三年前 初夏 鎌倉

 江ノ電鎌倉駅は、始発駅だ。既に電車が止まっていることもあるけれど、あの日は――あの三年前の――アキとの別れが訪れたあの日は――まだ折り返し電車の到着前で、屋根のない線路部分に帯のような陽射しが降いでいた。


 初夏の煌めく陽射しと共に爽やかな風が吹いていて、ホームにまで明るい気分を運んでくる。視界を遮るように風になびく髪を掻き上げながら、体を風上に向けた。


 すると、見慣れた姿が、平日の午前中で人もまばらな改札口を抜けてくるのが見えるではないか。


 あれ? アキ。


 アキったら、今日は私が来ると知っているのに、朝からどこへ出掛けていたのだろう。市役所にでも用があったのかしら。


 そんなふうに思いながら見つめていると、アキはようやく私に気付いて左手を振った。私も手を振り返す。

 アキもここで私に会えると思わなかったのだろう。笑顔で早足になるアキは右手に紙袋を下げている。市役所の手前にある高級スーパーマーケットの紙袋。


 へぇ~。珍しい。鎌倉駅まで買い物に来ることも、高級スーパーマーケットで買い物をすることも今までになかった。言ってくれれば私が買い物してから行ったのに。


 そう声をかけようと口を開きかけた時、またふわあっと暖かい風が吹いた。


 カサッと軽い音がして、アキの手にした紙袋から薄い紙が一枚舞い上がった。


「あ」


 アキと同時に声をあげる。


 私は零れるような声を。

 アキは呼び止めるような声を。


 そしてアキは思わずといった様子で、風に舞う紙に手を伸ばす。



 掴んだ――その瞬間。



 アキの姿が消えた。



「キャアーーーッ!」



 耳をつんざくような悲鳴が上がる。私の声だった。



「アキッ!」



 アキの消えた場所まで駆け寄って膝をつく。


 ホームの縁に手をかけて覗き込むと、アキがあの紙を左手に掴んだまま横たわっていた。閉じた瞼が小刻みに動く。


 人が集まってくる。ざわめきが渦を巻く。遠くで非常停止ボタンを押せと叫ぶ声がする。


 私は狂ったようにアキの名を繰り返す。アキ。アキ。アキ――。


 紙袋から飛び出したシャンパンの瓶が割れ、アプリコットかピーチのような甘く爽やかな香りが風に乗る。そしてたちまち線路の砂利にロゼの赤い泡がシュワシュワと吸い込まれていった。




 救急隊員の「お知り合いの方ですか?」との問いに「はい」と答え、救急車に同乗する。


 サイレンの音が突き刺すような車内で状況の説明とアキについて質問される。どのようにしてホームから落ちたのか、持病はあるか、住所、氏名、生年月日……。


「あなたのご関係は?」

「お付き合いしています」

「水城彰大さんのご家族は? ご連絡先とかわかりますか?」

「いえ……実家は鎌倉山としか……」


 一通りの質問と、アキへの応急処置を済ませると、救急隊員たちは口を閉ざした。頭部を固定されたアキの視線がゆっくりこちらに傾く。


「アキ。今、病院に向かっているからね」


 アキが心細くならないように、笑顔で語りかける。


 アキの左手が重そうに持ち上がる。

 急いで両手で包み込むと、握っていた紙を私の手に押しこんでくる。

 私がそれを受け取ると、その手はこれ以上ないくらいにゆっくりと持ち上がっていき、私の頬に触れて張り付いた。

 ひんやりしっとりとしたアキの手が、初めて触れる私の頬の感触を味わうようにかすかに動く。私の右手を握る時のようにむにむにと。


 アキがなにか言いたそうに口を開きかけたその時、救急車は病院に到着し、アキの担架は何人もの人に囲まれて運ばれていった。


 私の頬にアキの手の感触をはっきり残して。


 救急病院に到着したアキはそのまま処置室に運び込まれ、私はひとりひと気のないICU待合室のソファーにぽつんと座らされた。処置室からは時折看護師が出入りするくらいで、広い待合室の角にすっぽりはまっている私のところへなど誰も声をかけに来ない。


 私はただ震えを抑えるように全身をこわばらせていた。寒い。壁に掛けられた時計がたいして進みもしないのにカチカチと音ばかりたてている。


 やがて警官が五人もやってきた。制服姿が二人と作業着姿が三人。彼らは忙しげに言葉を交わした後、廊下の角を曲がっていき、すぐに制服の一人が戻ってきて私の隣に腰かけた。私より少し上の年齢だろう。左手の指輪が随分歪んでいるな、などと妙なところが目につく。


「杉村美鈴さんですね?」

「……はい」


「神奈川県警の荻原です。水城彰大さんとお付き合いされている方、でよろしいですか?」

「はい……」

「ご結婚はされていないですよね?」

「はい」

「そうしますと、お身内の方に来ていただかないとならないんですが……水城さんのご家族と連絡はとれますか?」

「いえ……全然知らないので」

「あー、そうですか。ちょっと待って下さいね」


 荻原さんは席を立ち、すぐにもう一人の制服警官と一緒に戻ってきた。上司なのかもしれない。犯罪者に舐められるのではないだろうかと心配になる程に柔和な顔をした初老の男性だ。しかし、口調はぞんざいだった。


「杉村さんね、ご家族を呼べないと困るんだわ」


 そんなこと言われてもこっちも困る。


「すみません。本当に知らないんです」

「彼のご家族にお会いしたことはない?」

「ありません」

「うーん、まいったなぁ。なんかご家族のこと聞いてないかな」

「鎌倉山に実家があるとしか……」

「鎌倉山ねぇ」


「あ」と荻原さんが声をあげる。


「あの水城さんじゃないですか?」

「なに。鎌倉山の水城さんに心当たりあるの?」


 初老の警官は期待に満ちた目を荻原さんに向ける。


「ほら、あの水城さんですよ、市会議員の」


 市会議員……?


「ああ! あの水城さんか。長男が国政に出馬するとかなんとか」

「そうそう。次男がたしか私くらいの年齢ですよ」


 警官ふたりは勝手に納得して去っていく。


 またしても私はひとり取り残される。



 寒い。恐ろしく寒い。



 握りしめた両手を胸にあてたまま時計の音だけを拠り所として意識を保つ。



 アキ。アキ。アキ。



 笑顔で手を振る姿が何度も何度も心に映る。


 警官が還暦前後と思しき男女を連れてICUに入っていく。


「彰大っ!」

「あきくんっ!」


 看護師の出入りが激しくなり、ICUの自動ドアは開閉を繰り返す。ドアが開くたび途切れ途切れに声が聞こえてくる。


 CTを撮って……MRIで調べるまでもない……。

 脳挫傷からの出血……脳内血腫……多量の血腫……脳幹……。

 損傷が激しく……。


 女性の泣き叫ぶ声がうるさくて、あとはなにも聞き取れなかった。



「こちらが先ほどお話した杉村美鈴さんです」


 いつの間に来たのだろう。荻原さんが目の前に立っていた。私も知らないうちに立ち上がっている。


「杉村さん、こちらは水城さんのご両親……」

「あなたのせいよ!」


 荻原さんの言葉にかぶせて女性のキンキン声が響く。やめてよ。頭が痛いんだから。


「あなたがあきくんを……!」

「もうやめなさい」


 男性が女性の肩を抱くと、女性はよよと泣き崩れた。男性は女性の背を撫でながら、私の口元あたりに視線を落として話しかけてきた。


「杉村さん、でしたね?」

「はい」

「申し訳ないが、今日のところは帰っていただけませんか」


 言葉だけは依願だけれど、気難しそうな男性特有の責めるような物言い。目尻が赤みを帯び、目元の皺が濡れている意味を敢えて考えないこととする。


「あの、アキ……彰大さんは?」


 それを聞かずに去るわけにはいかない。すると、女性が突如私を突き飛ばし、私はソファーに倒れ込んだ。荻原さんが背中を支えて起こしてくれる。


「あなたに関係ないでしょ! あきくんに近づかないでちょうだいっ!」


 荻原さんは私を立たせると、エレベーターホールまで連れて行く。


「杉村さんはお帰り下さい」

「あの……水城彰大さんの様子は……」

「ご両親の許可もなく警察から第三者にお伝えするわけにはいきませんので。申し訳ありませんが」




 気付けば闇に包まれた自宅の上り框に座り込んでいた。いつどうやって帰ってきたのかもわからない。


 辺りはしんと静まり返っていて、この世に私ひとりが取り残されたまま、世界は滅亡したのではないかと本気で考えた。



 ――寒い。



 自らの肩を掻き抱くと、かさりと音がしてごわごわしたものが触れた。握ったままだった拳をゆるゆると開くと、くしゃくしゃにまるまった紙がぽろりと床に転げ落ちた。救急車でアキに渡されてからずっと握りしめていたらしい。


 こんな紙を拾おうとしてアキは……アキは……!


 紙屑を力いっぱい部屋の奥に向かって投げ捨てた――つもりだったのに、紙屑は力なくふわりと静かにライティングデスクの前に着地した。


 あったまにきた!


 私はびりびりに破り捨ててやろうと、紙屑を拾い上げ――手を止めた。


「これって……!」


 逸る心を必死で抑え、破けないようにそうっと紙を開いていく。そして机上に乗せて、手のひらで丁寧に皺を伸ばす。


「これ……」


 そこにはまだなにも書かれていない婚姻届があった。


「アキ。なにこれ。聞いてないよ、私……」


 アキ。そんな素振り一度も見せなかったじゃない。不意打ちだよ。急すぎるよ。もっと予感みたいなの感じさせてよ。


 ――アキ……私は、水城美鈴になりそびれたんだね。





 翌朝、私はその婚姻届を丁寧に折りたたんで、小引き出しの三段目にしまった――。






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