承き≪ツヅキ≫

 ではこの文字列は何を示すのか。



 EVCFPEPE



 これはおそらく暗号文。近くに鍵がない。つまり鍵を推測しなくてはいけないのだ。わざわざ千切って僕のポケットに入れたのだからノートの残りにヒントが書かれているとは考えにくい。それはどうしても解けなかった時の最後の手段だ。前回シフト暗号を使ったことから今回も同様かもしれない、と僕は思った。だけどこの暗号文にはシフトすべき数字が表記されていない。これは自分で調べたことなのだが、この暗号はrot13と呼ばれることもあるそうだ。つまり基本的には13個シフトしてみるというのが妥当なところだと思う。早速当てはめてみる。




 EVCFPEPE

    ↓

 RIPSCRCR




 リップス・シーアールシーアール……? 駄目だ。さっぱりだ。意味が通らない。シフトではないのだろうか。うーん。確かにrot13は暗号の中では一番弱いらしいから、単独で使用したのではないかもしれない。他の暗号を絡めた可能性が非常に高い。うーん。



 マスターは黙って一つ頷いた。それから静かに、カウンターから一枚の紙を取り出して僕の前に差し出した。



「これは——」言いかけた途端に頭が悲鳴を上げる。あぁくそう、頭が痛い。これは完全に飲みすぎだ。久朗津は思わず頭を押さえる。



「こちらを使用すると暗号が解けるかもしれません」



 表だ。エクセルのような表。横の英文字はそのままに、縦の数字を英文字に変換させた表。縦にA~Zの26文字、横にもA~Zの26文字。縦と横の文字を交差するところにアルファベットが一文字示されている、そういう表だ。縦のAと横のAが示す文字はA。縦のBと横のCが示すのはD。縦や横に見ると行が変わるごとにA~Zの並びが一文字づつずれている様に見える。斜めに見れば同じアルファベットがずっと続いている。



「ヴィジュネル方陣。ヴィジュネル暗号に使用されることの多い表です。ここに文字や記号が混ざり、より複雑なものも存在しますが今回はおそらくこれを使用するかと。暗号文には記号数字が含まれていませんから、アルファベットだけのこの表で十分でしょう。表上の横の文字列。A~Zですが、ここに暗号文を当てはめることにします。縦の文字列A~Zには鍵によって示された文字を当てはめることにします」



「鍵は——」ああ、もう。僕は数時間前の自分に腹を立てていた。大して飲めもしないのに酒を勢いに任せて飲んだ自分に説教してやりたい。それぐらい酔いがひどかった。「鍵はいったい、どこに——」



 溜息一つ吐いたマスターは「今日は止めておきますか?」と尋ねてくる。それはだめだ。さっき謎を解くと決意したばかりじゃないか。僕は重い頭を静かに振った。これ以上症状を悪化させないようにするために。



「前回同様、これはシフト暗号で間違いありません。同時にシフト暗号は鍵にもなっているようです」マスターは丁寧に解き方を僕に教え始めた。「シフトする前にこのヴィジュネル方陣を使って本当の暗号文を導き出します。『EVCFPEPE』はおそらく仮の形。ヴィジュネル暗号です。この暗号を解く際に使用するのが〝rot13〟の13。13という数字が恐らく鍵になります。『EVCFPEPE』に13、1、3、13……の順に当てはめてみてください。もちろんそれぞれの数字をアルファベットに変換してください」



 13番目は〝M〟、一番目は〝A〟、三番目は〝C〟。横のEと縦のM、横のVと縦のA、横のCと縦のC、横のFと縦のM、横のPと縦のA、横のEと縦のC、横のPと縦のM、横のEと縦のA。これらをヴィジュネル方陣に当てはめていく。


 

 横E縦M→Q

 横V縦A→V

 横C縦C→E

 横F縦M→R

 横P縦A→P

 横E縦C→G 

 横P縦M→B

 横E縦A→E

 


 さらに得られたこの文字列にrot13を実行する。


 

 QVERPGBE

    ↓

 DIRECTOR



 答えは〝DIRECTOR〟だ。



「直訳すると、院長か……?」



 院長? 病院の院長が犯人なのか。確か、芽虹の入院していた病院は確か大学、びょういん、だった……はず……。



 僕の記憶はここまでであった。実際、翌日半分ぐらい忘れていたので、再度説明してもらったことは言うまでもない。



「おーい、久朗津くーん——だめだこりゃ。寝ちゃった」


「そのようですね。久朗津様はあまりお酒に強くない様子でしたから程々にと言ったのですが、まさかウイスキー二杯で寝てしまわれるとは。いやはや、今度からは気を付けないといけませんね」


「で、マスター。さっきの暗号だけど何で鍵が13だって分かったの?」



 スピカはどこか寂し気に久朗津の頭を撫でている。一方の久朗津は静かに寝息を立てていた。



「彼女が〝シーザー〟を使っていたことは明白でした。この暗号文は久朗津様しか分からないようになっていたはずなので、前回の恋文に使用された暗号とは全く異なる形式だとは考えにくかったのです。いくつか試したのですが、この暗号は〝シーザー〟ではなかった。意味のある平の分になりませんでしたからね。ということは〝シーザー〟と絡めてよく使用される定番の暗号といえば——」



 マスターの言葉をスピカが遮る。


「ヴィジュネル暗号ってことね」



 マスターが続ける。



「ええ、仰る通りです。この定番の組み合わせだろうと目星をつけた私は、鍵を探し始めました。この暗号の鍵は何らかの周期を持っていることが多いので、そこから攻略を始めたのです。暗号文が八文字ですから、鍵はどこか外部にあるものだと思いました。そこで私は久朗津様にこの紙切れについて尋ねました。久朗津様が間違いなく芽虹様の直筆であると仰って、私の推理はほぼ確信に変わりました。鍵は二人だけが知っている暗号関連の事だと」


「なるほどね、それでこの間の暗号恋文にたどり着くと」



 久朗津が寝てしまったせいで飲みかけになっていたグラスにスピカは口をつけながら言った。



「その暗号に〝シーザー〟が使われていたから、シーザー式暗号の十八番〝rot13〟から13を導き出したのね」


「はい、その通りでございます。後は鍵として使用される可能性のある〝A〟〝C〟〝M〟を方陣に当てはめながら、rot13を行っていくだけでございます。結果的に13、1、3、13……というサイクルを弾き出した訳でございます」


「ねぇ」スピカはより視力を鮮明にしてマスターに尋ねる。「あなたがここまでこの子に関わる理由は何?」



「それはまだ、お教えできません。私もまだ不明瞭なことが多すぎるので今は何とも」



 マスターは薄い白鬚をさすりながら続ける。


「一つだけ言えるとしたら、久朗津様はとても意志の強いお方だということぐらいです」



 スピカはやや不満そうであったが、「まぁ、いいわ。暇だから私も少し手伝ってあげる」とさえずった。



「恐縮です」



「困っている人がいたら助ける。探偵ってそういうものでしょ?」



 現役探偵のスピカは久朗津を起こさないようにそっと席を立った。マスターは調達したブランケットを久朗津に掛け、深々と礼をスピカに向けた。






 ***






生島いくしまいわお。大学の学長にして大学病院の院長。つまり最高責任者ね。大学病院の責任者ってその講座の教授が責任者を務めていることが多いみたい。あまり良い噂は聞かなかったわね。中でも金銭に関しては不透明なところが多そう。私はもう少し調べてみるけど、久朗津くんはどうする?」



 僕はベーコンエッグを食べながらスピカさんの話を聞いていた。マスターが朝食に作ってくれたのだ。



「あの、何か分かったらメールしてもらえますか? ちょっと自分も行きたいところあるので」



「分かったわ」



 スピカさんはスラスラとペンを走らせてから、鞄を肩に掛けなおした。「何かあったらここに連絡して。言っておくけどこの調査代はマスターが出してくれてるんだから礼ぐらい言いなよ」



 僕は改めて深く頭を下げた。



「久朗津様は本日どちらに」


「芽虹の父親のところに。とても良くしてくれていて、その、色々と準備を手伝ってほしいとのことで」


「葬儀ですか」


「ええ」久朗津は軽い笑顔を作った。「芽虹の父さんすごい金持ちなんですよ。会社の社長さんとかで、忙しいらしくて。僕に『準備を手伝ってくれると助かる』とさっき電話が来ました」


「久朗津様」



 マスターはいつもの調子で続ける。



「本日もご来店お待ちしております」


「もちろん、よろしくお願いします」



 二月の下旬。札幌は降り積もった雪が黒く染まり、気温も一向に上がらず冷え込んでいた。時刻は午前10時。大通りのとある雑居ビルに僕は呼ばれている。



 無機質な階段を一つ上り、『株式会社〝SAZARASHI〟』のネームが張られている扉を見つけた。インターホンを押して返事を待つ。



「はい」


 業務的な女性の声が聞こえる。



「久朗津です。九石賢介さんにお会いしたいのですが——」



「久朗津様ですね。お待ちしておりましたどうぞ、お入りください」カチっと鍵の開く音が聞こえた。僕はそっと戸を開けて中に入る。


 室内には向き合ったソファとその間に木製のテーブルが一つ。正面には大きなガラス窓があり、とても開放的だ。他には業績を讃える賞が多数飾られている。ここは応接室なのだろうと久朗津は思った。



「やぁ、久朗津くん。待っていたよ」



 九石賢介は右手奥の方から現れた。



「わざわざすまないね。あぁ、ここじゃなんだし、ちょっとこっちの部屋に来てくれないか」


「……はい」



 久朗津は言われるがままに九石が出てきた部屋へと向かう。戸を開けてくれてたので、久朗津は微妙な礼をしながら小声で「すみません」と言いながら入っていく。



 部屋はなんだか薄暗かった。肌寒ささえ感じるほどだ。ぎぃい、と後ろで扉が閉まり、部屋に明かりが点いた。照らし出されたそれはすぐにありありと視界に入ってきた。



「ちょ……えっ……?」



 久朗津は思わず一歩下がってしまい、そのまま九石にぶつかった。



「ス、スピカさん……?」



 目の前には金髪の女性が天井からロープで両手を縛られ、ぶらりと吊り下げられていた。衣服はところどころ破れ、打撲、擦り傷や切り傷が無数に見られる。



「……逃げて、はやく……にげて……」



 僕の声に弱弱しく上げられた顔は僕を認識した。そして、擦れた言葉を紡いでいた。



 途端、腰の辺りが熱くなったと思うが早し。僕の頭頂まで一気に何かが駆け上った。

視界が下からフェードアウトしていき、そこからはもう分からない。



 九石はスタンガンを握りしめながらどこかに電話を入れている。久朗津は思いっきり倒れて気絶し、コンクリの床に頭をぶつけ流血していた。




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