第二十二話
放課後。
昼休みの終わり頃に掛かり始めた雲はそのまま空に延べ広がっていったようで、少し黄に焼けた雲が空の殆どを覆っています。雲間からは午後の陽光が突き刺すように冷える空気を斜め裂いていて、角度が大きくなっているその光に雲向こうの太陽も低い場所に有るのが分かります。
今日もオカ研の前の廊下に立った私は、胸の内で僅かに上がる『怖い』との声を抑えて、ドアノブに手を掛けました。ひやりと冷たい金属の質感。あまり長くは味わっていたくないその感触を払うため、ドアを開けようと僅かに力を込めたところで。
「今は開けない方が良いよ」
との言葉に瞬間的に体をびくつかせます。ゆっくりと後ろを振り返れば、我らが部長である加賀崎部長がいつの間にやらそこに立っていました。眼鏡の奥の光は随分と冷静、或いは退屈とも言えてしまう物で、オカ研での生き生きとした姿と違い年齢を感じさせます。
「……何か有るんですか?」
開けないのならば、と冷たいドアノブから手を放しつつ、部長に体を向き直します。部長はあまり感情の乗らない目付きのまま、一言だけ「……荒れてる」と漏らすと、それきり黙り込んでしまいました。先程は退屈そうに感じたその冷たい瞳は、どこか怒っている様にも思えます。
荒れてる、とは部屋の内装ことでは無いでしょう、昨日一昨日見た限りでは既に荒れていると言っても良いくらいごちゃごちゃした部室でしたので、そんなことで部屋の外にいなければいけないなんて事も無いと思います…………ですから一つ想像出来るとしたら。
「……泥棒でも入ったんですか?」
「は?」
部室が荒らされた、つまり何者かが侵入したのかと解釈してそう問い掛ければ、面食らった顔を返されました。しばらくぽかんとした顔で私を見つめた加賀崎部長は、やがて「……あぁ、」と納得したように頷き、首を一度横に振ります。
「いや、ごめん、秋が荒れてるんだ」
「えっ? ……秋先輩が…?」
想像していなかった言葉に驚きを隠せず、思わず問い返してしまいました。あのさっぱりとしてそうな秋先輩が荒れる……と聞いて、少しだけ考えられるのは、矢張り。
「……妖怪関連で何か、有ったんですか?」
「うん、まぁ……妖怪というか…………まだ説明してないんだよな、そう言えば」
はっきりしない返事を返した部長は面倒臭そうに顔を顰め、それから思い出した様に尋ねます。
「てか、昨日の件はもう大丈夫なのか?」
昨日の件。つまりはいきなり部室を飛び出して行ってしまったあの事でしょう。ミリューネ様もオカ研を訪ねてきたと仰っていましたので、やっぱり何か有ったと察せられたのでしょうね。大事な話があると聞いて結局まともに聞かずに飛び出してしまったわけですし、申し訳なくて謝罪し、もう大丈夫だという旨を伝えさせて頂きました。
「うん……それなら良かったよ。 えっと……昨日、秋と一緒に子犬がいたのは覚えてる?」
「あ、はい。 あの黒い首無しですよね」
やっぱり子犬で良かったのですね。六本足でしたけど。
私の返答に頷いて返した部長は、再び顔を顰めて言いました。
「そいつがいなくなったんだ。 それで秋が荒れてる」
「……成る程」
荒れてるという割には静かですが、しかしあの子犬がいなくなったというのは……非常に穏やかではない話です。昨日の部活中、あれ程子犬にべったりだった先輩を考えると、加賀崎部長の「入らない方が良い」という言葉も納得がいきました。
それにしても、あの子犬がいなくなった。昨日の話を聞いた限りでは、まさかとは思いますし断定は避けたいところですが……生徒会があの子犬のような、無害な奴らも標的にしていると聞きましたし。自然眉根が寄った私に恐らく考えを察したのでしょう、加賀崎部長は「断定は出来ないが」と前置きをして小さく溜め息を吐きました。
「……秋は、生徒会の連中だって考えてる。 …………一応俺も、な」
「迷子、とかの可能性は?」
「…………まぁ、その可能性が一番高いんだけど」
あ、迷子も普通に考えて良いんですね。そして一番可能性が高い……それなのに入室を止められる程怒っているのでしょうか。真実はともかくも、生徒会との確執は想像より深いのかもしれません。
私の雰囲気に何か言いたげな顔をした部長でしたが、そのすぐ後ろから現れたお姿に、口を開いたばかりの部長を遮って挨拶します。
「木下先輩、授業お疲れ様です!」
「……うん、その様子だと仲直りはしたみたいだね」
何故か微妙そうな表情ですが、軽く手を上げて私の言葉に応える木下先輩。そのやり取りに言いたい事を遮られてしまった筈の部長でしたが、慌てた様子で木下先輩へ振り向きました。
「おまっ……恵、今は控えてろ! ヘクセのところにでも行っとけよ!」
「これはご挨拶だねぇ」
加賀崎部長の言葉に目を細めた木下先輩は、ちら、と一度部室の扉を見つめ、それから私達へ目を向けました。「入らないのかい?」とほんの僅かな時間不思議そうな顔をした先輩でしたが、「開けるなよ!」と叫ぶ加賀崎部長の声に目を見開いて言葉を洩らします。
「……まさか」
「お前が何を想像しているかは知らんが、秋が中で荒れてる。 ……ろくろ犬がいなくなった」
部長の言葉に小さく息を呑み、視線を僅かに彷徨わせた先輩は、すぐに意を決した様にドアノブを掴み。
「恵!」
ガチャ
――けてあげるから! 出てきて、ねぇッ!!」
今まで静かだったのが嘘の様に、秋先輩の叫びが耳に突き刺さります。部室の中は昨日連れて来られた異世界へ変わっているようで、普段通りの部室には誰もいない様に見えました。けれど、秋先輩の声は耳に痛い程で、部長と私が言葉を失っている間に木下先輩が部室へと足を踏み入れます。
慌てて後を追うと。
「ねぇ、お願……ッ先輩! ろくろ犬が居なくなったんですっ! 木下先輩、昼間見てましたよね、おかしなこと起こりませんでしたか!?」
「…………」
こちらに気付いて、必死な声で尋ね掛ける秋先輩。木下先輩は酷く悪い顔色で言葉を探しているようで、後ろ手で扉を閉めた加賀崎部長はその様子を見ながら難しい顔をしていました。
秋先輩の先に延びる廊下の景色には錆が浮き、ろくろ犬、が恐らくあの子犬の名前なのでしょう、ろくろ犬の姿は見えません。冷たい空気に嫌な予感がしてぶる、と私が体を震わせると、何も答えない木下先輩にじれた秋先輩が「何か有ったんですか」と低い声を出しました。木下先輩は小さく首を振ると、秋先輩を窺うようにしながら恐る恐る口を開きます。
「……いや、その、…………途中で、帰ったから、分からない」
「…………は、」
それだけ洩らした秋先輩は、ぱちぱちと目を瞬かせました。木下先輩の言葉を頭の中で咀嚼しているのか、しばらく何も言わずに木下先輩だけを見据えて。
そして、酷く低い声が漏れました。
「……え?」
ごめんなさい怖いです。私に怒りが向いていないのは分かりますが、思わず一歩後ろに下がってしまいました。木下先輩の言葉に呆然とそれだけ洩らした秋先輩は、一度目を瞑り、それから震える息を吐き出します。
それからもう一度目を開けた秋先輩は、据わった目で尋ね掛けました。
「……帰ったんですか?」
「っ、あ、いや…………」
「帰ったんですね?」
思わずといった風に否定した木下先輩に、目を眇めて更に強く詰問する秋先輩。
「……うん――ッ」
パァン、と大きな音がして、木下先輩の小柄な体が横薙ぎに倒れました。
「えっ?」
思わず口から洩れて、慌てて手で口元を押さえましたが、秋先輩はそんな私を気にしている様子は全く有りませんでした。振り抜いた右手を震わせ、倒れた木下先輩を強く睨みつけています。何かを言おうとしているのか、口の形を幾度も変え、けれど何も言わずに形をまた変え……やがて、倒れた木下先輩が、掠れた声で「ごめん」と謝り。
「……っ!」
その言葉に顔を歪めた秋先輩は、私達に背を向けて走り出しました。
「っ、待て秋っ!」
部長が慌てて呼び掛け後を追おうとしましたが、秋先輩は窓の一つに飛び込みます。ガラスの割れる音一つなく、けれど秋先輩の姿は廊下から消えていました。
「…………短気過ぎる」
怒った口調でそう洩らした加賀崎部長は、諦めたように一つ溜め息を吐くと、床に倒れたままの木下先輩へと屈み込みます。
「……大丈夫か、恵」
「っ……う、ん」
頷きながらも、けれど掠れ声の木下先輩は、その目を次第に滲ませていきます。上体を起こした木下先輩は、必死に堪えているようでしたが、涙を溢してしまいました。
「っ……ったいな、思いっ切り殴るなって………」
震える声でそう溢した木下先輩の左頬は真っ赤に染まり、私だってきっと泣いてしまうだろう痛さなのは想像に難くありません。どう言葉を掛けたら良いか分からずにおろおろする私でしたが、木下先輩は一つ息を鋭く吐くと、小さく何かを呟きました。すると木下先輩の頬から赤みが消え、それを見た部長が微妙な表情になります。
「……お前、一応反省とかしてるよな?」
「…………」
ぶすっとした顔で黙ったままの木下先輩は、冬服の袖で涙を拭うと、すぐに立ち上がりました。それから、私に軽く笑ってみせます。
「すまないね、見苦しいところを」
「……恵」
「うるさいな。 ……反省してるさ」
加賀崎部長を振り返らずに顔を顰めた木下先輩は、溜め息をついて吐き捨てる様にそう言いました。険しい表情のまま「ろくろ犬……」と恨めし気に呟くと、そのまま私の横を抜けて部室の長机の前に腰掛けます。
「どうせ君達は生徒会の仕業だと思ってるんだろう?」
「……その可能性もあるだろ」
「配分は高い癖に。 ……秋は生徒会だと決めつけてるだろうね、早く止めないとあいつらにも殴り掛かり兼ねない」
棘のある言葉でそう仰った木下先輩に加賀崎部長は顔を顰めましたが、けれどろくろ犬の……護衛でもしていたのでしょうか、その業務を放棄した木下先輩ですら本気ではたいてしまった秋先輩ですから、ろくろ犬に危害を成した誰かに何をするか……殴り掛かるで済めば良いような気もします。
「…………まぁ、手が早いのは考えもんだが」
しぶしぶと言った風に同意した部長に、木下先輩は促す様に視線で秋先輩の向かった先を示しました。そして同じく私にも、「ここは良いから、問題にならないように立ち回ってくれ」と仰り、さらりと大きな仕事を渡して下さいます。
「……お前は何をするんだよ」
「こっちはこっちでろくろ犬を探すさ。 私は迷子だと思ってるからね、見つけてやれば問題も解決するだろう?」
少し赤い目で冷たく言う木下先輩は少し拗ねてしまっている様で、何を言っても通じそうに有りません。部長は何か言いたげでしたが、私が秋先輩の飛び込んだ窓を窺えば、溜め息を吐いて木下先輩に背を向けました。
「……行こうか怜那さん、案内するから」
「ついでに、名についても教えてやったら良いだろう」
「追い駆けるんだからそんな時間は………まぁ良いや、行こう」
私としては木下先輩と一緒にいたいところではありますが、今一緒にいても何だか気まずい雰囲気になるだけな気がしたので、大人しく部長の後に着いて行きました。
――――――
「えっと……一応説明すると、昨日秋と遊んでた子犬は、名無し、になるんだ」
「ろくろ犬、でしたっけ?」
そう呼んでいたのを思い出して確認すると、加賀崎部長は「いや」、と言って、困ったような表情になりました。訳が分からなくて勢いよく首を振り向くと、体が回転しそうになり慌ててバランスを取ります。けれどもがくと更に明後日な方へ向かってしまい、部長の手が私の腕を掴んで、漸く元の向きに戻る事が出来ました。するする、と進む私達は、……水だか何だかよく分からない中にいて、その中を半分泳ぐように、半分流されるように進んでいました。
秋先輩の後を追って飛び込んだ窓の、先に満ちていた抵抗が凄く少ない液体は、けれど見た目は微かに青み掛かる程度で、不思議なことに体の重さを殆ど感じず、浮く事も有りません。勿論、無重力なんてことは無く、スカートの裾はただ大人しく端を揺らす程度です。言うまでも無く息は出来てますし、また会話も出来ます。周りはいつもの校舎と変わらないように見えますが、これも異世界の一つなのでしょうね。
ともかくも元の向きに戻れた私は、そっと、加賀崎部長の方へ疑問の顔を向けました。
「いや、昨日の子犬は、ろくろ犬で間違いない。だけど、ろくろ犬って名前が付いちゃってるから、もう名無しじゃないんだよ」
「……成る程?」
それならそもそも名無しの例えに使わなければ良いのに、とそう思ってから、ある可能性に思い至りました。
「あれ……それではひょっとして、ろくろ犬という名前は昨日はまだ付いていなかったのですか?」
「あぁ。 放課後の時点じゃまだ付いてなくて、夜中に秋が付けた。だから今は、名無しじゃなくて、名付き」
……いや、名が無ければ名無し、名が付いたから名付き、というのは凄く分かりやすいですが。けどそれにしたって単純すぎる気が………まぁ良いのですけど。一応表面上は大人しく頷いてみせれば、続きが語られます。
「昨日の子犬みたいな名無しは結構多く表れるんだけど、名が無い時は見た目に多少の違いが有るくらいで、殆ど危害は無いんだ。 で、名が付くと生徒達に危害を及ぼしたりするようにも、なる」
「え?」
言葉に驚いて部長を振り返ったものですから、またもバランスを崩してしまいました。それを支えながら、部長は考える様な表情をしています。
「え、でも……ろくろ犬、と名付けたのですよね?」
「うん、そうだ……えっとな、名は力になるんだ。 名無しはさっきも言った様に、見た目の違いくらいしかない。だが名付きになれば、名が噂を留め、形を留め、思いを留め、それが名付きそのものを強くする」
「…………はぁ」
分かっていない生返事に苦笑した加賀崎部長は、「まぁ、詳しくは後で説明する」と言いました。それから、そっと私の方を向いて、真剣な目で言います。
「大事なのは、名無し……或いは、自分の名が気に入らない名付きは、誰かの名を、奪う可能性が有るってことだ」
「――名を、奪う?」
まだ良くは分かっていません。名を付けられるならともかく、名を奪う、とはどういう事なのか。けれどぞっとしてしまい、温度を殆ど感じさせない不思議な液体の中だというのに私の腕に一気に鳥肌が立ちました。 ……半袖なのでちょっと目立ちますね。と、それはともかく。
「そうだ。 そして、名を奪われると、」
存在が、消える。
その言葉に今度こそ完全に体勢を崩した私は、部長が支える間も無く液体の中をくるくると周りながら、何となく、生徒会とオカルト研究会がどうして対立しているのか、分かり始めていました。
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