第二話 「九石芽虹の輪廻」

起り≪ハジマリ≫

「Sorry to have kept you waiting.Balalaikaバラライカ & Rusty Nehru.ラスティーネール——楽しんでいってね」



 恋文の暗号を解読してから三日後。久朗津はひっそりと賑やかな【Bar・Omikuron】のカウンター席の一番端で突っ伏していた。今日は金曜日の夜ということで常連客の方が大勢来ている。中には外人さんもいる。ここ数年、すすきのだけでなく札幌には外国人旅行客が頻繁に訪れるようになった。それからというもの、このような光景は珍しいものではなくなったのだ。



 その外人さんを含め、常連の大人達は久朗津に興味津々であった。ちらちらと視線を送っている。常連の人々にとっては普段見かけない顔だからというのもあるだろうが、久朗津が店内では圧倒的に若い。この店では珍しいことだったからかもしれない。



 当の本人である僕は紳士的なお兄さんに一度、OL女性に一度、金髪で高身長な巨乳女性には二度も心配された。その度にマスターにフォローしていただいている。心配するのも無理はない。酒場で潰れているのだ。このような人間は大概まともな理由で酒を飲んではいない。楽しむためではなく実感するために飲むのだ。忘れるためと言いながら飲む人間は多いが、それは上辺だけ。良いことも悪いことも実感するために酒を飲み、呑まれている。僕もそうだ。僕はきちんと〝死〟を実感するために飲んで呑まれている。結果、僕は文字通り酒に溺れていた。



「マスター、この子ホントに大丈夫?」



 これでこの人から心配されるのは三度目。マスターの隣にいるこのお姉さんはバイトの方。週に数回【Bar・Omikuron】でバイトをしている〝スピカ〟さん。綺麗な金髪を一つに結んで後ろでなびかせ、腰に手を当てて僕を見下ろしている。揺らぐ視線に映ったバーテン服のシャツは大きく開いていた。しっかり美しく、晒された豊満な胸とチラつく黒の下着に、僕はつい目を奪われそうになる。だけど、今日の僕はそれさえも楽しめなかった。吐きそうなほどのめりこんでいたエロさえも楽しめなかった。何せ死んだのだから。死んだのに生きているのだから。



「久朗津さん、何があったのかよろしければ話していただけませんか」



 マスターは心配そうに僕に声を掛けてくれる。僕はきっとマスターのこの一言をずっと待っていたのだと思う。話すきっかけが欲しかったのだ。断る理由がないのが心地いい。僕は独りよがりとか知らないふりをしながら独白を始めた。



「僕は今日、入院中の芽虹に会ってきたんだ。備え付けられた椅子に座って彼女に視線を向けた。僕と彼女の目が合った時には思わず頬を染めてしまった。そしたら『彼女は暗号が解けたんだね』って続けて頬を染めたんだ。幸せだったよ。心を共有して、汗だくになってどうでもいいことを話して、それからふと僕はお手洗いに行った。彼女の病室に僕が戻ってきた頃、そこには大勢の看護師が行き来していたんだ。原因不明の容体の悪化。看護師の言葉があちこちから聞こえて来て、おかげで僕は状況が分かった。分かったんだけど、いきなりのことで駆け寄ることもできなかった。いろんな人にぶつかりながら、ただ立ち尽くすだけだった。ああ、彼女はそのまま息を引き取ったよ。僕は隅でめそめそと泣いた。声を出さないように、静かに。そのあと警察の人が来てね、どうやら人為的に殺されたようだって刑事さんは言うんだ。点滴に何か人を殺せるようなものを混ぜたんじゃないかって、そういうことだって。それを聞いた僕はひどくひどく苦しんで、苦しくなった。ここから記憶が曖昧なんだ。曖昧な記憶の中でもしっかりと覚えているのが、僕はどうやら殺されたみたいだということ。ロープで吊るされて意識がなくなることははっきり覚えてる。でも場所とか、殺した相手とかは全く覚えていない。どこか遠くから僕が殺されているのを見ている、そんな感覚。僕が死んだあと、そこからまたすべてがぷつっと途切れて、気づけば僕は夜空を見上げていた。見上げた夜空の下にはこの店があって、僕は自然と入ってここに来た」


「でも、久朗津くんはここにいるよ。生きてるじゃない」


「そうなんだよ、だから今、僕は生きていることを実感している。おいしくないウイスキーみたいなのを飲んでる」


「ゴッド・ファーザーでございます」


「でも、意識が〝ぷっつん〟ってなるのを僕は確かに覚えているんだ。嫌な感覚だった。胃酸を飲み干すような苦さ、気味悪さがあった。拭っても拭いきれない。足のつかないプールで足掻くような嫌悪感。うん、でも確かにまだここに残ってる」



 僕は喉元に自然と手をやった。



「はぁ」



 僕は生きている。これは僕の体、僕の記憶で間違いない。では、あれはなんだったのだろう。僕は本当に死んだのだろうか。そもそも芽虹はなんで死ななくてはいけなかったのだろうか。もしかすると芽虹はまだ生きているんじゃないだろうか。死んだことそのものが無くなっているんじゃないだろうか。



 僕は酩酊していた。上へ下へと千鳥足で彷徨っていた。



 ずっと続くんだと思い込んでいたから。でもそれは指の隙間から零れ落ちていったのだから。これからだってときに、奪われた空白は何よりも耐え難い。



「まあ、ゆっくりしていきなよ。私も付き合ってあげるからさ」



 スピカさんはカウンターから出て僕の隣に座ってくれる。それからすぐに僕は包まれた。隣の温もりに包まれて暖められたので、僕は委ねてそのまま崩れた。乗せられた手の平も、委ねた彼女の胸も柔らかかった。不幸でありながらも幸せに触れられた。それが一層悲壮感を増幅させる。僕のくしゃくしゃになった顔はひどく汚いだろう。あまりにも細すぎる幸せが、今は見えなさ過ぎて苦しい。僕は文字通りスピカさんの胸の中で声をかすらせながら泣いた。





 ***







「だいじょうぶ?」


「……はい、すいませんでした」



 「いいのよ」とスピカさんは、マスターから受け取った水を差しだしてくれる。目じりを拭って一口、二口。ぐいっとグラスの水を半分近く飲み干した。嗚咽は繰り返すが、もう涙は乾いた。



「傷心のところ申し訳ありません。失礼を承知で一言よろしいでしょうか? 実は先ほど久朗津様の上着からこのような物が出てきまして——」



 マスターが差し出したのは、一枚の紙きれ。一定間隔でリーダーが刻まれているところから大学ノートの切れ端であることが分かる。そこには震えた文字で次のように書かれていた。



EVCFPEPE




「なぁに、これ」



 スピカさんは僕をもう一度引き寄せ、クッションのように抱いてマスターに聞いた。僕はもうずっとこのまま抱かれていたいと思っていた。



「さて、私には見当がつかないので久朗津様ならご存知かと思いまして」



 僕は首を傾げた。確かに、これは見たことのない文字列だ。文字列は見たことないが、その文字には見覚えがあった。使用されている赤のラメ入りインクはそれをさらに裏付けている。



「……このもじ、芽虹の文字だ」


「それは、先ほど亡くなられたという方ですね」



 「はい」と小さく答えた。するとマスターはこんなことを言い出した。



「もしかすると、これはダイイングメッセージかもしれません」



 まったく、僕というやつはホント現金なものでこれを聞くなり背筋が伸びた。目の輝きと無言の沈黙がマスターに続きを促した。



「この、文字を書くのに使われたペンは普段芽虹さんが使われているものでしょう。久朗津さんはおそらくこの独特なペンのインクから判断されたのでしょうから。死の間際であれば、手元にあるものを使用するのは自然でしょう。ではこの紙に書かれた文字はいったい何なのか。仮に芽虹さんが犯人を知っていたとしますが、これは犯人を示しているのではないでしょうか。告白の返事を暗号にしてしまうほどですから、慎重な方だと思います。直接犯人の名前を書くことは避けるでしょう。万が一犯人に見つかった場合、真っ先に処分されてしまうでしょうから」



 僕はあることを思い出して冷や汗を書いていた。今日の見舞いの途中、急に芽虹がノートを開いて何か書いていた気がしたからだ。僕は特別興味も持たずに作業の終了を待っていたはずだ。そして、そこで僕はトイレに行くために席を外した。立ち上がった時に芽虹は僕の上着の裾を掴んだ。僕は「どうかしたの?」と聞くが芽虹は少し間を作って「なんでもない」って言ったのだ。つまりその時に上着のポケットに紙を入れたのだ。そう、彼女「九石芽虹」は僕が見舞いをしていた時にはすでに体調に異変が起きていたはずなのだ。



 じゃあ、なんで?



 正式に返事をもらったのだから僕と彼女は恋人同士であるはずだ。そんな命の危機ならばなおさら僕に助けを求めるはずじゃないか。



 どうして?


 なんで?



 芽虹の言葉じゃなくて暗号なんだ。自分の命よりも犯人のほうが大切なのか? 



 ……そんなに僕が頼りないのか?



 困惑して怒りと嫉妬に苛まれ、僕はひどく後悔していた。



 見かねたマスターは久朗津に静かに突きつけた。



「君は彼女を信用していないのですか」



 その言葉に僕は顔を上げた。僕を見つめるマスターの顔はいつものような笑顔ではなく、厳しかった。



「何の理由もなしにこのような行動を起こしたとは私は思えません。これだけ精巧な暗号を作る方です。何か訳あってのことなのでしょう。そのように考えることが自然だと、私は思います」




 答えを出すにはまだ早急すぎるってか——。確かに何も知らない僕が芽虹のことを決めつけるのは何か違う気がする。



 では、僕は今、何をするべきなのか。



「あの、マスター」



 決まっている。



「また、手伝ってくれますか」


「ええ、もちろんでございます。私でよければ、お手伝いさせていただきます」



 真実を知るために、謎と疑問を暗号と共に解くことだ。


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