その3 タイムマシンと星と花火と、それから
次の日も、私は研究所にいた。
一人、コーヒーでも入れようかと簡易ポットでお湯を沸かし、インスタントコーヒーをカップに入れる。
それはもう残りわずかで、お湯を入れてかき混ぜるとそれなりの色にはなったのだが、飲んでみるとやはり、薄い。
しかたなくミルクでも入れようかと思い冷蔵庫を開けたが、冷蔵庫の中はほとんど空で、牛乳なんて入っていない。
なにもかもが、不足していた。
「………………」
さて、私は一つ、タイムマシンを作るに当たって、制作に携わった小野くん、千田川くんに、嘘をついていた。
私の目的は、リア充になるというものではない。
モテたい?
確かにそれは、人生においては大きな命題の一つではある。
が、モテたいとかそういう感覚はない。自分自身に失望していて、過去の出来事から自分を変えたいとも思っていない。
……後悔していることも、私にはない。
ただ一つ、たった一つだけ、私にはやり残したことがあった。やれなかったことがあった。
ほんの些細な、とても小さいこと。きっと、今の二人が聞いたら笑うだろう。蔑むだろう。
だからこそ、私は私の過去を彼らに見せたくなかった。
ただ……もし、その、一つだけできなかったことを、そのときに戻って、もう一度だけ、やり直してみたいのだ。
きっと、それで何かが変わるということはないだろう。私はまた、この場所に戻る。
このタイムマシンで後悔をしている多くの人間に、人生を、運命を、もう一度やり直すチャンスを与え続ける人間になるのだろう。
私自身は、幸福になることなど望んでいないのだ。
さて……薄いコーヒーも飲み干した。
そろそろ見に行こうか。私の、何年も前の情けない過去を。
自分の無力さに涙し、現実の大きさに絶望し、なにもできず、なにもせず、そして、そのまま終わってしまった、私の物語を。
諸君。君たちにはこの物語を託そう。
笑ってくれたまえ。蔑んでくれたまえ。
変えられない運命もあるという事実を、ぜひとも胸に刻んでくれたまえ。
さあゆこう。私は、バイクのヘルメットを改造した、タイムマシン接続装置を被った。
あのときへ……不器用で、考えなしで、無力だったあの頃へ、もう一度だけ。
戻ろう。
私は昔から、頭だけは良かった。
特に科学というものには高い興味を持っていて、小学、中学時代から、さまざまな実験や開発を繰り返し行ってきていた。
教師に認められ危険物の扱いや理科室の管理を任され、怪しげな薬品だって簡単に手に入る。
実験道具以外に、友達はいなかった。が、それでも私は満足していたのだ。
私は、いつも理科室で、多くの実験や、開発を行ってきた。
そんなある日のことだ。私はちょっとしたミスから、爆発事故を起こしてしまった。
爆発自体は大したことなく、理科室に問題はなかったのだが、爆発のショックが大きく私は気を失い、気づけば病院に眠らされていた。
大騒ぎになり、救急車が来てマスコミが来て学校のことが云々と学校から説明を受けたが、耳には入っていない。
私はそのとき、実験でどうして失敗したのかということを、真剣に考えていたのだから。
少し気を失っていただけだが、倒れた際に頭を打ったとか何かで、一応検査をしてみるということだった。
その、一日かそこらの短い入院は、私にとって苦痛でしかなかった。実験も、開発もできない。
私はただ次の実験はなににするかとノートに書き記し、退屈な検査から一刻も早く抜け出せるよう、祈っていた。
……が、検査はともかく、病院の夜は退屈すぎた。
早くに消灯してしまい、静まり返った中で騒ぐこともできない。次の実験になにをするかはある程度決まってしまい、やることもない。その上、眠れない。
私は窓から外を眺め、ひたすら眠気が襲ってくるのを待っていたのだが、一時期とはいえ気を失っていたときに脳が休まっていたからか、眠気は一向にやってこなかった。
……そんなとき、ふと、風を感じた。
窓の外、月夜に照らされた、隣の棟の屋上の景色が、目に入った。
そこに、女の子がいた。月夜の下で両手を広げ、まるで空を飛んでいるかのような女の子が。
私は慌てて立ち上がった。彼女が、飛び降りるのではないかと思った。現に、彼女のつま先は、まるで空を舞っているかのように見えていたから。
私は病室を飛び出し、非常階段を抜け、隣の棟まで走ると屋上に飛び出した。
強い風が吹いた。温かな風が流れた。
月夜に照らされた明るいその場所で、彼女はゆっくりと、まるで、天使が初めて地に降り立ったかのように、つま先立ちのままで振り返った。
「………………」
その光景を、覚えている。忘れるわけがない。
科学に没頭していた私に、科学以外のものは無縁だった。
オカルト、UMA、科学で説明できないものはなにもかもが偽物。そんな風に思っていた私がそのとき感じたのは……神秘という、言葉だった。
「こんばんわ」
少女は後ろに手を組み、微笑んでそう口にした。
「え、あ……」
「?」
突然のことで言葉が出なかった。彼女はわずかに首を傾げ、こちらの返答を待つ。
「こ、こん、ばん、は」
ごにょごにょと、絞り出すように私は口にした。それだけで彼女は、もう一度、今度は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「どうしたの、こんな夜更けに」
彼女は少し前のめりになって、言う。
「いや、その、」
飛び降りようとしていたのか、とは聞けなかった。
「人が見えたから……」
無難にそう答える。彼女はそっか、とだけ、小さく口にした。
「えっと、君は、どうしてこんなところに?」
「うん? わたし?」
聞かれて、彼女はくるりと、長い髪をなびかせて回転した。私に背を向け、小さく口にする。
「星が、」
彼女の言葉は夜の空気を揺らし、優しく、私の耳に届いた。
「星が、綺麗だったから」
そう言ってこちらを向いた彼女の笑顔は、私にとっては月から舞い降りた天使の笑顔のように感じられた。
……科学しか信じていなかった私が、そんなことを思うなんて。
正直、信じられなかった。
それが彼女とのーー東 さおりとの、出会いだった。
次の日の、検査の途中、私は再度、隣の棟の屋上を訪れてみた。
彼女はいない。入院している何人かがベンチに座って休んでいるだけで、彼女の姿はない。
なぜか私はあきらめきれずに、その棟の病室を一件一件覗いて回った。とても、静かな場所だった。
その中の一つ、本当に静かな一角のとある部屋に、一つの名前を見つける。昨日聞いた、彼女の名前だった。軽くノックし、扉を開ける。
「あ……」
予想通りだった。彼女が、ベッドの上で半身を起こし、窓の外をじっと眺めていた。
「あ……」
扉が閉じた音で、彼女はこちらに気づいた。こちらを向くと昨日とは違う少し眠そうな表情をこちらへと向けて、
「こんにちわ」
わずかに微笑み、そう言った。
昨日の夜と、そして、その日に会ったことで、いろいろなことを話した。
私は、自分が進学校に通う高校生で、科学に情熱を持っていることや、多くの実験、開発を自慢げに話していた。オタクっぽい男の悪いところだ。自慢話をしようとする。
それでも彼女は、
「すごいね、とっても楽しそう」
そう言って、笑ってくれた。
彼女は自宅近くの公立高校の生徒らしいのだが、あまり学校には行ったことがないそうだ。
いつから入院しているのかを聞くと、「ずうっと」と、短くそれだけを答えた。
「なんの病気なんだ?」
「えーと、なんだったかな……難しい病気だよ」
「それは……」
治るのか、という言葉が喉元まで出かかった。
でも、出せなかった。それを口にしてはいけないと、直感的にそう思った。
「大変だな」
「うん。大変だよ」
彼女は微笑みながら言う。
まるで他人事のようなその言い方が、ただの強がりだということに私は気づかなかった。何年も経ってから、気づいた。
「俺は、単なる検査なんだ。だから、明日には病院を出られる」
「そうなんだ」
私が言うと、彼女は寂しそうに言った。
「せっかく、谷岡くんと友達になれたのにね」
その一言は、素直に嬉しかった。
「でも、同世代の人はこの辺り、結構いるだろ? さっき屋上で見たぞ」
「ううん、ここの人とは、あんまり話しないよ」
彼女は小さく首を振って、言う。
「話さないからね、ここの人って、あんまり」
「そっか」
私は理由を聞かなかった。
「まあでも、ほら、時々遊びに来るよ。まあ、気が向いたらだけど」
「本当?」
「ああ、本当」
「ありがとう。嬉しい」
彼女はそう言う。でも、その表情は、どことなく沈んでいるように思える。
「どうかした?」
だから私は、そんな表情をする彼女にぶしつけにもそう聞いてしまった。
「ううん」
でも、彼女は優しかったのだ。
「なんでもないよ」
ただそれだけを言って、申し訳なさそうに微笑む。
私は、彼女がそんな顔をするのが嫌だった。
嫌だったけど……そうは言えなかった。
私の退院はすぐに決まった。結局、学校や両親の心配もよそに、私の体に何の異常もない。
ただ、頭にこぶができたくらいだ。
退院の時、ふと、彼女の病室を見上げた。彼女は窓元に立っていて、私が手を振ると、小さく手を振り返してくれた。
退院してから、私には一つの日課ができた。
彼女に会いたい、と、私はそう思うようになってしまっていたのだ。
放課後は理科室にこもっていた私も、学校が終わると自転車を飛ばし、つい先日まで入院していた病院へと向かう。
階段を駆け足で登り、彼女の病室の前に立つと、軽く呼吸を整えてから小さくノックする。
「……はい?」
小さく声が聞こえてから、私は扉を開くのだ。
「谷岡くん……」
「よ」
私は小さく手を挙げ、彼女の隣へと座る。
「……どうしたの?」
「どうって……別に、ただ、」
「?」
首を傾げる彼女に、俺は少し視線を逸らして言った。
「話がしたくなった、っつーか、そんな感じ」
彼女は少しきょとんとしていた。
が、言葉を意味を理解したのか、ほんの少しだけ笑みを浮かべて、
「嬉しいな」
そう、言ってくれた。
それからというものの、何日かに一度は必ず彼女の元を訪れるようになっていた。
「つまり、大体マイナス200度くらいになると、急激に水分が凍ってしまう。氷の結晶が小さくなるわけで、臓器へのダメージが少ないんだ」
「人間の冷凍保存は、まだできないのかなあ」
「はは、無理無理。カエルくらいの大きさなら何とか、ってとこだから」
時には科学の講義を彼女に行い、
「あり、おり、はべり、……本当にこれ日本語なのか?」
「日本語だよ。そこ違うよ、そこは受け身型で表現するの」
「なんだ受け身って」
「さっき教えたのに……」
苦手な科目を教えてもらい、
「連休中もずっと実験してたかな……どうにかして、打ち上げ花火からロケットを作れないか考えてた」
「どうだったの?」
「かなーり高く撃ち上がったんだけど、途中で見えなくなったから。成功したかどうかもわからない」
「あはははは」
時には雑談に花を咲かせ、
「雨の日って、なんだか、景色が違って見えるよね」
「俺は雨は嫌いだな。ほら、こんなに水浸しになるし」
「傘さそうよ……」
時には、窓から見える景色を眺め。
そんな風に、涼しい季節から暑い季節へ、科学一筋だった私の中に、それ以外のものが大きく花を咲かそうとしていた。
私は、その笑顔が好きだった。
時折見せる悲しい顔の、理由が知りたかった。
彼女のことが……好きだった。
気になっていたことが、いくつかある。
彼女がいつから入院しているのか、いつまで入院しているのか。
彼女の両親は、どうしたのか。
彼女の病気はなんなのか、彼女は……治るのだろうか。
「面会謝絶?」
「ええ、そうなの」
とある日に訪れた病院で、私は看護師に引き留められていた。
「ちょっと、昨日から具合が悪くてね。ごめんなさい、しばらく会えそうにないの」
「………………」
なにを聞いても、わからない、の一点張りだ。俺は、無理矢理でも彼女の部屋に入りたいと感じた。
それでもさすがにそんなことはできなかった。梅雨時期の雨の中を、傘もささずに歩く。見上げた彼女の病室は暗く、中の様子なんて見えそうにない。
彼女が、窓から手を振ってくれればいいのに。傘をさしなさい、って、叱ってくれればいいのに。
そのどっちも、今は叶わない。ただ、真っ暗な彼女の部屋を眺め、彼女が一刻も早く回復するように、彼女が私に、また笑顔を向けてくれるように、祈っていた。
どのくらいの日にちが流れたのか。カレンダーはもう違うページだ。
「……久しぶりだね」
「ああ」
久しぶりに会った彼女は、前よりも沈んだ表情だった。なによりも……髪の毛が、だいぶ短くなっていて、驚いた。
「えへへ、変、かな」
私の視線に気づいたのか、彼女は髪を隠すようにして言う。
「夏だからな」
私は彼女の髪を、彼女の手越しに撫でてやって、
「ばっさりイメチェンするのも、いいんじゃないか?」
そう、言ってやった。
前と変わらない、優しい笑顔を浮かべて、彼女はうなずいてくれた。
いつの間にか私たちは、
「ねえ、修くん」
「なんだ、さおり」
名前で呼び合うようになっていた。
どことなく、だ。いつからなんて、覚えていない。
まるで、昔からそういうふうに呼び合っているかのように、まるで古い友人のように。
私たちは、いつも一緒にいたのだ。
「……花火!」
さおりがその音を聞いたのは、ある夏の日のことだ。
面会時間はとっくに過ぎていた。それでも看護師はなにも言わなかったから、いつも私は、日が沈むまで病院にいた。
ちょっとした雑談と科学講義の合間のわずかな沈黙を破った破裂音に、彼女は立ち上がり、窓へと近づく。私も窓の近くに立って、その音の方向を見る。
「……見えないな」
「うん」
窓から、花火を見ることはできなかった。
「屋上からなら見えるかもしれない」
私はそう言って、彼女の手を引く。
「屋上……?」
彼女はすぐ動かなかった。どこか、視線が揺れる。
「大丈夫。俺もついてるから」
不安そうな彼女に、私は優しくそう言った。
「ゆっくりでいい。行こう」
視線を合わせて言うと、少しの間を置いてから彼女はうなずいた。ゆっくりとした足取りで、静かに歩き出す。
途中、看護師にあったら止められると思った。見つからないよう、注意しながら歩く。ゆっくりと、それでいて迅速に。
花火が終わらないように、彼女と一緒に、眺められるように。そう祈って、静かに歩く彼女の背を支え、一緒に屋上へと、彼女と初めて会った場所へとたどり着いた。
が、
「……見えないね」
「……そうだな」
大きなビルに遮られ、花火を見ることはできなかった。
ドン、ドン、と、景気のいい音が響くだけ。
それだけだった。
「………………」
「………………」
しかも、それもすぐ終わる。音ですらも聞こえなくなった、薄暗い空を、私たちは無言のまま、眺める。
「見たかったな、花火」
「そうだね」
結局、一つも見ることができなかった。そこで、私は一つ、思いつく。
「……花火、か」
昔、似たようなものを作ったことがある。そのときは失敗しているが、改めてやれば作れるような気がした。
頭の中にある知識を総動員し、実際の花火の仕組みを考え、それをうまく組み合わせる。
思っていた以上に簡単に作れそうだと言うことを確認し、私は小さく笑みを浮かべた。
「ここって……初めて会った場所だよね」
「ん? ああ……そうだな」
思えばここに来て、最初にすべき会話だったかもしれない。そうすれば、花火が見えないことなんてなんてことはなかったのに。
「ねえ……あのとき、なんでわたし、ここにいたと思う?」
彼女は両手をいっぱいに広げた。街の灯りにも負けない強い光を放つ星が、彼女の掲げた手のひらの先にある。
「わたしね、飛び降りようとしたの」
彼女の言葉は唐突だった。意味がわからず、私はただその場に立ち尽くしていた。
「だって、わたし、もう、何年も、何年もここにいるんだよ。きっと、もうずっとここから出られない。最期の時も、きっと……わたしはここにいる」
彼女の声はいつもと同じだ。明るい、弾んだ、よく通る声。私が、大好きな声だ。
それなのに……そのときの彼女の声は、とても悲しく聞こえた。
「だから、ね。パパにもママにももうここに来るな、って言って、しばらく一人でいた。一人で、そのときを待とうとした。でも、そのときがなかなか来なくて……ただ、辛さと悲しさだけが募って……そうして、ここに来たの」
両手いっぱいに広げた手を、頭上へと。彼女の手が一つの星を包み込んだように見えた。それは錯覚で、閉じた彼女の手のひらから、星はこぼれ落ちていた。
「終わらないなら自分から終わらせよう、って、結構、しっかり考えてね。でもね……飛べなかったんだ。だって、あの日……星がとっても、綺麗だったから」
ゆっくりと手を降ろす。太陽が沈んだ夜の闇が、世界を包み込む。
「たくさんの星がね、わたしに語りかけてくるの。話しかけてくるの。でも、その声にわたしは答えることができなくて、ただずっと、空に向かって手を伸ばしてた。そんなときにね、わたしの声に、答えてくれた光があった。それがね、……キミだったんだよ」
ゆっくりと、彼女は振り返る。その表情はとても儚げで、とても切なげで、数歩歩けば届くところにいるのに、彼女がとても遠く感じた。
「修くんが、わたしに話しかけてくれた。笑いかけてくれた。とっても嬉しかった。楽しかった。だから、ね」
その、とても儚げな笑みを彼女は浮かべ、少しの間を置いて彼女が言った。
「もう、十分だよ」
その言葉が私の耳に入ったとき、私は言葉と共に流れてきた風に体を打たれ、身動きすらとれなかった。
「……修くん。もう、来ないでほしい」
いきなりの発言は、耳に入らなかった。
なにを言っているのかわからなかった。誰に言っているのかわからなかった。
意味を理解すると、どうしてそんなことを言っているのか、わからなくなった。
「ど、どうしてそんなこと言うんだよ」
「だって、わたし……」
彼女は言葉を濁した。うつむき、地面を見つめ、沈んでいた表情をごまかすように明るい笑顔を浮かべ、
「わたし、たぶん……長くないから」
いつもと同じ笑顔だ。いつもと同じ、そのはずなのに。
どうして彼女は、泣きそうな顔をしているんだ。
「頑張ったよ……頑張ったけど、ちょっと、さすがに無理かな、って。辛いんだ。でも、なによりも辛いのはね、キミなんだ」
彼女が遠い。手を伸ばしても、届かない。そんな遠くから、彼女は言葉を続ける。
「これ以上一緒にいると、わたしきっと……もっと辛くなる。寂しくなる。悲しくなる。わがままも言うし、理不尽なことも言うし、困らせることもあると思う。だから、もう……会いに、来てほしくない」
どうして。
なんで。
いろいろな言葉が浮かんでは消える。
なにを言えばいい? なにを伝えればいい?
でも、私はまだ子供で、学生で、いくら科学に精通していようが、言葉を選びとることができなくて。
「ごめんね」
ただ、彼女がそう言って私の横を抜けていくのを、振り帰りもせず見送った。
動けなかった。喋れなかった。
……なにも、できなかった。
未熟な自分を呪った。言葉すら発することのできない自分を、殴りたくなった。
何十年も経った今の私なら、そのとき呼び止めるなり、否定するなり、何だってできた。
でも私はまだ、十七の子供だったのだ。
そんな器用なことできない。できるわけがない。
彼女を受け止める資格もない。
私はひたすら……無力だったのだ。
それでも私は、十七なりにひたすら考えた。さおりに会いに行きたかった。
でも、ただ会いに行くだけなら、また拒否されて終わりだ。しかし、私にはアイデアがあった。
花火だ。
幸い私には、いろいろなものを研究開発できるノウハウがあった。火薬や薬品など、手に入るものだってあった。
だったら、やることは一つだと考えた。
手作りの花火を揚げる。それを、彼女に見せる。
そして、そのあと会いに行けばいい。思いをぶつければいい。
実に子供じみた考えだ。しかし私は、それが正しいと信じて疑わなかった。
放課後も休日も、それなりの時間をかけて、私は手作りの花火を作った。
市販の花火を組み合わせ、時には薬品や火薬を追加し、鮮やかに、大きく、ダイナミックに、理論上は完璧な花火を、私は自ら作り上げたのだ。
そして、さおりに手紙を送った。窓の外を見ていてほしい、と、それだけの簡潔な手紙だ。読んでくれると信じ、彼女の病室の窓から見える空き地に、花火を並べた。あの屋上で彼女と語ってから、実に一週間が過ぎていた。
手紙で指定した時間になり、私は花火に火をつける。導火線に火花が伝い、それは、手作りの花火へと向かってゆく。
さおりは外を見ていてくれるはずだ。彼女はきっと、この花火を喜んでくれるはずだ。
久しぶりに彼女の笑顔が見れるというその喜びを胸に、空高く舞い上がってゆく花火を私は見送る。
ひゅるひゅると大きな音を立てて舞い上がってゆく花火は、頭上高くを舞い、天へと真っ直ぐ伸びてゆき、そして、
……爆発しない。
空中で爆発して火花を広げるはずの花火は、爆発することなく落ちてきた。地面にぶつかり、そこで破裂する。
「どうして……」
理論上は完璧のはずだ。空中で爆発するはずだ。
私は続けざま、隣にある花火に火をつけた。
……それも同じだ。空中で爆発することはなかった。
「なんでだよ!」
次も、その次も。次々と飛んでゆく花火の、どれ一つとして花を咲かせない。
「なんで爆発しないんだよ!」
空中で破裂するものもあるが、それは破裂だ。爆発じゃない。綺麗な火花は、広がらない。
「どうしてなんだよっ!」
最後の一発は、空中に舞うことすらなかった。ちょっと跳ね上がったら変な方向へと飛んでゆき、そのまま地面にぶつかる。
……どれ一つとして、成功しなかった。
「これじゃあ……」
これじゃあ、私は。
「あいつを笑わせることなんてっ……」
悔しかった。悲しかった。
自分が学んできたものがまるで否定されたようで、辛かった。
……いや、きっと、それ以上に悔しかったことは。
彼女への思いが、明確に否定されたような気がしたことだった。
さすがにそれからすぐに彼女に会いに行くことはできず、頭の中をまとめるために、二日ほど、なにもしていなかった。実験も、開発も、なにもかも。
やっと決意して彼女に会いに行ったのは、花火の失敗から三日経ってからだ。
久しぶりに感じる消毒液のにおいに包まれ、彼女の病室へ。そこにある異変に気づいたのは、部屋のネームプレートが外されているのに気づいたときだ。
慌てて部屋に入るも、誰もいない。真新しいベッドと、真っ白なシーツ。
まるで初めから誰もいなかったかのような、空気ですらも新しいその空間に、めまいですら感じた。
「あの、すいません」
たまたま近くを通った看護師に、声をかける。
「ああ、あなた、ここに来てた人よね」
「ええ、まあ」
「辛いでしょうね。本当に」
「……え?」
「……もしかして、聞いてないの?」
「えっとあの、久しぶりに来たので」
「……そう。あのね、驚かないで聞いてね」
「はあ」
「……さおりちゃんね、首を吊ったのよ。三日前の夜に」
病室に残されていた手紙のうち一つは、私に当てたものだ。
簡単な礼と、話すことができて嬉しかったということ。
そして……私のことを好きだった、ということが、書き記されていた。
手紙に残る、涙の跡が生々しい。彼女の温かさがまだ残っているかもしれないと跡をなぞるも、ただただ冷たい。
なんだ、これは。いったいなんだというんだ。
自分勝手な考えだけで勝手に決めて勝手にいなくなって、人の気持ちをなんだと思っているなんのために俺が毎日のように会いに来たと思っていやがるんだ。辛かろうが苦しかろうが俺はずっと一緒にいたいと思っていたんだ思っていたのになんだよバカ。バカ、バカ、バカバカバカバカバカ!
握りしめた拳が痛い。手のひらに爪が食い込んでいる。
知ったことか。あいつが感じていた痛みはこんなもんじゃない。知ったことか。俺の痛みだってこの比じゃない。勝手になにやってんだ、ふざけるなバカ野郎!
強く、強く握りしめた拳が熱を帯びる。目から流れてきたなにかが、頬を伝う。
もう彼女に会えないという現実も、もう彼女の笑顔を見ることができないという現状も。
その全てを、俺は呪った。
そして……十数年が経った。
あのときから、私の世界はどこか欠けている。満たされることはない。
心の中にあるのは一つの感情。決して幸せになってはいけないという自己への脅迫観念。誰とも付き合わず、社会と交わることもなく、ただ、欠けた部分を探すかのように私は科学に没頭した。
そんな中で偶然見つけたのは、記憶というものだった。
記憶を映像化し、そのときの記憶に入り込むことで、タイムマシンが作れるのではないかという仮説だ。
その仮説を実例にするためにあらゆる研究と、開発を進め、そして、私はタイムマシンを作り上げたのだ。
が、タイムマシンができたところで、私の過去を変えることはできない。なぜなら、彼女は首を吊ろうが吊るまいが、どのみち助からなかった。
もちろん最期の瞬間まで手を繋いでいることもできたが、例えそうであったとしても、変わらないだろう。それに、あのとき彼女は、私を拒否しているのだ。
私が唯一感じている後悔とも言えるものは、彼女が、どんな心境で自ら命を絶ったのか、ということ。
ならせめて……花火をあげてやりたかった。そうすれば、彼女の心境は……少しは、変わったかもしれない。
ならばそのときへ戻ろう。
せめて、最期の彼女に笑顔を。
そして、お別れを。
何年も胸に引っかかっていたものを、取り除きに行こう。
そうすれば私は……救われるのだから。
「本当に、それでいいんですか、博士」
声が聞こえた。聞き慣れた声。それでも、聞き慣れないトーンの、力強い声が。
私は目を開く。改造したバイクのヘルメット越しに見えるのは、四人の人影だった。
「博士、博士の本音は、そんなものじゃないはずだ」
小野くん。
「その通りですよ。博士はわかっているはず。なにをするべきかを」
千田川くん。
「そのために、タイムマシン作ったんでしょ」
岡田さん。
「花火あげてる暇なんてないっつーの」
中山さん。
「き、君たち……」
かつて、私とともにタイムマシンを作ったものたちが、私の目の前に立っている。
そのうち二人は、タイムマシンで過去の後悔を克服した二人。そしてもう二人は、タイムマシンによって違う幸福を手に入れた、二人。
彼らは笑顔を浮かべていた。
「博士、行ってあげてください」
「待ってますよ、きっと」
小野くんと千田川くんが、私の手のひらを握る。
「しかし……この過去を変えてしまったら、タイムマシンは、きっと完成しない。君たちの過去は、変わらないかもしれないのだぞ」
私は言った。が、彼らの表情は変わらない。
「僕たちのことは、心配いりません」
「その通りですよ。おいらたちは、自分たちで見つけられます。だから、大丈夫」
二人は優しい表情を浮かべて言った。その後ろにいる、二人も。
タイムマシンがなかったら、彼らはまた後悔してしまう。また、誰とも話せなるかもしれない。大切な人を失ってしまうかもしれない。一緒にいるべき人から離れてしまうかもしれない。我を失ってしまうかもしれない。
それでも……彼らの顔は、自信に満ちていた。
きっと、彼らはもう二度と後悔しない。辛い運命も、現実も、全て受け入れられる。
そんな、明るい表情をしていた。
そして、そんな彼らが……私の手を、握っていた。
「行きますよ、博士」
「……ああ」
私が、その言葉にうなずいていた。彼らが、ヘルメットを被る。
「……行こう」
記憶を辿る。過去を巡る。タイムマシンの開発に尽力した時、誰一人として友達のいなかった、大学時代。
なんの面白味も、見所も、なにもかもがない過去の映像が流れる中、私は口を開く。
「君たちに出会えたこと、誇りに思う」
「僕もですよ」
「おいらもです」
笑い声が聞こえた気がした。
「さあ……行こう」
彼らに背を押され、私は……俺は、あのときへと戻る。
「博士」
「行きましょう!」
「「レッツ、ターイムスリーップ!」」
気がつくと俺は、手作りの花火の前に立っていた。
まだ火はついていない。これから、この花火を飛ばすのだから。
「こんなものっ……」
でも俺は、それが欠陥品であることに気づいていた。設計図を見ればわかる。こんなもので、どうして成功すると信じていたのか。
俺は立てかけた花火を蹴り飛ばした。こんなところで、そんなことをしている場合ではない。
俺は走り出す。行くべき場所がある。
言いたいことが、ある。
交通量の少ない道路を走り抜け、子供の運転する自転車を追い抜き、ただひたすら、全力で走る。
日が沈み、辺りが暗くなり、街頭に明かりが灯る。息が上がり、膝が悲鳴を上げ、肺が機能しなくなる。
それでも、昨日までの体よりは体力があるように感じた。まるで、何年も一気に若返ったかのよう。俺は、自分の妙な感覚の体にむち打ち、走り続ける。
そして……その場所にたどり着いた。かつて、俺が一日だけ入院していた場所。彼女が……待っている場所に。
見上げる。彼女の部屋に、人の影が見えた。手紙を読んでくれたのか、彼女が窓際に立っている。その窓は、開いていた。
「ばっっかやろう!」
だから、その窓に向かって大声で叫んだ。肺も、のども限界ではあったが、そんなことは気にしない。
「一人で考えて、一人で解決しようとしてるんじゃねえよ! こっちの意見は、こっちの思いはどうなるんだよ!」
そうだ。これが、言いたかった。
ずっと、ずっと、長い間。ものすごく長い、長い時間。
この言葉を、言いたかった。
「どんなに辛かろうが知ったことか! どんなに苦しかろうが知ったことか! 俺はな、俺は、なんと言われようとおまえと一緒にいたいんだよ!」
どこか見覚えのない……それでも、どこかで会ったことのある人たちの笑顔が浮かぶ。頭が熱くなっていて、よくわからない。
「置いて行かれる奴の気持ちを考えろよ! なにも言えず、なにもできず、そのまま置き去りにされたやること考えろよ! 俺はそんなの嫌だからな、許さないからな! そんなことしたら、何十年経とうが文句を言い続けてやる!」
肺の苦しさは感じられない。
それよりも、体中に流れる苦しさの全てが、今、俺の中から吐き出されているような気がした。
「その何十年を、下手したら俺が死ぬまでを、おまえは俺から奪おうとしてるんだぞ! それが嫌なら、それが嫌ならな、」
そこまで言うと体が勝手に動き出した。建物の中に入り、階段を掛け上がる。そして、見慣れた……ちゃんとネームプレートの下がっている部屋へと入り込んで、驚きの表情を浮かべている彼女に、面と向かって言ってやった。
「一緒にいさせてくれ。最期まで。本当の最期までだ。勝手にいなくなるなんて、そんなの、絶対に、」
手のひらに温かさを感じる。それごと俺は拳を握りしめた。
「絶対に、嫌だ」
とんだわがままだ。子供じみた、言い分だ。
でもそれが、俺の正直な気持ちだった。そのときの思いだった。
それを、どうしても言わなくてはいけなかった。
自分の人生を賭けても、どうしても。
「……でも、わたし、」
久しぶりに聞いた彼女の声に、俺は泣きそうになる。それでも表情を引き締めたまま、彼女の言葉を聞く。
「わたしきっと……すぐ、いなくなっちゃうよ」
「知ったことか」
俺は間髪入れずに答える。
「俺はおまえと一緒にいたいんだ。一緒にいるって決めたんだ。そんなの知ったことか」
「わがままだって、言うよ? 理不尽なことだって言うかもしれないよ?」
「だからなんだ。わがままだって叶えてやる。理不尽だって叶えてやる。辛いときは隣にいる。苦しいときは一緒にいる。泣きたいときは、俺も一緒に泣いてやる」
「わたし……きっと、修くんを、不幸にするよ?」
「俺は不幸にはならない。俺を不幸にするつもりなら、俺がおまえを幸せにする。おまえごと幸せになってやる」
「わたし、わたし……」
「いいから! もういいから!」
俺は彼女の肩に手を置いた。
「わがままだとか、理不尽だとか、そんなこと考えるな。今、おまえが、素直に、ただ思っていることを口にしろ」
肩を揺すると、彼女の手のひらから何かがこぼれた。
手紙……だろうか。ピンク色の綺麗な紙に、彼女の字か、びっしりと描かれていた。
「わたし、わたし、本当は……」
「ああ」
その手紙を、彼女は拾わなかった。俺も、その手紙がもう不要なものだと言うことがわかっていた。
「本当は……死にたく、ないよぉ」
泣きながら、彼女は言った。
「分かれたくないよ、離れたくないよ、わたし……ずっと、修くんと、一緒にいたいよぉ」
泣きながら訴える彼女の背を、抱き寄せる。
「話してたいよ……もっともっと、一緒にいたいよ……いたいんだよ!」
「わかった。わかったから」
彼女がそう望むなら、俺は、ずっとそうする。
それは、彼女のためじゃない。自分のためでもない。
きっとそれは……まだ見ぬ誰かと交わした、小さな約束だ。
なにをしてもどこか欠けていた何年かを、これからはただひたすら、彼女のためだけに費やす。それだけで、十分じゃないか。
……何年? 俺はいったい、なにを言っているんだろうか。自分でも、よくわからなかった。
「大丈夫だよ、さおり」
そんな幻想を振り払い、俺は今、現実に目の前にいる愛おしい少女に、そのことを告げる。
「俺はさおりのそばにいるから。これから、ずっと」
俺の胸に顔をうずめたまま、彼女は小さく、頷いた。
そのとき、ばん、と大きな音があがり、近くで火花が待った。彼女が振り返る。
「花火!」
「ああ……」
火花は次々と上がる。俺が計算したとおりの色と形とを広げ、たくさんの花火が舞い上がっていた。
「綺麗……」
どうして、なんてどうでもよかった。
俺はずっと、彼女がこういう顔をするのを見たかったのだ。幸せそうに、明るく。ただただ浮かべる彼女の笑顔が大好きだったのだ。
俺はこれから、彼女のために生きる。
彼女のわがままと、理不尽と、辛さと苦しさと全てを受け止める。共有する。
俺は、彼女のそばに、ずっと……ずっと、いる。
そう、決めた。
花火は明らかに手を加えられた跡があった。聞くと、近所の中学生くらいの子がいじっていたらしいが……詳細はわからない。
そしてーーそれからは、ひたすら大変だった。
いくつもの薬を試し、その副作用にも苦しみながらも、さおりは笑顔を浮かべてくれた。さおりだけが苦しいのは理不尽だな、と、彼女の元に訪れる前日に、あえて徹夜してみたりした。かえって心配されてしまい、俺は、さおりの膝の上で眠った。
さおりの両親は俺が直接会いに行き、両親と会いたくないと言っていたさおりもなんとか説得して、両親も見舞いに来てくれるようになった。病室には花やらなにやらがあふれるようになり、地味だった病室もすっかり華やかになった。
さおりは人一倍努力した。大変な治療も、リハビリも、泣き言一つ言わずに努力し続けた。
俺はそんなさおりの隣に居続けた。時に手を取り、時に励まし。俺たちはずっと、ずっと、一緒にいた。
彼女の浮かべる笑顔を、ずっと、一番近くで、見続けた。
「……あれ?」
気づくと私は、ビルの一角に立ちつくしていた。
その空間にはなにもない。それなのに、なぜかその場所を知っているような気がする。
どこか懐かしい空気の中、見覚えのない顔が浮かんでは消える。なにか、妙な気分だ。
窓から見える太陽は赤く、空はオレンジに染まっている。もうすっかり、日も暮れてしまっていた。
「帰るか」
どうしてこんなところにいるのかはわからないが、こんな場所に長くいる必要はない。私はそうつぶやいて、その、ビルの一角から去る。
去り際、なんとなく温度を感じてポケットに手を入れる。そこには手帳が入っていて、家族の写真が入っている。
最愛の妻と、そして、子供。
私の人生そのもの。
写真を見ると会いたくなった。
見覚えのないビルから身を踊らせ、私は家路を辿る。
最後にもう一度だけ振り返り、なんとなく、その建物に別れの言葉をつぶやいて、私は歩きだした。
fin
タイムマシンが、できました 影月 潤 @jun-kagezuki
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