五月三十一日 横浜/鎌倉

 五月三十一日、日曜日。ついに約束の日。


 夜半に静かに音もなく窓を濡らしていた雨も上がり、今はライティングデスクの片隅にある木製の小引き出しに、窓から差し込んだ朝日が小さくあたっている。


 一番上の引き出しから取り出した白いレースのハンカチをトートバッグに入れ、二段目に入っていた桜貝のネックレスを身に着ける。

 それから、三段目の引き出しから取り出したのは、折りたたまれた一枚の紙。細かな皺が無数に散らばった紙。

 それを静御前のスケッチとオダマキの水彩画とに重ね、そっとバッグに忍ばせる。


 さしておしゃれなどはしないこととする。

 そもそもアイリスで働いていた頃から改まった格好などしていない。めったに着ないブランド物のワンピースを着たのだって、桂介から指輪を貰ったあの日くらい。

 いつも通りの私で会いに行く。リネンのロングスカートに春物の薄手のセーター。


 ようやく彰太さんへ連絡したのは、手紙を受け取った翌々日だった。


 すぐに誘いに乗ることに躊躇われるのは相変わらずだったけれど、あまり長い間放っておくのも失礼な気がして、中途半端な挨拶だけのメールを送ってしまった。


 そんなメールでも彰太さんは喜んでくれ、手紙よりも若々しい印象の文章だった。そう、初めての手紙で感じた薄汚れた捨て犬みたいな。

 けれどももう手負いの獣のように必死に威嚇する姿はそこにはなかった。代わりにあるのは、ちぎれんばかりに尻尾をぶんぶん振り回す姿。


 彼のメールの素直さに――会って詫びたいということと、オダマキの絵の印象を尋ねる内容に――私は、決まっている答えを伝えることに躊躇う意味を見失った。 彼は……彰太さんは、きっとオダマキの絵を送ってきた時から素直であることにしたのだ。


 それならば私もそうありたい。


 そして私は返信した。



 ――あなたの描かれた風景を、その場所を見てみたいです。アキと……彰太さんのお庭を。



 

       *




 大船駅で横須賀線に乗り換え、鎌倉駅へ。ホームから改札口へ続く通路へと降りる。

 西口へ行かなくてはならない。前回はどうしても足が動かず、東口へ向かい、鶴岡八幡宮と由比ヶ浜を訪れたのだった。


 大丈夫。まずは西口を出るだけ。


 JRから江ノ電への乗り換えは専用改札があるけれど、今日はひとまず駅を出る。だから大丈夫。あの頃とは違う改札口だから。

 自分にそう言い聞かせ、乗り換え用改札口を横目に西口改札を外に出る。


 こちら側は東口と違って、ひっそりとしている。日曜日なので江ノ電に乗ろうとする観光客もいるのに、それでも地方の小さな駅舎のようなのんびりとした佇まい。


 小さなロータリーを抜け、信号を渡る。左手に市役所を眺めながら、右手の高級スーパーマーケットへと向かう。


 お酒売り場で棚に並ぶシャンパンを眺める。すっとピンク色の箱に手を伸ばしかけ、はたと気付いてその隣の白い箱を両手で抱えた。

 あの日、アキが買ってきたのはピンク色の箱に入ったロゼだった。あの時鼻腔をくすぐったフルーティーな香りが甦る。


 でも、今回はこっち。


 では日曜日にと、会う約束をしたメールの直後にまた着信があった。もしや思い直してキャンセルになるのだろうかと落ち込みかけた目に飛び込んだのは、鯛は苦手かどうかという問いかけだった。幸い私は食べ物の好き嫌いはない。大丈夫だと返信しながら、こんなことで慌ててメールを寄越す彰太さんを可愛いと思った。


 そして今頃せっせと料理を作り、私をもてなそうとしているのかと思うと、自然に頬が緩む。このシャンパンを喜んでくれるだろうか。


 スーパーマーケットの名前が大きくデザインされた紙袋を下げて駅へと戻る。


 信号待ちの間にふと思い立って振り向くと、市庁舎が建っている。日曜日なので当然のことながらひと気はない。


 青信号を知らせる軽快な曲が鳴り、私は前を向き、歩きはじめる。


 江ノ電の改札口を入ればもうそこは駅のホーム。


 さすがに足が止まる。壁に寄りかかり、呼吸を整える。


 どうにかよろよろとベンチまで辿り着き、息をつく。


 まだ電車は来ない。線路が鈍色に陽を受けている。


 トートバッグの口を開き、三枚の紙を取り出す。皺だらけの紙。静御前のスケッチ。オダマキの水彩画。


 皺だらけの紙を胸にあて、両手を重ねる。その下で桜貝のネックレスが胸元に押し付けられて、肌がちくりと痛む。


「……大丈夫」


 小さく自分に言い聞かせる。


 新しい色を。この上に新しい色を。


「大丈夫」


 彰太さんの二枚の絵をじっくり眺める。どこか武骨な筆跡や姿にそぐわない繊細な絵。けれどもそれらすべてに感じる清廉な魂。

 その新しい色を。苧環を巻き続けた私の上に新しい色を重ねてくれるのだから。


 藤沢行きの電車が来るとのアナウンス。

 ほどなくして緑色の車体が滑り込んでくる。


 皺だらけの紙を今一度強く抱き締め、バッグに押し込む。二枚の絵を手に私は立ち上がる。シャンパンの入った紙袋が重い。


 ドアが開くと、私は三年ぶりに江ノ電に乗り込んだ。


 極楽寺のあの家に向かうために。




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