第二十一話

「うわぁ……それ、うちの子にやってみたいかも」

「……私は嬉しかったですけど、その、おすすめは出来ませんよ?」

 昼休み。空は晴れ渡り、休みまでもう少しだからでしょうか、心成しか透き抜く風がとても軽やかに感じられます。いえ、休みだからというだけではないでしょう。

「嬉しかったって言われると、またやってしまいたくなるわね」

 私の横で少し値の張るチョコクロワッサンを食べているミリューネ様。意地悪に笑っているその御姿を見ることだけでも、体がふわりと風に流されて飛んで行きそうです。春の柔らかな陽光の中、その光を弾かない黒の髪の先が、けれど空気に溶けていくようにそよいでいます。遮る建物の壁が無い屋上ではミリューネ様は緑と青の景色に馴染み、その絵になる悪戯っぽい笑い掛けに、私は同じく悪戯っぽく笑い返しました。

「少しなら、良いですよ?」

「…………ぅ」

 流石にいつも泣かされてしまうのではちょっと困ってしまいますが、しかしたまになら……その方が慣れないので欲張りなミリューネ様をより強く感じられると思いますし。

 狙い通り、私の返答にその頬を赤くしたまま黙って固まってしまったミリューネ様は、しばらくするとふかーく息を吐いて、それから手の中のクロワッサン、恐らくサクサクしているのだろうその生地に「はむっ」と勢いよく食い付きました。隣で実さんが楽しそうに笑いながら「ナイスカウンターだね」と笑い掛けてきます。えぇまぁキスはともかくとして、そう言った行為に関しては私に一日の長が有る筈ですから。このことでは私の方が余裕を持って対応出来ます。

 私を横目で睨んだミリューネ様は、ふと気付いたと実さんを見ました。

「そういえば、実ちゃんの大事な人って、確かメイドさんなのよね?」

 両手でちょこ、とクロワッサンを持ったミリューネ様は、普段の大人びた印象とは違い、純粋な疑問で幼い顔つきになり、年下に見えてしまいます。誕生日は私の方が遅いそうですが――意外だったことは内緒です――これでは並んだところで皆私が年上だと思い込むでしょう。

「うん、そうだよ」

 あっさりと答えた実さん。

「もう成人してるってことかしら? 同じ学園に来れたら良かったのに」

 メイドだということに一切の疑念を抱くことも無くそう仰られたミリューネ様。ええ、確かに実さんのお相手の年齢は気になりますが、しかしメイドということに関しては何も気になるところが無いのでしょうか。どこか探る調子で問い掛けたミリューネ様に、実さんは少し目を丸くしてから、「あぁ、」と納得した声を上げました。

「ううん、一つ下で、来年になったらここを受けるんだって」

「来年……年下ってことは、貴方だけのメイドってことね」

 実さんだけのメイド……そういった物語の王道ではないですか。まぁそんなことを言えば私もミリューネ様だけの忠僕なのですから、同じく通ずるものが有るのですがね。何となく会ってみたいです。意気投合できる気がします。

「入ってくるのが楽しみですね、ええと……実さんの、メイドさん………………あの、お名前を伺っても?」

「そういえばまだ言ってなかったっけ」

 むしろ知らないのに会話を続けられていたことが不思議なくらいです。普通真っ先に尋ねる物だと思うのですが、どうやら私の中では「リバちゃん」呼称で事足りていた様でした。勿論そんな名で呼んで良いのは実さんですし、色々とマズい呼び方なので実名の方がよほど良いのですが。

 少し照れたように頬を染めた実さんは、嬉しそうにその名を口にしました。

みどりって言うんだ。私の名前と揃えてさ」

「実さんと、翠さんで揃えてるわけですね。 …………え?」

「妹さんなの?」

 名前を揃えたと言うのなら、翠さんが生まれる頃には彼女の両親は実さんのことを知っていたという事になります。疑問に思って首を捻った私ですが、ミリューネ様は既に予想を立てて実さんに問い掛けていました。……姉と妹で主人と従者とか、どんだけ詰め込めば気が済むんですか。何と言いますか、そんな内容の本を読みたくなってしまいました。

 けれどミリューネ様の予想は年齢同様またも外れてしまった様で、実さんは苦笑しながら首を振ります。

「うちに……夏川の家に代々仕えてくれる家で、柊って言うんだけど、そこの子だよ。 ……まぁでも、妹みたいなもの、かな」

 そう言ってから頬を赤くする実さん。妹みたいなもの、と言っていますがそんなお姿はとても姉に見えず、どちらかと言えばそれこそ妹に見えたり。ごめんなさいですミリューネ様、気を付けようと思っても不意打ちのこれはちょっと防ぎようがないと思います。同じ様に赤くなった私の頬を見咎めて、ミリューネ様が拗ねたお顔になりました。

「っ……す、すみませんっ」

 ミリューネ様のそのお顔を見て更に顔が赤くなってしまい、堪らず裏返った声で謝ります。 ……勿論のこと、ミリューネ様の拗ねたお顔がとても気恥ずかしく嬉しく何よりも可愛すぎたからです。少し膨らませたその頬の可愛らしさ! 普段大人びた印象のミリューネ様がするそのお顔はギャップ萌えという言葉の意味を誰しもに一度で理解させてしまう愛おしさ、勿論こんな表情をされてしまっては実さんには申し訳ない限りですが彼女に頬を赤くすることなど有りようもないです! つまりは可愛いのです!

「あはは、やきもちだね、美利ちゃん」

 そうからかう様に笑った実さんに、ミリューネ様は「っ……!」と顔を赤くして目を逸らし、

「うっ、うるさい!」

 とツンデれたミリューネ様に実さんともども鼻を押さえて上を向くことになってしまいました。否定しないところがもう堪りません。

 これ以上刺激されては屋上に血の跡を残してしまうので、何とかしてこちらまで赤くなってしまいそうなミリューネ様をいつものミリューネ様に戻さなくてはいけません。

「あ、あの……えっと、クロワッサン美味しいですか?」

 若干の鼻声での問い掛け。少々唐突に過ぎる質問になってしまいましたね、反省です。

「…………」

 けれどミリューネ様はその言葉に反応することなく、沈黙が過ぎて行きます。

 矢張り質問がまずかったのでしょうか。流石にこのタイミングでクロワッサンについて尋ねるのはチョイスミス……いえでもミリューネ様だって私が場を誤魔化す為に尋ねた問い掛けだと気付いている筈です。特段答え辛い質問でも無いでしょうし、聞こえないほど小さな声で問い掛けた覚えも有りません。

 しばらくすると、「………んふっ!」、とこの妙な沈黙に耐え切れなくなったのであろう実さんのそれこそ妙な、空気の漏れる音が聞こえてきました。その音を皮切りに恐る恐る上に向いた顔を下ろして行けば、けれどミリューネ様は私を呆れた目で見ていることも、未だに恥ずかしがっていることも、チョコクロワッサンの味を確かめていることも有りませんでした。

「…………?」

 同じく顔を戻した実さんが不思議そうに首を傾げます。ミリューネ様は、顔を俯かせて考え事をしてるようでした。目に憂いの色を帯び、唇はきゅっと噛み締められています。いつの間にやら現れていた雲が太陽を覆い隠し、彩度の薄まったミリューネ様のお顔は白く見えて、まるで何かに悩んでいる様でした。

 嫌な予感が胸中をゆっくりと覆っていきます。

「……みりゅ……美利さ、ん?」

 相も変わらずミリューネ様と言いそうになるのを二段階で踏み留まらせながら声を掛ければ、ミリューネ様の肩がびくんと跳ねました。ぱちくり、と目を瞬かせると、慌てた様に口を開きます。

「あっ……え、っと……ごめんなさい、ぼんやりしちゃって」

 そう言って笑うミリューネ様はいつも通りに見えます。けれど明らかにおかしかった今のご様子に、実さんと顔を見合わせました。困惑顔の実さんと違い恐らく青いだろう顔色の私の脳裏では、昨日浮かんだ僅かな引っ掛かりがその輪郭を尖らせていっています。そんな私達に苦笑してみせたミリューネ様は「大丈夫よ」と笑い飛ばすと、それからほんの一時だけ憂いを口の端に滲ませ、

「…怜那、後で話さなきゃいけないことが有るから」

 と言いました。

 少し強張った笑みの形。私や実さんが何かを言う前に、クロワッサンを頬張ったその口元は、チョコの甘さで美味しそうに歪められてしまいました。



 ――――――



 昼休み、オカ研の部室。

 一般棟から離れたここに昼休みだからといってやって来る人はいない――――わけではない。

「……大人しいもんだね、ろくろ犬」

 朝に確認した時と同じく机の上に丸まっているろくろ犬に、木下は気の抜けた声を出した。暗い部室の中でぴくりとも動かないろくろ犬は、ともすればそこにいることさえ気付かれないかもしれない。開いた扉から差す光くらいなら、誰かがここを覗いても騒ぎにはならずに済みそうだ。最も今の時間帯にここを覗く者は殆どいないが。

 後ろ手でドアを閉めながら、手探りで電灯を点す。部活時とは違って外気と同じ温度の室内。人のいない部室は成る程、少し不気味に映る。

 部員各々の興味の対象が異なる為に、オカルト研究会の部室は雑然とした様相になっている。その中の一要因である、魔術関連の物が多く置かれた部屋の片隅。そこへ移動し丸椅子に腰を下ろした木下は、鞄からパンを取り出した。と、同時に通知の入っているスマホを取り出す。慣れた手付きで表示した画面には、木下を探している旨の連絡が入っていた。

 もぐもぐと、表情乏しく惣菜パンを咀嚼しながら、表示してしまった以上しなくてはいけない言い訳について考える。世間体の為に仲良くしているこのクラスメイトに必ずしも昼休みの動向を応えなくてはいけない訳ではないが、面倒事を避けるための交友関係が面倒を呼んでは本末転倒だろう。

「……これ自体が面倒だけど」

 ぼそっ、と独り言を洩らしながら、膝においたスマホの画面を汚さぬよう、パンを触っていない片手で文字を気怠そうにゆっくりと入力している。その間にも画面には「めぐちゃん、ご飯の時間だよ!?」「めぐみん、パンあげるから出ておいで!」「早く来ないと食べられない」と既読が付いたことによる猛攻が始まっており、漸く打ち終えた頃には木下はパンと林檎といちごミルクを貰えることになっていた。

 「お腹痛いからゴメン」、の一言でぴたりと止んだラッシュに苦笑を洩らした木下は、空になったパンの袋を置き、代わりに自分で既に買っていたいちごミルクを手に取った。と同時に、もそりとろくろ犬が身動きしたのを視界の端に捉え、顔を上げてろくろ犬が立ち上がるのを見る。目を細めたその表情は、果たして愛しさからか、嫌悪からか。ぽたぽたと血を流しながら六足で体を持ち上げたろくろ犬は、対角同士の足を順に持ち上げ、伸びをする様にぐっと伸ばした。

 それから、存外しっかりした足取りで木下の元まで歩いてくる。

「…………うん?」

 まさか目の前で止まるとは思っていなかった木下が目を丸くしてろくろ犬に首を傾げてみせれば、それが見えているのか同じ様に体をくる、と傾げてみせた。

「……可愛いかも」

 木下は基本的には秋の嗜好に大きく同調できないが、この時は一般的に言えば少々グロテスクな首無し六つ足の子犬が可愛く見えた。そこで、今しがた置いたばかりのパンの袋を手に取りろくろ犬の前に敷き、そこへいちごミルクを垂らしてみる。

「…………」

 首の無い子犬は、傾げた体をゆっくり戻して、しばし沈黙した。

 木下が見つめる間も動かず、ひょっとすると目の前の袋のくぼみに溜まったいちごミルクを観察しているのか。

「……というか、飲めないかな」

 ぼー、と立ったままのろくろ犬に苦笑を洩らし、そもそも口が無いじゃないか、とストローを咥えて若干気恥ずかしい思いと共に甘い飲料を口に含んだ木下は、そこで通知の音を鳴らせた画面に目をやった。

「――っぶは!」

 いちごミルクを――ろくろ犬に掛けぬように首を思い切り横に反らして――盛大に吹き出す。その間にも追加されていく文字達に、自身のいちごミルクを奪った恨みで睨みを入れつつ、呆れた声を洩らした。

「……あいつら」

 『どこのトイレに入ってるのか白状しなさい!』『へっへっへ……めぐみん盗撮とかいくらで売れるかな』『ごめん、止められなかった』、と綴られていく文字を見て、昼休み終わりに猫を被ってこの流れに応えないといけないのか、と溜め息を吐く。基本的には良識と常識の範囲内で愉快なことをするクラスメイト達であるが、時々こうして暴走するのだ。最後の一名が謝っているのは、彼女が他二名のストッパーとなっているからであり、同じく歯止め役を担った木下がいないとなれば、暴走するのも当然かもしれなかった。

「……ほんと面――っ!?」

 溜め息と共に現実逃避か、一旦視線を机の上に戻した木下は、目の前でいちごミルクを首から飲むろくろ犬に、声を裏返してスマホを取り落とした。

 屈んだろくろ犬の肩から黒い血が落ち、いちごミルクと混ざっている。飲んでいる……様に見えるがあの出血では渇きは増すばかりだろう、そもそも首の傷からいちごミルクが吸収される様子も無く、何と言うか、匂いを嗅いでいるところなのかもしれない。ともかくも自分の余計な気回しのおかげでこのグロテスクな光景が生まれてしまっているのか、と木下は引き攣った笑みを浮かべて、それからスマホを拾い上げた。

 画面が割れてしまっている。やわなカバーを買った訳では無いが、やはり衝撃には弱いということか。それでも健気に通知し続けるスマホに一層深いため息を吐いた木下は、そっと、一度だけろくろ犬の背中を撫でた。

「……大丈夫みたいだし、少し早いが私は行くよ。 くれぐれも貧血で倒れないようにね、秋に怒られる」

 勿論その言葉を理解出来た訳ではないだろうし、そもそも貧血で倒れることなど無いだろうが、子犬は首を上向けて流血の勢いを弱めた。それを見て「物分かりが良いね」と唇の端を吊り上げ目を細めた木下は、もう一度壊れたスマホに目を遣って、短く何かを呟く。

 元に戻った画面の騒ぎに「爪割れちゃった」と一言洩らせば、それまでの変態的な流れは一変、騒がしいながらも心配する流れになり、面倒だ、と溢しつつも微笑んでいる木下がいた。

 時刻は昼休みの丁度半ば。先程のスマホの画面と同じ様に割れてしまっている左手の小指は、まぁ今から戻ればお節介なクラスメイトが絆創膏などで治療してくれるだろう。部屋の電気を落とした木下が再びドアを開け……抜けてゆっくりとドアを閉めた先は、一般棟の女子トイレだった。



 ――――――



「松山君、どこ行くの?」

「……何だよいきなり」

 教室を出たばかりの松山に、爽やかで明るい女子生徒が声を掛けてくる。傍から見れば何でもない、或いは羨ましい光景なのだろうが、何気無い質問と笑顔の裏に感じる刺々しい疑念が眼鏡奥の瞳を細めさせていた。

「どこ行こうが関係無いだろ?」

 ちょっとぶっきら棒な言い方になってしまったかも知れない、と松山は反省した。しかし向こうも大して気にしていない様だし、何より周りは自分達にそんなに注目していない様だ。聞き咎められない限りは秋に対する態度など悪くても問題無い。棘のある言葉を投げられた秋は、彼女のクラスである3組に通じる扉に凭れたまま、「関係有る場所だと、困るよ」と口元で冗談だと言うように笑った。

 その言葉と共に感じた本能的な危機意識が首裏に鴉羽を逆立てさせたが、それを悟られぬように言葉を吐き捨てる。

「トイレだよ」

 その言葉に多少なりと赤くなったり或いは反省するなどすれば良い物を、秋の視線は未だに疑念の色を含んだままだ。松山は少し溜め息を吐き、言った通りトイレが有る方へと向かう。後ろに強く感じる視線はしばらく付いて来ていたが、クラス毎のトイレに大人しく入って行けば圧迫感も霧散した。単に視線の問題だったかもしれないが、しかしそれにしたってとんでもない激情家だ。俺はまだ何もしていないと言うのに。

 トイレには誰もいなかった。

 素早く窓の傍まで歩み寄った松山は、そのまま鍵を開けて大きく空気を取り込んだ。そうして、一、二度窓の外を覗く。文芸部棟は回廊型だが、ここ一般棟は複雑な形になっており、その癖中だけを見れば理解しやすく行き来しやすい構造になっている。つまりは建物が密集しているという訳で、その『狭い』とすら感じる対面の窓との距離では、あのお喋りしている教室の女生徒達もこちらの顔を見ることが出来るだろう。

 ……面倒だ、と溢しながら、時計をちらりと確認する松山。文字盤の上では昼休みが半分過ぎたことが告げられており、頭の中で時間を計算した松山は、思ったよりも余裕が有る、と笑みを浮かべた。


 見晴らしの良い窓の外をさっと眺めた松山は、窓枠に手を掛け、飛び降り――否、飛び立つ。


 しかし不思議とその姿を目に咎める者は無く、一羽の若い鴉天狗は、目指す方角へ強く羽ばたいていった。

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