五月十七日 鎌倉/横浜

 海岸沿いを二十分ほど歩くと砂浜が見えてきた。

 長谷はせにほど近い由比ヶ浜の西の端。この前訪れた東の浜にはもうすぐそこまで宵闇が迫っている。


 ひと気のない砂浜へと階段を降りる。一歩波打ち際に近づくほどに国道の車の音が波の音にかき消されていく。


 レースのハンカチに包んだネックレスを取り出し、風に煽られる髪をよけながらどうにか身に着ける。


 波が瞬き、砂が震える。そこに残るは小さな桜貝。

 ひとつひとつ拾っていく。拾い集めていく。


 はふんっ。


 空気の漏れるような音に振り向くと、おじいさんが……ううん、逆。セントバーナード犬がおじいさんを散歩させていた。犬はぐいぐい歩いては、よたよたとおじいさんが追い付いてくるのを待っている。


 はふんっ。


 犬がくしゃみをした。そうか、ふいごのようなあの音は犬から漏れていたのか。


 おじいさんが犬の大きな背中を撫でてやると、今度は並んで歩き始めた。ゆっくりと共に歩んでいく。


 私は再び桜貝を拾い始める。


 この前のようなアキの気配はやってこない。淋しいような和むような妙な気分。


 極楽寺も遠くないこの場所ならば、気配だけでなく、アキ本人が現れるかもしれない。淡い期待と知りながら、時折辺りを見渡してみたりする。



 背に視線を感じて、ふと振り向くと、砂浜に降りる階段にリラックスした様子でスケッチをする男性の姿があった。


 波の音が消えた。



 ――アキ?



 世界がぐるりとひっくり返ったかと思うほどの眩暈と氷の剣で切り付けられたかのような鋭い痛みが走る。

 けれどもすぐに規則的な波音に包まれた。


 スケッチをしているというほかは、なにひとつアキと似たところのない青年だった。


 おそらく二十代だろう。洗いざらしの白シャツにジーンズというラフな恰好。なのに残念なことに爽やかな印象はなく、ぼさぼさの髪と季節外れに日焼けした肌は世界を放浪する写真家かなにかのように見えた。とてもスケッチなどという繊細な趣味を持つ人には見えない。いや、私は絵描きにかつてのアキのイメージを重ねすぎなのかもしれない。


 それでもどうにもその青年が気になって、私は桜貝を拾う振りをしながら、彼をちらちらと盗み見る。


 思いつめたように真っ直ぐな視線で見つめて描く――。

 孤独で苦しそうな清廉な魂。


 一瞬、彼の姿が手紙の中のアキと重なる。


 ――まさか。どうしてそんなこと。アキとは似ても似つかないと初めに思ったばかりなのに。


 けれども、そんなことが頭に浮かんでしまうと、もう彼を見ることができなくなってしまった。



 しだいに緋色が闇を連れてくる。


 帰り際にひとめだけ彼を見ようと階段に目を向けるが、既に、かの姿はそこになかった。



         *



 日付が変わる頃になってようやく今日のお出かけのメインがなんだったかを思い出した。とんでもないことに、由比ヶ浜からずっとあの幻のようなスケッチ青年の姿が心に棲みついていて、桂介のことなどすっかり忘れていたのだった。うっかりにもほどがある。


 慌ててスマホを手に取りディスプレイを表示させると、メールのアイコンに「17」という数字がくっついていた。


「え?」


 二ケタのメール受信通知なんて初めて見た。しばし、その数字をまじまじと眺めてしまう。

そうしてようやくびくびくしながらメールを開く。



 >  今どこ?


 >  落ち着いて話そうよ。


 >  なんで怒ってんの?


 >  元カレのことなら、もう二度と聞かないから。


 >  いい加減に機嫌なおせって。


 >  戻ってこないなら帰っちゃうよ?



 なにこれ。私はちょっぴりがっかりした。桂介には私の本気が届いていなかったから。私の精一杯を桂介はちょっと虫の居所が悪かったというくらいにしか思っていないから。

 画一的な整った文字は十七ものページを開くまでもない。最新のメールだけ開くこととする。



 >  もしかして本気なの?



 伝えたかった「ありがとう。さようなら」は、どうやら伝わっていなかったことを知り愕然とする。そして、桂介に申し訳ない思いでいっぱいになりながらも、私自身は少しも悲しみを感じない。もう桂介との楽しい時間を過ごせないのかと思うと残念ではあるものの、狂おしいまでに取り戻したい気持ちは起こらない。

 不思議。三年半も前のアキとの時間はこんなにも巻き戻したいのに。


 対峙して声で伝えても伝えきれない想いもあれば、遠く離れても水茎の跡だけで伝わる思いもある。だからきっとそれは時間や距離ではなくて、魂の近さ。


 手紙、来ないなぁ……。


 婚約者になりかけた恋人との別れよりも、三年半前の元カレの手紙の方が気にかかるなんてどうかしている。私ってこんな人間だっただろうか。


 もう手紙は来ないかもしれない。


 そもそも初めから返事どころかアキの手元に届くことさえ期待していなかった。もうそこにいないと、もう私とは関わりがないと、もう済んだことだと実感したかっただけ。

 なのに、まさか返事が来るなんて。

 でもそこでやめておくべきだった。アキも忘れろと言っていたのに。


 思えば、二通目は心の赴くままに書き連ね、なにが言いたいのかさっぱりわからない手紙を書いてしまったような気がする。手紙だからだろうか、以前のアキとはまた違う鎌倉の香りに誘われてついペンを執ってしまった……。


 あんな手紙に対しアキが返事を書くこともないだろう。もう終わったのだから。


 五月十日付のアキからの手紙を胸に掻き抱き、想いの波に身を委ねる。強く私を惹きつけるのは、かつての想いの名残なのだろうか。ここにいるのは私の知らないアキ。それでも私はまた惹かれていく。


 水茎の跡が――筆跡が、文体が、手紙の主を浮き上がらせ、その手の感触を呼び起こす。求めてやまない清廉な魂。それに寄り添いたくて私は苧環おだまきを繰りながら唄い踊り続ける。



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