第二十三話
文芸部棟へ続く道を歩きながら、すぐ横を歩くファレイナに笑顔を見せる。何も無いように笑い掛ければ、あの子も気付いていないように笑い返してくれた。その笑顔に思わず言ってしまいそうになったけど、何とか堪えた。
生徒会室の前で別れて
満も、私には勿体無かった。可愛くて、元気一杯で、そして自分に素直で、とても良い子。忘れた自分を信じられないくらいに、出来た子だ。
ファレイナに何と言おう。満に何と言おう。どうやって伝えたら、良いのだろう。
ファレイナに今まで満を忘れていた、と伝えることも、満にこれから貴方を忘れる、と伝えることも。
どちらも、酷く難しいことに思われた。
「入らないの?」
「……いえ、入りますよ」
「そう」
唐突に背後から掛けられた穏やかな声に溜め息を
「どうぞ、可愛い後輩から」
ドアマン宜しく横に控えた篠崎先輩に、頬を引き攣らせながら「ありがとうございます」とお礼を言えば「可愛い後輩のためだから」と悪戯っぽく返された。もう一度吐き出しそうになった溜め息を呑み込んで、大人しくドアをくぐる。
「昨日の件は良いの?」
そして二度目の背後からの問い掛けは、先程までの穏やかな調子に少しだけ真剣さが混じっていて、思わず足を止めてしまった。誰もいない生徒会室。謀ったようなタイミングで掛けられた言葉に、思わず後ろを向く。
穏やかな表情。優しい微笑みだが、尋ね掛ける目は真面目に私を心配しているようだ。
……本当に、ファレイナはどうしてあれだけ毛嫌いしているのか。
「えぇ、もう大丈夫です」
頷いてみせると、またその整った顔が穏やかに笑った。
しかし誰も生徒会室に来てないなんて思いもしなかった。テーブルに鞄を置くと、すぐにやることが無くなってしまう。壁に置かれた資料を読もうか。それとも、篠崎先輩に生徒会の秘密について……昨日早く帰ってしまって聞けなかったことについて、教えて貰おうか。そう考えていた矢先に、先輩の方から尋ね掛けてきた。
「新月さん、話から聞く? それとも実際に行ってみる?」
「……どこにですか?」
唐突な二択に戸惑うが、先輩はにこりと笑って「行けば分かるよ」とだけ言う。
少し考えて、それからすぐに「話からでお願いします」と返した。見も知らない場所にいきなり行くよりは、知識を得た方が良い。
「そっか」
一つ頷いた篠崎先輩はしばらく考える様に目を瞑って、それからゆっくりと目を開けて、微笑んだ。
「まず、僕達生徒会が学園のために動いてる、って話はしたよね?」
「はい。 ……表でも、裏でも、ですよね?」
「そうだね」
表は勿論、裏で異世界から来る何かから学園を守る、と昨日怜那に聞いた言葉を頭の中で付け加えた。正直胡散臭い説明では有ったが、けれど間違いでは無いのだろう。
私の返しに頷いた先輩は、穏やかな笑みのまま言った。
「そう、僕達は妖怪みたいな者達からも学園を守ってるんだ。 ……まぁ、僕らは今の代は君以外皆、妖怪と呼んで良いんだけどね」
「先輩はインキュバス」
「その通り」
微笑んでみせる篠崎先輩は確かにとても魅力的に映る。もし彼が、井上先輩が新年度挨拶でやったのと同じ魅了を全力で使えば、ファレイナにすら影響が有るかもしれない。そのくらいには力のあるインキュバスなのだろう……だからこそファレイナが嫌うのかもしれない。ただ、インキュバス、サキュバスは元の姿は随分醜いと聞くので、井上先輩と篠崎先輩の本当の姿がどうなのかは知れないが。
とにかくも、篠崎先輩の言う通り、生徒会のメンバーは妖怪……と括ると表し辛いかもしれないが、ともかくも世界中の妖怪や妖精だ。今のところ正体を知っているのは、篠崎先輩、井上先輩、生徒会長の三人だけだけれど。
「オカルト研究会に昨日顔を出した?」
「……えぇ、一度」
またも唐突な問いに、戸惑いで遅れながらも返事をする。
「その時に、黒い六つ足の子犬を見なかったかな」
「子犬……」
黒い六つ足の子犬。記憶を辿る。あの時はファレイナを探して必死だったので、何か不思議な物を見てもきっと気にしていなかったのだろう。
ファレイナに夢中で、周りに気付かない。それは良いことなのだろうか。満を忘れてしまうのは、ファレイナと私の二人だけを見たら、良いことなのだろうか。それだけファレイナを想っているという証に、ならないだろうか。
恋に心を囚われ、盲目にただ一人だけを愛する、だから、周りが見えないのも、忘れてしまうのも、仕方のないこと。
………そんなはずはない、分かっている。
「新月さん?」
「……すみません」
沈みそうな思考を持ち上げ、オカルト研究会の様子を思い出す。ごちゃごちゃしていて、物が多い少し手狭な部屋。部屋の中央に置かれた長机の真ん中に短髪の先輩が腰掛けていて、その人が何か黒い塊を抱いていた様な……。
「……子犬って、首無しですか?」
「そう、その子だね」
篠崎先輩は微笑んで頷いた。あれは子犬だったのか。随分大事そうに抱えているから一度目を遣って、黒い塊に足が生えているのには驚かされたが、深く考える前にファレイナのことで頭が一杯になったためそれ以上見ることも無かった。
「ああいうのから、学園を守るんだよ」
「……あれからですか?」
黒い塊は確かに不気味には見えたが、けれど何が出来るわけでも無さそうだ。首を傾げた私に、穏やかに、けれどきっぱり頷く先輩。
「勿論、もっと強い奴もいる。例えば第一音楽室近くの男子トイレに出る、
「……黒傘婆」
名前は教室のあちこちで囁かれる噂で聞いたような覚えがある。けれど具体的な場所をこうもはっきりと言われたのは初めてだ。というか、男子トイレだったというのも今知った。
「その黒傘婆よりも、子犬の方が危ないんですか?」
わざわざ対比させたのはそういうことだろう。尋ねると、篠崎先輩は穏やかさをほんの少し控えて、真面目な顔で「何倍も、ね」と言った。
「入学時の生徒数と卒業時の生徒数を比べても、そこに差異は無いんだ。皆、正しく入学して、正しく卒業していく」
またも唐突に始まった話に、「はぁ」と適当に相槌を打った。
「だけど、生徒数は確かに変動してる。使わない机を空き教室に置くんだけど、去年は、学期初めの机の数と学期終わりの机の数の差は、5個もあった」
「……何かの間違いでは? 空き教室の机が、必ずしも生徒の数を表してるとは言えないでしょう」
「そう思うよね? ……随分昔になるけれど、空き教室の机の数の変動に気付いた生徒会長は、次期生徒会長に頼んで各教室の机の数を毎日調べて貰ったんだ」
机の数が合わない、それは些細なことの筈。しかし調べると、直ぐに危険が発覚した。
「四月の初めの週で1年生の1クラスが、いきなり机を一つ減らしたんだ。勿論、初めから生徒数は机ぴったりだった。そして減らした後も、机の数と同じだった」
「………………」
「そのあと三週目には3年生のクラスが机を減らした。5月1週目には日は違うが2クラスがそうなった。当時の生徒会長は相当に悩んでそうだよ」
段々と減っていく机に、変わらない筈の人数。篠崎先輩は表情こそ穏和な微笑みだが、目は少しも笑っていなかった。
「そこで生徒会長は、自分にこの仕事を任せて卒業してしまった前生徒会長の元に駆け付けて、何が起こっているのか説明してくれと頼み込んだ。彼の予想通りなら今すぐにでも手を打たないとまずい事態だったから、フランスに留学してた前生徒会長の元まで電話一つだけ入れて駆け付けたんだ」
普通なら笑い話になりそうだ。おかしなことが起こっているから、前の生徒会長を頼ってフランスまで駆け付ける。しかし残念なことに、おかしなことの正体は気のせいなどではなかった。
「前生徒会長は駆け付けた彼の話を聞いて、これまた電話一つで留学を取り消してしまった。そして灯清大学への編入試験の手続きを済ませると、日本へ戻る生徒会長と一緒にこの学園に来た。 ……普通の人間だった生徒会長に、普通でない世界を教えて、また、自分が学園を守るために」
「……そのお話と子犬に、何の関係が?」
一応尋ねてみる。何となく予想は出来ていた。けれども私の予想通りなら、彼等を保護するオカルト研究会だって無事では済まない筈だ。だからきっと他の可能性や理由が有るのだろう。
篠崎先輩はにっこり笑うと、緩やかに首を振る。
「今の子犬は、もうきっと大丈夫だ。 ……それに、あの子はもうろくろ犬だしね」
「……ろくろ犬?」
「うん。名前が付いたんだよ」
そう嬉しそうに言った先輩はけれど再び、笑みから穏やかな色を取り去った。
「名前が付くと問題無いんだ。彼等は名を欲しがってるだけだから、嫌がるような名じゃなければ大丈夫。けれどね、名が無いと、誰かの名を、奪ってしまうんだよ」
名を、奪う。
先程の先輩の話が思い起こされた。先輩が言葉を続ける前に、頭に浮かんだその可能性を否定して欲しくて、先に口を開く。結果は分かっているようなものだけど。
「名を奪われると、存在が消えるんですね?」
「そうだよ」
あっさりと返された返答に、頭が少し止まって。
じわりじわりと、その意味が、染み込んでくる。
名が奪われると、存在が消える。
誰も気付かない程に。机の数すら違うのに、誰も分からない程に。
一般の生徒にも、簡単に起こってしまう。たった1カ月と1週間で4人も名を奪われたのだ。それなら、オカルト研究会や生徒会の様な、もっと名を奪われる確率が高い場所にいると、どうなってしまうのか。
ファレイナが同じ学園にいることが、無性に怖くなった。
もし彼女の名が奪われてしまったら。
それに気付くことすら出来ないままでいたら。
ぶるり、と体を震わせた私に篠崎先輩は「ごめんね」と申し訳なさそうに眉を下げると、また穏やかな顔に戻って「コーヒー飲む?」と立ち上がる。一度頷いてしまってから、今は飲む気分にもなれそうにない、と気付いた。
手際よく支度をしながらも、先輩は口を開く。
「名前が無いのが名無しで、名前が付いてるのが名付き。分かりやすいけど、そのまんまな名前だよね」
そう言って笑う。確かに全く捻りの無い名前だ。その言葉に思わず微笑んでしまうけれど、それでも不安は消えない。それどころか増すばかりで、今すぐにでもあの子と一緒にフォエラへ帰りたくなってしまう。
「僕達の仕事は、その名無しや名付きから生徒を守ること。名付きもね、噂になったりすると、どんどん生徒に危害を加えるようになるから」
カチッ、と音がして先輩の手元を見ると、何とカセットコンロで薬缶を火に掛けていた。生徒会室で、というか調理室以外で火を使っても良いのだろうかと思ったが、すぐにそんな疑問は頭から消える。突然浮かび始めたやり場のない焦燥に困っている私へ、篠崎先輩はこちらを向いてのん気に言葉を続けた。
「何か、名が言霊を溜める、だったかな。……オカルト研究会に魔女さんがいるんだけど、その人がそんなことを言ってたな」
「…………」
間違いなくあの人だろう、生徒会にも魔女と認識されているのか。あそこまでオープンで、普段の学校生活をまともに過ごせているのか少し心配になってしまった。
「まぁとにかく。名無しとか名付きとか、そういうのは異世界から来るんだ」
「……異世界」
先輩の言葉を繰り返しはしたが、それについては怜那から昨日聞いているので知っている。生徒会があちらと同じ様にいくつも出入り口を持っているかは知らないが。その中にフォエラへの道が有るなら、ファレイナと共にすぐにでも飛び込んでしまいたい。
ファレイナが名を奪われたら、私は彼女を忘れてしまうのだろうか。そんなに簡単に、何処の何とも知れない物に、ファレイナの名を渡してしまうのだろうか。そんな考えはすぐさま否定してしまいたい、けれど。
私は、満のことも、忘れてしまっていたのだ。
「大丈夫?」
「……はい」
少しの間をおいて答えれば、先輩は申し訳無さそうに眉根を下げ、それから困ったように笑った。
「ごめんね、怖がらせちゃったみたいだ。 ……気休めにしかならないけど、僕らは、すぐに忘れてしまうわけじゃないよ」
「…………え?」
すぐに忘れるわけじゃない?
でも、確か、存在が消えるって。先輩へと疑問の顔を向ける。困ったような顔のまま、先輩はすぐには答えない。
もう一度コンロに向き直り、豆を計り始めた篠崎先輩は、しばらく言葉を探しているようだった。やがて二人分を用意し終えると、ようやく口を開く。
「名を奪う、っていうのは簡単に出来ることじゃない。特に、僕らみたいに異世界へ行けて、名について知っているなら……名が取られる可能性があることを知っている者なら、名が完全に名取りの物になるまで、元の人のことも覚えていられる。 ……その時には、本人はもう消えてしまってるんだけどね」
そこで締め括られてしまえば、私の不安は増すばかりだっただろう。けど、先輩はまだ言葉を続けた。
「もし、もしも、名を奪った名取りから、名を取り戻すことが出来たら。 ……何度かそういう話を聞くんだ。この学園だけじゃなくて、他の場所でも名取りは現れる。皆、名を奪われた誰かを取り戻したくて、足掻いたんだよ」
先輩が続けた言葉は、私の不安を消し去りはしなかった。
けれどその言葉を、私は必死になって覚えた。忘れるほど複雑でもないその言葉は、けれど、万が一にでも、いや、例え私が名を奪われたとしても、決して忘れてはいけない言葉だった。
「ともかく……完全に奪われる前に名を取り戻せたら、名の持ち主も、戻ってくるんだ」
何度も頭の中で繰り返していた私の目の前にいきなりコーヒーが現れ、時計の針が大きく進んでいたことにようやく気付いた。
――――――
「それじゃ、話は終わったし、次は行ってみようか」
「……異世界に、ですか?」
飲み終えたコーヒー――とても美味しかった――のカップを漱ぎながら、一応言葉を返してみる。勿論、返ってきたのは「そうだよ」という穏やかな笑みだけ。ちなみに、流し台は壁の端の方では有るが、これまた凝った装飾で飾られた物が取り付けられていた。
私から洗ったばかりのカップを受け取って棚へ戻すと、内廊下に面した扉の前へ移動した。微笑んでくるので、一先ずも同じように扉の前へ立つ。決して派手ではないが、けれど丁寧に装飾が施されたその扉は、昨日鞄を取りに戻った時と全く変わらないように見える。
その何の変哲もない扉を、先輩はノックした。
こッ、こッ
硬質に二度響いた音。響きが良く、扉の細かい装飾の隅々まで音が伝わっているように感じる。勿論、ドアを内側からノックしたところで何がある筈も無い。けれど、先輩の所作は確信に満ちていて、だからだろう、本来外開きの筈のその扉がこちらに開いた時――それどころか、両開きの扉の右側の戸が、中央を支点に壁から離れる様にして開いたのを見ても、大して驚かなかった。ただ、その先で洗練された仕草で扉の先を示す姿を見て、あぁ、向こうでもドアマンをやってるのか、と妙に感心はしたけれど。
「ようこそいらっしゃいました」
優雅に微笑んで腰を折る先輩に、ファレイナがドアマンをする妄想が浮かんでくる。どうしてだろう、自分でも良く分からないが絶対に似合っていると思う。そんな関係の無いことを思い浮かべた私に、篠崎先輩が声を掛けてきた。
「皆向こうにいるから、取り合えず入ろうか」
「はい」
頷いて返し、ドアマンの横を抜けてその空間に足を踏み入れる。勿論、ドアを抜けた先に中庭の景色が広がっている訳ではなく、けれどどうやら廊下のようだと、左右に延びる壁を見て辺りを見渡した。本来何も無い筈の場所に無個性な窓が並ぶ壁があり、向こうに有る筈の中庭が見えなくなっている。伸びる廊下の幅は少し広い気もするが、それは気のせいかもしれない。どこから持ってきたのか、ベンチや机が置かれていて、そこに絵衣先輩、見崎先輩、松山先輩に杉原先輩、そして佐々木君に後一人、私の顔を見て顔を引き攣らせたあの一年の男子生徒がいた。床も壁も、そして天井にも何かの液体が溜まっている様で下手をすると直ぐに服を汚してしまいそうだったが、ともかくもそれ以外は普通の廊下に見えた。
「美利ちゃんようこそ!」
絵衣先輩が元気に挨拶して下さったので、会釈をして返すと、隣のベンチの空きをぽんぽんと叩き、「ここ座って!」と言った。大人しくそちらへ向かい、席へ腰を下ろす、と、松山先輩の視線が一度鋭く尖った気がした。
「新入生が全員揃ったな」
私と他の二人を見てそう頷いた見崎先輩は、ふと篠崎先輩の方へ目を遣り、「説明は?」と尋ねた。篠崎先輩が頷きを返すと、「そうか」と言ってそのまま机の上の資料に目を遣った。佐々木君と後一人はどちらかと言えば不安そうな面持ちで見崎先輩の様子を眺めていたが、そんなことよりも靴が謎の液体に浸っているのが気になって足元ばかりを見てしまう。黒く、僅かに粘着質なその液体は、服に付くと厄介な汚れと化しそうだった。そんな私を見て、絵衣先輩が声を上げる。
「あ、美利ちゃん、それ大丈夫だよ」
「……でも」
大丈夫、と言われても。絵衣先輩の顔を見ると、「んー」と顎に手を当てて考え込んだ絵衣先輩が、しばらくして足元に手を伸ばし、黒い液を手ですくった。
そして、目を丸くしている私の前で、肩口にその液体を掛ける。
「えっ?」
驚きの声を洩らすが、絵衣先輩はそんな私の様子に微笑むばかりだ。勿論、手から移ったどす黒い液体が制服を汚していく。黒い染みはどんどん広がるばかりで、洗濯して、も…………。
「ね? 大丈夫でしょ?」
唖然と口を開いた私に笑い掛けた絵衣先輩。その肩口には黒い染みなど残っておらず、代わりに液体がつたった腕に染みが現れ、そして、その染みすら液体と同じ様に、全くの無抵抗で地面へと戻っていっていた。後には汚れた気配すらない制服だけが残る。
「あとも残らないくらいさらさらなんだ」
いや、さらさら……少なくとも足裏から伝わるのはねちゃりとした感触なのだが。けれど実際に絵衣先輩の制服は綺麗な物だし、納得するしかない。驚いて足裏の感触を何度も確かめる私に絵衣先輩は「他にも色んな世界があるよ」と楽しそうに笑ったけれど、そこで見崎先輩が小さく手を上げた。
「さて、本題に入らせてもらおう。俺達生徒会の普段の仕事は、名無しや危険な名付きを狩ることだ」
そう言ってから、一枚の紙を机の中央に置いた。黒傘婆を先頭に、噂になっている名前や見た事もない名前が並んでいて、その横に簡単な説明と場所が書かれている。
「今のところ、噂になっている中で場所まで特定できた名付きはこいつらだ。その中でも危険なのは、黒傘婆くらいのもんだな」
「今年は少ないですね」
空いた席に腰掛けた篠崎先輩が、紙に並ぶ名を見て一言洩らす。名前は15個並んでいるが、どうやらこれでも少ない方らしい。七不思議の倍以上ある時点で多いと思うのだけど。けれど見崎先輩も篠崎先輩の言葉に頷いてしまい、そんなものなのか、と書かれた名前を眺めた。
「名無しについては、見つけ次第各自で対処してくれ。オカルト研究会に知らせても良いが、向こうも直ぐに名を付けられる訳じゃないからな。名取りになるよりは、狩った方が良い」
狩った方が、良い。きっと、オカルト研究会と真っ向から対立する意見だろう。新入生の男子生徒二人が僅かに顔を強張らせていた。私もああなっているのだろうか。
名無しを狩ることについては……正直なところ、何とも言えない。ファレイナは、私には狩って欲しくないだろう。けれど、そのファレイナのことを思うと、やはり狩った方が良いように思えてしまう。実際に目の前に名無しが来たらどうなるのだろうか。名前が無い、名前を欲しがっている小さな存在。
見崎先輩が気を取り直す様に「名付きの方だが」と前置いて、紙の一番上の名前をなぞった。
「今夜、黒傘婆を狩りに行く。いつも通り、オカルト研究会とぶつかることになるだろうが、俺達は俺達のやり方を通そう」
見崎先輩の言葉を聞きながらふと目を向けると、名前のリストを見て顔色を変えている松山先輩がいた。冷静な人、という印象を抱いていた為に意外に感じて、一体どの名前を見ているのかと、彼の視線を追おうとした時。
「ッ――!?」
身の危険を感じて、弾かれたように顔を上げる。周りの皆も同じように険しい表情で同じ方向へ顔を向ける。
延びる廊下は静かなままで、壁や天井の液もただねっとりとそこにあるだけだ。
けれど、嫌な予感はちりちりと強くなるばかりで、知らず知らず手に力が籠り、みしっ、と握ったベンチの板の悲鳴が聞こえた。
それと同時に、一枚の閉まった窓から飛び込んでくる人影。
「……はぁっ、はぁっ………ッ……」
ぱちゃッ、と黒い液体を跳ね上げて、余程急いだのか、荒く息を吐きながら、けれど刺すような目でこちらを睨む。
昨日穏やかな顔でろくろ犬を抱いていた、オカルト研究会の先輩だった。
「っ……返せッ――!!」
叫ばれた言葉の鋭さに、思わず身を竦ませる。
「……秋さん、どうかしたの?」
流石に戸惑った顔で笑みを消した篠崎先輩が、固まった私達の代わりに尋ねかける。けれど彼女は答えずに、震える息をゆっくり整えていた。その目が睨むのは、松山先輩。
松山先輩は顔色を青褪めさせていて、その首筋がびっしりと細かい何かで覆われている……はじめ天井や壁の黒い液かと思ったが、よく見ると羽のようだった。
「……ッ……………松山、さ、」
一度口を開き、何かを紡ごうとして止め、代わりに堪えるような震える声音で松山先輩の名を呼ぶ。びくっ、と震えた松山先輩は、目元まで羽を増やしながら、一歩後ずさった。
っちゃっ……ちゃっ……、ちゃっ
「昼、……何してたの?」
「……っ」
ゆっくりと黒を撥ねさせて、けれど追い詰める様にこちらへ歩み寄った彼女の言葉に、松山先輩は小さく息を洩らした。けれどかちかちと嘴を鳴らし――松山先輩の姿は完全に変わっていた――、一歩前に出て口を開く。
「ッ関係無いだろ! お前も見ただろうが、トイレだよ!」
過剰とも思える叫び声には、少なからず怯えの色が混じっていた。
その返事を聞いた秋先輩はじっと松山先輩の顔を見つめるばかり。見定めるように、見透かす様に目線を逸らさず、見られていない私まで胃に穴が開きそうなプレッシャー。やがて我慢出来なくなったのか、鴉天狗は怒ったような、怯えたような声音でまた嘴を開いた。
「何とか言えよっ、いきなり何しに来たッ!」
叫ばれた言葉を受け取った秋先輩は、一度だけ目を瞬かせると、じっ、と松山先輩の目を覗き込む。
「…………分からない?」
ぞく、と。
ただ首を傾げただけの彼女に、背筋が凍った。
松山先輩も嘴の動きを止めていて、奇妙な沈黙が辺りを包む。
秋先輩の目線は狂気と殺意を孕んでいる。動いてはいけないような、そんな気がする。松山先輩の顔色が無いのが、視界の端に映るのが分かる。けれど瞳すら動かせない。
そんな中に。
「――秋っ、早まるなっ!」
「っ、ちょ、あ、やっ……」
騒々しい二つの影が先と同じ窓から姿を現す。先導する様に声を掛けながら飛び降りる影、危なっかしく落ちる影。はらはらするような着地で足は地に着けられたものの、バランスを取れなかったのだろう、ずるっ、と体を傾げて、黒い液を大きく跳ね上げさせた。先に飛び込んできていた方が、舌打ちをして倒れた方へしゃがみ込む。どろどろの黒い液体で全身をぐっしょり濡らした彼女は、泣きそうな顔で文句を言っていっていたが、宥める様に眼鏡の老け顔が説明をして、服からも染みが完全に落ちる頃にはすっかり立ち直っていた。
私達はと言えば、勿論のこと、立ち直る頃合いを見逃していた。
誰もまだ、動けないし喋り出せない。
「…………あー、」
ただ黙って見つめ合う、どことなく緊張の抜けてしまった空間を見て、眼鏡の老け顔が気まずそうな声を洩らした。そしてその後ろにいた彼女……ファレイナは、私を見つけて顔を輝かせる。
「ミリュ……美利様、生徒会のお仕事お疲れ様です!」
勿論無視した。視線をこちらを睨む女性……秋、先輩?……へと戻して、周りの目を気にしないように努める。視界の端でファレイナがショックを受けていたようだけど、意識から排除する。
秋先輩は未だに松山先輩を見ていた。けれど先程までの背筋が凍るような視線ではなくなっていて、その肩に眼鏡の老け顔が手を置くと、ついに松山先輩から視線を逸らした。
それにほっとしたのか、松山先輩が大きく息を吐いて秋先輩を睨み付ける。
「……結局何なんだよ、聞くだけ聞きやがって、何も言わねぇのか」
鴉羽の減った険しい顔で尋ね掛けたけれど、先輩はその言葉には答えずに、松山先輩のすぐ隣へ目を向けた。狂おしい目。
「おいッ」
またも、身構えてしまう目になっている。何も言わず、じっと見つめているだけの秋先輩だったけど、焦った声を上げた松山先輩は、足を一歩ずらして視線に割り込んだ。
「………ッ何とか言え!」
叫んだ松山先輩からまた顔を逸らした秋先輩。眼鏡の老け顔が顔を顰めて「おい、秋」と注意したけれど、秋先輩はそのまま後ろを向いて、窓へと向かってしまった。松山先輩がもう一度何かを言おうとした時、こちらへ顔を向けて、あの目で松山先輩の口を縛り付けた。ぞっとするような目付きで、淡々と言葉を発する。
「もし、ろくろ犬の居場所知ってたら、私に教えてね」
それだけ言って、窓へと飛び込んでいく。
後に残った眼鏡とファレイナは顔を見合わせると、老け顔の方が諦めた様に溜め息を吐いて、見崎先輩へ小さく頭を下げた。
「すまん、騒がせた。ろくろ犬がいなくなってて荒れてるんだ。代わりに謝る」
「いなくなった?」
「あぁ。 ……この様子だと、迷子みたいだな。 ………怜那さん、戻ろうか」
「え、もうですか?」
こちらを名残惜しそうに見るファレイナ。勿論、目を合わせないようにする。二人きりなら構ってあげるから、今は空気を読みなさい! そう心の中で叫んだけれど、意識は直ぐに別のところへ持っていかれた。
逸らした先でふと目に付いた、松山先輩の隣に立つ人物。ただ無表情に秋先輩が飛び込んだ窓を見つめる。
そんな杉原先輩に、松山先輩が労わるような目を向けていた。言葉も発さず、けれどそっと息を吐いた松山先輩が先程までの印象と大きく違っていて、気付けばじっと見つめてしまっていた。
「……何かな?」
冷静に尋ね掛けられたその声に、慌てて首を振って、何でもないですと否定した。
満月よりも断然新月です 新月賽 @toshokan_suimin
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