第7話

 わたしを凝視していた直子の眼が、幼い頃の記憶を引き出そうとしていた。

 あの男は、その後も家に来ていただろうか。けれども、思い出すことを拒むように直子はきゅっと眉を寄せる。

 どうにも、初めから、男の顔には靄が掛かっていたのだ。松葉杖と腕の鯉でしか見分ける術を知らなかった。例えば何処かで松葉杖を持たない男とすれ違っていたら、きっと気づかなかったはずだ。

 あの男はどうしたろう。どうして、あの男に関する記憶が、たった一度、異世界に足を踏み入れたあの日から無いのだろう。

 女の背中に、天井からぽたりと雫が落ちる。冷たかったのか、僅かにぴくりと体が跳ねた。ゆらんゆらん、湯が動くと、わたしの花びらも葉も、開いたり閉じたりを繰り返す。

 熱めの湯の中で、わたしを見つめすぎた直子は、少し湯あたりしたようだ。不規則に動く水面を遮断するように、眼をぎゅっと閉じて顔を上げた。次に眼を開けると、行ったことのない富士山が見えるはずだった。

 なのに、眼の前には女の顔がある。互いの視線が合い、直子は思わず瞳を左右に泳がせた。

 女はにこりと笑うと、人差し指で自分の頬をちょんちょん突っつきながら、直子に話しかけた。

「眼、赤いですよ。大丈夫?」

「あ、あ、大丈夫です……シャンプーが、眼に入ったので……」

 咄嗟に片眼を覆い、嘘をつく。手首に飾った鍵のせいだと思われたくなかった。

「ああ……そうだったの……」

 三日月のように眼を細めた女がおちょぼくちの端をくいっと上げると、両頬にえくぼができた。直子のことを笑って見ているようにも思えたけれど、この女は、怒っていても笑顔なのではないだろうか。女は直子を真っ直ぐ見ると、首をひねって言った。

「……どちらかで、お会いしたかしら?」

 土地の者ではない発音と、まだまだ子供の自分に向けられた丁寧な言葉遣いが、元々の顔のつくりを一層引き立てている。

「え?」

 会ったことなど無いけれど、一応、考えるふりをする。それを気にしたのか、女は慌てて顔の前で手をふった。

「いいえ、ごめんなさい。お顔を見たことがあるような気がして……きっと、気のせいね」

 どこか良いところの若奥様のように、女はゆったりと喋った。それから、「おさきに」とひと言告げて湯から出た。

 心臓の音が遠くに聞こえ、胸に手をあてた。直子は屈み込むように椅子に座るとシャワーのハンドルを回した。長湯をしてのぼせた時は、脚を冷やすと気分が良くなると、母が教えてくれたから。

 いつもなら、ぬるめの浴槽を選んでいた。今日わざわざ熱い湯に浸かったのは、あの女に魅かれたからなのか、ふとももに浮かぶ紅い花を間近に見たかったからなのか……。

 壁に固定されたシャワーから飛び散った冷水に、びくりと背を反らせる。声が出そうになって後ろを振り返り、脱衣所を窺うと、裸の人影がくもりガラスにぼんやりと映っていた。ああ、誰にも見られていないのだと、ひとり顔を赤くする。

 ふう、と大きく息を吐き、もう一度胸に手をあてながら立ち上がる。立ち眩みを覚え再び呼吸を整えるとタオルで体を拭った。

 脱衣所には、既に若い母親たちの姿は無かった。

 女は裸のままバスタオルを抱え、脱衣所の中心に置かれた長椅子に座っていた。鏡に映る顔を横眼で覗くと、ほどいた長い髪のせいか、湯船に浸かっていた時とは別人に見える。

 慣れない銭湯で湯あたりでもしたのだろうか。声をかけてみようかと迷いながら、直子はロッカーに手を掛けた。

 ガチャン。いつものように開けようとして、開かなくて、そうだったと気づく。頭に手を伸ばし、ヘヤーゴム代わりの鍵を引っぱった。ほどいた髪の雫がぽたぽたと首を伝う。

 開けたロッカーから取り出したバスタオルを広げ、背中から体を隠すように羽織っていると、どこからか押し殺した笑い声が聞こえてきた。番台に眼をやると、テレビのスイッチは入っていない。風呂を閉める準備を始めたおかみさんが、男湯の客と内緒話でもしているのだろう。

 誰もいなければ、大きな鏡に自分の姿を晒し、大人になれば少しはきれいになれるのではないかしら、といくらかの妄想をすることもできた。けれども、今日は、鏡と向かい合った女から、直子の後ろ姿がまる見えだった。

 白磁のような肌が桃色に上気して、わたしはさらに輝きを増している。そんなわたしの眼の前でバスタオルをはぎ取るなんて、とても直子にはできないのだ。

 手早く体を拭き、肩にバスタオルを羽織ったまま直子が下着を着けていると、不意に女が声をあげた。

「誰?」

 誰もいない番台に向かって咎めるような口調で叫んだ。直子が訝し気に様子を見ていると、女は長椅子にバスタオルを置き、番台の前までぺたぺたと足音をたてた。

 女が凛々しく歩くと、わたしも花びらをぴんっと張る。

「はよう行けや」

 壁の裏側から男の声がした。女は、番台の前に目隠しとして掛けられていた暖簾を躊躇なく手の甲でまくると、

「のぞいていたでしょ」

 顔を突っ込んで言った。同時に、がらがらぴしゃん、と玄関の閉まる音が大きく響いた。直子は咄嗟にしゃがみ込み、バスタオルで体を覆い隠した。

「逃げられちゃった」

 振り返った女は、床にうずくまる直子に言った。

「男の子ふたり、嫌ね……」

 長屋住宅の男の子たちだ。見られた。泣きそうなのをこらえて、すぐに立てない直子を慈しむように言った。

「大丈夫?」

「はい……」

 直子がうつむいたまま立ち上がると、女は長椅子に置いたバスタオルを手に取り鏡に背を向けた。

 そそくさと服を着た直子は、ようやっと壁に張りついた大きな鏡に向き合った。バスタオルを頭にかぶり、かしかしと髪を拭きながら、鏡に映る女の後ろ姿をまじまじと見た。

 女の体はすっかり乾いていたけれど、柔らかそうな質の良いバスタオルを翅のように広げて背中を拭っていた。直子は、ピンク色の肌に咲いたわたしを恍惚とした表情で見ていた。

 そして、女は、右足を長椅子にのせ、おもいきり前屈みになる。

 髪の毛を拭っていた直子の手がぴたりと止まった。頭に手を置いた恰好で固まった直子の体は、瞳だけが動いていた。前屈みで足の指の間まで丁寧に拭いている女の、ある一点を鏡越しに凝視する。

 まさに、果汁の滴るような桃だ。ちょうどよく熟した食べごろの、かたくなく、甘すぎず、一番おいしい……。その果実のひとすじの窪みに、きらりと光る青い宝石。

 女が足を下ろすと、宝石は閉じた扉に隠れてしまった。直子は、両手を頭に置いたまま振り返った。

 女は、次に左足を長椅子にのせた。足の指を覗き込むように屈むと、再び割れ目から青い宝石が光った。

 蝶だ。

青い蝶々は、誰にも知られず、わたしの蜜を吸いにくる。

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