年越しに地球上にいなかった男。

障子破り

自殺志願者の行列



「君が居れば我が社は立て直せる!」

 社長に自信満々にそう断言され、潰れそうな会社に残っていたが呆気なく倒産した。

 社長の表情は真剣そのもので、断ることすればこちらが悪いのではないのかと思うような眼差しだった。まあ、倒産してしまえばそのような自信など無意味にも等しいのだが。

 そんなお人よしで馬鹿とも言える男、雨笠は廃病院の屋上に立っていた。

 この病院は階層が多く、この街で最も広い範囲を見渡せる大型建設物だ。

 日付は十二月三十一日土曜日。時間は十時三十五分。こんな日、こんな時間にこんな場所へやって来た意味は一つしかない。

――自殺しよう。


 彼は非効率な男だった。だからこそ、このような結果に陥ってしまった。もう少し効率よく生きていれば、関西圏にある関関同立は愚か、京大にだって入る事の出来るボーダーに居ただろう。けれど、彼は入学費・授業料が半額になると言う理由のみで推薦を使って、近場の学力があるとは言い難い大学へと入学した。その先でも彼は、余り効率的に生きる事が出来なかった。融通が利かず、次第に他人から距離を測られていった。

「俺は普通にしているだけだと言うのに、何故こうも他人は離れていくのだ」

 そう思ったのは一度や二度の事ではない。自分に非があるとは思わず、廃病院を訪れた今も結局解らないままである。

 真面目過ぎた。

 だからこそ、息苦しい世の中だった。

 倒産した会社には特に志願して入った訳ではない。全てがどうでもよくなり、流されるまま生きていると、いつの間にか入社試験に受かっていたと、それだけの話である。真面目に生きていた、真面目に学問を身に付けていた彼は幅広い範囲の事が出来たが、宝の持ち腐れである。少ない給料と弱小企業の大型新人と言う特に嬉しくもない称号を貰い、引き換えに週休一日で三年間働き続けた。

 馬鹿げた話だ。それは働いていた時から解っていた。今俺は一体何をやっているんだと、何度自問自答したものか。結局答えは出なかったし、転職する気力すら湧いてこなかった。

 寒い筈だ。吐く息はしっかりと色付いているし、手も悴んでいる。しかし、不思議と寒さは感じない。


「あんたも自殺志願かい?」

 彼の前に立っている男が聞いてきた。雨笠は呆気に取られる。そんな彼を無視して、雨笠に背を向けて立っている男は、顔だけ向けて更に口を開く。

「この時期は毎年多いからさ、志願しても通らない時多いんだよなあ。ここを逃したら馬鹿馬鹿しくなって数日経ってから志願しなおすって奴も少ないし。おれなんて三年連続落ちてるぜ」

 男は寒さに震えているのか、歯を鳴らして笑う。

 その男の前には何百万、何千万と言う行列が出来ており、雨笠はその一番後ろに並んでいた。けれど、数秒すると一人、また一人と彼の後ろに並ぶ人が増えていく。これは――

「え、なんで、え?」

 雨笠は動揺を隠せず、ただただ錯乱する。どう言う事だ。

 周囲を見渡すと、そこは既に廃病院の屋上などではない。ただただ黒く、しかし見晴らしのいい空間が続いているだけだ。

「そりゃ、志願した全員が受かる訳ないだろ? お前就職活動とかした事あるの?」

 男は再び、がちがちと歯を鳴らした。

 彼は雨笠よりも数歳年下のようだが、しかしこの空間に於いて前方に並んでいる人々よりも、彼は余裕と言わんばかりの雰囲気を醸し出していた。

「そうなの?」

 雨笠が問うと、男は余裕のある表情でおう、と短く答えた。

「そりゃ、閻魔天だって仕事の量が半端じゃないだろう。なんたって地獄の主なんだからよ」

 地獄。

 男は確かにそう言った。

「今年は一段並んでる人数が多いけどよ、どうせこの中で志願通りの結果に行ける奴なんて千もいねえだろうな」

「千もいない? たったそれだけなのかよ!」

 そう叫んだ瞬間、周囲に並んでいた人間が雨笠の方へと注目した。それと同時に、この空間に適応出来ている自分に気が付き軽い吐き気を覚える。

「落ち着けって。今日に人が集中し過ぎてるってだけだよ、なんたって、今日は年末だからなあ」

 お前もここも、そして俺も。一体何なんだよ。そう声には出さずに呟く。

「あんた名前はなんて言うんだ? 俺は井出って言うんだけど」

 口を押さえていると、正面に立つ男はそう名乗る。雨笠は、自分の苗字のみ口にして、膝に手を乗せ、身体全体に圧し掛かってくる疲労感に耐える。地獄って、どういう事だよ。

「雨笠、雨笠か」

 井出は何度か彼の名前を復唱して、何度か唱えた後、雨笠へと向き直し、彼に向かって口を開く。

「お前さ、何で死のうと思ったんだ?」

「はあ?」

 雨笠は少々高い声を出す。表情が歪み、明らかに不愉快そうな表情を示した。

「死にに来たのに何で自分の事を話さないといけないんだよ」

 すると井出は、また歯をがちがちと鳴らして笑った。

「そう怒るなよ。暇つぶしさ、こんだけ並んでいるんだ。後一時間は掛かる」

 一時間しか掛からないのかよ、と思ったが、それは口には出さない事にした。井出が言う事が全て正しいとすれば、言うなれば雨笠は自殺初心者だ。この空間に関しては余り口を出さない方がいいだろう。それに、今でもここが夢だと思っている。絶対に不可能で不可解な空間に突然導かれ、しかし自分の中ではそこにしっかりと整合性を維持しているのだ。こんなに可笑しい事はないだろう。

 いつの間にか、雨笠の後ろには果てのない程の人が並んでいた。

「おれは――」

 井出は自分語りを始める。人生最後になるかもしれない相手の話だ。聞いてやろう。そう思って、雨笠は相槌を打つ準備をした。

「女に振られたんだ」

「はあ?」

 しかし雨笠の口から出たのは、先程己が発した音と全くずれのないものだった。それでも、井出は構わずに口を動かし続ける。

「三年前にさ、女に振られたんだ。将来を約束した女だったんだが、付き合い始めて五年でよ、浮気されたんだ」

「…………」

 真剣に語る井出の表情を見て、雨笠は皮肉の一つも言えなくなる。

 不幸自慢として聞けばそれなりに同情出来るものだが、自殺する理由としては三流以下だろう。

「……だから三年連続で落とされてんだろ」

 雨笠が辛うじて放った言葉を井出は受け止め、再びがちがちと歯を鳴らして笑った。寒いのか、それともそうする癖があるのか。

「そうなんだろうな」

 井出はどこか、寂しそうな表情を見せる。

 その表情をどこか引き摺ったまま、彼は雨笠に問う。「じゃあ、お前の番。お前は何で自殺を志願しているんだ?」

「俺は――会社が倒産したんだ」

 すると突然、井出は噴出した。歯を鳴らす事なく、今度は息と声だけで。

「ふっはははははァ! おまっ! あほかッァっはははははははははは!」

「はァ!」

 顔を歪めて井出を睨み付けるも、尚も彼は笑い続ける。

「何でそれだけで死のうと思うんだよお前はよ!」

「それはお互い様だろ!」

 雨笠は強く反論するが、彼は片手で腹部を押さえ、空いた方の手を使って顔の前で手を振り、否定する。

「お前、だってさっははは! 会社潰れたらははは! そんなもん、別の会社に就職したらいいだけだろ?」

 言葉の節々に不愉快な音が混じっていたが、落ち着いてきたのか語尾はまともなものだった。

「だって、お前にはまだ大切な人とか居るだろう? 居ねえなら仕様がねえけどよ」

「大切な人なんて――」

 雨笠は恋人など出来た事はないし、生涯作る気はない――いや、もしかすると無意識下に愛が欲しいと願っているのかもしれない。ただこの歳になり徐徐に性欲もなくなり、更には仕事まで失っているのだ。死を恐怖する余りにそれが欲しいとは思えない。

「そんなものは――」

 …………いや。

 悔いが、一つだけあった。

 それを今まで忘れてしまっていたと言う事は、自分にとって価値のないものかもしれない。その悔いが、杭がどれだけ浅く刺さっていたのか。考えるだけで、考える程に自らの愚かさを悔しく思ってしまう。

「……まあいいけど」

 井出は笑いもせずにそれだけ呟いた。ここに来るまでの経緯などどうでもいいと言わんばかりに。

 そして、暫しの沈黙が流れた。

 何を話したらいいのかも解らず、また井出の方から話しかけてくるような事もない。沈黙が流れて初めて気付いたが、二人以外に会話をしている人物などいなかった。他はそれぞれ、俯き涙を流していたり、天に向かって祈っていたりと様々だ。

――彼らは、本気で自殺を志願している。

「井出様、雨笠様。お越しください」

 まるで謀ったかのように二人の名が呼ばれた。

 通路の奥から、肌の青白い決して綺麗とは言えない女が近付いてくる。

 これは、と口を手で覆う。井出を一瞥するが、慣れているのか彼女の顔に気にする事なく、返事をして付いていった。

 彼女の顔は、水死体ではないか。

 何故並びの最中に呼ばれたのか。何故あのような人とも言えぬ人が動いているのか。既に雨笠の感覚はそれらに反応出来るような正常なものではなかった。


 二人はある一室へと誘われた。

 どこに扉があったのかは定かではないが、事実彼らはその部屋に入るよう指示をされる。すると中には、黒いスーツを着た、こちらもまた死んでいるような男が居た。顔は鬱血しており、再び雨笠は吐き気を覚える。

「お座りください」

 黒スーツの男が言うと、井出は言われるままに席に着いた。釣られて雨笠も彼に習う。部屋には本当に特徴がなく、揶揄するだけの材料すらない。パイプ椅子がただただ三つばかり置かれているだけの、特徴も何もない部屋だ。

「おめでとうございまず。お二人はこの度の志願者の中から、見事採用されました」

 黒スーツは唐突に喋り出す。井出はありがとうございます、などと空気を読まずに発言をする。

 ……違う。空気を読めていない、否、空気を理解していないのは俺の方か。

「では、そちらの扉を開けまして、真っ直ぐ進みますと見事、あなた方は自殺する事が出来ます。どうか、良き来世を」

 そう言うと、黒スーツが手を伸ばしたところに扉が現れ、一人でに開く。

 井出は待っていましたと言わんばかりの勢いで扉へと近付く。流されそうになるのを必死に堪え、雨笠は発言した。

「あの、やっぱり死ぬの、止めます」

 井出が視界の端で振り返る。

 黒スーツが雨笠を見遣る。

「宜しいのですか」

 黒スーツは、少々威圧的に言葉を吐く。

「はい」

 雨笠は迷いなく返事をする。

「辞退しますと、あなたは志願資格を失いますが、宜しいのですか?」

「はい」

 すると黒スーツは、「良いでしょう」と言って井出が向かおうとしている扉とは真逆の位置に手を伸ばした。すると、そこにも似たような扉が生成された。

「その扉を潜ると、あなたはもう一度人生をやり直す事が出来るでしょう。どうぞ、良き余生をお過ごしください」

「ありがとうございます」

 雨笠は頷いてその扉へと歩み寄る。

「いいのか?」と、後ろからの井出の声で足を止める。

「何かやり残した事があったのか?」

「いや、俺にもちゃんとまだ、大切な人が居たから」

 そう言うと、井出はそうか、と歯を鳴らして笑った。

「友達の好だ、お前がおれの分まで生きてくれるなら、もしもお前が死にたくなった時におれが閻魔様に土下座して頼み込んでやるよ。だからお前は安心して生きろ。おれは安心して死ねるから」

「違いねえな」

 二人分の歯が鳴った。

 がちがちがちがち。



 ◆



 携帯電話が人工的な音を鳴らした。

 薄暗い屋上で、雨笠は携帯電話を取り出して耳へと近付ける。

「はい」

 そう短く言うと、電話の向こうから「あんた何やってるの」と関西圏の聞き慣れた方言が聞こえてきた。

 その声を聞くと、彼は無性に泣きたくなってくる。携帯電話を持っているのとは逆の手で、自信の目頭を押さえる。

「もう年明けたで! 三十一日には来るって言っとったやろ、どこほっつき歩いとったん?」

 雨笠は彼女の――母の声を聞いて、初めて安心すると言う言葉の意味を理解した。定年を迎えて働かなくなった母を思い出す。そして、彼の世話をずっとしてくれた母の事を思い出す。

 母親より先に死ぬ事は、出来なかった。

 それが唯一の悔いだ。

「今から帰るよ。あ、後、年越しは地球に居なかった」

 友達と、一緒に居たんだ。

 だから、ここまで連絡が遅くなった。

「は? 何言ってんねん。そんな冗談言ってる暇あったら、さっさと帰ってき。蕎麦まだ残っとるから、汁温めとくわ。はよ帰ってくるねんで」

 死ななくて良かった。

 あいつは死ねて幸せだろうか。

 雨笠は、母親の事と、最後の友人になったあいつを思い浮かべた。


 彼との心地の良い余韻を無音の中に浮かべ、ゆっくりと廃墟を踏み出す。

 もう、二度と面接を受ける気はない。



 年の明けた瞬間、俺は地獄に居た。



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