第8話

 青い蝶、青い蝶。直子は喉の奥で反芻した。

 見たことがある。最近のことだ。

 『檸檬』でレターセットとヘヤーゴムを買った後、直子はバスに乗った。画塾へ通うためだった。一番後ろの窓際から、港を離れるフェリーを眺めていた。

 ふたつ手前の停留所あたりで、ポケットの小銭入れから運賃を出そうとして、いっとき心臓が跳ねた。小銭が無い。

 今日は『檸檬』で買い物をする予定だったので一万円札を入れてきた。そこでバスに乗るためにお札を崩そうと思っていたのに、うっかり忘れていた。市営バスの両替機では一万円札は両替できない。

 しまった。

 バスの乗客を後ろから見渡して、最後に、隣の窓から外を眺める女の横顔が眼に留まった。二十代だろうか、三十代だろうか。上品な薄化粧と清楚な白いカーディガンがやさしそうだった。

 ひとつ手前の停留所の名前がスピーカーから流れる。直子は、すりすりと腰を移動させ女の横に座り直した。光を反射するワインレッドの髪から、甘い花の香りが漂った。

「あの、あの……」

 直子の呼びかけに振り向いた女は、「なにかしら」と問うように、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。直子は小さく折り畳んだ一万円札を小銭入れから出して言った。

「すみません、これを……両替できますか?」

 両手で広げられたお札を見た女は、運転席に一瞬眼を向けると、困ったように言った。

「ああ……ごめんなさい。わたしにも両替できないの……」

「……そうですか……」

 しょうがない、運転手に聞いてみるしかない。そう思った時、

「いくら? いくらあればいいの?」

 女は言った。

「あ、あの、に、二十円です。細かいのが二十円だけ足りなくて」

 直子が答えると、女はショルダーバッグのファスナーを開き、長財布から十円玉を二枚取り出した。

「どうぞ」

 目的地を告げる車内アナウンスが流れる。直子は、差し出された硬貨を反射的に掌で受け取った。

「ありがとうございます。返しに伺います。住所を……」

「いいのよ、いいの」

 女は眼を細め、直子を静止するように片手を押し出した。

「でも……」

 筆記用具を出そうと、学生鞄を手繰り寄せた直子は、慌てて窓枠の停車ボタンを押した。女は、落ち着きない様子の直子に早口で言った。

「パピヨン。映画館の裏」

「パピヨン?」

「パピヨン。映画館の裏なの、お店」

「ありがとうございました」

 バスのブレーキにのって、とっとっと、っと転がるように昇降口へ向かいながら、直子は礼を言った。

 陽の暮れかけた停留所から明るい車内を見上げると、女が手をふっていた。脇にスケッチブックを挟んだ直子は、発車するバスに向かって深々と頭を垂れた。

 横断歩道を渡り、停留所の向かいの小さな画材店に入る。数本の鉛筆を選ぶと、店主に一万円札を出した。つり銭でぱんぱんに膨れあがった小銭入れをポケットにしまった直子は、画材店の奥にある階段を上った。

 パピヨン。そんな名前の犬種がいたような気がする。天使の羽のように、耳が大きく外側に広がった、可愛らしい小型犬だったと思う。

 店、だと言った。ペットショップだろうか、コーヒーショップだろうか。

 パピヨン、パピヨン、と忘れないように頭の中で繰り返しながら、直子はテーブルに置かれた静物を無意識のうちにスケッチブックへ写し取った。

 画材店の二階にある画塾を出たときには、もう八時を過ぎていた。既に閉店した画材店の半分下りたシャッターをくぐると、すとんと脇からスケッチブックが滑り落ちる。スケッチブックを拾って通りに出ると、ひと気の無い商店街を青白い街灯が照らしていた。

 直子は、わずか数百メートルの『レンガ通り商店街』を端まで歩いた。バスを降りた時刻には夕方の買い物客で賑わっていたのに、シャッターの下りた商店街はすれ違う人もいない。足下に延びた影に怯えて立ち止まる。振り返り、誰もいないことを確認して、また歩き出す。

 通りを抜けると、車の行き交う広い道路に出た。横断歩道の先にショーウインドウの明かりが見えて、いくらかほっとする。信号待ちをしていると、派手な服装の女性が隣に並んだ。

 横断歩道を渡り、レコードショップのショーウインドウの前を歩きながら、エレキギターの傍に飾られた螺鈿細工の大正琴を何気なく見ていると、並んでいた女性がピンヒールの音を響かせて先に行ってしまった。

 レコードショップの横には寂れた映画館がある。年中やくざ映画ばかりを上映していて、ロードショーを観たことは無い。

 時々、遅れてきた映画を二本立て、三本立てで上映することはあるけれど、何しろ長時間座っていなければいけないので疲れる。たかだか友達と映画鑑賞をするだけなのに、朝から気合十分で臨むなんて、悲しいけれどやっぱり田舎だ。

 そんな映画館辺りは、暗くなると、お化け屋敷に見えてくる。壁に貼られたB級ホラー映画のポスターから、訳の分からないみょうちくりんなモンスターでも出てきそうだ。

 映画館の並びには、いくつもの雑居ビルが建っていた。先ほど直子を追い抜いた女性が、ビルとビルの隙間に消えて行く。女性が曲がった角を覗くと、アンモニアの臭いが鼻を衝いた。

 大通りを振り返ると、停留所に循環バスが到着したところだった。このままバスに乗って帰ろうか。ほんの少し迷っていると、乗降客のいないバスは、すぐに発車してしまった。

 鼻で息を吸って、ふんっ、と足を踏み出す。窓の無い店の扉から出てきた黒服の男性を意識して、いかにも探し物をしているのだと、ことさら首を大きく動かしてみせた。

 暗い路地を彩る看板に、パピヨン、の文字を探したけれど見つからない。突き当りまでたどり着き、さっさと諦めようとした。この路地に制服姿は似合わない。

 引き返す時に、もう一度探して見つからなければ終わりにするつもりだった。心のどこかで、「そんな店、見つからなくてもいい」と願っていた。

 踵を返し路地を後にしようとして、雑居ビルの地下へ続く階段を見つけた。白い灯りが仄かに足下を照らす。

 無視を決め込んでもよかったけれど、一応は全部確かめたことにしておきたかった。誰に咎められるわけでもないのに、誰かに見られているような気がする。

 階段を下りると、赤いレンガの壁に撮りつけられた、行燈看板から灯りが漏れていた。白い灯りにくっきりと『Papillon』の文字が浮かんでいる。そして、文字の下には青い蝶が翅を広げていた。

 きっちり閉じた防音扉には、どうしても手を伸ばす勇気が持てなかった。直子はスケッチブックを胸に抱え、足早に階段を上った。

 パピヨン、がフランス語で蝶々を意味することは、家に帰ってから知った。

 

  

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