転い≪オワラナイ≫

 目の前は真っ暗だ。目を開けているのか閉じているのかさえ分からなくなるぐらいに真っ暗だった。僕は何かを探した。きっとさっきまでいた部屋とか、傷ついてしまったスピカさんとか、僕は僕の知っているものを探していた。



 途端、何かに締め付けられる。頭だ、頭が痛い。ズキズキとした締め付ける痛みがしていた。痛みと同時に僕は目を覚ました。暗闇ではなく明りのある空間であることを感知すると何を思ったのか僕はガバっと立ち上がった。だけど、勢いよく頭を動かしたせいでより痛みが増してしまった。僕は「うぅ~」と唸りながらゆっくりと座った。久朗津はこの痛みが頭痛だと分かるまでにしばらく時間がかかった。それほどに錯乱していた。久朗津が「うぅ~」と唸っていると目の前に何かグラスっぽいのが置かれ、同時に左側から声が聞こえてきた。



「大丈夫? 三時間くらい寝たかしら。少しは楽になった?」



 手で目頭を押さえ直すと視界がようやく安定し、大きな胸と微笑みがそこにあるのを目視で確認する。それから目の前の物をとりあえず手に取った。久朗津はグラスの中身が水であることが分かると一気に飲み干した。それでも未だぼーっと薄い頭痛が纏わりついていることに気づくと久朗津は不快に思った。少し顔を上げればマスターがグラスを磨いている。いつもの渋い笑みを浮かべている。左サイドにはスピカさん。正面にはマスター。首を伸ばして店内を見渡せば多くの客で賑わっているようすが分かった。ここはどこだ? さっきの場所はどこ行った? どうなってるんだ? そもそもなぜ僕は今【Bar・Omikuron】にいるんだ? 僕は僕に自問したが自答できなかった。



「すいません、もう一杯水をもらえますか?」



 今度はちびちびと水を飲んだ。思考が冴えてくると僕は不思議に思った。今見ているこの光景が不思議でたまらなかった。そして同時に僕はすごい既視感を覚えた。とてもとても強い既視感だった。



「えっと、僕は——」



 まだ重い頭を押さえながら久朗津は必死に記憶を探り出す。


「確か、生島巌が犯人だって分かって芽虹のお父さんの会社に呼ばれて行って、それで——」



 久朗津は寒気がして体を震わせる。



「スピカさん! 怪我は? 大丈夫ですか、怪我は痛みませんか?」



「怪我?」スピカは腕を上げたり太ももを晒け出したり、あちこち自分の体を確認した。そして身に覚えがない、という表情を浮かべた。



「特に何ともないけど? ——変な夢でも見てたのかな? どんな夢だぁ? 夢だけならいいんだけど?」



 スピカさんは途中から声のトーンを少しおかしくした。僕の寝起きの第一声を何かのジョークだと捉えたのか今度は久朗津いじりに走った。



 その返答に対して久朗津は下手だと思った。下ネタの話に持っていきたいのだろうがこの人は下手だった。従って久朗津は完全に無視して、記憶を鮮明にさせて整理を始めることにした。



 僕は九石賢介、つまり芽虹の父親に呼ばれて彼の会社に向かったはずだ。そこで奥の部屋に通されて天井からロープでつるされ全身痣だらけのスピカさんを発見した。彼女は僕に何か話しかけようとしていたが、その声は掠れて聞こえなかった。その直後背後から誰かに強烈なショックを与えられたことも覚えている。それが何か、犯行は誰によるものかまでは正直わからない。人生初の痛みに出会った上に一瞬の出来事だったから記憶が非常に曖昧だった。確かなのは腰に残る違和感。芽虹の死と同時に首に残った違和感のようにはっきりと。今回も体が覚えていた。あれは夢ではないとそう告げていた。



 では今のこの状況はなんだ。久朗津はズボンのポケットから携帯を取り出して時間を確認する。午前一時五六分。今日は二月二十九日月曜日であるとこの携帯は告げている。



 おかしい。何かがおかしいと久朗津は思った。



 芽虹の父親の会社の所へ行ったのは何曜日であったか。少し考えたが思い出せない。またしても僕は思い出せなかった。だから仮説を立てることにした。でないと気が狂いそうだった。僕は日曜の昼間、会社へ行き事件に遭遇。その後記憶のないうちに何かが起きた。そして夜になってから再びこの店に僕は訪れた。夜通し飲み明かそうとして酒に負けて眠ってしまった。起きたのが月曜の今。このように定義すれば筋は一応通る。だがスピカさんは怪我どころか痣の一つもないようだった。正直一日で完治するレベルのけがではなかったと思う。ではあれは夢だったというのか? 悪夢か、予知夢か、正夢か。



「久朗津様、大丈夫ですか。申し訳ありません。久朗津様がお酒に強くないことは私が存じ上げていたにもかかわらず、このようなことに。——これからは強いお酒は控えたほうがよろしいかと」



 マスターは僕に気を使ってくれた。それに対して久朗津は思わず眉をしかめてしまう。強い酒? 僕が強い酒を飲んで潰れたのはさていつだっけか。随分と遠い記憶のように思える。



 そうだ、芽虹が息を引き取り、同時に僕も死んだような錯覚を覚えた時だったはずだ。痛みと悲しみを実感しようとやけ酒なるものを人生で初めて敢行したはずだ。だったら――。


「マスター、さっきまで誰か僕のことを心配しに来ませんでしたか?」


「ええ、そうですね。――確か、紳士的な若い方に一度、OL女性の方に一度、スピカ様からは二度程心配そうに声をかけられておられました」


 マスターは久朗津の問いにやや疑問を抱いたようであったが率直に答えた。



 久朗津はこれでようやく確信した。時が遡行していることを確信した。確実に今現在起きているは昨日のことだ。酔いつぶれた状態、声をかけてきた客の面子、目の前に置かれた飲みかけのまずいウイスキー。これらの状況が偶然の一致で済ませられるだろうか。否、これはroop繰り返しているとしか思えない。



 SF小説・映画・ドラマの世界では頻繁に取り上げられることの多いこの現象。有力な説がいくつかあれども完全には解明されていないこの現象。



 タイムリープとかループとか呼ばれる現象。



 それでも久朗津は受け入れられなかった。確信はしたが受け入れられない。だからこれは僕が覚えている非常にリアルな夢だと決めた。僕は確かに酔って潰れた。今現在久朗津を襲っている頭痛が確かな証拠だ。これだけは事実。僕はおそらく夢を見たのだ。非常にリアルな夢を。九石賢介の会社へ行き、奥の部屋でスピカさんが暴行され、僕は気を失った。僕はこの夢を現実だと思い込んでしまった。朝起きてベーコンエッグを食べたのは夢だったのだ。確かにこの説明ならば、納得のいく筋書きとなる気がする。時間が遡るなど如何どうにも信じられなかったため久朗津は自分にこのように言いきかせることにした。


 そして久朗津は決めた。



「すいません、朝まで寝ます。寝かせてくださいおやすみなさい」


「久朗津様、実は上着のポケットからこのような紙が――」



 そのまま久朗津は全てを無視して突っ伏した。誰かから声が掛けられた気がしたが、すぐに寝てしまった。やはりどうしても頭痛だけは耐え難いものがあり、とにかく横になりたかったから寝てしまった。画して久朗津は夢だと言い聞かせた出来事と同じように眠り始めたのだった。







 ***











 翌朝。午前八時過ぎに久朗津は目覚めた。例のごとく朝食をマスターが用意してくれたのだが、ベーコンエッグが出されると久朗津は頭を抱えた。頭痛はとっくに引いたのだがここまで一致するとさすがに夢だと言い通すのは厳しくなってきたからだ。それでも理由付けが曖昧なまま真実を受け入れることはできない。そこで久朗津はスピカさんに出かけるのを待ってもらうことにした。夢では先に出かけたスピカさんが被害に遭っている。再び被害に遭うという二の舞だけは避けたかった。夢でも事実でも人の苦痛ほど苦しいものはないと久朗津は思ったからだ。あと僕はもう死にたくない。たとえ夢であっても、死にたくない。今が変わればきっと未来も変わるはず。そう思って久朗津は行動することにした。



「スピカさん、今日一緒に来てもらえますか? これは僕から探偵スピカさんへの依頼です。お願いします」


「あれ? 久朗津くんに私が探偵だってこと話したっけ?」



 確かに久朗津はそのような話は聞いた覚えがなかった。だから言われて初めてどうしてだろうと疑問に思った。



「まぁ、いっか。分かったよ。で? お金ある?」



 久朗津は言ってすぐに後悔した。探偵を一人雇う金など持ち合わせているはずがなかった。急に焦ってどもってしまった。後先考えないで発言してしまった自分を恨み、必死になった。



「私が肩代わりしましょうか」



 当然のように救いの手が差し伸べられたのだが、久朗津はまた大きな既視感を感じた。



「さっすがマスター太っ腹ー」



 一抹の不安を抱えながらも進まなくてはいけない気がした。どれほど既視感を抱えようとも進まなければ何も分からないしきっと変わらない。丁度朝食を平らげた頃に久郎津のスマホが振動し始めた。



「もしもし、久郎津くん。私だ、芽虹の父だ」



 久郎津は緊張した面持ちで電話に出る。



「お久しぶりです」



 この人が何か関わっていることは確かである。息づかいにまで耳を傾ける。



「その、芽虹のことなのだが、少し人手が足りなくてな。少し手伝ってくれないだろうか」


「分かりました。何時頃伺えばいいでしょうか」


 久郎津は警戒を最大限にして答える。



「この間案内したビルに、そうだな十時頃来てくれ」


「分かりました。十時ですね。……はい、はい。……はい、では失礼します」



 久郎津は電話を切って真剣な眼差しで話始める。



「マスター、上着のポケットに暗号がありませんでしたか?」



 不意を突かれたマスターは、一瞬驚いたがすぐにいつもの笑みを浮かべた。



「ええ、確かにノートの切れ端のようなものに何やらアルファベットが書かれておりましたが……」



 久郎津は夢の中の話を粛々と始めた。



「……なるほど。それは確かに興味深い話ですね。つまり暗号を解くと〝犯人〟と思われる方——院長さん? が出てきた。殺人だと思った私たちが調査を始めた直後にスピカ様が襲われたと。その現場が芽虹さんのお父上の会社だった……と言うのですね」



「はい」久郎津は至って真面目に話した。努めて冷静に話した。他に信じてもらえる方法を思い付けなかったからだ。だから信じてもらえるように僕は話した。



 スピカさんもマスターも話を受け入れてくれ、最大限の警戒の元九石謙介のところへ向かった。






「はい」


「久郎津です。九石謙介さんにお会いしたいのですが」


「……お待ちしておりました、久郎津様。どうぞお入りください」 



 機械的で無機質な女性の声は前回と同じ。異なるのは隣にスピカさんがいるということ。



 カチリと鍵の開く音が鳴り、戸を押して室内に入る。



「やあ、よく来たね……えっと、そちらの方は?」


「僕の知り合いです。謙介さんの話を持ち出したら逢いたいと仰ってたので連れてきてしまいました。人手が必要だと言ってましたし」


「あぁ、まあ確かにその通りなんだが……」


 九石謙介は少し困った様子になる。



「あの、私お邪魔でしたら帰りますけど」


 鞄を肩にかけなおし、声には品があった。会話に割って入ってきたスピカさんは明らかにいつもと雰囲気が違った。どうやら仕事モードらしい。


「この間の論文を見て、色々とお伺いしたかったのですが」



「ん? この間……この間というと、ああ、祝賀会の時のでしょうか? まぁ、あれはあの場で多くの批判をされてしまって。サプライズのつもりだったのですが。いやぁ、お恥ずかしい限りです。おかげで雑誌の掲載予定も取り下げられてしまった」



 と九石。



「私はとても興味深いお話だと思ったのですが——」


「スピカさん、すいませんけどその話はまた今度で。九石さん、その、頼みたいことっていうのは……」


「ああ、そうそう。実は奥の部屋にあってね」


 久朗津は思わず身構える。僕は表情が硬くなるのが分かった。



「ちょっと来てくれないか」



 久朗津とスピカは互いに一度アイコンタクトを取ってから席を立つ。九石が開け放っていた扉へと不自然の無いように気を付けて歩く。戸が視界から外れ、見えてきた部屋はこの間とは見違えるように別物だった。久朗津は思わず目を見開いてしまう。急に立ち止まったので、大人二人は訝しげな顔になっていたが久朗津はそれどころじゃない。一番目立つのは大き目の机と机上のデスクトップ。その左右に積まれた薄い紙束。右側には大きな本棚がいくつもあり圧迫感も感じる。左側にはブラインダーのある窓。そこにはコーヒーメーカーが置かれ、静かに活躍の時を待っている。書斎だ。普通の書斎だ。



「こ、ここは……」



 僕は困惑した声を抑えられなかった。



「私の書斎だよ。ちょっと待っていてくれ」



 九石は自分の机に歩みを進める。そして手に花束を持って戻ってきた。



「今日も芽虹のところへ行くのだろう? これを持って行ってくれないか。少し大きい花束だから大変かもしれないけど、いいかな?」



 え? 芽虹? 何言ってんだ、おっさん……。



「私はちょっと忙しくてね。なかなか見舞いにも行けない——あ、おい。久朗津くん!」



「これ、おねがい!」僕はスピカさんに花束を押し付けて走り出した。会社をすぐに出て階段を駆け下り、道路に飛び出す。途中自転車が転がっていたので拾って思いっきり漕いだ。大学病院に着くとその辺に自転車を放り投げて病院に駆け込んだ。



「芽虹!」


「あ、知士。どうしたの? そんなに慌てて」



 僕は肩で息をしていた。芽虹だ。芽虹が生きている。不思議そうにこちらを見ている。長い黒髪が少し流れてこちらを見ている。さっきまで読まれていたであろう文庫本は両手でしっかりと握られている。



 よかった。よかった。ああ、よかった。



 そう思った途端に久朗津は膝から崩れた。芽虹は手から本を落として前に乗り上げて僕を見る。



「知士……?」



「コンコン、失礼します——って、久朗津くん? どうしちゃったの?」






 ***






 それから僕は女の子と女性の前で泣いた。わんわん喚いた。みっともなく僕は安心した。恋文暗号から三日後、九石芽虹に容体の急変は起きていなかった。いつも通りにおしゃべりをして、その日も僕はいつも通り帰ったのだという。



 この数日は明らかに矛盾していたが、もうどうでもよくなった。芽虹が生きている。それだけでいいのだ。それ以上悲劇的なことは考えられなかった。



 全速力で自転車を漕いで来た上に泣いたので、僕は飲み物がほしくなった。一言二言断りを入れて、僕は自動販売機を探しに病室を出た。



「しっかし、どうなってんだか」



 ここ数日の出来事すべてが嘘であったかのようになくなっていた。芽虹が死んだこと。父親の会社での惨劇。何よりも僕と芽虹の思いが通じ合ったことは本当で本物だった。それだけでどうでもよくなってしまった。僕は思ったよりあまり気にしていなかった。ロビーにあるだろうと目星を付けて階を一つ降り、目論見通りそこで自販機を見つけた。あれこれ迷ったがオーソドックスにお茶を選び、購入していると僕は声を掛けられた。



「ちょっと、いいかな。君は九石さんのお知り合いかな?」


「……? はい、そうですけど」


「私はこの病院の院長、生島巌と言います」




 生島はこのように名乗った。彼の白衣の胸にはネームプレートがあり、確かにそのようなことが書かれている。体型はぽっちゃり。頬にもやや肉が付いている。短い白髪は重力に逆らうようにやや上方へと伸びており、ちゃちな白髭はマスターを彷彿とさせる。威厳がありそうな風格だが、表情は優しそうである。



「ちょっと話がありましてね、こちらへ来ていただけますか」



 話? 一体僕に何だろう? 不思議に思いながらも素直に着いて行った。それから長机と複数の椅子しかない一室に通された。僕は大きな窓のほうへ歩いていく生島の背中を眺め、彼の発言を待っていると何か嫌な臭いがした。後ろを振り返るとそこには忍者がいた。目玉以外の顔を隠してこちらを見ているに僕は息が詰まる。バチリと音が鳴り僕は目玉だけが動いた。——スタンガンだ。反射的に後ずさりすると急に身動きが取れなくなった。後ろから誰かに拘束されている。後ろにも忍者のような人がいた。性別までは分からない。だが、僕の気を逸らすには十分すぎた。



 熱い。体のどこかが熱い。そう思ったが最後、後にはもはや何も感じられなかった。



「——君にうろちょろされては困るんだよ。悪いが——」



 久朗津はそこで意識を失った。倒れ行く直後は、いったい死ぬのは何度目だろうかと思った。芽虹がせっかく生きているのに、僕が死んだら駄目じゃないか、と悔やんだ。同時に、理由を求めた。誰かに。どこかに。何かに僕は理由を求めた。僕が死ぬ理由を。なにかわからぬ理由を。



 なんでだよ。




 僕は生島の低い声が永遠に響いてくるようで悔しかった。

  

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