厄介なやつらに壊されたというのが真実だが……。

 迂闊に歩くと足を切りかねない。俺はリビングをあとにし、自室へと向かう。そこもひどい様相だった。敵の攻撃でドアが真っ二つに折られ、俺の机の上に乗っかっていた。部屋の中央に置いてあったテーブルもへし折られ、壁には穴が開き、夢であってほしいと願わずにはいられない。……でも、これが紛れもない現実なんだ。意識は恐ろしいほどに鮮明だ。

「ねえ、別にそんなに落ち込むことないじゃん」

 俺の落胆っぷりを見て、リリアは言った。こいつは一体何を言っているんだ? 慰めのつもりか? だとしたら全然慰めになってないんですけど。

「はあ!? 家がこんなにされて、平常心でいられるかっての!! 一体どうすりゃいいんだよ……」

 俺はがっくりと肩を落としながら言った。すると、リリアが驚くべきことを言い出した。

「魔法、使いなさいよ。あっという間よ」

「え」

「だーかーらぁ。魔法使えば家は元通りになんの。ほら、元の家を強く思い浮かべてみなさいよ。特に、壊れてしまった部分をね」

 なるほど、その手があったか。……しかし、打開策を見つけたと思ったがそれはあまりにも非科学的な方法だ。魔法で家が直る? そんなことできるのか? 聡太ほどではないが、さすがに信じられない。

 俺はしばし逡巡した。しかし、考えてもより有効な手段が思い浮かばなかったためリリアの言う通りにすることにした。

「……わかった。やってみる」

 俺はその場に座り込み、目を閉じた。そして元の家の状態を強く思い浮かべる。

 直れ、直れ、直れ。

 一心にそう念じる。すると、いつしか感覚という感覚が鈍くなっているのに気づいた。そしてどこか浮遊感もある。少し気味が悪くなったからゆっくりと目を開けると――。

 そこには念じた通りの光景が広がっていた。折れた扉もテーブルも、窓ガラスだって元通りになっていた。

「…………嘘…………だろ」

 眼前の光景が信じられなくて、俺はそう言葉を漏らすしかできなかった。

「まずまずってところかしらね」

 そう言ってリリアは、きれいに置かれた座蒲団に座った。そして、目で訴えてくる。俺は理解の追いつかない脳のまま、麦茶を取りに行った。

 まさか本当に直るとは。目の前でお茶を飲み干すリリアに目もくれず、俺は両手を見つめていた。

「何もそんなに驚くことないじゃない。これからあんたは私を守らなくちゃいけないんだから、とっとと慣れなさいよね」

「急に言われてもなあ」

「さっきは上手いこと使ってたじゃない」

「あれは本当にヤバい状況だったからであって……」

「まあいいわ。私は疲れたからもう寝るわ。おやすみなさい」

 どうも調子が狂う……。でもこういうやつだから仕方ないか。

 俺はそう結論づけると、一日を終えることにした。立ち上がり、ベッドに向かうと――。

 そこに横になっているリリアと目が合った。そのまま数秒が経つ。

「あんた、私を襲おうっていうの?」

「は?」

「ここは私の場所。あんたは廊下とかで寝れば?」

「いや、そこ俺の――」

 ……その先はリリアの殺気に満ちた目によって閉ざされてしまった。歯向かうとろくなことがないから、我慢して部屋の隅に置いてあるソファに向かった。だが――。

「あんた何しでかすかわかんないから、寝るときは別々の部屋でお願いするわ」

 ……………………。

「勘弁してくれええええええええ!!」


 こうして、俺の数奇な夏が始まった。わがままお姫様と過ごす、最高で最悪な夏が……始まってしまった。

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