第5話

 テレビに映る三人組の男性ミュージシャンは、名前くらいなら知っていた。もともと流行歌よりクラシック音楽に興味のあった直子には、銭湯に来てまで歌番組が見たいと言うおねえさんの気持ちが解らなかった。

 せっかく来たんだから、ゆっくりお風呂に浸かればいいのに……。

 番台のおじさんの前でほとんど裸でいるおねえさんに呆れながら、ロッカーの扉を閉めたとき、後頭部に刺すような痺れを感じた。誰かに見られている。ちくちくとした感覚に振り返ると、あの少女が背中を向けてバスタオルを羽織っていた。

 小柄な少女は、髪を梳かしながら真っ直ぐに鏡を見据えていたけれど、つり上がった大きな眼が、後ろに映る直子のひょろりと痩せた体を見下げているようだった。

 脱衣所の灯りのせいなのか、黒っぽく見えるヘヤーブラシを握る爪が、首筋を通りながら、耳たぶにぶらさがった大きな金の輪っかを揺らした。

 まだ中学生のはずなのに、ピアスにマニキュアなんて校則違反だ。そもそも、きちんと学校に行っているのだろうか。

 真っ黒な長い髪が片方の胸を隠していたけれど、浅黒い体はふくよかで、高校生の直子より大人っぽい気がした。途端に、「きっちゃない」「くさい」と言われたことが頭を過った。

 何年経っても忘れられない言葉を記憶から追い出すように、直子はタオルで胸を押さえ洗い場に向かおうとした。あの子の視界に自分は入っているのだろうかと、僅かに視線を動かす。あの子が羽織ったバスタオルは、端が擦り切れ、繊維がぴらぴら解れていた。

 

 睨まれていた。鏡越しに、わたしは睨まれていた。

 直子は昨夜見た鋭い眼差しを思い出しながら、うさぎの形をしたピンクのスポンジに石けんを擦りつけた。横目でちらっと湯船を見ると、女が富士山を見上げるように首を傾げていた。それを確かめてから、くしゅくしゅとスポンジを揉んだ。

 じゅわじゅわ湧きだす泡を掌に盛り、喉を上げて触れた。触った所が、じんっと熱い。直子は、一瞬、驚いた。

 耳の裏にあてた両手の指を回しながら、首から肩へと泡を運んでいく。自分の体の作りを確かめるように、上から下へと手を動かした。これほど肌が柔らかく、溶けた指まで心地好いなんて知らなかった。

 石けんを流して湯船に向かった。胸から垂らしたタオルをそっと剥がし、浴槽の縁に畳んで置くと、おどおどしながら足先を湯に浸ける。

 ゆっくりと体を沈めた直子は、ゆらりゆらりゆれるわたしを、射るような眼差しで見た。

 美しいなんて、一度だって思ったことはなかった。直子にとってわたしは、個体を識別するだけのモノだったのかもしれない。

 

 あの日、糞塗れだった直子は、玄関先でひとり寒さに震えていた。裸にされて水を浴び、くちびるをぶるぶる震わせていた。

「ちょっとだけ、我慢しちょって」

 そう言って、母は家の中に入ってしまった。散ってしまった長屋の子供たちの後ろに、ひとりの男が立っていたことを知っていたはずなのに……。

 母が何も言わなかったのは、男がよく知っている者で、直子がとても幼かった、という理由だけではない。町をうろつく野良犬程度にしか、あの男のことを思っていなかったからだ。

 男は松葉杖をついて、ブロック塀に寄り掛かっていた。子供たちと一緒になって、にやにや笑っていたが、ひとりになった途端、能面のような顔になり、直子を見つめ始めた。かたつむりが体を這うような感覚が直子を襲った。

 大きなアルミ鍋を抱えた母は、そんなことには構わずタライに湯を注ぐと、直子に入るよう促した。言われるままにタライに入り腰を沈めるが、お尻が隠れる程度の量しかないし、それほど温かくもない。母が何度もアルミ鍋を抱えて玄関を出入りする間、男は直子のことをぼんやりと見ていた。


「プロレス、見してえや」

 男は、毎週金曜日、夜八時になるとやって来た。毎回同じ挨拶をしながら、玄関をがらがらと乱暴に引いて、返事も待たずに家に上がり込んだ。畳に肘をつき寝転がる父の傍らに、片足を伸ばして座り込み、テレビに映る裸の男たちを食い入るように見つめていた。

 母はいつも、それを合図に、銭湯に行く支度を始めた。父と男を残し直子の手を引いて銭湯に出かけた母は、歯磨きまで済ませて家に戻っていた。

 大抵戻る頃には、あがりかまちに腰掛けた男が義足を運動靴に突っ込んでおり、帰って来た直子の頭を撫でながら、「おやすみ」と言って玄関を出ていくのだ。母も、「おやすみ」と、どこかほっとした表情で愛想笑いを返していた。

 時折、男はパチンコの戦利品と称して、チョコレートを直子の前に差し出してくることもあった。そういうときは、テレビからプロレス番組のエンディングが流れていても、父と世の中の難しい話をしているように見えた。

「テレビくらい、買やええのに……」

 母がぽつりと言う。ちょっと仲良くなると、ずけずけ他人ひとの領分に上がり込んでくる町の習慣に、母はなかなか馴染めないでいた。

「もう、歯磨きしたけん、お菓子は明日よ」

 直子は不機嫌な母にチョコレートを取り上げられ、廊下を挟んだ寝室へと追いやられた。

「お父ちゃんに食べられんように隠しといて」

「わかった」

 寝室に入ったところまでは憶えていた。でも、ハサミでちょん切ったように、そこから先はいつも暗闇だった。

 暗闇の中で、もぞもぞ、かたつむりが這った。くるぶしからパジャマの裾に潜り込み、たっぷり水分を含んだ直子のふくらはぎを舐め取ると、膝を乗り越え腿の内側に侵入した。かたつむりの足は、ざらざらと肌を引っ掻き、ねっちょりと痕を残す。

 痛痒さに、ふっ、と眼を開けると、闇の中から唸るような男の声が聞こえた。それは毎回、「直ちゃん、おやすみ」と言っていたような気がする。

「遅うまで、じゃましたのう」

「おう、またのう」

 遠くなる意識の下で、乱暴に開けられた玄関と、独特な韻律の足音が聞こえていた。

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