南方朱雀 第三宿 〝柳〟ヌリコボシ・ルドラ

 僕があの暗号について知ったのは過去の久朗津からの情報によるものだった。


 僕は未来の久朗津だ、といえば話が分かりやすいだろうか。僕が生きた世界での結末はバッドエンド、つまり芽虹が死んでしまう世界だった。放心状態に近かった僕は近所に北海道神宮があったので何となく通っていた。きっと神様にでも縋らないとやっていけなかったのだろう。芽虹を失ってしまった僕は何かをしていないと壊れてしまうと思っていたのかもしれない。突き付けられた事実はただ雲を掴めるのは当然だと言われるようなことで、実感することはもちろん、これからどうすればいいのかさえ考えることができなかったし実行することさえできなかったので、きっとそのせいだと今では理解している。参拝後、僕はその病院へと向かっていた。もうそこに僕が求める人物はいないというのに、気が付いたら僕は病院のナースセンター前にいた。看護婦は僕に気が付くと「お見舞いですか?」と聞いてきて僕は「はい」と答えた。「こちらにご記入ください」と言われていつものように記入していた。きっと普通なら僕はここで疑問を抱いて引き返すか、看護婦に呼び止められて引き返すはずなのだろうが、そんなイベントは起こらずに僕は芽虹が生きている時と同じようにその病室へと向かった。病室には「九石芽虹」の札が入っていた。僕はそれを見て初めてこの異常に気が付いた。


 戦いた。


 ようやく死んだはずの芽虹が生きていることに気が付いたのだ。僕はとても怖かった。芽虹が死んだことさえ受け入れられていないというのに、生きていることを受け入れるわけがなかった。僕はすぐに足を逆にして病院を出た。それから僕は春休みの間ずっと家に籠っていた。僕は逃げた。逃げ出した。ほんと、何がしたいんだろうな。


 テレビのワイドショーでは連日のように看護婦による患者の殺害事件、その患者の九石芽虹は九石賢介の娘であり、その九石賢介は事件のあった病院の院長である生島巌と不透明な金の流れという繋がりがあることが判明したと告げていた。そう、芽虹は死んでしまった。僕はそれからしばらく、さながら探偵のように調査を始めた。そこで分かったことは僕の他に僕がいて、その僕が久朗津知士と呼ばれていること。いつの間にか僕の他の誰かが僕になっているのだと最初は思った。だから初めは下らない自己主張ばかりしていたのだけれど、やがてその僕が芽虹の死に疑問を抱き始めて必ずどこかで死ぬようになった。その度に日付は元の日付、つまり僕が神宮に参拝へ行ったその日に戻るのだ。僕を演じる僕は以前調査した時と同じ行動を取っていた。もちろん本来の僕は浮気調査のような探偵ごっこをしていたので、この日に参拝をするという行動はしていない。僕はここでようやくこれはチャンスなのだと理解した。


 真実を知ってからの僕は暗号を作る日々だった。初めは直接真実を伝えようと考えていたのだが、何かよく分からないものに妨害され続けたのだ。僕は仕方がないので暗号を作るという手段によって運命を変えようとした。僕がいったい何度死を経験して再び生を受ける経験を得ていたのかはご存知の通り。最もうまく世界を輪廻まわせた時は高揚感を抑えられずに中々眠ることさえできなかったが結局最後には僕が捕まってしまった。そう、どれほど新しい久朗津が頑張ろうとも本来の僕が死んでは意味がないのだ。なぜなら僕という人間は一人しかいないという、当然の摂理を僕はいつの日か忘れていたのだろうから。皮肉にも、そんな僕を救ったのは運命を変えるために死んでいった僕だった訳だけれども。


 僕はそこでようやく新しい久朗津が何者であるのかを知った。そして世界の多くを客観視することができるその死んだ久朗津の世界から僕は様々な情報を得たのだ。この世界の存在理由についての一つの憶測と共に。


「マスター、僕が暗号を解く前に言ったこと覚えてますか? 僕は知りたいことがあると言って、覚えたてのスピカさんや僕が成り済ましていた、〝リュウ〟と呼ばれる探偵のナクシャトラを話しました。すると、マスターはそれを知っているのは私たち探偵だけだとおっしゃいました。そしてそれがすすきの探偵であることも」

 

 僕はマスターがグラスに入れてくれた水に口をつけた。


「一年前の事件、そのタクシー運転手殺害事件ですがその時の被害者がリュウ探偵です。でも今そのリュウ探偵はマスターということになっている。これはどういうことかと僕は思っていましたが、実は簡単な話だったのですね。死んだことが事実、それでも僕の目の前でその人が生きているのもまた事実。そうなれば答えはこの世界が現実味を帯びた現実世界ではないという答えの一つ以外在りません。僕の場合は芽虹に当たります。現実世界では芽虹は助からない運命です。それでもこの世界では生きていることになっている。芽虹が生きることができる世界になるまでだいぶ同じ時間を繰り返すことにはなりましたが、それでも運命が変わった世界にすることができた。こんなにも都合のよい世界を作り出せるのは神様ぐらいでしょう。いえ、僕が深く眠りこのような夢を見ているのだと考えることもできますが、残念ながらそれを考えることができないのは人間は都合の良い夢を、自分が見たい夢を見ることはできないから。これは僕の妄想だ、と言われたらそれはもう完全に否定することはできませんが、また同時に完全に証明することができない。だから僕は一番可能性があって、非現実的な現実的である答えを回答として出すことにします」

 

 僕は少し緊張していたので、また水を飲んでから言った。


「マスターがこの世界の神様ですか?」


 僕が思い切った質問をしたとき、マスターは驚くというよりも喜んでいた。そう、久朗津が一番最初に暗号を解いてもらうために訪れた時、久朗津が持ち込んだ暗号と対峙した時に見せた笑顔をマスターは僕に見せてくれていた。だけれども、発した言葉は悲しそうだった。


「久朗津様、私は正直驚いています。そして、正直とても残念で悔しいです。私はあなたにこのことについて気づいて欲しくはなかった」


 マスターは僕に対して初めてため息をついた。


「ここまで調べられたことに、私は事実を申し上げることで誠意とさせていただきたいと思います。どうか、これでご了承ください。結論から申し上げますとほとんど、久朗津様の推察通りでございます。ですが、二つほど訂正すべき点がございます。一つ目は私はリュウではございますが、マスターではございません。本物は消失しました。あの事件がまさか明るみに出るとは思ってもいませんでした。久朗津様は、白タクの存在をご存知ですか? 簡単に言うと、違法営業のタクシーのことでございます。タクシーというのは、タクシー業務適正化特別措置法という法律に基づいて営業しています。しかし、この白タクと呼ばれるタクシーは料金がメーターではなく、お客さんとの交渉で決まります。これによって、中には運賃を数百円で済ませることができてしまうこともあるのです。水商売に従事している方のご利用が非常に多いのですが、この中にはトラブルが少なくともあり、その一部が私たち探偵の方へ依頼という形で舞い込んできたわけです。私はその時の依頼を担当しておりました。調査を進めるうちに、その白タクは反社会勢力――つまり、暴力団と密接に関わっていることが分かりました。私はさらに、真相を得るために白タクのドライバーとして働いていたのですが、私が探偵であることがばれてしまい、彼らの罠によって殺されてしまった。これが一つ目の事実です」


 僕は一切言葉をはさまずにただ、聞いていた。


「二点目は私は神ではございません。この世界に干渉する権利を幾ばくかは許諾されてはいますが、この世界を作ったのは私ではありません。この世界を作ったのは私のような偽物ではなく、本物の神様です。現実世界ではこのバーはすでに閉店しており、なくなっております。そこに失われた命――つまり、私をこの世界の監視員とするとために、現実では存在しなくなってしまった場所へと、私を置いたのです。どうやら、死んで消えた命を復元するには、以前あったが今はなくなってしまった場所が必要なんだそうです。それを教えてくれたのも、この神様によって、です」


 僕は二つ目の訂正の時にはすでに座っていたカウンターの椅子を倒して立ち上がっていた。僕は口からも脳からも言葉を失っていた。運命を変えようとする度にマスターが僕の行動を助けつつも妨害していたのは事実だった。僕はそれが正しかったことについて安心していた。だって、マスター以外には僕の相手は考えられなかったから。だけれども、そんなことができるほどの重要人物だからこそ、この世界を意のままにできるのはマスターだと思っていた。僕は何か大きな世界のようなものと戦っているのだとずっと思ってきたし、それがマスターであるという証拠がこれだけ揃ったので信じて疑わなかった。


「――久朗津知士、正直わしもおぬしがここまで踏み込んでこようとは思っておらんかった。愛するべき伴侶が生きる世界に来られた、それだけで満足してくれるものだとおもったのじゃが、お主は何か難しいことを考え始めてしまっての。本当に驚いたわ。今度はおぬしが欲しいものが何か聞いてみたくなったのう」


 マスターの陰からは出てきた。は闇には決して染まらない強く跳ね返った瞳色の髪の持ち主で、僕はその長すぎず短すぎない、それでもちょっと長いから長髪と呼べるその大好きな髪をそれは持っていた。は僕が知っている大好きで永遠にそっと撫で続けたくなる山頂のシルクのようなワンピースを着ていた。は僕が知っている、唯一赤みを帯びる肌色をその両腕と顔に備えていた。は僕が知っているただただ甘いだけのキスをくれる唇を僕に見せつけていて、その口からまた僕の知らない言葉が出た。


「しっかし、この娘はかわいいのう。おぬしが惚れる理由もばっちしじゃのう」



 僕はこの少女にそっくりの九石芽虹は知っているが、この芽虹は知らなかった。



「さてさて、おぬしの先ほどの推理がどうして間違ってしまったのか、わしが教えてやろう。なに、ちょっと視点を変えてみればいいのだ。この世界は地球を中心として回っていると考えていてはダメじゃ。地球は太陽を中心として回っているから、太陽が中心という考え方もまたダメじゃ。その太陽が中心として回っているのが中心だというのもダメじゃ。ようは、ダメじゃないのが答えじゃ」


 僕は何とか負けないように目を握りつぶすようにつぶってからようやく絞り出し、取り戻した言葉を開いた。


「お前は、誰だ」


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