コタロウによろしく

@nekotaneko

プロローグ

 灼熱の太陽とうだるような暑さ。それからようやく解放されるのはお彼岸だと昔の人は言った。

 暑さ寒さも彼岸まで――そんな言葉がまやかしであるかのように最近の夏はしつこく暑い。十月に夏日となることも珍しくない。それでも、今年は昔の人の言葉通り、彼岸を境に急に風が冷たくなった。

 健治はこの涼しさに一抹の虚しさを感じていた。昔は夏の終わり、秋の入口、この季節が好きだったはずなのに。

 思いつきで来てしまった勇福時の参道を歩きながら、健治はこれまでの自分、そして、この二年間のことをゆっくりと思い返していた。

 

   1.

 

 まあまあ、うまくやってきたと思う。別に大きな野心があったわけでもないが、勉強もそこそこできたし、要領も良かった。中学、高校とうまくやり、大学もいわゆる一流と言われるところに入り、今では皆が憧れる新進気鋭のIT企業で働いている。仕事は確かにきつい。他社との競争を煽られ、同僚とも競わなければならない。

 健治は本来、そういうギラギラとした環境が好きではない。向いていないとも思う。けれど、会社でやっていくために仕方なく、ある意味ドライに、冷徹に、ビジネスマンとはどうあるべきかを考えて、そのように振る舞った。

「世の中とはそういうもの」、そう思うようにした。そうでも思わなければ、とてもやりきれない世界だったから。


 両親は健治が大学入学を決めた直後に離婚した。二人とも冷静な人でいさかいのシーンを健治には見せなかったが、健治が高校に入学した当初から、なんとなく不穏な空気は感じていた。心から憎み合っていた離婚ではないと今でも思っている。何かがうまくいかなかったのだろう。大人には大人の事情があると今の健治には理解できる。当時の健治は一見仲の良い二人がなぜ自分をないがしろにして……という思いはあったけれど。


 いずれにしろ、二人はそれぞれの道を歩んだ。既に大人に近かった健治は自ら進言し、いわゆる親権の争いをさせなかった。確固たる信念に基づいて主張したわけではない。なんとなく、そういうことが嫌だなと感じたからだ。

「自分は一人で大学に行き、一人で学び、きちんと卒業する。あなたたち二人は永遠に自分の親だ。一生愛するし、どちらかがどうということもない。ただ、今は自分が大学を出るまでの責任だけ果たしてほしい」


 そのときから健治は一人暮らしになった。両親がそれぞれの場所にそれぞれの生活を求めて去ったあと、家族三人で暮らした家に一人で住んでいる。

 そもそもその家は、健治の祖父が建てた古い建物であったため、数年前に父親が建て替えた。それゆえ、外観は今風で小奇麗。はたから見たら小さな子供がいる若夫婦、それも幸せを絵に描いたような家族が暮らしている、そんな印象を与える家だった。

 庭付き二階建ての一戸建てにたった一人で住んでいる健治だが、周りから見ても不自然なこの環境にはもう慣れた。人の目を気にしてあれこれ考えるエネルギーを使う余裕もない。そのことは心の片隅に放り投げている。

 社会に出てからの健治は、なにより、この殺伐とした日々のストレスを吹き飛ばしてくれるオアシス――そういうものを痛切に欲していた。お互いのミスをフォローしあったり、落ち込んでいれば飲みに行って愚痴を言い合ったり……そんなドラマのような景色が理想だった健治とって、「他人の失敗は蜜の味」という現在の会社のありようは、乗り越えることはできこそすれ、決して相容れないものだった。

 ただ会社に行って帰ってくるだけでも人間性の一部が消失する。繰り返す鬱屈した毎日が心を蝕み、ほとほと疲れきっていた二年前の夏。健治に、ある意味運命とも言える契機が訪れた。


 近所の人から犬を飼える人はいないかという話を聞いたのだ。

ボランティアとして恵まれない犬たちを保護していた近隣住民が、事情によりこれ以上育てることができなくなり、近所に受け入れられる人がいればお願いしたいという話だった。ゴミ捨て時の雑談で聞いた噂話だったが、その後、町内の回覧板にもその旨が載っていた。

 普段、回覧板など一瞥もしない健治だったが、このときは違った。あまりにも心が疲弊していたのだ。

 五時半に起きて七時には出社。取引先との折衝、内部システムの構築、新人の教育、ライバル社員が気合い満々で臨む会議。気付けば帰宅は深夜。同じように先進的業界でバリバリ働くやり手の彼女に弱みは見せられない。

「何か血の通った温かい場所を見つけなきゃ、自分は壊れてしまう」

 そういう思いが日々心の中で大きくなっていた。だからなのか、その日、そのときだけは、導かれるようにこの回覧板を手に取ってしまっていた。


「引き取ってまだ八日の生後三か月の雑種(雄)です。殺処分となるところを保護しました。心ある方に里親になっていただければ幸いです」

 三軒隣の鈴木さんのコメントが載る回覧板を健治は何度も読み返した。

 仕事ではテキパキ動く健治だが、休日はまるで別人。呆けたようにテレビを見ては、ほとんどそこから動かないまま夕暮れを迎えるのが常だった。それほど無精な健治が、どういうわけか、その記事を読んだあとはさっと動いた。瞬間的に立ち上がり、ぼさぼさ頭によれよれのトレーナー姿のまま鈴木さん宅の呼び鈴を鳴らす。

 穏やかな顔で迎えた鈴木さんに健治は「自分がちゃんと育てます。子供の頃に犬の世話をしたこともあります」――実際健治は子供の頃犬を飼ったことがあった。といっても離婚前の両親が好きで飼った犬で、世話もほとんど両親がしたのだが――と誠心誠意説明した。なぜ、あそこまで、と自分でも思うほど熱く、必死に。


 大きな家に、男の一人暮らしで、大した事情がなくても周囲にうとまれる材料がある健治は、あらぬ誤解を受けぬため、普段から礼を失せず、挨拶も欠かさなかった。そんな健治を鈴木さんはよく思っていたのだろう。特に驚きもせずに捨てられた雑種を譲ってくれた。健治は鈴木さんに感謝し、「ちゃんと世話します」と言い切った。

 その雑種は白毛で頭と足に少しだけ黒ぶちがある、やさしい顔をした中型の犬だった。大きめの耳は先が少し垂れさがり、目は真っ黒で大きい。

 引き取った直後はさすがに警戒してか、なかなか近くに寄ってこなかったが、健治は自分から近づくことはせず、ひたすら待った。

 日常、冷たいコンクリートの中で生きている健治は、小さな部屋で自分以外の生命体とお互いの息遣いを感じ合って向き合う状況だけでも、あり得ないほどに心が安堵した。


 健治の様子を、離れたところから覗く雑種犬。じっと待つ健治。一時間ほど過ぎたころだろうか、雑種の子犬は「キュウーン」と小さな声をあげた。健治は鈴木さんからわけてもらったドッグフードを鼻先に差し出す。と、子犬は警戒をあっさりといてフードをガツガツと食べ始めた。


「よっぽど腹減ってたんだな。現金というか、子犬らしいというか」


 健治は久しぶりにほんわかとした気分で笑った。そのときの健治は、それだけのことで乾いた心がいっぱいの水で満たされる思いだった。

 そこから健治と雑種の生活が始まった。健治は雑種に「コタロウ」と名付けた。なんとなくイメージに合っていたからだ。


  2.

 

 何を見るでもなく勇福寺の参道をぼんやりと歩き進んでいた健治は、コタロウとの出会いを思い出したところで、ふと目に入った情景に意識を引きもどされた。

 ご主人さまを愛しそうに見上げながら、得意げに歩いていく犬たちの姿。この寺の敷地内が犬の散歩コースとしても人気だったことを思い出す。

 他の人が見ればなんてことない景色だろう。しかし今の健治には特別で尊いものに映る。微笑ましくも切なく感じるその様を見て、健治にまた、コタロウとの思い出が蘇ってくる。

 

 はじめての散歩。

「コタロウ、おまえの首輪とリードだぞ。絶対似合うぞ」

「アウアウアウ!」

「そうか! よし、行こう!」

 多くの動物を保護していた鈴木さんによると、他の犬猫の世話があり、まだ子供のコタロウはほとんど外に出られなかったという。

 だからだろう、コタロウは跳ねた、そして飛んだ。うれしさを爆発させて興奮した表情で健治を見上げながら走り回る。思い返していると、当時の自分の声まで鮮明に聞こえてくる。

「ほらほら、コタロウ。そんなにはしゃぐなよ。明日も明後日もあるんだから」

 会社と家との行き帰りで、近所のことにすっかり疎くなっていた健治は、知らぬ間に変わっていた街の様子を見て思わず自嘲した。

「こんなところに公園ができてたんだな……」

 まだ残暑厳しい夏の日差しの下、木陰のベンチでコタロウと佇む。

 木々の間をすり抜けて青い匂いを運んでくる、忘れかけていた外の風を感じながら、健治は二人のスタートを心の中で祝った。

「コタロウ、俺が大事に育てるから安心しろ。二人で楽しく暮らしていこう。そうだ、おまえの首輪、食器なんかを揃えなきゃな。とにかくよろしく」


 健治は飼い主としての責任を果たすべく犬に関する本を読みあさり、コタロウが快適に過ごせるよう必要なものを揃え、やんちゃで遊び盛りのコタロウのためにおもちゃを自作したりもした。

 日々の散歩も欠かさず、どんなに眠くても早起きし、どんなに疲れて帰宅しても二人で近所を歩いた。

 いつの間にかできた近隣の犬友と話す何でもない会話は、健治の心にこびりついた垢を洗い流してくれた。それは掛け値なしに楽しく、会社での不毛な雑談とのギャップを考えると、苦笑いしてしまうほどだった。


 家でのコタロウは甘えっ子そのもので、健治がトイレに行けばドアの前で待ち、風呂に入れば出てくるまでドアを開けてと悲しそうに鳴く。だから健治はいつも自分の入浴をコタロウに見学させる羽目になった。

 食事を作るときも、居間でテレビを見る時もコタロウはいつも健治の横にいた。うっとうしいなんて思わなかった。むしろ本当の意味で自分を必要としてくれるコタロウを愛しいと感じた。

 コタロウとの生活にだいぶ慣れてきた秋。健治は昨年までの自分なら考えることもしなかった「紅葉狩り」に行くことにした。平日、どうしても一人でいる時間が長いコタロウために、色々と調べて温めてきた企画だ。

「今日は遠出に連れてくぞ、コタロウ。車で大人しくしてられるか?」

「アウワウアウッ!」

「今からこの赤い車に乗って真っ赤に染まった山に行くからな。二人で歩こう」

 パタタッパタパタッ

「おわっ、テーブルの近くで尻尾振るな! コーラがこぼれる!」


 引き取った当初は幼すぎたので車に乗せることはしなかったが、この企画のため、体も大きくなってきたコタロウを普段の買い物時に車に乗せて慣らせ、暴れないようちゃんとしつけた。

 道中、流れゆく景色のすべてに反応して興奮するコタロウ。

 それを見守りながら、健治はハンドルを握る。

 到着した山で、落ち葉の積もる林道を走り回るコタロウ。遠くでキューンと鹿の鳴く声が聞こえる。二人で山中を何キロも歩き、ヘトヘトになって家路に就く。

「こんなに疲れたの、何年ぶりだろう。コタロウ? おまえはちっとも疲れてないな」

 帰りの車中でもはしゃぐコタロウを見て半分呆れて笑ってしまう。

 以来、車での遠出は健治とコタロウの定番イベントとなった。冬は近郊の公園や行楽地へ行き、ときにはドッグランでコタロウが満足するまで走らせる。春は花見の名所を巡り、夏は海で一緒に泳いだり、川べりでバーベキューもした。

 旅行など縁のなかった健治だが、コタロウとの遠出がきっかけで泊まりの旅行にも行くようになる。忙しくてお金を使う暇もない健治の唯一のお金の使い道はコタロウだった。

 新潟の日本海側まで行って海水浴。日光、谷川岳、昇仙峡に紅葉狩り。春夏秋冬、旅先でコタロウと季節を感じる時間は新鮮で、大都会での生活に染まり、そういう志向はないと思い込んでいた健治は自分自身に驚きも感じた。


「おまえのおかげでいいことを知ったよ。ありがとな」


 遠出から帰るたび、健治はコタロウにそう語りかけていた。

 つらいことがあって一人自宅で飲むときも常にコタロウは傍にいた。風邪で寝込んでいる時は、まるで病気を知っているかのように寄り添ってくれた。

 当時付き合っていた彼女はコタロウを気に入っていた。彼女が去っていく時、コタロウは小さくキューンと言った。

 二人の仲がどうにもならないことを知らないはずのコタロウのその鳴き声が、健治には一番つらかった。彼女が去ったことよりも。


 二人で開発した数ある遊びの中で、特にコタロウが好きだったのが湖でのボール投げだった。車で三十分ほどのところにある湖に行き、静かに周辺を散歩。しかし、健治がピンクのプラスチックボールをポケットから取り出すとコタロウの興奮は一瞬でMAXに達する。

 ダダダッと走って岸へと向かい、健治が動くのをいまかいまかと待ち構える。健治はそれに応えて湖にボールを投げる。

「ほらっ、とってこいコタロウ!」

 必死に泳ぎ、ボールをくわえて戻るコタロウ。「ボク、やったよ!」とでも言うようにハァハァするコタロウの頭をゴシゴシ撫でながら褒めてやる。

「よし、泳ぎもだいぶうまくなったな。えらいぞ」

 またボールを投げる健治。コタロウは何回やっても自分からはやめない。最後は健治がコタロウを心配になり「今日は終わり! また今度な」といって強制終了となるのだった。

 

 コタロウと幸せな日々を過ごす間、健治の会社での生活は相変わらずだった。同期、同僚はいても助け合うわけでもなく、むしろ心を許せない仲。出先では他社と天秤にかけられ神経を使い、クビになったり自ら辞めていく同僚を見るのは日常茶飯事。

 しかし――

「本当の自分はこういう人種に囲まれているはずではなかったのに……」

 という、それまでの数年間、四六時中、頭の中にこびりついて離れなかった思考はもう、健治を支配しなくなっていた。

 いつもモノトーンに映っていた街並みにはしっかりと色がついて見え、会社帰りの電車から見る夜景にも寂寥感を感じない。なんとなく一人だった自分はすっかり一人ではなくなっていた。小さな雑種犬が荒みきった健治の心を救ってくれたのだ。


 コタロウが来て一年半が過ぎたころ、健治は唐突に部署のリーダーを任され、これまで以上のストレスに耐えなければならなくなった。

 健治は激務の中でもコタロウを愛した。以前より少なくなったとはいえ、散歩もしたし遠出もした。コタロウも毎晩疲れて帰宅する健治を、足音だけで判断して玄関にダッシュし、いつも変わらず手厚く出迎えてくれた。コタロウと二人の楽しい生活に何ら変わりはなかった。ずっと続くはずだった。

 しかし今から一か月前、コタロウが来て二年が経ったとき、健治はまたモノトーンの世界に戻ってしまった。


   3.


 会社でのことはいいことも悪いことも全然思い出せないのに、コタロウとのことは記憶の淵から湧き出るようにやってきて、そしてあふれ出すように蘇るんだな……。そんなふうに思いながら、ぼんやりと歩を進めていた健治は、山門の階段前に到着して立ち止まる。

 勇福寺。その敷地内。毎年九月下旬のお彼岸の時期になるとたくさんの人で賑わう。寺の敷地内には動物の霊園があり、愛猫、愛犬の墓参りをする人が大勢やってくる。

 霊園の傍にある小屋では、ボランティア団体や有志の個人による里親募集の会が毎年開催されていた。動物を愛する人たちが、人生の大事な時間を共にし、愛情を注いだ相棒たち、天命をまっとうして天国へと旅立った彼らたちの供養のために毎年訪れる霊園。

 その傍で彼岸の時期に里親募集会を開催するのは、不幸な境遇に生まれた動物たちを保護する人たちの意図と合致するのだろう。

 その会場の端にある広場の一角に健治は辿り着くと、自嘲気味に一人呟いた。

「ほんとに来ちゃったよ。どうかしてるよな、俺」

 昨日、というか今日の午前一時まで会議に出ていたため、肉体的にも精神的にも疲れ切っていた健治だが、帰宅して缶ビールを一本飲み、ボーっとしながら取り上げたタウン誌の端に

「めぐまれない犬・猫たちの里親募集会、明日、明後日の二日間開催。場所は勇福寺敷地内――」

 という記事を偶然目にしたのだった。

 普段ならそのままゴミ箱に直行させるタウン誌。読んでも素通りしてしまう記事。

 愛犬を亡くしたのはわずか一か月前のことで不謹慎とも思ったけれど、それを手にとって読んだことが健治には必然のような気がしていた。そう思って行動することが救いのような気もした。

 自分は動物が好きだし、里親となることは一つの命が救われることにもなる。最近は里親になっても動物を虐待する人もいるという。こんなどうしようもない自分だけど、引き取ることで一つの命が幸福な一生を過ごせるなら、それは素晴らしいこと。そういう善行の意味合いもあった。

 しかし本当のところ、一週間の疲れと今の自分の疲弊した精神状態を考えたら、朝起きて勇福寺に行くのは難しいとも思っていた。

 行けるわけがないから、動物を飼うという大変な準備、覚悟が必要で面倒でもあることを安易に考えているのだと自覚してもいた。健治にとってそれは言い訳でもあり賭けでもあった。起きられたら里親募集の会に行こう。起きられなかったらそのまま寝ていよう。

 行くかもしれない。

 そう考えるだけで、いいことをした気分になった。

「こういう意識を今でも持っている俺をコタロウは褒めてくれるかな」

 でも、予想に反して健治は翌朝早くに起きることができてしまった。ふらふらに疲れていたからやめたってよかったのに、どうしてか重い足を引きずり、勇福寺に向かってしまったのだ。


 勇福寺は、健治の家から電車で一時間ほどの、住宅街に位置する大きなお寺。季節によって様々なイベントが開催される有名な寺院で、芸能人が食べ歩きしたり、映画やドラマの舞台になったりもする。敷地内にある動物霊園は手厚い供養、本格的な施設などが有名で、圧倒的な支持を得ていた。

 会場には亡き愛猫、愛犬を偲ぶ人たちが想像以上に多く訪れ、お墓参りとは相反するお祭りムードの様な盛り上がりを見せている。

 健治はそれを冷ややかな目で見た。自己満足に過ぎないんじゃないか? という思いがあったからだ。

 健治は一か月前、愛犬コタロウの亡き骸を自宅の庭に埋めた。

 コタロウは庭の山椒の木の根元の匂いがどういうわけか好きだった。散歩の最後にいつも山椒の根元の匂いを嗅ぐ。だから、コタロウが亡くなったとき、「霊園に埋葬」という選択肢は全く浮かばなかった。コタロウが好きだった庭に埋めてやろう。それが、コタロウが一番喜ぶことだからと思ったのだ。


 里親探し会場は、実際は霊園の端っこで、お義理で何とか開催を許された感じのこぢんまりしたものだった。プレハブの簡易小屋で、中のスペースはおよそ十畳。小さな小屋の入口に「里親さん大募集」と書かれた看板がある。どこから情報を仕入れてきたのか、会場には多くの人が集まっていた。

「うわべの動物好きが……。本気で飼う気もないくせに」と健治は冷めた口調の独り言で断罪する。ただ、かわいいと言うのと、一緒に暮らすのとはわけが違うよ、などと思いつつ、小屋をじっと眺めていると、小屋の遠く奥にたくさんの露店のようなものがあるのが見えた。

 これも恒例のイベントなのだろうか。昨日の疲れで今すぐにでも横になりたい気分だが、せっかくきたのだから寄ってみよう。

 特に目的もなく、テンションも上がらない健治はなすがまま、流れに任せて露店に向かう。


   4.

 

 露店スペースには犬猫をあしらったアクセサリーやコースター、籐細工など、店主が自作した小物を売る雑貨店が並んでいた。本当に動物が好きな人が同じく動物が好きな人のために、利益を考えずに自分の趣味で作った作品を譲る。そういう意志で店を出しているように健治には思えた。新たに動物の里親になろうという人が多く訪れる場所柄、きっと、その人たちと心を同じくする人たちが店をやっているのだろう。

 健治は一通りの店を見て回った。およそ一列十店、全部で四列ほどの露店が並ぶスペースの、里親会場から見て一番遠い端っこの露店から、さらに少し離れたところに一人の老人がスペースをとっているのが目に入った。

 老人は小さな折りたたみ式の椅子に座り、目の前に掲げたキャンバスに絵を描いている。その周りの地べたには、見本なのか、これまで書いた犬猫の絵がいくつか並べられていた。

 近くまで寄ってみると、小さな看板が置かれており、そこには「思い出の犬 思い出の猫の似顔絵描きます」と書かれていた。


 健治は面白いなと思った。

 思い出のってことは亡くなった犬猫限定? だからお彼岸に出してるのかな。

 考えると同時に、健治は不思議と躊躇なく老人に話しかけていた。

「死んじゃった犬の絵を描いてくれるんですか?」

 集中して目の前のキャンバスに向かって筆を動かしていた老人は、手を止めると、目線だけ健治に向けた。

 白い長そでTシャツの上に釣りで使うようなベストを纏い、現場作業員が履くようなダボダボのズボンを穿いている。わずかに残った短い頭髪は白く、七十歳過ぎと思われる老人だが、その眼光は若くてシャープ、そして澄んでいた。

「生きているなら今のそいつを見てやればいいと思うが……。どちらでも構いませんよ。あなたの犬。それだけで十分です。描きますか? 一枚二千円ですが」

 二千円? ちと高いかなと健治は思った。正直ただの雑談がてら寄っただけで、絵にたいした執着もない。当の老人もここぞとばかりに営業に走る様子はなく、健治が依頼してもしなくてもどちらでもという雰囲気。穏やかな笑みを浮かべつつ、筆の手入れなどをしている。

 どうしようかと思ったが、地べたに並んださしてうまいとも思えない絵に健治はひかれた。コンテストに出れば落選濃厚と思えるデッサンだが、なぜか健治はそれらの絵に言いようのない郷愁を感じたのだ。

 今すぐにでも画用紙から飛び出して、飼い主のもとに走り出して行きそうな「命」を感じる画風。そう見えてしまうのはきっと疲れているからだろうと思ったが、会社と家の行き帰りの生活で最近まったく金というものを使ってない。

「俺の犬を描いてくれ」健治は老人に告げた。

「わかりました。では、犬のことを聞かせてください」

 二千円を出しながら健治は亡き愛犬のことを思い出し始めた。

 たまたま近所の回覧板を見た健治が引き取ることになった一匹の雑種犬。初めての散歩。車での遠出。湖でのボール投げ。楽しかった日々。いつもつながっていた最高の友達……。そして突然の別れ。

 健治の脳裏にふいに、後悔してやまないあの日の記憶が押し寄せる。


 一か月前の休日の土曜日。前日の長時間の接待で疲労困憊した健治は大事な書類の郵送を忘れ、家に持って帰ってきてしまった。

 本日午後五時必着の書類。特急便で送れば間に合うので、朝一番で宅配業者の出張所に行くことに。

「コタロウ、行ってくる。すぐ帰ってくるから」

 コンビニに雑誌を買いに行くときと同じ、短い時間の外出を意味する手振りをして健治は家を出た。それがコタロウと交わす最後の言葉となった。

 どうして、あのとき……。

「コタロウ君の顔の特徴を教えてくれるかな」

 老人の言葉に健治は驚いて我に返る。コタロウのことを話そうと記憶を反芻しているうちに、つい、いやな記憶に呑み込まれてしまっていた。

「あ、えーっと、色は白。耳は大きくて先が少し折れてて、目は黒くてタレ目気味――」

 一つ一つの造形を伝えると、そのたびに老人は細やかに筆を動かす。

 描きながらも、老人はコタロウの大体の生年月日、特徴的仕草、好きな遊び、好きな食べ物、癖などを淡々と訊いてきた。そして、ときおり青く透き通った空を仰ぎ、目を閉じ、そして、また筆を動かす。

 ほどなくして老人はキャンバスを反転させ、描き終えた絵を健治に向けた。

 それはコタロウの顔のアップを描いたものだった。

 はじめ、健治は期待とは違う微妙な出来栄えに、どうリアクションしていいか戸惑った。観光地の似顔絵名人が描くような、あからさまに似ている絵を期待していたからだ。

 だが、がっかりしようとしたのも束の間、なんとなくその絵から目が離せなくなった。いいようもない感覚が健治を襲う。

 いわゆる似ている絵ではない。でも、それは間違いなくコタロウだった。思わず絵を抱きしめてしまいたいほどにコタロウなのだ。

 健治は胸がドキドキした。すごい……。今日はすごい日だ。自分の感性にピタリと合う、そういう絵をこの老人は描いてくれた。多くの人が居並んだ露店を巡る騒がしい広場の一角で、健治はひそかに感動していた。来て良かったとしみじみ思った。

 すると健治のそんな様子を見ていた老人が「おっと」と小さな声を発する。老人は即座に筆をとり、絵に少しだけ加筆して健治に返した。そして一言、健治に告げた。

「今夜はお笑い番組を見ながらお酒を飲むといい。その傍にこの絵を置いておいてくれ。コタロウくんはそれが好きだから」

 健治は微笑み、ありがとうと老人に告げた。

 そう、激務を終えた週末の夜、帰ってシャワーを浴びると、ビールを飲みながらお笑い番組を見て一人笑うのが健治の習慣だった。それが会社に人間性のほとんどを奪われた健治の数少ないストレス発散の一つだった。

 そして、その横には常にコタロウがいた。

 コタロウは健治が帰ってくる足音を聞きつけるとダッシュで玄関まで走り寄り、ドアが開くと健治に飛びついた。疲れている健治は邪険にはしないものの、適当にやりすごし風呂場へ直行。出るとビールを飲み、寄り添うコタロウを撫でながら、録画したお笑い番組を見て日常の嫌な記憶を洗い流すのだった。


   5.

 

 お彼岸の勇福寺に行きながら結局、当初の目的だったはずの里親募集会場には足を踏み入れず、早々に帰宅した健治は、居間のテレビ横に立て掛けたコタロウの絵をいつまでもまじまじと眺めていた。

 いわゆるうまい絵ではないが、何故か引きつけて離さないそのタッチにいつまでも見入ってしまったのだ。

 ただ、見ているうちになんとなく違和感というか、不自然さというか、何かモヤモヤしたおかしなものを健治は感じ始めていた。顔が浮かんでいる俳優を何の映画で観たのか思い出せそうで思い出せないような感覚。確かに何かに閃いたはずなのに、何に閃いたのかわからない。なんだろう……と思いつつ、ボーっとその絵を見続けてしまう。

 お笑い番組を全部見終わった頃には缶ビール三本、ワイン一本を開けていた。今日はすべてを忘れて久しぶりに気分よく酒が飲めた。立て掛けた絵を見て言う。

「コタロウ、おまえのおかげだよ」

 亡き愛犬を思う自分に酔っているかな……。寝室に行こうと足を踏み出したとき、それまで漠然とあった違和感の正体に気付いた感覚に襲われ、あの絵をもう一度凝視する。


 コタロウはよくいる雑種だが、特有とも言える変わった模様がいくつかあった。その一つが額の右上部にある黒い斑点だ。

 基本白一色の顔なのだが、そこにだけ黒い毛があり、しかもその密集した毛はなんとなくトランプのハート型を少し崩したような形だった。

近所を散歩しているとしばしば「あら、この斑点、ハートの形みたい。愛にあふれた子なのねぇ」などと通りすがりのおばさんに話しかけられたものだ。

 老人が最後に書き加えた部分はあきらかにこのハートの斑点。

「斑点のこと、言ったかな……」

 確かにコタロウの特徴はたくさん話した。でも、それは言ってないのでは――とかなり強く思ったものの、確信は持てなかった。

 まさかね。偶然か……と健治は流そうとするが、どうにも妙な感覚がして、酔っぱらった頭をフル回転させる。そして、老人との会話を全部振り返ってみると、あることに気が付いた。

「俺は、お笑い番組を見て酒を飲む、そんな話はしていない……絶対に」

一気に目が覚めた。


   6.


 今年の猛暑も今度こそ終わりだろう。そう感じる朝だった。くっきり白かった雲は淡くかすれたようになり、心地よく吹く風には、あきらかにこれまでとは違う低い温度の空気が混ざっていた。

 里親募集の会二日目。十時開催の現地までは電車で一時間なのだから、九時に出れば間に合うのに、一度目が覚めたまま眠れず、結局、朝五時に起きたまま八時まで漫然と過ごしてしまった。この三時間は三○時間にも感じるほど長かった。早く里親会に行き、あの露店スペースで、あの似顔絵描きの老人に会いたい。そのときが待ち遠しい。

 起きてからの健治は昨日、老人と話した内容をもう一度、一つ一つ思い出しては整理していた。どんなことを話したっけ……。色々訊かれたし、懐かしい昔のことを思い出して、訊かれた以上のことも話してしまった。けど、ハート模様とお笑い番組のことだけはどうしても話した記憶がみつからなかった。

「行ってみればわかる……」

 母親、友人、別れた彼女からの留守電と着信を無視して、少し早いが八時すぎに家を出る。

 

 二日目の勇福寺も大賑わいだった。

 まだ朝だというのに団子やお焼きを売る店には軒並み人だかりができている。歩きながらそれを見た健治はふと昔のことを思い出し、一人吹き出してしまった。健治がコタロウと歩いた夏祭りの風景によく似ていたからだ。そのとき、健治は今でも忘れられないコタロウの「顔」を見たのである。

 コタロウが来て一年が経った夏、近所の祭りに出かけた健治とコタロウはすっかり夏の夜を満喫し、地べたに座って夕涼みをしていた。

 そこに予想していなかった大きな花火がドドン、ドドドンと何発も打ち上がり、パニックになったコタロウは猛然と走りだしてしまったのだ。

 すぐに追いかけた健治だったが、人ごみの中にコタロウを見失ってしまう。汗まみれになりながら会場中を探しまわったもののコタロウの姿は見つからず、途方にくれていたとき

「主催者からのお知らせです。迷い犬を保護しています。飼い主の方は――」

 とスピーカーで案内が流れ、健治は事務所へ駆けつけたのだった。

 慣れない場所で緊張していたのだろう。事務所奥の椅子に座るコタロウの、目が点になってキョトンとしたその顔が、健治には花火でびっくりして逃げ出してしまい「ばつが悪い」という表情に見えた。

 ホッとして泣いてしまうかと思っていたのに、そんなコタロウを見た瞬間、なぜか健治は大笑いしてしまったのだ。「その顔傑作だぞ、コタロウ!」

「あの顔」は健治の中でコタロウの面白顔ベストワンとなっている。


 ペット供養の人たちも霊園へと行列をなしていた。健治はその霊園の少し向こうの一角に歩を進める。

 里親募集の会は十時からの予定だが、小屋の前には次々とボランティアの人たちが里親を待つ動物たちの搬入をはじめている。健治はその様子を眺めながら通り過ぎ、奥の露店スペースへ向かう。ぼちぼち出店していたが、目当ての老人はまだ来ていないようだった。

 健治は引き返し、時間前に開始された里親募集の会場に入ってみた。中ではキャーキャー、ミャーミャーという子猫の鳴き声が響いている。

 十畳ほどのスペースに犬猫が入った二十ほどのケージやキャリー。それにボランティアや見学者が入り乱れ、人いきれが半端じゃない。成人男子の一人見学は珍しく、人目がかなり気になる。それもあって、健治は早々に小屋を出た。小屋の外から遠巻きに中を見る。

 里親となるべく訪れた人たちが代わる代わる犬や猫を抱いていく。引き取り、引き取られ、新しい幸せな生活がこれから始まるのだろうと思うと、少し妬ける。自分は大事な相棒を失ってしまったのだ。


 霊園近くをとぼとぼ歩きながら、健治はいつもの後悔を打ち消そうとしていた。あの日、朝から宅配の出張所などに行かなければ……。

 帰宅した健治が見たのはコタロウの変わり果てた姿だった。今まで一度だってリードをほどいて道路に出たことなどなかったのに、どうして……。

 つないでおいたはずのリードがはずれ、愛車の赤いスポーツカーに飛び乗ったコタロウは、塀を越えて道路に出てしまい、たまたま通りかかった運送業者のトラックに自宅前で跳ねられたのだ。誰も見たものはいなかったが、車に引っ掻き傷のようなものがついていた状況と、コタロウが道路に横たわっていた事実から、健治はそのように結論づけた。

 この一か月、何度も自分を責めた。とことんまで自分を責め過ぎてしまう健治は、自分に逃げ道を作らないとやりきれないと感じ、会社が忙し過ぎたのが悪い、両親が早々に離婚したのが悪い、別れた彼女が悪い。そう考えるようにした。

 そうやって他のものに責任を転嫁することでしか、突きつけられた現実から逃れる術がなかったのだ。

 

   7.

 

 気付けば十時半を回っていたので、健治は再び露店スペースへと向かう。ほとんどの出店スペースに店舗が設置され、さっき来た時よりも多くの客で賑わっている。そして、一番奥を見てみると、目当ての老人が高校生くらいの少女と談笑している姿が目に入った。

 話が終わり、少女がおじぎをして去るのを見届け、健治は老人の前に歩み寄る。

「やあ、また、あなたか」

 老人は驚いた様子もなく健治に話しかけた。

「その筆は、話してない特徴も、的確に表現してくれるんですね」

 健治はやさしい口調ながら、自分でも何故そんなことを言う? と思う攻撃的言葉を投げかけた。

「ああ……、これは普通の筆だよ。こっちは専用のものだからちょっと値が張るけれど」

 しかし、老人は怯まず穏やかに返答する。健治は昨日のことを問い質そうかと悩んだが、結局――

「あの、また描いてくれませんか? 今度は全身の絵が欲しいんです。昨日描いてもらった絵がすごく気に入ってしまって。全身のものも欲しいなと」

「そうか。じゃあ、悪いけど二千円もらうよ。顔の特徴は覚えてるから、尻尾や脚の長さ、全体的なシルエットだけ教えてくれるかな」

 健治はコタロウの身体の特徴を詳細に伝えた。中型だけど小型に近い中型なので体高はそれほどでもない。身体の毛は短いけれど、ところどころ長い毛も交じっている。尻尾は三十センチくらいで、ぽわぽわとした長い毛が生えている。

 老人は話を聞き、うんうんと頷きながら筆を進めていく。昨日ある程度話していたこともあって、完成までの時間は昨日の半分、十五分ほどだった。

「こんな感じかな」

 老人は画用紙を反転させ、健治のほうにかざして見せた。絵を見た健治は一つ注文し忘れていたことを思い出し、ああ、すみませんと老人にお願いする。

「コタロウは基本、真っ白な犬だったけど、足の先に黒い斑点があったんです。それがあいつの特徴だった。付け足してもらえますか?」

「お、了解」

 そういうと老人は細めの筆に持ち替え、足に斑点を付け加えた。完成した絵は昨日感じたのと同じで決してうまいというわけではない。デッサンは崩れていないが、版画のような無骨なタッチで、なんとなくギリギリ大丈夫という感じだ。ただ、作風は温かく魅力的、一度見入ると目が離せなくなるほど特徴的。そしてやはり、どこまでもコタロウだった。

「おじいさん、昨日、どうして俺が話してないのに、コタロウの額にハートマークを描いてくれたんです?」

 水入れにペットボトルから新しい水を入れ、残り水でパレットを洗い流していた老人の手が一瞬、止まったように見えた。

「ああ、あれか。あれは……、コタロウ君が、それをちゃんと描いてと言ったからだよ」

 言って老人は笑う。マジな話なのか、たまたま当たったことを冗談めかして言っているのか健治にはわからない。はっきりしているのはこの老人が、健治の説明以外からコタロウの特徴を知ったということだ。

「今描いてもらったこの全身の絵。右前脚に黒い斑点を追加してもらったけど、俺はどの脚かは言ってない……」


   8.


 老人はパレット洗いを続けながら、悲しそうにも見える表情で薄く微笑むと、おもむろに作業の手を止めた。そして、居住まいを直すと覚悟を決めたような鋭い表情で健治に語り始めた。

「昨日、コタロウ君の絵を描いているときに、彼が君に言いたいことがあると話しかけてきた。ハートマークはそのときに見えた。いや、信じないならボケた老人の話と思って忘れてくれ。気を悪くしないでくれよ」

 何を言ってるんだコイツ、とは思わなかった。額のハートマーク、足の斑点だけじゃなく、老人の絵の節々には、健治しか知り得ないコタロウの特徴が散りばめられていたからだ。それは技術的なものじゃない。なんとなくの雰囲気。コタロウを知る者でないと表現しようのない佇まいなのだ。

「信じますよ。信じます! だから、教えてほしいんです。コタロウが俺に何を言いたいのかを。おじいさん、わかるんですか!? だったら教えてください!」

 老人はまた悲しそうにも見える表情で涼やかに微笑した。

 そして静かに「その絵を貸してくれないか」と言った。

「絵を?」

「そう。コタロウ君の絵だ。君は知りたいのだろう? コタロウ君の思いを。ならその絵をちょっと渡してくれ。でも、彼が何を言っても、君は彼を愛すると誓えるかい?」

「俺はコタロウが好きだった。友達としてこれまでもずっと大切にしてきた。誓うまでもないことだけど、誓うよ」

 老人はわかったと小さく頷くと、背後からもう一つ折りたたみ椅子を取り出し、絵の道具を置いた敷物を挟んで立つ健治に手渡した。健治がそれに座ると老人はコタロウが描かれた画用紙の下の二角を両手で持ち、向かいの健治に上の二角をつまむように言った。

「声は私の中で作られたイメージだが、その言葉はコタロウ君のものだ」

 健治を鋭い目で見据えた老人がそう言った刹那――

 バシュッと音がしたように感じた直後、健治の耳にさっきまで入ってきていた雑踏の音、露店で賑わう人々の話し声、木々の擦れ合う音、すべての雑音が一切消えた。

 完全な静寂の中、自然と目をつむった健治の耳に小学生くらいの少年の声が語りかけてくる。実際音が聞こえているわけではない。でも、気持ちがすーっと入ってくるように、心が音を聞いた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 なんだかわからないけど、お兄さんに会えなくなっちゃったよ。どうしてかな。

 ずっとずっと会いたくて、一緒にいたくて、でも、できなくて、困ってたらおじいさんが教えてくれたの。もう会えないんだって。そうなんだと思ったら、キューンってなっちゃった。でも、おじいさんが昨日、明日はきっと話せるよって言ってくれたから、ボク、たくさん考えたんだ。



 最初はね、楽しかった水たまりの話。赤いブルルンに乗って、よく連れてってくれた大きな水たまりで、ちゃんと遊べなくてゴメンネ。

 最後に行った日、ボク、一生懸命がんばったんだけど、最後は胸が苦しくなって、足も動かなくなっちゃったの。でも、ボールを取ってきたかったんだ、ホントだよ。取ってくるとお兄さん喜んでくれるから。

 ボクが取れなくて、お兄さん機嫌が悪くなっちゃった。今度行ったときにはもっとたくさんバチャバチャしてゼッタイとるぞって思ったけど、あの日からあそこに連れてってもらえなくなっちゃって、ボクのせいだと思って……だからゴメンナサイ。許してくれるかなぁ……。



 ボクね、たまにお兄さんがキイロいのをゴクゴクしながら画が映る板を見て笑って、ずっと一緒にいてくれる時間が大好きだったんだ。ずっとずっと手で撫でてくれた。お兄さん、アリガトウ。



 テーブルの上にあったおまんじゅう、食べちゃって、ゴメンネ。



 赤いブルルンで行った中で、白い服を着た人と、ボクの仲間がいる場所はキライだったんだ。だっていつも痛いことするんだもの。だから、ボク、走っちゃったの。お兄さん、すごい勢いで追いかけてきてボク、どうなってるのかわからなくなっちゃって、もっと走っちゃったの。ゴメンナサイ。


 最後にピンクの木の下をたくさん散歩したとき、ボク、すごくうれしかったんだ。そのころお兄さんとぜんぜん遊べなくていつもハフハフしちゃってた。でも、遊んでくれて。アリガトウ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 突如ガクッと膝から落ちた健治は我に返った。目の前には絵を持ったあの老人が例の悲しそうな微笑みでこちらを見つめている。

 健治の顔はもう、涙でグシャグシャだった。

 コタロウ、おまえは何も悪くない。これ以上……、

 これ以上、謝らないでくれ……。

 健治の頭の中で、忘れていた負の映像が一斉にフラッシュバックする。 

 

-----------------------------------

 二日酔いで頭がガンガンする。どうしてあんなに飲んでしまったのか。でも、飲まずにはいられなかった。だからしょうがない。おお、コタロウ、俺を心配してくれているのかい。ありがとな。いや、しかし、頭が痛い。吐き気もするな。まだ酒が抜けきっていない。予定を変更して今日は一日中寝ていよう。悪いなコタロウ、散歩はできたら夕方行くから。午前はちょっと勘弁してくれ。

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-----------------------------------

 ああ~、やっと一人になれたぁ~。たまにはこうしてパチンコもいい。ゆっくり考え事ができるから。……仕事、辞めようかな。

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-----------------------------------

「ハフッハフッ!」

「わかってる、わかってる。でも、コタロウ、今日は勘弁してくれよ。昨日、深夜まで仕事だったんだ。布団から出られないんだよ」

「クゥー…」

「もう少し仕事が落ち着いたら、ちゃんと時間作るからさ、今日はちょっと寝かせてくれよ」

「……」

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-----------------------------------

「クゥーン、クゥーン……」

「こんな北風が強い日にわざわざ行くことないって。風邪ひいちゃう。日を改めよう、な、コタロウ」

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-----------------------------------

「ちょっと、それ、マジでやめて。今日はそういう気分じゃないんだ」

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-----------------------------------

「ああもううるさいなぁ!」

 ダダダダッ、バタン!!

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   9.


 思い返した記憶に覆いかぶさるように、健治の脳が意思に反して想像する声を作りだす。さっき心に訴えてきた実体のない声で。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 お兄さん、ボク、悪いこと……したの? 嫌われちゃったのかな。また赤いブルルン、乗りたい。さみしいよ……

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 澄んだ青空の下、多くの人が笑顔で行き交い賑わう露店。その一番奥の一角。似顔絵描きの画家の前で健治は嗚咽を漏らし、老人がくれたタオルに顔をうずめ、とめどない涙を流していた。健治の頭の中はまるでタイムスリップしたように、ある一つの明瞭な記憶に辿り着いていた。

 三か月前、仕事で決定的なミスを犯してしまった健治は、同期や後輩の前で上司に叱責されたうえに、取引先からもそのミスを指摘され、相手の重役に吊るし上げられてしまった。全員が敵のような殺伐とした会社で健治を慰める者はなく、むしろ、健治のミスを喜んでいる姿がありありと窺えた。

 健治は鬱憤を晴らすため夜の街に繰り出して、一晩中本来趣味ではないキャバクラで飲み明かした。

 一夜で十万円以上の金を使ってしまい始発で家に帰ると、いつものようにコタロウが玄関まで走って迎えにきた。少し様子が違うのは、普段なら健治が帰ってきたのがうれしくて、ひたすら周りを跳ねたり、駆け回ったりするのに、その日はどうもそわそわしているように見えたことだった。それもそのはず。前の日早朝にフードをあげてから、コタロウは何も口にしていなかったのだ。

 かわいそうなことをした、そのときの健治はそう思える精神状態ではなかった。

「俺はおまえを食わせるために、こんなにつらいを思いをして働いてるんだ。飯くらい少しは我慢しろ!」

 健治はコタロウを怒鳴ると、台所の棚からフードを取り出し、雑な手つきで大皿にぶちまけ、ドン!っとコタロウの鼻先に突き出した。何も知らないコタロウはそれでも喜び、久々の食事をすごい勢いであっという間に食べきった。

 翌日、健治は気分転換に、愛車の赤いスポーツカーで近くの湖に行くことにした。ひと月ぶりの車での外出にコタロウは大喜びだった。だが、岸を散歩し、美しい湖の景色を眺めても、健治の心は晴れなかった。

「俺だけが悪いわけじゃないだろうが。ミスしたらフォローするのが上司じゃないのかよ!」

 そんな健治の心を知らないコタロウはあちこちを走っては健治のもとに戻ったり、また、どこかへ走ってはクンクン匂いを嗅いだりと、これまで自宅に引きこもっていた鬱憤を晴らすように弾けまくった。

「……そういえば、コタロウと外にくるのは随分久しぶりだったな」

 健治はふと、仕事中心の自分の生活のため、コタロウに無理を強いてきたことを悪く思い、ポケットに入れてきたピンクのプラスチックボールを取りだした。

 健治がボールを岸から数メートルのところに投げると、すぐにコタロウがそれを追いかけ水の中にダイブする。得意の犬かきで岸から離れていくボールを追いかけ口でキャッチ。引き返して健治に渡すその顔は、以前と変わらず「ヤッタよ!」とでも言わんばかりに誇らしげ。

 コタロウと初めてこの湖に来てから、この遊びをするのは今日で何度目だろう。そういえば、暮らし始めた頃は毎週のように来ていたな……。

 考えながらボールを投げ、コタロウが戻るとまたボールを投げる。何度か繰り返しているうちに、健治の頭の中はまた会社での嫌な記憶に苛まれていた。

「チクショー、チクショー!」と力を込めてボールを投げる。投げる距離は一投ごとに延びていき、投げるインターバルはどんどん短くなる。コタロウの息が上がってきたのは、なんとなくわかっていた。そして……。

 最後の一投、と思って投げたボールをコタロウは追わなかった。舌を出し、ハアハアしながら、健治の顔を見つめているだけだった。

 

 コタロウ…… 


 健治の嗚咽は一層強まった。差し出されたタオルは既に涙で満たされ、思い返してさらに泣いた。俺は、おまえに……八つ当たりしただけなんだ。最低の男だよ。おまえの気持ちを全然わかってやれなかった……。

 目の前で泣き崩れる健治を老人はやさしそうな目で見つめていた。そして肩に手をやり、こう言った。

「もう一つだけ、謝りたいことがあると、コタロウ君が言ってるが……」

 その言葉は耳に入ったが、健治は顔を上げることができなかった。それでも、コタロウの言葉を聞くことが、今の自分にできるせめてもの償いだと、濡れたタオルで咽ぶ声を抑えながら、グシャグシャの顔で小さく数度首を縦に動かした。

 老人は健治の肩を叩きながら亡き愛犬が描かれた画用紙の端を持つよう促した。

 再びバシュッと場面が切り替わり、コタロウの声がイメージとなって健治の心に響きだす。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 あの日、お兄さんがいなくなる前に、家の前の棒にリードを結んでくれたの、うれしかったんだ。だって、ぽかぽかしてたから外に出ていたかったの。アリガトウ。

 ずっとお兄さんを待ってたら、しばらくして知らないおじさんがやってきんだ。そしてお兄さんとボクを楽しいところに連れて行ってくれる赤いブルルンを触りはじめたの。

 だからボク、一生懸命「やめて」って叫びました。だって、あれがなくなったら大きな水たまりでバチャバチャできなくなるんでしょ? 

 でも、おじさんはずっと車から離れないんです。ボクがやめてって言ってるのに。

 ボクはもっとがんばろうと思って、たくさんやめてって叫びました。そしたらおじさんはボクのところに近寄ってきました。ボクすごく恐かったけど勇気を出して逃げなかったんだ。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「や、やめろーーー!!!」


 健治はすべての気力を振り絞って大声で叫んだ。が、かすれた声は実際には声になってはいなかった。

「も、もう、やめてくれ。わかった……から……」

 言葉とは裏腹に今度は、画用紙から手を離すことを健治の脳は拒否していた。コタロウが謝りたいことを聞かなければならない。どんなに辛くても――。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 おじさんはボクのリードをほどいて門を開けたので、ボクはお兄さんを呼ばなきゃと思って外に飛び出したんだ。そしたらドンッてなって、ふわふわして、お兄さんを呼びに行けなくなっちゃった。地面に寝ちゃったけど、おじさんが遠くに行くのが見えたんだ。

 ボクやったんだ! ボクたちのブルルンを守ったんだ。お兄さん、褒めてくれるよね。頭、ゴシゴシしてもらえるかな?

 でも、そのドンッからお兄さんに会えなくなった気がするの。だから、きっとボクがまた悪いと思うんだ。ゴメンネ。ボクのせいでボクとお兄さん、もう会えないんだ……。本当にゴメンナサイ。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 再び崩れ落ちる健治。

 コタロウは自分でリードをほどき、塀を飛び越えたわけではなかった。車上荒らしの男性から自分たちの大切な車を守ろうとしたコタロウ。男性はうるさく吠えるコタロウが面倒でリードをほどき、外に出すため門を開けた。そして……

 健治は老人に肩を抱かれてようやく顔を上げる。またしても顔はぐしゃぐしゃで、細かい肩の震えが収まらない。新しいタオルを老人が渡してくれて、それに顔を突っ込む。その中で、コタロウとの暮らしが走馬灯のように頭を巡る。

 出会い、楽しい共同生活、庭でのバーベキュー、花見、月見、紅葉狩り、二人でのドライブ旅行――。

 しかし、後半の記憶は――。帰宅が遅くなり、散歩の頻度が減り、ドライブに行くことも激しく減った。コタロウはいつしかほとんど出入りしなかった二階に上り、窓際から外を眺めることも多くなった。

 仕事のストレスを理由にコタロウの順位はどんどん下がり、週末のわずかな休息時間、ビール片手にお笑い番組を見ながら、片手間にコタロウの体を撫でていたこと、それが、コタロウがうれしいと感じることの上位になってしまったなんて。

 情けなくて、申し訳なくて……。

 できるなら、そのときの自分を殴りにいってやりたい。ボコボコにして、「コタロウを大事にしろ! コタロウと遊んでやれ! おまえに笑顔を戻してくれたコタロウにどうしてちゃんと応えてやらない! このクズ野郎!」と罵倒してやりたい。悔やんでも悔やみきれない思いが健治の胸から腹をすーっと貫く。

 声にならない声で、健治は一人、嗚咽でしゃっくりを繰り返す中、押し殺すように呟いた。

「す、べて、俺のせい……、大切に、あ、愛、情を持って育てていた、と思…っていたのは、全部お、れの自己満足にす、ぎなかった……。こん、こんなに俺を愛してくれた、の、に、八つ当たりして……。な、なのに、こんな俺に謝るなんて。コタロウが、い、言いたいこと、ほとんど、謝ること、ばかり……」

 そして人目もはばからず涙で濡れる地面を叩きながら慟哭の叫びをあげた。 

 

 「謝るのは……俺のほうだろがーーーー!!」

 

 健治は気力を振り絞り、キッとした顔で老人を見やる。

「あ、あんた、どうして俺に、こんな……。どうして俺をここへ……」

 老人が再び健治の肩に手を置く。

「君を呼んだのは私じゃない。コタロウ君だよ」

 呆然とする健治の肩をさするようにして老人は言葉をつむぐ。

「コタロウ君はね、君に嫌われたくなかった、いや、嫌われたくないんだよ。そのまま終わりたくなかったんだろうな。君の機嫌が悪い時、君が辛そうな顔をしているとき、コタロウ君は自分のせいだと思っていた。実際は違うんだが、彼にはそれがわからないから。大切にしてくれた君に悪いことをしたと思っているんだよ。感謝しきれないくらいに感謝しているからこそ、まず謝っておきたかったんだろう」

 俯く健治の眼下の地面が一つ、二つと小さな土埃を上げながら水滴に染まっていく。

「コタロウ君は君と出会えて良かったと思ってる。短い間だったが本当に幸せだったと思っている。感謝のしようがないほどに感謝しているよ。彼がそう言っている。本当だ……」

「いや……。お、俺は、最低、最悪の飼い主だよ……」

 すっかり弱弱しく、無防備になった健治に対し、老人は言う。

「もう謝るな。コタロウ君は謝罪なんて望んでない。君は高熱でふらふらになりながら、いつものフードを買うために離れたスーパーまで買い物に行っただろう。つらく当たったのは数えるほどじゃないか。パートナーとして人一倍努力したことが他にもたくさんあった。そして今日、ここへ来たじゃないか。悪いことばかり考えなくていい」

「で、でも、もう会えない。もう、どこにも連れてってやれないっ!」

 叫ぶ健治の言葉をまるで予想していたかのように老人は言う。

「コタロウはコタロウだからね、あのコタロウには、もう会うことはできないだろう。でも……」

 健治は怪訝そうに老人を向いて言う「……でも?」

「人は誰も見たことのない天国があると思ったり、魂は存在して、違う命となって再びこの世に生まれ変わると信じたりする。それが本当のことかどうかはわからない。本当かどうかは問題でもない。信じることは誰でもできるんだ。そして自分が信じていれば、それこそが真実だ」

 コタロウへの申し訳ない気持ちで打ちひしがれている健治は、ほんのわずかでも未来のことを考える気にはなれなかった。何をしたってコタロウは帰ってこない。だからこれからどうとか、何をどう思うかなど関係なかった。

「そ、それが、なんだというんだ……」

 老人はこれまでにない温かい満面の笑みを浮かべると、健治の肩ごしに遠くの一点を見た。

 里親募集の会が行われている小屋。

 会はもうすぐ終わるようで、保護した動物を持ちこんだボランティアの人たちが、一人二人と撤収を始めている。主催者も片づけを開始するところだった。残念ながら里親が見つからず、来たときと同じキャリーに入れられ帰路に就く動物たち。

 老人の視線に促され、力なく立ち上がった健治はよろよろと呆けたようにそこに歩み寄っていく。

 もうほとんどの持ち込み者は帰ってしまったようだったが、一人、大きなキャリーを抱えた六十歳くらいの女性が、最後に小屋から出てくるのが見えた。健治は女性に近づくと、何の考えもないまま話しかけた。

「……その子たち、ダメだったんですか?」

 明らかに泣きじゃくった後とわかる健治の顔を見て怪訝そうにする中年女性。

 だが、本来明るく気さくな性格なのだろう。

 健治の問いに快く返事をしてくれた。

「子たちじゃないのよ。一匹だけダメだったの。六匹持ち込んで五匹里親さん見つかったから、大成功だったと思うわ。この子はちょっと運がなかったけど、一匹なら私が育てることもできるから」

 そう言って女性が見せてくれた犬は、まだ生まれて数か月の真っ白な雑種の子犬だった。長時間の展示で疲れてしまったのか、キャリーの中で、敷物に顔をうずめるようにしてすっかり眠ってしまっている。何かの皮膚病に罹っているのか、首から下の毛がほとんど抜け落ち、お世辞にも見た目がいいとは言えない。

「せっかくの里親募集会だったのに、一週間前に変な皮膚病に罹っちゃってね。獣医さんに診てもらったけど、もう治ってはきてるみたい」

 まだ放心状態にある健治は、女性の許可も得ずに眠る子犬の肩のあたりを人差し指で優しく撫でた。子犬は「ぐぅぅ~」と気持ちのよさそうな声を出すと寝返りを打ち、敷物からかわいい顔をのぞかせた。

「顔の毛は抜けてないのよ。かわいいでしょう? 雄だから将来は男前になるわね」

 そのとき、もう女性の声は健治の耳に入らなかった。

 目の前の映像が写真のように静止し、それが一コマ一コマ動いていくような感覚に陥る。

 衝撃が全身を突き抜け、震えが襲ってくる。

 ハッとして健治は後ろを振り向き、絵描きの老人を見ようとした。しかし老人はもうそこにはいなかった。

 ゆっくり向き直り、呆然と犬を見つめる健治の目にじわりと涙が浮かぶ。

「コ、コタ、コタロウ……、じゃなくて、こ、この子…を譲ってください。ちゃんと……育てます」

「は、はい?」

 呆気にとられた様子で女性が訊き返す。

 健治は涙をしずめてもう一度、はっきりと言った。

「その子を譲ってください。ちゃんと育てます。命に代えて一生守ります」

 女性はバッグからハンカチを取り出すと健治に手渡した。そしてやさしく諭すように健治に言った。

「愛犬を亡くしたの? 辛いことがあったのね……」

 女性は健治の背中を優しくさすってくれた。

「この子は心ちゃんっていう名前なの。ハート型の模様が特徴的でしょ。でも、それは私が勝手につけた名前だからコタロウにしてもいいからね。心ちゃんは幼名ってことで。じゃあ、用紙に住所と名前と電話番号を書いてもらえる? ここの決まりなのよ。それと、これは決まりじゃないけれど、本当に大事に育ててね」

 涙を堪えて唇を噛みしめ数度力強く頷いた健治は、小屋で手続きをする女性を遠くに見ながら、そっとコタロウの絵を取り出した。

 そして画用紙の端を掴み、精一杯の力を込めて祈る。

「おじいさん――、頼む」

「コタロウによろしく――」

「俺はおまえが大好きだと伝えてくれ」

 目を閉じた健治のイメージの中に、小さく頷き健治に返事をする老人の姿が見えた。

 その横に、ボールをくわえて喜ぶコタロウの姿が見えたような気がした。

               終                          


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コタロウによろしく @nekotaneko

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