恣意的橙っと≪サンスクリット≫

「そっか、さすがクロだね。暗号解読おめでとう!」


「うん。まあ、ね」


「なに? 照れてるの?」


「別に、そういうんじゃないって」



 輪廻の久朗津はなにかと、なんとなく、少し照れ隠しをして、それからお手洗いに行くとか言って病室を出て行ったはずだ。ここまでは僕の記憶にもある。一方の僕たちは未来を変えるため――つまり、芽虹を殺害するはずだった犯人を追い詰めていた。こんなにも早く犯人を突き止められ、さらにはその裏の黒幕を聞き出すという状況にまで早急に持ち込めたのはやはり未来の自分のおかげだ。未来から来たので、犯人も手口も理解していた。ただ、まだ黒幕に関して、この時の久朗津はまだ確信は持っていなかったようだ。いや、確信はしていたのだろうが、確定的な証拠を手にできていなかったというのが正解か。



「点滴の中にリシンを入れるとは。また大胆な手口だな」



 周囲の病院関係者を押しのけて押方とかいう看護師に詰め寄り、手にしていたリシンを奪い取った未来の僕と僕は思いっきり不審がられていたが、毒物の名前が出た途端に周囲は現状何が起きているのかをあちこちに尋ね始めた。僕らを含め、もちろん押方とかいう看護師本人にもね。


「これはリシンだろう。量が極端に少ないからね。これだけの量で人を殺すとなれば種類は大分絞られる。しかもリシンなら抗毒素がないからね。恐ろしいものだ、ホントに」


 それと同時にこの狭い部屋に押し寄せてきたのは警察だった。未来の僕が事前に通報したのだろう。その時にはもう既にリシンの入った小さな小瓶は押方の手の中に戻り、僕ら二人はそこにはいなかった。毒物の名前を言い当ててしまったのも未来の僕が未来で知りえた情報なのだろう。なぜ急に僕ら二人が居なくなったのかは、すぐには分からなかったが未来の説明ですぐに分かった。



「よし! 未来が変わった。分かるかい? さっきまでのあの病院と今僕らがここにいる病院とは別なんだよ」



 僕には僕らの居る場所が切り離されて宇宙に浮いているように感じた。また、先ほどの看護師が警察に連行されていくのも別の浮かぶ陸地の上のように見えた。これが彼の言う輪廻からの解脱だというのだろうか。これで、芽虹は助かるのか。この不可思議な現実は終わりなのか。


「いや、まだだ。実行犯を捕らえただけでその裏にいる黒幕を捕らえていない。まずは君とスピカさんを助けないといけないんだけど、その前に辻褄を合わせようか」


 僕と未来は新しい時間へと行けたわけだけど、そこには確かに歪が生じていた。もはや古くなって遠い記憶となりつつある芽虹の容体が急変したその時が僕からは見え、またそれを同時にもう一人の僕――輪廻の久朗津が見ていた。僕はこれまで同じ時間で死と生を繰り返してきた。芽虹を救わんと走り回って、廻って来たのだ。それがこの世界には本来いるはずではなかった僕と未来から来た僕によって運命は変えられてしまったのだから、時間ぐらい分離して然り。新しい時間にも行けず、だからと言って過去は消えてしまうため居座り続けられない。


 このままでは久朗津知士は存在自体が消えてしまうことになる。


 それは僕が望むことでも芽虹も未来の久朗津が願うことでもない。だから未来の久朗津は辻褄を合わせようというのだ。時間の狭間に漂っていた輪廻の久朗津を未来の久朗津はこちら側へと引きずって気を失わせ、新しい時間内で用意したとあるアパートの一室に連れ込んだ。そしてそこに用意されていた首吊りセットに輪廻の久朗津は吊るされて意識を奪われ、生命を絶たれた。


「ああ、この光景は覚えている。もちろん、吊るされた側からだけど」


「既視感っていうのは事実の積み重なりによる記憶の一つなんだ。実際に、今ここにいる君が体験したわけではないのにそれを自分のことのように覚えている。それは過去の君が繰り返し行ってきたことだから鮮明な事実となって真実の記憶となる。俺もよく覚えているよ、この光景は」


 そう。たとえ今自分が行ったことが無意味に思えても、事実でなくなったとしても、実際に起きたことには変わりないのだ。


「えっと、このあと、僕はどうなるんだっけ」


「今の君かい?」


「ああ、えっと、今さっきまでここにいた僕」


「死を実感し、苦しんだ感触が確かに残っていて、自分は死んだはずなのに気がついたときにはバー・オミクロンの前にいた、っていうのは覚えているかい」


「ウイスキーで酔っぱらう前……かな?」


「そう。だから僕らが動くのはまた明日からになる。今日は休んだ方がいいよ。布団なら押し入れにあるはずだから、使って」


「うん」


 自分と会話するという事ほど気持ち悪く、気味の悪いことはない。さらにここまで時間が交錯すると自分がいまどこにいるのか、果たしてここにいる自分がほんとに自分なのかと、今まで考えもしないようなことを考え始めてしまい、自分が保てなくなりそうになるが、さすがは未来の僕。経験値の違いは思考や言葉にしっかり現れていた。


「なに、心配することはないさ。現在を生きるためには過去の自分を犠牲にすることが、時には必要だってだけだよ」


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