第4話

「……すぐにあがるけえ、頼むね」

 すうっと冷たい風が吹いた。赤ん坊の母親が風呂場の戸を開けたまま、脱衣所に向かって喋っている。

 直子は大袈裟にぶるっと肩を竦めてみせたが、彼女はそれには気づかず、けらけらと笑いながらぴしゃりと戸を閉めた。閉めた途端に不機嫌な顔になり、直子の後ろを通り過ぎる。

 彼女がじゃばじゃばとたてる音が、まるで怒鳴り声のようだと思いながら、直子はシャワーのハンドルを回した。肩で切り揃えた髪を濡らしてシャンプーを泡立てる。

 手首に巻いたロッカーの鍵が顔にあたり、上手に髪が洗えない。それでも、いつものように手を動かしていると、片眼に衝撃を覚えた。

「痛つ」

 思わず指で押さえたが、シャンプーの泡で更に眼がしみた。いつもなら、もっと念入りに洗う髪をすぐに濯いだ。

 鏡に向かってあかんべーをしていると、何度も腰をひねり、ちらちらとこちらを見る女が映った。思わず洩れた声が、後ろの女にも聞こえていたようだ。

 直子は恥ずかしさを隠すように黄色い洗面器に手を伸ばすと、湯を張りリンスを溶かした。洗面器の底に書かれた朱い『ケロリン』の文字が白くぼやける。

 わたしは、女が腰をひねる度に表情を変えて、直子の様子を見ていた。

 女がスポンジで細かく泡立てた石けんを肩に置くと、ホイップクリームのように背中をつるりと流れた。そして、わたしに降り注ぐ。

 直子は、母と一緒に銭湯に来ると、よく背中の流し合いをしていた。

 母は、刺激が気持ちいいからと、直子に束子を使わせた。時々、嫌がる直子の背中に、束子を擦りつけては笑っていた。痛くて、背中の皮が剥けてしまいそうなのに、それが気持ちいいのが大人なのだと言った。

 煙たい煙草も苦いビールも、ちっとも美味しそうじゃないのに、大人は「たまらない」と言う。同じように、痛いことを我慢するのが大人だというのなら、大人になんかなりたくはない。

 それなのに、この白い女は、肩の泡を掌ですくい取り首筋を撫でた。その指は脇の下を通り、愛おしむように胸を包み込んでいく。やがて腹をすべり、腰から尻を舐め、毛繕いする猫の舌のように肌を這った。背中に腕を回し、紅いわたしの花びらを一枚ずつひらいては優しくなぞっていた。

 雪は、はらはらと舞うことはあったし、道路が凍ることもあった。けれども、ふわふわと積もる雪は知らなかった。雪に埋もれた紅い花は、きっと、こんなふうに見えるのかしら。直子には、女の体を覆う石けんの泡が雪に見えたのだ。

 このときの直子には、女がわたしを携えている理由など、とうてい理解できなかっただろう。

 小振りな洗面器を膝の上に置き、直子は髪をリンスに浸した。鍵が顔にあたらぬよう指で髪を梳くと、勢いよくシャワーで濯ぐ。中途半端に伸びた髪をタオルで拭い、ヘヤーゴムを手に取ろうとした。

 持参した洗面器の中にころんと転がったヘヤーゴムには、プラスチックの星飾りがついていた。学校近くの『檸檬』という雑貨屋で購入したものだった。昨日まで……いいえ、わたしと出会うまで、お気に入りだったヘヤーゴムだった。

 女が立ち上がったのと同時に、赤ん坊の母親がひたひたと歩いているのが鏡に映った。胸をつんっと張り、どこも隠さない女とすれ違った若い母親は、いそいそと洗い場の戸を引いた。

「ごめんねえ」

 彼女は止めていた息を吐くように脱衣所に向かって言いながら、またぴしゃりと戸を閉めた。

 わたしは、鏡に映る直子に向かって煌々とほほえむと、女と共に湯船に沈んだ。

 直子は一度手にしたヘヤーゴムを放し、手首に巻かれたロッカーの鍵で髪を結った。ちらりと女の方を見ると、背中を向けた女は掌で湯をすくい肩に流しかけては、首や肩を揉むように撫でていた。女の爪は、こぼれ落ちた花の露のように赤かった。


 赤い爪は嫌いだったのに……。

 直子が体中に汚物を浴びてしまった日、勝ち誇った眼を向ける長屋の子供たちの中に、あの少女がいたから……。

 直子より幼い少女は、膝に塗った赤チンを銀色に光らせて、大きなハイヒールを引きずりながら、おにいさんたちについてまわっていた。金色の首飾りを何連にも巻きつけて、真っ赤なくちびるの周りに、チョコレートだか餡子だかを塗りたくっていた。その汚れたくちびるを拭った小さな指の先は、鮮やかなざくろ色だった。

 少女は、その後も直子を見る度に、「きっちゃない、きっちゃない」と言い続けていた。直子が小学校に上がる頃には、「きっちゃない」が「くさい」に変わっていた。

 夏休みの朝、ラジオ体操のために公園に行くと、標的を見つけた少女はつかつかと直子に歩み寄り、ただ、ひと言、

「アンタ、くさいね」

 と言い放った。

 身なりには気をつけているつもりだったが、ニオイまでは考えていなかったので酷く傷ついた。脇に制汗剤を塗り母の香水を着けて行くと、今度は、

「何じゃ、この臭い。ぶちババアくさいの」

 と、大声で嗤われた。年上なのに言い返せない直子は、悔しさを胸にしまい込んで、くちびるを噛むことしかできなかった。

 そのうち言葉を投げつけられることはなくなったが、代わりに挑戦的な眼差しを受けるようになったのは、どうしたって直子の方が恵まれていると、長屋の子供たちにも判るようになったからだろう。直子の方から近寄ることはなかったはずなのに、何が気に入らないのか、とにかく、すれ違う度に睨まれた。

 中学生になってからは、銭湯以外で顔を合わせることはなくなったけれど、平素から行いが悪いという噂は何度も耳に入ってきた。

 白粉おしろいを塗り、紅をして登校したために、中学校の入学式に参加させてもらえなかったのだとも聞いた。

 世間のルールを守り、真面目に勉強をして進学校に通うようになった直子には、もう、あの子を懼れる理由などないはずだった。


 だけど…………。あの子は、昨夜ゆうべもわたしを睨んでいなかったかしら。

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