終章 これから始まる(The girl is changing day by day.)

s/第35話/034/g;

「しかし、なんだったんだ」


 日本酒の入った御猪口を傾ける水面に、愚痴る。


「っはぁ~。……まーまー、いいじゃない。結果的に、みちるさんも自首してくれることになったしね」


 流れるように、懐からオイルライターと煙草のパッケージを取り出す。

 カチャッと音を立てて、ライターの蓋が開いたとき、谷中は枝豆の皮を皿に捨てようとしたところだった。


「まあそれはそうだけどさ。あの絵崎って先生は、工学部の先生なのか?」


 御堂が、自らの意志で尾張刑事に電話を掛けた後……。

 二人は打ち上げという名目で、大学近郊の飲み屋に来ていた。今回が初めての店である。水面の行きつけのお店リストに何軒が名を連ねているのかは、まだ明らかになっていない謎だ。


「うん、そーだよ。もう歳だから、あまり講義とか持ってないけどね」

「変な先生だったよな」

「そーかなー……」


 吸い込んだ煙を細く細く吐き出して、水面は言った。


「そう思わないのか?」

「思わないってことはないんだけどねー」


 どことなく曖昧な水面。

 以前の谷中だったら、ここで追及を止めたかも知れないが……。


「じゃあ、どういうことなんだ? よく分からないぞ」


 好きだと言ってしまった今、細かなことを気にして遠慮するのもおかしい、とばかりに切り込んでみた。


「んー……あの人ねー」


 言葉を句切って、日本酒を呷る。


「ボクの生物学上の親だったりして」

「……へ?」


 絵崎教授の顔を思い浮かべる。白髪交じりの頭に、眼鏡。髭は伸ばしていない。好奇心の赴くままに行動しそうな瞳……ああ。この辺は確かに似ている。けど。


「あんまり似てないな」

「まーね」


 とはいえ、一応親だからあまり悪く言われたくないっていうか——と続けた水面を、谷中が手を上げて遮った。


「ちょっと待て。お前、こないだ、自分のこと天涯孤独とか言わなかったか?」

「ああ、うん。言ったかなー……?」

「言ったよ」


 嘘じゃないか。親の居る天涯孤独がどこにあるよ、と思ったときに気づいた。


「あ、名字違うのな」

「うん、ずいぶん前に母さんと離婚したからねー。もう母さんも死んでるし、絵崎先生と一緒に暮らしてるわけじゃないし……ほとんど他人だねー」

「なるほど……それで天涯孤独のようなもの、か」

「そーだよ」


 それ以上は流石に聞けず、谷中は黙り込んだ。

 水面の手が、テーブルの上の灰皿に、短くなった煙草を押しつけて消した。白手袋の生地を灰で汚さないためか、動作は慎重だ。


「あー……もう一つ聞いていいか。なんでいつも手袋してるんだ?」


 話題の転換をするつもりで、谷中が口にした一言に、水面は敏感に反応した。

 ばっ、と音が聞こえる早さで手を引き、テーブルの下に隠す。


「谷中君……」


 これまでになく真剣な目が、谷中の双眸を見つめていた。


「その、聞きたいこととか、それ以外も、色々と正直になってくれたのはいいことだと思うけれど……。人には、聞かれたくないこともあるんだよ……?」

「いや、その、すまん」


 頭を下げて詫びる。

 ちょっと踏み込みすぎたか……。今まで謎に思っていたことをただ聞いてみたかっただけだから、これ以上は止めておくべきだろう、と思ったとき。


「まー、恥ずかしい告白もしてもらったし、一つだけヒントを出してあげるよ」


 新しい煙草に火を点けた後、水面がすっと指を立てた。


「こないだ、キミの部屋にボクが泊まったときのことを思い出してみてねー」

「お、おい」


 声が大きいぞ、と言おうとして。

 あの日、手で下着を渡したときのことを思い出す。しっとりして柔らかい、触れた限りでは傷一つ感じられなかった、あの指のことを。


「……水面」


 谷中は、次の枝豆を手に取って。


「んー。なーに?」


 ふにゃっと笑う水面に。


「さっきの、冗談なのか……?」


 袋の凹凸を指先で弄び、振りかかった塩粒の形状を感じながら、低い声で問いかける。


「んー……」


 煙草を唇だけでくわえて。

 右手で左手の手袋を、すーっと音もなく抜き取る。

 現れた手は。

 ……普通に綺麗だった。


「えい」

「——いたっ」


 額を押さえた水面がこちらを睨む。


「うう、キミがそんな暴力を女の子に振るうような人だとは思わなかったよー……」

「塩はなるべくとっておいてやったぞ」


 投げ付けた枝豆が行方不明になったのが気になりつつも、谷中はそう嘯いた。

 まあ……なんていうか。


「腹が立たないのは、お前の魅力かも知れないな」

「え?」


 聞き返す水面を、しれっと無視した。

 自分の気持ちをいたずらに隠して、押さえつけるのはもう止めるつもりでいたが。彼女が聞いていないのは、自分の責任じゃない。

 そう思って、水面の顔を見返すと。


「なんだよー……態度大きくなってないかー?」


 と口を尖らせている彼女から。

 立ち上るバニラの香りが、軽く——けれどこれが彼女の一部なんだと認識させるには十分な強さで——谷中の鼻先をふわりとくすぐった。


                            了

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ギークガールは居酒屋で推理する 折口詠人(おりぐちえいと) @oeight

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