第6話

 あの男の足音が聞こえると、直子はすぐに路地の隙間に逃げ込んだ。どうしてそういう行動に出るのか、よく解らなかったけれども、裏庭の縁側で粘土遊びに夢中になっている時は、そんな音は聞こえなかった。壁の角から、ぬっ、と誰かが顔を出しても、その人が判らなくて、石のように固まった。

「ひとり?」

 誰だろう? 見たことがあるような、ないような。直子は黙って頷いた。

 とんっ、ざくりっ、とんっ……。松葉杖を見て、ああ、あの男だと知ったけれど、逃げる隙間はどこにもなかった。

 男は直子を見下ろすと、「ええ子じゃの」と頭を撫でた後、縁台に並んだ色とりどりの粘土を手に取り、端に並べ直した。

 それは蜜柑です。それは苺です。それは人参です。

 男が手に取る度に直子は思った。男は粘土を退かすと、松葉杖を揃えて縁台に立て掛け、腰を下ろした。

「抱っこしてあげるけえの」

 直子を抱き上げ膝の上に座らせると、背中から覆い被さるように両腕を回した。そして、もぞもぞと上着のポケットから小さな箱を出し、直子の手に握らせた。

「チョコレートあげる、好きじゃろう?」

 チョコレートの箱を見たけれど、ひらがながやっと読めるようになった直子には外国の文字なんて解らない。これは本当にチョコレートなのだろうか。確かめるように匂いを嗅いでみる。

 チョコレートがそんなに欲しいわけじゃない。けれど、自分は子供だから、どうしていいのか判らないときには大人に従うしかないのだ。

「かわええのう」

 鼓膜を震わせる音は、金曜日に聞く「おやすみ」の挨拶と同じだった。

「ないしょ。おじさんと直ちゃんの秘密。チョコレート欲しかったらいつでも言いんさい」

 セーターの裾から忍び込んだ何匹ものかたつむりが、じくじくと脇腹を這う。我慢できずに身を捩ると、

「こそばいいか?」

 と訊いてくる。泣いていいものか、笑っていいものかも判らない。

「気持ちええじゃろ?」

 かたつむりはスカートの下まで這って来る。何かにすがりたくて、ふっ、と眼を上げる。花の無い水仙が、マンホールの傍で、ぼうぼうと葉だけを豪勢に茂らせていた。


 男は、橋の下にできた暗い影から湧いて来るのだ。

 川を挟んだ長屋住宅の手前には、『猛犬注意』の張り紙がされた、お城のような家が建っていた。門の隙間から覗くと、いつも黒いドーベルマンが尻尾を振って寄ってくるので、直子は手を伸ばして頭を撫でていた。

 少し前に、ドーベルマンの赤ちゃんが産まれたからと、母とふたりで見に来たことがあった。仔犬はかわいかったけれど、どれも母犬に似ていないと思った。つんっと尖った耳をした母犬と違って、仔犬は大きく垂れた耳だったから。

 母犬はおとなしく、直子が背中に乗っても嫌がらなかった。すっかり友達になった気分でドーベルマンに会いに来ただけなのに、空から石でも降ってきたように、あの声がした。

「直ちゃん」

 肩をふるわせ振り向くと、深い闇の異世界が、男の背景にあった。世界を隔てる川の前で、男が杖を、とんっ、と衝くと、音も無く素早く、橋を陣取るフナムシたちが道を開けた。

「お、直ちゃん見てみい、うみへびじゃ。腹がえろう膨れとるの、ねずみでも食うたんじゃろうか」

 フナムシを気にしながら男の後ろをとぽとぽ歩いていた直子は、海水の退いた川底を覗いた。銀色に光るへびに似た生き物が、大きな獲物を呑み込んで苦しいのか、くねりくねりとのたうち回っていた。

 橋の先では老いた柳の樹が、今にも倒れそうに垂れ下がり緑門を作っていた。男は柳のアーチをくぐると、井戸を囲むように建つ長屋住宅に並んだ、ドアのひとつを開けた。大人たちは仕事中だろうか、子供たちは遊びに出かけているのだろうか。さわさわと木の葉のゆれる音だけが聞こえる。

 男はドアの横に松葉杖を置き、眼の前の階段を四つん這いになって上がった。直子はついて行くより他になかった。

「痛うないか?」

 裸の男は首から上が上気したように赤かった。痛くはないけれど、今までされたことのない触り方だった。男が小刻みに動く度に義足が擦れる音がする。擦り切れた畳の屑が髪の毛に吸いついてくる。

 乳首の周りにひょろひょろと生えた数本の長い毛が、直子の肌を引っ掻くので背中を左右にゆすると、

「大丈夫か?」

 と言った。訊かれても、応えようがないのに。

 ただ、痩せた男の生っ白い左肩に、ほとばしる藍色の浪と、絡まりながら腕をよじ登っていく二匹の鯉は、直子を呑み込んでしまいそうだった。

「ないしょでえ。これあげるけえ、誰にも言うたらいけんよ」

 男は板チョコを一枚差し出すと、階段の上から直子を見送った。

 ドアを閉め、また、フナムシで黒くなった橋の前で直子は立ち止まる。振り返るけれど、どのドアを出て来たのか判らない。すっと足を出すと、お姫様でも送り出すように、フナムシは道をあけた。

 橋を渡り切り、あの大きな家の前に行くと、直子を見つけたドーベルマンが立ち上がって寄って来た。門の隙間に手を入れると、自ら頭を擦りつけてくる。それが嬉しくて、直子はいつまでもドーベルマンの頭を撫でていた。

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