五月三十一日 鎌倉

 極楽寺の駅はこじんまりとしている。

 この駅で降りるといつも随分と遠くまで来てしまったかのような気分になる。

 それは三年の空白があっても変わらない。あの頃と変わらない景色がここにある。


 こんなにいい天気なのにここの空気はほのかに湿り気を帯びていて、しっとりと肌に馴染む。昨夜の優しい雨に洗われた緑の息遣いが伝わってくる。


 鶯が澄んだ声で鳴き、ケキョケキョケキョといつまでも余韻を響かせる。


 古い映画でしかお目にかかれないような円柱形のポストを曲がる。


 昔からのものが昔のままに残されている。だからここは、距離だけでなくて、時間までも遠いところまで来たかのような錯覚を起こさせるのだろう。


 ゆるい坂をだらだらと上る。


 日曜日だというのにあまり人がいない。成就院の紫陽花もまだだし、と思って、ああしばらくあそこの紫陽花は咲かないんだったと思い出す。


 この街は以前と変わらず、三年ぶりの道でも迷うことはない。細い路地へと入っていく。


 垣根からはみ出ている紫陽花の株が蕾を持っている。歩みを緩めて目をやれば、まだ薄緑色のつぶつぶとしたそれはほのかに青く色づき始めている。


 もうすぐそこ。


 そう思った瞬間に身体の芯が熱くなった。思わず手にしたシャンパンに目をやる。自覚のないまま口にしてしまったかと思うほどの熱さだった。まさかそんなはずもないのだけれど、酩酊しているかのようだと他人事のように思ったりする。

 頬から耳にかけて熱が駆け上る。喉の奥が大きく脈打ち、呼吸が早くなる。浅い息しかできない。


 大丈夫。互いに会いたいと思ったのだから。色の重ねを信じたのだから。疑うべくもなく心より深いところから。


 トートバッグの中に沈んだ水茎の跡を残さない言葉たちを想う。かたどられたその文字たちは手紙ほどにはあの人の姿を浮かび上がらせてはこない。けれどもたしかに繋がっている。苧環で糸を繰りつつ、水茎の跡を辿り、言の葉を紡ぎ、まもなく形なき声に触れるのだ。


 楽しみです、と告げたことを思い出す。

 そう文字を打った指先が震える。あの瞬間から時の流れは途端にゆるやかになった。もどかしいほどに時は流れず、日は進まない。

 狂おしく会いたいのに、それと等しく怯える自分がいる。怯えつつも心は急く。

 手紙よりも砕けた口調のメールを思い起こす。ほんのわずか怯えが翳り、私は歩を進められる。



         *



To.水城彰太     From.杉本美鈴


件名:はじめまして。


本文:水城彰太さま

杉村美鈴です。お手紙拝見いたしました。

このたびは、メールアドレスと携帯番号をありがとうございました。

はじめまして、でよろしいのでしょうか。迷いましたが、ほかのご挨拶が思い浮かびませんでした。

まずはご挨拶とお礼を申し上げたくてご連絡させていただきました。

こちらのメールアドレスが私のものとなります。

お返事お待ちしております。


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To.杉本美鈴     From.水城彰太


件名:こちらこそ


本文:はじめまして。あっ、でも何かはじめまして、と言う気がしませんね(笑)すみません。馴れ馴れしかったですね…

水城彰太、と言います。絵を描いて暮らしています。怪しいものではありません。まずは返信くださって嬉しいです。とにかくありがとうございます。

手紙の件です。こんなことをしておきながら突然の申し出、本当に驚かれたと思います。でも思い切って良かったです。こうして直接お話出来たので。

お手紙嬉しかったです。だから本来はメールで、ではなく会ってお詫びしたかったのですが、まずは最初にきちんと謝らせて下さい。ごめんなさい、大切なお二人の事情に立ち入ってしまい。

オダマキの花はいかがでしたか?彰大さんの絵とは違うとは思いましたが、あの庭のオダマキは僕が見た中でも、本当に目に留まる美しい花だったんです。


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To.水城彰太     From.杉本美鈴


件名:懐かしいです


本文:オダマキの咲く庭。あなたの絵を拝見して、とても懐かしい気持ちにさせていただきました。

そして、やはりあなたは新しい色を重ねてくださる方なのだと改めて感じました。

あなたのお手紙での問い掛けに、どのようにお答えするべきか考えておりました。そして、オダマキの花言葉のように素直にお返事をしようと思いました。

――あなたの描かれた風景を、その場所を見てみたいです。アキと……彰太さんのお庭を。


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To.杉本美鈴     From.水城彰太


件名:ありがとうございます。


本文:やはりお二人の思い出の花だったんですね。今朝も庭を眺めていますがひっそりと、でも綺麗な花色です。

美鈴さんの『新しい色』と言うお言葉嬉しくて、今日も筆が進みそうです。

オダマキのお話、ぜひともうかがいたいです。不躾かと思いますが、差し支えなければお会いするのに都合のいい曜日を教えて頂ければ幸いです。

僕の方はこの通り、ある程度自由が利くので美鈴さんに合わせたいと思います。


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To.水城彰太     From.杉本美鈴


件名:日曜日はいかがでしょうか


本文:あのお庭を眺めるあなたのことを思い浮かべると、なんだか不思議な気分になります。あなたの描く絵をもっと見てみたくなりました。

私は都合により今は特に仕事をしておりません。彰太さんのご都合のよろしい日があればご遠慮なくおっしゃってください。もし迷われるようでしたら、次の日曜日などはいかがでしょうか。


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To.杉本美鈴     From.水城彰太


件名:Re:日曜日はいかがでしょうか


本文:日曜日ですか!…実は僕もその方都合が良かったです。平日は少しアルバイトをしているので(汗)では日曜日に。ご都合変わりましたら前日にでもご連絡下さい。


(返信来てから三分後、思いついたように)


件名:

本文:あ、後うかがいたかったのですが美鈴さんはダメなお魚はありますか?鯛料理は大丈夫でしょうか?


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To.水城彰太     From.杉本美鈴


件名:お気遣いなく


本文:お魚だけでなく、特に苦手なものはありません。けれども、どうぞお気遣いなく。私はそちらのお庭とあなたにお会いできるだけで胸がいっぱいです。

日曜日、とても楽しみです。



         *



 路地を進むと、ブロック塀が見えてきた。その塀の向こうに、平屋建てのその家がある。

 家が若返るはずもなく、相も変わらず年季の入った佇まい。


 オリーブオイルでグリルした魚の匂いが路地に広がっている。

 鯛料理は大丈夫かと聞いていたのはこれだったのだろう。もしかしたら、焼き加減を見ながら、それを口にする私のことを考えてくれたかもしれない。そう思うと、胸の奥でたくさんの小さな粒が跳ねまわる。


 そして、オリーブオイルとは違う油の匂いをも嗅いだ気がした。

 ああ、これは。記憶の波が柔らかな霧となって私を包み込み、また引いていく。これは、あの頭痛を引き起こす匂い。油絵に使う画用液とかいう……。


 もう目の前に玄関が見えているのに、私はその場に立ちすくむ。来し方行く末に想いを彷徨わせ、小さく拳を握る。



 ここに水城彰太さんがいる――。



 こちらの気も知らないで、裏の山でピィピィと名も知らぬ鳥が無邪気に鳴く。


 苧環で手繰り寄せたのは過ぎし日の――私の魂。青白く絶えず燃える炎。

 入り組んだ細い路地の奥に。草の葉の陰に。ひっそり落ちている名もなき色。

 絵具が溶け合い、重ね合い、どこにもない色が生まれる。そんな相手を求めて魂は彷徨うのだろう。

 重ね合い溶け合って、新しい色を生み出せる清廉な魂を求めて――。



 チョットコイ。チョットコイ。



 裏の林でコジュケイが鳴く。

 ちょっと来い、という呼びかけに励まされて、私は一歩踏み出す。



「ごめんください」



 気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと声をかける。


 家の奥から「はい」と爽やかな高めの声が返ってくる。そしてすぐにバタバタと近づいてくる慌ただしい足音。


 玄関のガラス戸に黒っぽい人影が映る。三和土に下りてサンダルのようなものを突っ掛けたのだろう。地面を擦るような音がする。

 あたふたとした動きの影はガラス戸の取っ手と桟に手をかけ、しばらくガタガタと揺らしながら、小さな声で絶えず悪態をついている。


 そう。この敷居は傾いでいるらしく、以前から開けるのにコツがいるのだった。私は懐かしさと共に、かつてとは異なる影の動きを見つめる。


 戸を少し持ち上げるようにして――ガタンとひとつ大きな音を放ち、隙間が開く。その隙間から絵具に汚れた指先がにゅっと出てきて、力強く戸を横に滑らせる。




 やがて、相変わらず立てつけの悪い玄関の戸が、ガラリと開いた――。







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