第43話 おぼれた子供を助ける

 タイトルが「鉄道事故は起こる」とあったにも関わらず、スクリーン上の若田部理事の話は、鉄道とは全く無関係の内容であった。しかし、その内容は私にとって、いや、今日のセミナー参加者全員にとって、ある意味、目からうろこな話でもあった。


 スクリーンには【プールでおぼれた子供を助けるには】~何時でも非常時を想定するということ~という文字が浮かぶ。そして、理事は私が初めて聞くマトモな標準語でとつとつと語り出す。スクリーンには話し続ける理事の姿だけしか映らない・・・・・・。


「毎年、水の事故で子供たちが貴い命を落とします」


「もしも、助けたくとも助けられない状況になった場合、ご家族以上に、現場に居合わせた全ての人の脳裏にも、そのくやしさやかなしさが焼き付いて一生離れません」


「その典型的な事故例として、プールの排水溝はいすいこうふたがはずれ、子供が吸い寄せられる事故が上げられます」


「悲劇が起きる度に、全国的にプールの総点検と防止対策が行われていながら、繰り返し同じ事故が起こるのは、いったいなぜなのでしょうか? それは、人間がやる点検作業ゆえの不備や、劣化した保護装置の放置など、いわば人災を原因とするものがほとんどなのです」


「プールの排水溝への激しい水圧は、大人の力をもってしても、とても対抗できるものではありません。しかし、そんな事は最初からわかっていながらも、十分な安全対策が施されていないために、悲劇は繰り返されます」


「もし、自分の子供や孫が、誤って排水溝に足を取られたらと考えると、本当にぞっとする話であります」


「今まで、同様の状況になった場合、大勢の大人が水中の子供を引っ張り出そうとしました。実際、現場ではそれしかできないでしょう」


「それでも、やはり助けられなかったのです。それほどに排水溝が水を吸い寄せる力は強く、まさか、子供の足を千切ってでも助け出すほどの非情さも、いざとなると発揮できるわけはありません」


「ニュースに何度も繰り返される悲劇。もし、事故防止が100%できないとしたならば、いったいどうすれば良いのでしょうか。もし、その場に自分が居合わせていたら、いったいどんな行動すれば良いのでしょうか」


「あなたが、そんな事故現場に偶然居合わせしまったら、そこでやるべきことは、たった一つです」


「子供の体を引っ張っても、人間の力ではとても助け出せません。それはもうわかっています。そうかといって、そのままにしては、すぐに子供はおぼれ死んでしまいます」


「当たり前ですが、人は水の中では呼吸ができません」


「だから、最初にやるべきこと、それは『呼吸の確保』なのです」


「まさか、そんな場所に都合よく、スキューバーダイビングの機材などありません。ではいったい、どうやって水中にいる子供の呼吸を、緊急に確保することができるのか、そこが最重要なはずなのです」


「ここに一番簡単、且つ、その場において対処できそうな方法があります」


「その方法とは、レジ袋などを逆さまにして、空気を中に入れた状態にしたまま、子供の頭にかぶせることなのです」


「もっとも、これだけではすぐに空気が無くなってしまいます。実は、この後の救援行為もそうですが、呼吸の確保は一人ではできません」


「そう、レジ袋の中に新しい空気を送り込む作業が必要なのです。さらに、レジ袋を子供の頭に被せたままの位置では、水中のため自分の呼吸もままなりません」


「従って、子供に新鮮な空気を供給しながら、さらに自分の呼吸も確保するためには、自分以外の誰か他の人により、レジ袋にエアを補給してもらう手助けが必要となるのです」


「さて、これで、最低限子供の呼吸は確保できますが、このままでは長く持たせられません」


「さらに大きなビニール袋、例えばゴミ袋の様なものを持ってきてもらうか、できれば、プラスチック製のゴミ箱など、さらなる安定した容器に変えて、下からはエアを補給し続ける必要があります」


「また、子供の体温も急激に下がります。バスタオルや洋服などを水中の体に巻いてあげ、子供の体を防御ぼうぎょしなくてはなりません。例え水の中でも、そういった衣類で体を守れば、体温の低下防止に役立つのです」


「子供に意識があれば、当然怖くて不安が増すことでしょう。パニックになるかもしれません」


「もし、比較的大型のゴミ箱などが用意できるのなら、親がいっしょにゴミ箱に潜ることで、子供の不安をかなり解消できます。それが無理であっても、防水の懐中かいちゅう電灯などが用意できれば、視界がかないことへの不安を少しは取り除けます」


「そして、できるだけすみやかに水道ホースなどを用意します。それもできるだけニ本以上必要です。これにより継続的な空気の確保と共に、両親などの声を聞かせる続けることが、子供のがんばる気力へとつながります」


「もしも水道ホースが一本しか無ければ、その場で二本に切れば良いのです」


「ただし、残念ながら実際の現場では、ここまでスムーズな手立てはできそうもありません」


「第一、最初はあなたが何をしようとしているのか、周囲もすぐにはわからないはずです」


「大切なことは、事故発見時に誰もが最初に必ずやるであろう、子供の体を引っ張り出す時に、それが不可能だと一瞬で判断したら、あなたはすばやく周囲に大声で叫ぶことであります」


「子供の呼吸を確保します、と。子供の頭が隠れる大きなビニール袋をください。そして、誰か袋に空気を送ってください!」


「これだけで、すぐに状況を理解できる協力者が現れます」


「次には水の中のあなた自身の呼吸が確保できないことも、周囲は見て状況を的確に判断できることでしょう。誰かがあなたに代わってビニール袋を押さえてくれるはずです」


「また、より大きな呼吸確保の装置、いわゆるゴミ箱なども、プールの監視員などが素早く用意してくれることでしょう」


「緊急行動の意味が理解されると、周囲の動きは早く、そしてより合理的な行動へとつながります」


「呼吸の確保もせず、必死に子供を引っ張り出そうとすることは、緊急事態とはいえ無謀むぼうな行為なのです」


「子供の呼吸確保さえできれば、レスキューなどの手により、周囲に土のうを積み上げるなど次の手が打てます。水圧さえ弱められれば、子供の早期救出可能性も高まります」


「また、そこにいる全員が参加して、バスタオルなどを使った簡易土のうを作ることもできるでしょう。こういった作業は人数が多いほど有効なのです」


「重要なことは、自分が何をやろうとしているのか、素早く周囲に知らしめる事であり、自分自身でビニール袋などを探しに動き回らないことなのです」


「やるべきことがわかっているのは、今、行動しようとしているあなただけなのですから、その事を周囲に知らせられるのはあなた自身しかいません」


「誰でも最初は、子供を水中から引っ張り出して救出することしか考えません。その常識をあなたの一声で変えるのです。どこにでもある道具で、まず子供の呼吸を確保することを知らしめます」


「この最初の行動にこそ、救出成功のカギが握られているのです。チャンスはわずかの時間しかありません」


「そして、普段から、頭の中でそういった緊急時のシミュレーションを繰り返すことで、実際の事故現場でも冷静に対応ができるようになるのです。人は突然やろうとすると、逆にパニックになってしまいます」


「そして、あれは悲惨ひさんな事故だったとか、救出はすごい奇跡きせきだったなどと思うのは、単なる感想に過ぎません。これでは、次に同じ状況に出会っても、何もすることができないでしょう」


「偶然助ける事ができたのではなく、それが普段の行為の延長、すなわち訓練の賜物たまものであることが、結果として万が一の奇跡へとつながるのであります」


 スクリーン上での若田部理事の話は、ここでいったん終わる。テント内には一斉に拍手が起こる。誰しもが今考えている事は、きっと同じに違いない。ちょっとした高揚感こうようかんただよう。若田部理事は、そこからビデオ映像を見ている視聴者しちょうしゃたちに問い掛ける。


「皆さん、今の話をどう受け止めましたか? そして、これがプールではなく、鉄道現場だとしたらどうするでしょうか?」


 そこから、若田部理事は長く黙り込む。まるで映像が止まったかの様な時間だけが流れる。参加者は、それぞれに考えている様だった。ぶつぶつと何事か言う人。必死に何かを書いている人。こそこそと隣と話す人。それでもスクリーン上の若田部理事は黙ったままである。私も、これは何か上映ミスかな、と思い始めた時に、やっと若田部理事は話し出す。


「今、皆さんの考えている事は、恐らく間違いです。事故が起こってからの対応を考えるよりも先に、まずやらねばならない事があります」


「それは、事故を起こさないということです。事故は起こしてはいけないのです。特に人為的な事故は絶対に許されません」


「プールの排水溝のふたが外れた事故は、人為的な事故なのです。これはあってはなりません。絶対に許されない行為なのです」


「鉄道事故もあってはなりません。もしも、自然災害などの事故は絶対に防げないと考えるのなら、申し訳ありませんが、本日はもうお帰り下さい」


「確かに、津波による被害、大地震による倒壊とうかい雪崩なだれ、そういったものは避け得ない自然災害かもしれません。しかし、災害がいつかは起きるだろうとの予測はできるのです。それが百年に一度の確率であっても、です」


「もし、自然災害を避け得ない事故だと決め付けてしまえば、自然災害を原因とする全ての事故に、誰一人として責任など負わなくなります」


「予測はしたけどあり得ないと思った、と言い訳をするつもりなら、最初からやってはいけません」


「つまり、事故が起きた場合にどうするかより先に、絶対に事故を起こさない事の方がはるかに重要なのです。そこを間違えてはいけません」


「事故や非常時に対応できる体制作りは、これは当たり前の事なのです。だからと言って、それに頼った安心は間違っています。事故を起こさないことが本当の安心につながるのです」


「プールでおぼれた子供をどうやって助けるか。これは普段の訓練が全てです。しかし、その前にプールのふたは絶対に外れてはならないのです。事故が起こってからではなく、事故を起こしてはならないのです」


「ここにいる皆さんは、絶対に事故を起こさないという覚悟がありますか? それだけの努力を日々保てますか? 自分は一度の事故も起こさないと言い切れますか!」


 ここで、再び若田部理事の話は切れる。テント内は、さっきまでとは違うざわめきに包まれている。私も正直、この話をどう考えていいのかわからない。しかし、今度はそう間を置くことなく、再び若田部理事の話は始まった。


「でも、全く心配はいりません。そのための鉄道員教育を行います。三陸夢絆観光鉄道を始め、各地で開業準備中のSL観光鉄道も、全てがなのです。どうか、その事を十分に理解し、鉄道員とは何をすべき立場なのかという事を自覚していだければ幸いです」


 そしてスクリーン上では、世界の主な鉄道事故が立て続けに流れる。そのほとんどが、人為的事故、いわゆるシステム誤作動を含むヒューマンエラーに原因すると出ている。自然災害による鉄道事故も、厳しい線路地形から予想もできなかった事故などはあり得なく、あの三陸の大津波でさえ、いつか起これば被害甚大ひがいじんだいだと予測されていた・・・・・・として、ビデオ映像は終わった。


 一通りのざわめきが収まると、山中さんは質疑応答に入るとした。参加者からは次々と手が挙がる。それに対して山中さんは、質問に近い内容の回答があるスライドを探し、スクリーンに映しては読み上げて行く。質問者がそれに対して、さらに質問しようとしても、他の質問者がいるのでとさえぎってしまうのだ。そうやって、およそ三十人ほどが質問をし終わった頃、これで本日の時間は終わりですと、一方的に言ってセミナーは終了する。スクリーン上には、教育センターのホームページアドレスだけが残った・・・・・・。


 結局、山中さんはほとんど自分の言葉としては説明をしていない。ビデオ映像を見せ、質疑応答でさえ似た様な質問への回答を流すだけであった。全てに映像で対応するのみ。でも、これはトラブル回避策なのだと後で私も知る。無用な言質を取られないためでもあり、何よりもセミナーが鉄道マニアを勧誘する場などでは無い、という前提がそこにある。本音としては趣味だが、決して遊びでは無いのだ!


 事故を起こせば人生を棒に振るかもしれない・・・・・・果たしてその自覚と覚悟が持てるのかどうか、セミナーの目的には、その事を参加者に問いかける事も含まれていた。


 例えば、欧米の保存鉄道活動の様に、ボランティアによる蒸機鉄道の自主運行をやってみたい。こんな話を昔から聞くことがあったが、日本では鉄道法規の問題から不可能だと言われて来た。もし、厳しい法律を避けてやろうとするならば、公園などクローズドな場で遊戯ゆうぎ列車とするしか無い。


 しかし、今の法の範囲でもどうにかできないのか? ケンジ君たちは、鉄道マニアではなかったからこそ、鉄道法規の範囲内でどこまでできるかについて可能性を追及した。自分たちが楽しむため、という前提はそこには無い。そして、鉄道マニアが活動に参加できることを目的としたのではないにも関わらず、SL観光鉄道による震災復興方法を模索する中で、鉄道マニアが参加出来るようになっただけなのである。これは趣味者ではなく、鉄道法規が認める「鉄道係員」としてだからであり、そこには同時に厳しい責任が生じるのだ。


 今、三陸夢絆観光鉄道に限らず、現在準備中の他のSL観光鉄道にボランティアメンバーとして働こうと思うのなら、まずは教育センターの個人会員となり、カリキュラムに沿って鉄道教育を受ければ良い。さらに、会員として【GSRシステム】(Gantlet Steam Railroad System)が使える様になると、SL観光鉄道の現場における、あらゆる自分の関わり方が見えて来る。その中から自分のやりたい職務で選んで行けば良い様になっている。


 そこには、必ずしも現地に行くことだけではなく、遠隔カメラによる現地監視役や、集まりさえもたくさんある。鉄道現場での責任に不安を感じるのであれば、こういった参加の仕方もあり得るのだ。


 特に興味深いのは、現地に行かないメンバーの多くが「営業部隊」となっていることだろう。各人が会社の同僚やら学生仲間にSL観光鉄道を案内しているのである。会員単位で見れば大した集客にはならないが、個人会員の絶対数が多いので、団体ツアーとも相俟あいまって三陸夢絆観光鉄道は、運行日にはほぼ満席状態が続く。自分は現地活動に行かなくても、こういった貢献の仕方でもいいのである。


 もちろん、現場で実地研修を受け、様々な作業をこなしながら鉄道業務スキルを上げる事は楽しみであり、鉄道マニアならまずそれが一番の参加目的ではないだろうか。ただし、それなりの現地勤務回数が求められるので、ある程度の時間とお金のある人に限られてしまうが、既に駅務でも運転士以外の乗務でも、ほぼ全員がボランティアメンバーとなっている。その勤務スケジュール管理や、運営上の問題点、そして懇親こんしん会! までの全てが【GSRシステム】上で今や行われているのだ。


 取材の初期、工藤弁護士から「社団イコール三陸夢絆観光鉄道のメンバーとは限りませんよ」と言われた事があったが、【GSRシステム】には、三陸夢絆観光鉄道に続く各地SL観光鉄道の専用ページもある。こちらは既存のローカル鉄道との共同運行となるので、としてより危険度リスクも高い。そのため若田部理事のみならず鉄道のプロたちが厳しく主要メンバー育成にあたっており、以前、私が大崎浜おおさきはま駅で見た電話会議の様な指導は、今日も行われていると言う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る