第3話
ふたりの男がかかえた、うねるホースから聞こえる音が徐々に変わっていくと、
便所の中は外から見えないはずなのに、大量の水を便器に流し込んでいる母の様子が壁を透かすように見えた。浄化槽の底に、ぱしゃん、とバケツの水があたる。
「いっつも、すいませんねえ」
便所の中から母の声が聞こえた。
「いんえのう、仕事じゃけえのう」
ホースの先を持った作業員が浄化槽を覗き込む。空になったことを確認して、ふたりでホースを引き上げると、そのまま向きを変えた。
「ああっ……」
まだホースはズーズーと音をたてていたが、それに交じる男たちの声に、母は窓から顔を出した。
大人たちは、誰も気づいていなかったのだ。作業員の後ろに、少女がじっと立っていたことを───
「ありゃりゃ、まあ、まあ」
直子が見上げると、母は眉間にしわを寄せていた。ふたりの作業員は真っ黒に日焼しており、笑っているのか怒っているのか、何とも判らない表情をしている。
ホースの先から弾けるように飛び出した汁が、クリーム色のセーターを汚したことに、ただ驚いた直子は、ぼうっと立ち竦んでいた。
「直ちゃん、ちょっと待っときんさい。動いたら、いけんよ」
母はそれだけ言うと、窓から顔を引っ込めた。
ホースを引きずりながら路地を引き返す作業員を追うように、母は玄関から出て来た。
作業員たちは母が追ってくることを分かっていながら、何故か知らぬふりをしているように見えた。母は小走りでひとりの作業員に近寄ると、『しんせい』をふたつ、黙ってポケットに入れた。
「いっつも悪いね」
男の真っ黒な顔にヤニで黄ばんだ前歯が、にゅう、と飛び出していた。
曇り空からぼやけた太陽が現れると、やんわりと水仙を抱擁し始める。なまぬるい湿った空気が、足下から這いつくばってくるのが気持ち悪い。
何処からか、子供たちの声が聞こえた。きっと、汲み取りさんを遠くから茶化しながら、路地裏を走り回っているのだろう。
「直ちゃん、こっちへおいで」
母の声に、直子は裏庭から玄関へ抜ける通路を慎重に歩いた。赤いスカートからぽたりと落ちる汁が、白いハイソックスに涙の形の染みをつける。
玄関に出た途端、運悪く、走り回っていた子供たちと遭遇した。
「うっわあ。きっちゃなあい」
年長の少年は飛び跳ねるように退くと、玄関の前を走り抜けた。まるで号令でもかかったように、引き連れていた数人の子供たちが、「きっちゃない」「きっちゃない」と囃し立てる。
玄関先には、水を張ったタライとバケツが置かれていた。
「やかましい、あんたら。傍におったら、はねるでえ」
母は足下のバケツをかかえると、直子の肩からじゃばじゃばと水をかけた。冷たい。寒い。水を吸ったセーターがどろんと伸びて、重く体に伸し掛かる。
「
あらかたの汚物をバケツで流した母は、直子の服を全てその場で脱がすと、頭のてっぺんに石けんを擦りつけた。
掻くように髪を揉んでいた母の指先は、頭の先からこめかみにかけて、くるくる円を描きながらすべった。
石けんの匂いに、ほっ、とする。母の掌はピンク色の頬から肩を包み、やがて直子の体を隅々まで撫で回した。掌のあたるところだけが温かい。
母に一喝されて、直子を遠巻きに眺めていた子供たちは、これ以上の面白い展開が望めないことが判ると、次の新しい遊びを求めて
あの子たちは嫌い。意地悪だもの。
いつもひと塊になって、公園の遊具を独り占めするの。わたしより小さいくせに、黙ってぶらんこをゆすり、横取りするのよ。それで、じっと睨みつけていたら、小学生のおにいさんまでやって来るの。
彼らは、表通り沿いに流れる、小さな川の向こうに住んでいた。
狭い敷地に建つ、コの字型の長屋住宅には、橋を渡らなければ行けなかった。とても頼りない細い橋は、いつもびっしりとフナムシが張りついていた。まるで、町から切り離されたような集落のように、そこから先は、立ち入ってはいけないような気がしていた。
橋を出入りする住人たちは、皆、似た顔をしており、直子には見分けがつかなかった。
男たちは、肩に施した彫り物を見せびらかすように一年中胸をはだけ、女たちは、派手な化粧をしてじゃらじゃらと装身具を鳴らしていた。そして、子供たちは、
彼らと遊ぶことを母は禁じてはいなかったけれど、母が彼らのことを嫌っていることは、言葉でなくとも伝わっていた。
あの長屋の連中は、なにもかもが偽物のようなのだ。身に着けている装飾品も偽物なら、彼ら自身も偽物なのではないか。それは、仏壇に飾りっぱなしの、埃を被った造花のように。枯れることはないのだけれど。
でも、今のわたしは汚れた裸ん坊。頭から糞をかぶった水仙は、造花の百合よりも汚いじゃないか。
「きっちゃない」「きっちゃない」
直子の耳に、子供たちの声がいつまでも響いていた。
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