第2話
直子はタオルを胸から長く垂らすと、石けん箱とシャンプーの入った花柄のかわいらしい洗面器をかかえた。「こんばんは」と、番台で挨拶する客の声がする。
「あら、今来たん? 遅いじゃん」
すれ違った妊婦が客に向かって言った。
「お父ちゃんが帰って来んけえ、連れて来てしもうたわ」
若い女性の快活な声が聞こえる。
「よう寝とるね。ええよ。見といてあげるけん、さっさと入ってきんさい」
ふたりの声が聞くともなく聞こえ、直子はようやく顔を上げた。
直子は、その時、初めてわたしに気づいたのだった。
下着だけを身に着けた妊婦が、鏡を見ながら戌帯を巻いていた。若い母親が、おぶった赤ん坊を作り付けのベビーベッドに寝かせていた。子持ち女たちの他愛無い会話に、直子は何の興味も覚えなかった。
けれども、わたしは、直子の心を瞬時に奪ったのだ。
鏡に映るふたりの子持ち女の間で、わたしは美しく咲いていた。豊かな白い女の腰からふとももにかけて、それは、それは鮮やかに、紅く、浮かび上がっていたのだ。
直子は見てはいけない物を見たように顔を伏せた。そして、眼にかかる前髪から、鏡越しのわたしを覗き見た。
白い女がロッカーの鍵を掛け、くるりと振り向くと、はっきりとした凹凸が濃い影をつくり、ますますわたしは艶やかに映えた。
直子は咄嗟に顔を背け、鏡に背中を向けた。わたしを見ていない、そんなものに関心など無い、とでも言うように、そそくさとロッカーの鍵を掛けた。
白い女が手首に鍵を巻きつけているのを真似ながら、初めからこうしておけば時計を失くすこともなかったのに……、と後悔の波が胸に押し寄せるのを感じていた。貴重品を軽く扱った自分のミスに、どうしようもなく落ち込んだ。
からりと風呂場の戸が開くと、湿った熱気がふわんと脱衣所に漂った。くもったガラス戸の向こうに、紅い花と緑の葉がぼんやり滲んだ。
「見た? 今の……」
脱衣所からわたしがいなくなった途端に、若い母親たちがひそひそと喋り始める。お腹に戌帯を巻いた女が、もうひとりの女に向かい両手で輪っかを作って言った。
「こんなに大きな牡丹……」
ふたりの会話を聞き終わらないうちに、直子はわたしを追って風呂場に向かった。体を隠すように、胸に垂らしたタオルを肌にぴたりと貼りつけていた。
客のいない洗い場で、女は堂々と真ん中のカランの前に座ると、ゆるくウエーブのかかったワイン色の長い髪を梳き始めた。
斜め向かいに座った直子は、石けんを掌で転がしイスの上部を洗った後、泡のついた手で鏡をひと撫でした。さっとシャワーで流すと、大嫌いな顔の横に白い女の背中が映った。
女は手首につけていた鍵のゴムひもで、髪をまとめ上げていた。くるくる落ちるうなじのおくれ毛が、豪華な首飾りのように見え始めると、ロッカーの鍵さえも、銀色に光る髪飾りに見えてきた。
百花の王と比べると、水仙は、ひどくみすぼらしい。
花言葉は「自惚れ」だと聞いた。少年ナルキッソスは
あの花が咲いているのは、じめじめした便所のマンホールの周りだ。便所の窓から裏庭を覗くと、手入れなど一切していないのに毎年勝手に花をつける。年を経る度、花はどんどん増えていく。人のカスをすすった黄色い花が、湖を見つめるナルキッソスのように項垂れているのだ。
裏庭のマンホールが何のために在るのか、考えたこともなかった頃、直子は便所のドアを開けっ放して便器をまたごうとしていた。幼かったので、ドアを閉める余裕がないくらい急いでいたのかというと、そういうわけでもない。確かに、何度も失敗したことはあったけれど、それで叱られたことはなかった。
廊下のつきあたりの便所は昼間でも薄暗かった。暗くて怖いので、仕方なく灯りを点ける。橙色の光が狭い空間に幾つもの影を作り、それらがゆらゆらと動いた。誰もいないのに、影が分身のようにゆらめくのが、身を凍らせるほど怖かったのだ。
何かあっても、きっと、お母さんが助けてくれる。だから、ドアは開けておこう。
片足を上げた瞬間、つま先に引っ掛けたぶかぶかのスリッパが、するりんっと脱げた。便器に足を突っ込みそうになって、小さな直子は思わず仰け反った。
とん、っと壁に背中を着くと、急に我慢できない尿意に襲われた。急いで下着を下ろし便器を覗くと、青いスリッパが汚物の上に浮かんでいた。
「よろしく、お願いしますね」
「はいよ」
裏庭から母の声がした。ちり紙を落として下着を上げながら、首を伸ばしてみる。便所の窓に背は届かないけれど、威勢のいい男の返事と、マンホールの蓋を引きずる音がした。
母は「汲み取りさん」と呼んでいた。さっきからずっと臭っていたのに、鼻がバカになったらしい。直子はきちんと手も洗わずに便所を飛び出すと、玄関のサンダルを突っ掛けた。バケツを抱えた母が、入れ違いに便所へ駆け込んで行く。
「あんりゃ、こんなもんが落ちとったでえ」
狭い路地を這うバキュームカーのホースは、大蛇のようにおぞましかった。そろそろとホースを飛び越えながら直子が裏庭に回ると、分厚いゴム手袋をはめた作業服の男は汚物に塗れたスリッパをつまんでいた。
「ありゃあ、まあ」
便所の窓から顔を出した母が、バキュームカーに負けないような大声をあげていた。
作業員がスリッパを放ると、マンホールの蓋につぶされかけた水仙の頭に黄色い汁が飛び散った。
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