心頭滅却すれば火もまた涼し 終にキュラソーは最後の色へ

 十月。札幌は残暑の小尾がまだ残っていて、まだ涼しい気温ではなかった。おそらくあと二日もすれば急に気温が落ちて今度は、秋はどこに行ったのだと騒ぎだすようになる。北国の秋が短いと思うのは本当にその通りで、秋の心地よい天候になるのは一日や二日ぐらいであり、ほとんどは衣替えに追われるようにして過ぎ去っていってしまう。それでも何とか季節感を感じたいと奮闘してしまうのは日本人のさがか、それとも久朗津たちがカップルだからだろうか。一ヶ月前に漸く普通車の免許を取得した久朗津は前後に初心者マークを貼り付け、助手席に愛しのガールフレンドを乗せて秋の紅葉狩りへとドライブに車を走らせていた。



 目的地は豊平峡ダムである。



 市内では有数の人気の紅葉スポットであり、この時期には市内からだけでなく、道内、全国、さらには世界各国から観光客が訪れる。また、近くに豊平峡温泉があり、そこで頂けるカレーは久朗津も自慢したくなるほどおいしいカレーなのだ。本格的なインドカレーをインドの人――たぶんインドの人――が作ってくれ、ナンと共に頂く。辛さは全部で五段階に分かれており、辛いものが苦手な人も無理なく注文できる。メニューはポークやラム――羊の肉――チキンなどの定番からシーフードやベジタブルな物まである。個人的にはやはりチキンが一番好きなのだけど、食べ比べもまたいいかもしれない。時折、市内へと移動販売を行いにスーパーなどの駐車場に停まっていることがあるので、見つけた際はついつい買ってしまうほど、リピート率もかなり高い。



 山の中を突き進み、やがて駐車場へと出たので久朗津は一安心した。運転の経験が浅いと一つ一つのことが気になって仕方がない。駐車場には観光客が押し寄せていたので、入るのに二十分ほど掛かった。車内はラジオをバックに二人でフロントガラスから見える木々に想いを馳せる声が、静かに流れていた。




 ***




 車のドアを勢い良く閉め、久朗津は思いっきり背伸びをした。森に囲まれている光景を見るだけで、ここの空気が何か澄んだものに感じられるのは普段の生活の業であろう。そんな久朗津を見て芽虹は、



「お疲れさま」



 と優しい声を掛けてもらった。ああ、これが本当の優しさなのだろうと久朗津は思った。余計なことばかり考えて、言葉に詰まるように臆することではなく、素直にふと出た今のような言葉がきっと、自分が求めていた優しさなのだと久朗津は思った。



 二人は展望台を目指した。せっかくの紅葉だから見晴らしの良い場所に行きたいと思うのは当然だとおもうのだが、思ってすぐにまた傲慢な考えだと自分に辟易した。道中の草花に芽虹は興味津々だった。久朗津は気まぐれで生物学概論を取っていたので、半分ぐらいは答えられた。紅葉の多くは黄色いものが多いのだが、それは白樺などの木々が多いからだ。北海道では見慣れた殺風景の一つになっている白い幹の白樺の木々もこの時期になると色づく……というより、色が落ちたように久朗津は感じた。針葉樹の緑の葉とのグラデーションは息をのむほどではないが、落ち着く色合いにはなるが普段の濃い緑の葉が久朗津は好きなのだ。あ、あと白くふわふわと舞い続けるあの綿も好きだ。そんなことをつぶやいていると、芽虹は質問をしてくる。



「白樺って白い木だけど、まっすぐなやつと曲がっているのがあるよね」

「ああ。それはね、」



 それはまっすぐ伸びている木が白樺で、くねくねと曲がっているのがダケカンバという木なのだよ、と適当なことを言うように久朗津は説明する。



「あの山、もう雪が降ってるね」

「ん? 定天のこと?」

「じょうてん?」



 久朗津は口からはみ出すように笑った。



「芽虹ってなにかと地理には疎いよね。天狗山だよ、天狗山。定山渓天狗山だから、定天。聞いたことぐらいあるでしょ」

「へー、あれが」



 ちなみに市内ではこんな山ジョークを言うことができる。中央区の円山、西区の三角山、向こうに見えるのがシカク山……なんて無いですけど、みたいなやつ。バツ山でもいいんだけどさ、父にこれを言われたときはどう返事して良いかわからなかった。初めて愛想笑いを使ったのはこのときかもしれない。


 展望台は非常に混雑していた。外国人観光客も自撮り棒片手に記念撮影をしていた。家族連れの親は走り回る子供に振り回され、本格的な三脚付きのカメラを持ち込んでいる人もちらほらといた。久朗津と芽虹の二人は近くの人に記念撮影を一枚頼んでから二人は展望台から降り、豊平峡温泉へと向かった。温泉に入る前に昼食をとることにした二人は隣のカレー屋へ。久朗津は三番目の辛さのチキンカレーを、芽虹は五番目の辛さのキーマカレーを注文した。ナンとの相性に舌鼓を打ってから久朗津と芽虹の二人は温泉へと向かった。久朗津は体を流すと早々に露天風呂へと向かった。一度中の浴槽に入ってしまうとどうにも出られる気がしなかったからだ。



 日本最大級とホームページで謳っている露天風呂からの景色もまた良かった。久朗津が前回来たのはもう六年も前になる。その時の季節は冬だったので雪見風呂となっていおり、久朗津が北海道に愛着を深めた思い出となって強く残っていた。




 >それは、過去の記憶だろう。




 久朗津は自分の声を聞いた。心の中で聞いた。自分がやや卑下するような傾向があるのは昔からだが、ここまで無自覚につぶやいていたとは思わなかった。



「市内ですか?」



 久朗津に話しかけたのは白髪のおじいさんだった。少し伸ばしたあごひげがたくましい方だった。おじいさんは毎日この温泉に来ているのだという。カレーを食べるのはたまにだというが、源泉かけ流しで汗を流すのが日課なのだそう。



「ここの景色をよくばあさんと見ていたものでしてな。女湯の方からはあの山はどう映るんだろうか、心を休めることは出来ておるのかとか野暮なことを考えていたんです。近頃は、天国のばあさんのことばかり考えてしまいましてな。わしが見とるこの景色は向こうからはどう見えるのかのお、とかの」



 久朗津は反対側にいる芽虹は今何を思っているのかということを、この話を聞いて初めて思った。リラックスできているだろうかとか、露天風呂にはいるのかな、とかそんな野暮なことだ。同じ空の下にいるのに違う時を過ごしているのはもどかしくて、つい不安になってしまう。



 >そう。それがそもそもいけなかったんだ。たとえどんなに美しい同じ景色を見ても言葉ではそれを共有できない。しかし、言葉にしなければ伝わりもしない。そのすべてを知りたくなってしまうような不安になる気持ちそのものが、いけなかったんだ。




 久朗津は再び自分の言葉を聞いて今度は眉をひそめたが久朗津が見たのはここまでだった。もう二度と見ることのできないだろう芽虹の入浴姿さえ見ずに久朗津は戻ってきた。



「どうじゃ、今度の暗号もきちんと見えたかのう」

「ああ。〝心頭滅却すれば火もまた涼し〟だな。これで、四つ目か」


「六杯中四つとは。まあ、それだけあれば何とかなろう。それとも最後まで飲むか?」



 久朗津は【Bar・Omikuron】に居た。神と初対面を遂げてから三日後の約束の時。久朗津の目の前に置かれたのは七色のカクテル。それが意味することは久朗津でも何となく察することはできたが、このカクテルは以前飲んだ虹色カクテルとは少し違うらしい。



「こちらはキュラソーでございます。以前使用したお酒で間違いはないのですが、バリエーションを増やしてみました。久朗津様から見て左から順に、カシスキュラソー、ストロベリーキュラソー、アプリコットキュラソー、バナナキュラソー、グリーンティーキュラソー、ブルーキュラソー、パルフェタムールキュラソーでございます。色で申しますと、赤、朱、橙、黄、緑、青、紫となります。前回はブルーキュラソーのみを使用し、一度のシェイクで七色をお作りいたしましたが、今回は一杯ずつお作りいたしました」


「そこに幻惑材を投入して僕を惑わせ、迷わせようとしたわけですね」


「いえ、それは――」


「分かってますよ。マスターはあくまでもフェアな立場だ。きっと神様が気まぐれを混ぜたんでしょう」



 神の前で人は皆平等なのだ。マスターが僕に平等に接する必要はないが、そこは彼の人柄。それでは、もしもの旅にもう一度だけ出掛けるとしよう。たとえそこにどんな素晴らしい未来があっても、残酷な結果が待ち受けていても、わくわくするような謎があっても僕は否定する。どれほど取り繕っても、たとえ神が創造したのだとしてもそこは現実ではない。偽物に生ぬるく浸かることを選ぶほど僕は落ちぶれちゃいない。そのためにも、今一度出かけるのだ。




 では、乾杯! ラスト・キュラソー!

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