五月二十三日 横浜
その色が目に見えないのが不思議なほどに薔薇の香りが満ちている。小さな蜂や名も知らぬ虫たちが薔薇の香りに酔って舞う。
港の見える丘公園のローズガーデンをそぞろ歩き。
港の見える丘公園と呼ばれるこの一帯は、開港当時は外国人居留地で、この丘の上にイギリス軍、下にフランス軍が駐屯していた。軍の接収解除の後、今の公園の形となったらしい。フランス領事館跡地はフランス山と呼ばれ、元イギリスの総領事官邸はイギリス館として残っている。
ローズガーデンは丘の起伏を至る所に残し、カスケードと呼ばれる階段状の水路やガゼボと呼ばれる西洋風四阿などが様々な種類の薔薇の向こうに見えている。
前をゆくあやめさんが屈みこんでカメラを構えている。白いガゼボを背景に黄色に朱の差した熟れた桃のような色合いのバラをアップで撮るつもりらしい。
二年はオランダに行きっぱなしになるので、馴染みの風景をたくさん写真に収めておくのだという。
「ちょっとお茶でもしようか」
あやめさんが伸びをしながら言った。
私の返事など待たずに展望台近くのカフェへと向かっていく。
白壁にオレンジ瓦のスパニッシュスタイルの洋館。白とピンクを基調とした店内席を抜け、ローズガーデンを見下ろすテラスの席につく。
白いパラソルの下で、店員にメニューを渡されるなり、あやめさんは「本日のケーキとローズティーをふたつずつ」と注文した。
私の意志は確かめることすらされず、いつもと同じに見えるこの笑顔の下に隠されている感情があることを感じずにはいられない。
ケーキと紅茶が運ばれてくるまでの間、あやめさんは撮影したばかりの画像をひたすら確認している。確認している振りをしている。
私はちびちびと水を口に運んでは、あやめさんの唇が開かれるのを待っている。
待っていながらも私の心は彰太さんからの手紙へと手繰り寄せられる。
――この場所を見てみたくはないですか。
すぐにでもはいと答えたい。その言葉をアキに言われた時はすぐに答えていた。けれども今度は手紙。しかもアキの言葉に塗り重ねようとする彰太さんのその言葉に、どう答えるべきなのだろう。
「返信、お待ちしています。」という一文の後に記されたメールアドレスと080から始まる連絡先。
当然、「返信」はメールか電話でということになる。少しでも早く声を聞いてみたい気持ちと、飛びつくようなはしたなさに恥じらう気持ちとの狭間で、私は丸一日漂っている。
躊躇いと怯え。答える言葉は決まっているのに、それをどう伝えれば私がよりよく思われるかなんてことを考えている。
汚いな、と思う。相手によく思われたくて、取るべき行動をあれこれ考えているなんて。まるで計算高い女みたい。
桂介に対してはそんなことを考えたことなどなかった。私は私のままだった。
アキに対してはどうだっただろう。導かれるまま吸い寄せられていって、そんなことを気にする余裕さえなかったような気がする。
甘い薔薇の香りが立ち昇る紅茶と、ハート形にカットされた苺が乗ったミルフィーユがテーブルに置かれる。
ティーカップの中で透明感のある褐色オレンジの
甘い香りが纏わりつくようにして鼻先を舐めていく。ローズガーデンから漂ってくる香りなのか、紅茶に垂らされた天然ローズエッセンスの香りなのか。
あやめさんの表情を窺おうと視線を上げると、既にこちらを見つめている瞳とぶつかった。
怒ってはいない。あやめさんの目を見て、ひとまずこっそり胸をなでおろす。
「……まったくねぇ」
あやめさんが言葉をまるめて溜息とともに吐き捨てる。
ようやくローズティーに口をつけ「おいし」と呟く。
私も薄いカップの淵に唇を当て、舌先を湿らせる程度に香りを味わう。紅茶のかすかな苦みはさらりと去り、薔薇の甘い香りだけが鼻腔に抜ける。
「聞いたわよ」
なにを、とは問わない。桂介とのことに決まっている。
「どうしたのよ、いったい。随分突然じゃない」
どう答えればいいのだろう。だって突然だったんだもの。自分の心にけじめをつけるために――桂介との結婚に向かうために手紙を書いた。そうしたら一筆さっとぞんざいな線が引かれて返ってきた。そんな感じ。もう二度と手を加えられるはずのなかった部分に無造作に、けれども絶妙な色合いで筆が入れられた。
「ごめんなさい」
私がいけなかったんだと思う。ちゃんと自分の色を確かめなかったから。アキとの絵を仕舞い込んで、新しいキャンバスを用意してしまったから。まっさらなキャンバスを。
私の色さえ入れられていないキャンバスに桂介の色が塗られるはずもなかった。真っ白なまま。それはきっとこれからも。白く眩いだけの一枚の――絵になる前の……絵になることのないキャンバス。
「謝られても困るけど」
あやめさんは怒っているというより、心底困ったように眉根を寄せた。
「ごめんなさい」
私はまた謝る。だってほかにどう言えばいいのかわからない。
あやめさんは泣き笑いのような表情で、ははっと文字が形を成して浮かんでいそうな乾いた笑い声をあげた。
「あたしもさ、ひとの恋路に口出しするなんて無粋な真似はしたくないんだけどさ。ほら、あたしがけし掛けたっていうか、美鈴ちゃんに桂介を紹介したわけじゃん? なんか責任っていうか、ねぇ」
「責任なんて、そんな」
「うん、まあ、責任なんて感じてないんだけどね。今のは言葉の綾っていうか。ただね、やっぱ気になるじゃん。あ、べつに、考え直せとかそういうんじゃないからさ。その、この前会った時は返事を待ってもらっているだけで、結婚はするつもりはある、みたいなことを言っていた気がしたから」
そう言って、ミルフィーユの上に乗っているハート形の苺をぱくりと食べた。ハートの消えたミルフィーユはなんだか寂しげだ。
「あの時は本当に桂介と結婚するつもりだったんです。でも、気持ちの整理をしようと思っていたら……」
「あのさ。美鈴ちゃん、まさかと思うけど」
「あ、違います。過去を引きずっているとかそういうことじゃないんです」
私は両手を振って否定した。だって、あやめさんがものすごく気の毒そうに私を見るから。アキに去られた私はそんなに哀れに見えたのだろうか。
「……だったら、なんで?」
どう言えばいいのだろう。うまく伝えられる言葉を持たなくて、私はにへらっと笑って見せる。
「うーん。……なんとなく?」
「……あんたねぇ。そんなので誤魔化せると思っているの? いい? あたしが桂介を紹介したからとか、あいつがあたしの従弟だからとか、そういうのはいいの。ただ単にあたしが気になるのよ。関わったのに知らないままでいる気持ち、あんたならわかると思うんだけど」
関わったのに知らないまま。そう。それは呪いのようにつきまとう。だから私はアキを想い続けてしまった。
「しづやしづしづのをだまきくり返し――」
「オダ・マキさん? 誰それ?」
あやめさんのとぼけた声に、ふっと思わず笑いが零れる。だって、その反応、桂介とまったく同じ。この従姉弟たちはやっぱりからりと晴れた空の下でたっぷりの陽射しを浴びている。
「いえ、いいんです、それは。このところ、静御前の唄が頭から離れなくて」
「静御前? なんでまた。……もしかして、やっぱり、鎌倉の?」
「鎌倉は鎌倉なんですけど、あやめさんが思っているのとは違うっていうか」
「えっ、あんた、まさか他に好きなオトコができたの?」
「えっ?」
今度は私が驚く番だった。好きな、オトコ? ……そう、なんだろうか。
静御前のスケッチ。
オダマキの水彩画。
由比ヶ浜の青年。
水茎の君――。
あの思いつめたように真っ直ぐな視線で見つめて描く姿が脳裏に甦る。
おそらく私より十歳くらいは若い。
桂介だって年下だったけど、それだってたった二歳。
ううん、年齢じゃない。
あの孤独で苦しそうな清廉な魂。それに触れたくて。その手で――あの絵を描くその手で新しい色を塗り重ねてほしくて。
それは……その想いの名は――。
「やだ、あんた、いつの間に。ううん。いいのよ、それならそれで。桂介なんか捨てちゃって」
随分ひどい従姉だ。あ、ひどいのは私か。プロポーズに応える素振りをしておきながら、ころりと態度を変えた私の方こそひどい。誰も傷つけずに素直に生きることなどできない。それでも私は。
「で、どんな人?」
あやめさんは興味津々なのを隠そうともしない。これはあやめさんを満足させる類のものなのだろうか。
違う。そんな単色の想いではなくて。
――この場所を見てみたくはないですか。
素直という花言葉を持つオダマキの咲く庭。
義経をひたすらに想い続けた静御前の唄。
水茎の跡を重ね。
新しい色を重ね。
それはきっとあやめさんや桂介を納得させられるほどの話にはならない。それでも私に色を重ねてくれる。あやめさんも。桂介も。出会うすべての人たちが。
だからせめて伝えたい。もし伝わらなくても。伝えたいという思いだけでも伝えたい。
あなたのおかげで新しい色を塗り重ねる
「手紙を書いたんです」
私は語り始める。
重ねられた水茎の跡を。
静御前の舞を。
そして私が新しい色に出会うまでの小さな物語を。
あやめさんが身を乗り出し過ぎて、ティーカップがカチャリと音をたてる。
私は紅茶をひとくち。
私の外にも内にも甘くまあるい香りが広がった。
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