花王の眼
吉浦 海
第1話
わたしは、その夜、水仙によく似た少女を見つけた。
銭湯のロッカーを背伸びして覗き込んでいた少女は、右手を奥まで差し入れて、埃でも拭うように中を撫でまわしていた。見ただけで何も置かれていないことは分かっていたのに、どうしても掌の感触で確かめてみたかったのだろう。
直子が、時計を失くしたことに気づいたのは、今朝だった。
ようやく、制服のネクタイを上手く結べるようになった。ベッド脇のスタンドミラーに全身を映し、体をねじってはスカートの丈をチェックする。重い学生鞄を提げて部屋を出ようとして忘れ物に気づき、学習机の引き出しを開けた。
スライド式のペン皿の中に、安物のネックレスと一緒にしまってあるはずだった。高校の入学祝いに両親から贈られて、まだ一年も経っていない腕時計。
そういえば、昨日、学校から帰ってきて外したかな。
ポケットの中に手を入れて、ハンカチとティシューとコンパクトミラーを机の上に並べた。それ以外の何も入っていないことを確かめて、また、ポケットに戻した。
重ねられた教科書やノートを持ち上げて、机の隅に転がっていないかと、
このままでは電車に乗り遅れてしまう。諦めて学校に行ったけれども、今日は、クラスメイトの手首が気になってしかたなかった。
友人だけでなく、上級生や先生がワイシャツの袖からちらちら覗かせる度に、大事なものが欠けている気分になって、早く家に帰りたくなった。街ですれ違う人や、電車の乗客の視線まで手首に集中しているようだ。
腕時計を身に着けていない高校生が、随分と間抜けに見えているのではないだろうかと、一日中自信を持てないでいた。
結局、部屋中探しても見つけられず、かといって親にも言い出せず、同じ物が買えないかと貯金箱の中身を確認した。
両親を騙そうとしていることに、ふるふると胸が冷たくなる。お金の問題でないことは初めから判っている。自分が情けなくて、ぽろぽろと涙がこぼれた。
どこで失くしたのかなあ。
着替えとバスタオルの入ったビニールバッグをロッカーに入れて、左の手首を包むように触ってみる。
がらがらと風呂場の戸が開いて、お腹の大きな女が洗面器を抱えて出てきたとき、ふと、
そうだ。昨夜、風呂から上がってきたのは、妊婦ではなくて近所のおねえさんだった。ああ、そうよ。服を脱いでから、時計をしたまま銭湯に来たことに気がついて、手首を飾る革のベルトに指を掛けたのよ。
直子はブラウスのボタンを外しながら、記憶をたどり始めた。
昨日の夜の事。ふたつ年上のおねえさんは、ピンクのビキニを急いで引っ張り上げると、両手を組んで胸を隠し、番台のおじさんに駆け寄って言った。
「おじさん、チャンネル。チャンネル変えて」
腕時計は九時四十五分を示していた。
「今週の一位が見たいんよ。おじさん、早う」
銭湯の主人を急かすおねえさんの背中は、きちんと水分が拭き取られていなかった。
お尻の半分がはみ出した小さな下着は、むっちりした体に食い込んで、バックプリントのキャラクターがかわいそうなくらい変形していた。もっとかわいいと思っていたのに、ぷりんぷりん上下するお尻で歪む度に、無邪気なキャラクターが体温や匂いを備えているようで、とても嫌なものに見えた。
おじさんは、「へえ、へえ」と笑いながら言うと、頭の後ろにあるテレビの選局ダイヤルをがちゃがちゃと回した。切り替わった歌番組に見入るおねえさんのお尻に妙な淫らさを覚えた直子は、そこから眼を移すと、ロッカーに入れたバスタオルの上に腕時計をのせた。
銭湯が閉まるのは午後十一時。一時間ほど前に来れば、客もほとんどいなくなる。いつ来ても空いていたせいかもしれないが、奥の一番上のロッカーは、自分専用なのだと勝手に決めつけていた。
家から歩いて一、二分の銭湯には、母親が買い置きしている入浴回数券を利用していた。父親は、「どうせ、近所の人しか、すれ違わんけえのお」と言っては、人目を気にせず出かけた。夏場など、アンダーシャツにステテコ姿で、洗面器を持って往復するので、母親には毎回小言を言われっぱなしだ。実際、銭湯までの道のりは狭い路地ばかりで、直子にしても、庭でも歩くような感覚だった。
だから、財布を持って来たことなど一度もなかったのだ。偶に、風呂上がりの冷たい飲み物が欲しいときには小銭をバッグにしのばせることはあったけれど、それが貴重品だという認識はなかった。
間違いない。最後に腕時計を触ったのは、昨夜、この場所だった。
直子は、ふたつめのボタンに手を掛けたまま考え込んでいた頭を上げ、番台に眼を向けた。今日は、おじさんではなくて、おかみさんが座っている。
生まれたときから知っている少女と眼が合った瞬間、おかみさんは頬をゆるめた。直子はおかみさんに釣られるようにほほえみを返し、「ロッカーの中に忘れ物をしたのですが、時計がありませんでしたか」と、頭の中で呟いた。
何度か呟いて、また、眼を伏せる。そんなこと訊けるわけがない。
母が銭湯にでかけると、二時間近く戻ってこないことはしょっちゅうだ。近所の奥さんたちと、背中を流し合ってはお喋りに興ずる。そんな様子を赤ん坊の頃から見てきた。
町の人々はとても気さくではあるけれど、なんとも粗野で、遠い街から嫁いできた母が、どこぞの小金持ちのお嬢様に見えたようだった。母にとって、銭湯は社交場で、周りに溶け込む手段でもあったのだ。
もし、おかみさんに時計のことを訪ねたら、すっかり町の奥様軍団の一員となった母に、即座に伝わってしまうだろう。叱られることが怖いわけじゃない。大切な物を失くしたことを知られるのが嫌なのだ。嫌だ、というより申し訳ない。
直子は肩を落としてブラウスを脱ぎ始めた。男女の更衣室を隔てる壁一面に張られた鏡に、細く硬い体と垂れた頭が映っていた。
わたしには、その姿が、可憐な水仙に見えたのだ。
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