五月三十日 横浜

 私はずっと彷徨っていた。迷っていることにすら気付かないほどに、完全に迷子になっていた。眩い光の中で。


 桂介は初夏の人だ。周りをも光で包む。力強い光で影を連れてなどいない。

 そこに惹かれた。いつまでも秋の翳りから抜け出さない私のところまで明るく照らしてくれた。


 だから私は間違えたのだ。


 その光が眩しすぎて目が眩み、自分が求めるものすら見極められなくなっていたのだ。眩しくて周りが見えないことを、翳りが消えたことを、幸せだと思ってしまった。


 桂介の隣――そこは暖かくて明るい。だけど私がほしいのは――


 ドアチャイムが鳴った。宅配便などが届く予定はない。一人暮らしは短くないけれど、こういう突然の訪問はいつまでも慣れない。毎回ひどく不安になる。恐怖と言ってもいいくらいに緊張する。


 足音を忍ばせ玄関に向かい、ドアスコープから覗くと、桂介が立っていた。


 ……どうして?


 終わりを迎えたはずなのに、どうして桂介がいるのかがわからない。けれどもそのことを嬉しく思う自分に気付いて戸惑う。


 私はまだ桂介を愛しているのだろうか。これまでの日々は桂介との想い出に溢れている。


 私の世界は狭くて小さい。

 アキと会えなくなってからの私は、アイリスとこの部屋との往復だけだった。世界は閉じていて、言葉を交わすのはあやめさんとだけだった。

 その閉じた世界に差し込んだ光が桂介だった。相変わらず私は狭い世界にいるけれども、光の差しこむ窓は広く開け放たれていて、いつも外の世界と繋がっていた。


 涙が零れる。

 桂介と別れるということは光を失うこと。そうなった時、私は後悔しないだろうか。悔やみ、泣きながら思い出に浸る自分の姿が容易に浮かぶ。

 そうすると、私が下した選択は間違いなのか。桂介との将来は鮮やかに思い描くことができる。

 桂介と離れたら、私はひとり。ひとり暮らしのひとりとは少し違う。日々の暮らしが誰かにしっかりと繋がっているという安心感。それを失う覚悟が私にあるのだろうか。


 再びチャイムが鳴る。


 出なくていいのだろうか。このまま居留守を使う? もう一度話す? 話すって――なにを?


 失うと思うから惜しくなっているだけ? 本当は今でも必要としている? 考えることは同じところをグルグルと回る。


 わかっている。思い出は愛おしい。たまらなく愛おしい。フットサルの応援に行ったこと、ドライブしたこと、遊びや旅行に行ったこと、一日中家から一歩も出ずにゴロゴロしたこと……。全てが愛おしい思い出。

 それはもう二度とないのかと思うととめどなく涙が零れる。今、桂介に会えば、きっとやり直そうと思うだろう。


 私はなぜ桂介と離れようとしたのか、わからなくなりつつある。


 稲村ヶ崎の海を眺める公園で一方的に突き返した指輪と想い。あの時は真実に辿り着いた気がしたのだった。私が求めているのは初夏の光ではないと。

 けれども、だからといって、私は彰太さんにアキや桂介に抱いたのと同じ気持ちを持っているとは言い難い。その思いはもっと深いところ。魂が響き合い、互いの糸を手繰り寄せずにはいられないような――。


 それならばなぜ、桂介と離れる必要があるのだろう。

 桂介への想いを恋と呼ぶのなら、彰太さんへと向かうこの心はなんという名なのだろう。おそらくふたつは異なるもの。


 私はなんのために桂介を傷つけているのだろうか。

 そう思ったら、いつの間にかドアを開けていた。


 初夏をまとった人の背後にはどんよりと煤色の雲が分厚く垂れこめている。


「……いたんだ」


 そんなふうに桂介がいつもの笑顔で言うから、私は涙が止まらなくなる。

 桂介を傷つけてしまったという罪悪感。桂介の痛みを思い。

 私が気紛れに届くあてのない手紙などを書かなければこんなことにはならなかった。……こんなこと? こんなことにしたのは私。手紙を書いたからではない。なにか見えなかった色が見えてしまったから。繋がるはずのない糸が手繰り寄せられ、手繰り寄せてしまったから。私の色に重ねてほしい色に出会ってしまったから。清廉な魂の色の――。


「……美鈴」


 桂介が優しく囁き、そっと私の頭を撫でる。


 その瞬間、私は知ってしまった。理屈ではなく、この人は違うのだと。

 少し前まではあたたかな気持ちになれたその仕草が、激しい嫌悪を伴った。とっさに飛び退きそうになるのをこらえ、俯く。これ以上傷付けるわけにはいかない。

 すると、私はなにも告げないのに、桂介は自嘲気味に笑い声をあげて手を離した。


「美鈴にもいつか彼氏ができるのかな。それとも俺がまた彼氏になるのかな」


 私は笑って流すことしかできない。


「なにか困ったときや遊びたい時は電話して」


 私のせめてもの誠意は、ここで頷いたりしないことだ。桂介と離れようと思ったのは想いが移ったわけではない。ただここにないと知ってしまっただけ。行き場を見失った想いは私の胸の中に。いつかまた誰かに預けるかもしれないし、そうでないかもしれない。

 それでもその誰かは桂介ではない。それだけはたしか。


 それを気付かせてくれたのは鎌倉から届く水茎の跡。




 去っていく桂介の後ろ姿に、降り始めたばかりの雨が静かに重なっている。




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