三通目の手紙

五月十七日 横浜/鎌倉

     しづやしづしづのをだまきくり返し

     昔を今になすよしもがな



          *



 ライティングデスクの片隅にある木製の小引き出し。

 一番上の引き出しから取り出した白いレースのハンカチの上に、二段目に入っていた桜貝のネックレスをゆっくりと乗せる。

 それから、三段目の引き出しに手をかけ――そこで止まる。


 ――開けられない。


 上の二段はやっと開けることができたけれど、ここだけはどうしても開けられない。


 三段目の引き出しの表面をなでる。どんなに心をこめてなでてみても伝わってくるのはざらりとした死んだ木の感触だけ。



 机上にぽつんと置かれている指輪のケースを手に取る。ケースごと胸にいだく。


「――桂介」


 瞳を閉じればたちまち目に浮かぶ。



 白を基調とした清潔でさっぱりした部屋。レースのカーテンがそよ風に揺れる。


 琺瑯のコーヒーポットからドリッパーに、湯気の立つお湯がゆっくりと渦を描くように注がれる。ペーパーフィルターが濃褐色に染まりながらドリッパーに張り付いていく。ポチョポチョとかわいらしい音をたてながら生まれたてのコーヒーがサーバーに雨だれのように落ちていく。部屋にはハワイのフレーバーコーヒーのバニラマカダミアの甘くまろやかな香りが漂う。


 桂介がネクタイを結びながら「うまそうだな」などといいながら近づいてきて、「おはよう」と軽く唇を合わせる。



 桂介とのそんな生活が私の胸をくすぐって、思わずふふっと声が漏れる。


 瞼を上げれば、いつも通りの山手のアパート。朝日が整えたばかりのベッドカバーの上でくつろいでいる。



 今日は十七日。手紙を書いてから四日目。



 アイリスが閉店してから日にちの感覚がすっかりなくなっていたのに、ここ数日は日にちばかり気にしている。


 自分のことは忘れてくれというアキからの手紙に返信を送ってからというもの、ずっと手紙を待っている。まだ届いてすらいないはずの投函日の夕方から日に何度もメールボックスを覗いたりして。


 なんか、ばかみたい、私。


 桂介からの指輪を抱いたまま手紙のことばかり考えている。


 今日は日曜日だけれど桂介と特に約束はしていない。桂介はフットサルの練習の日。いつものみなとみらいのコートにいるはずだ。


 私は大きく深呼吸すると戸締りを始めた。



         *



 走る。


 緑の上を滑らかにしなやかにネコ科動物のような敏捷さで走る。


 桂介は眩しい。全力で生きているって感じがする。なにがあってもこの先には光しかないと思わせてくれる。


 スタンド席に腰かけてフットサルコートを走る桂介を目で追う。


 フットサルとサッカーはコートの広さや人数、ルールや用語などあらゆるものが違うらしい。けれど私から見れば、フットサルは小さなサッカーでしかない。サッカーですらボールに手を触れなければいいのだろう、というくらいの知識しかないので、違うスポーツだと認識できるだけマシだと思う。だって桂介と付き合うまではフットサルってどんなスポーツかなんて考えたことすらなかったんだから。



 アキと別れて二年が過ぎてもぼんやりしていることの多い私をこの場所に連れてきてくれたのはあやめさんだった。


「従弟がフットサルの試合なの。一緒に応援に行ってくれない?」


 スポーツ観戦なんてちっとも興味が湧かなかったけれど、あやめさんがどうにかして私を暖かい陽射しの許に連れ出そうとしてくれているのがわかったから、断りきれなかったというのが正直なところ。

 でも、実際に見てみたらなんだかもうとっても清々しくて、他人が走り回る姿を眺めることがこんなに気分を晴れ晴れとさせることに素直に感動した。

 特にシュートを決めて、チームメイトに向き直った時の笑顔とか、見とれてしまうほど美しかった。人が生きるってこんなにも眩しくて美しいものなんだと、分厚いカーテンが一気に開かれた感じがした。


 この人は周りをも光の中につれていく人だ。そう思ったら目が離せなかった。


 ――それが、鷹野桂介だった。



 ホイッスルが鳴り、一年前の思い出が弾けて消えた。小さな粒子となってキラキラと風に舞う。キラキラの向こうから現在の桂介が光をまとって走ってくる。


「びっくりした。来てくれたんだ」

「連絡しなくてごめんね。急に来たくなって」

「いや、いいよ。すっげー嬉しい」


 歯並びの綺麗な口を大きく開けた桂介の笑顔は、初夏の陽射しまでが霞むほどに爽やかで眩しい。


「なんだよ、桂介!」


 遠くからチームメイトたちが声を飛ばす。


「彼女待たせてたのかぁ?」

「見せびらかしてないで、さっさと行っちゃえよ」

 

 私たちは笑い声と笑顔に見送られてその場を後にする。



 シャワーの後の桂介はミントの香りがする。乾ききっていない髪は無造作に掻き上げた手櫛の跡が残り、初めて見る姿ではないのに鼓動が高まる。

 どうして一緒にいるのだろうと甘い痛みと共になんだか不思議に思う。


 車に乗る時はいつも助手席のドアを開けてくれる。


「閉めるよ」


 一声かけて閉じられた後のわずかな一人の時間に、私は自分がとてもいい女であるかのような気分になる。


「えっと、どこ行く? 美鈴んち?」

「ううん。それより、お出かけがしたいな」

「そっか。じゃ、まず飯にしよう。腹減っちゃって」


 と言った途端に桂介のおなかがグーッと鳴る。


「……な?」


 なぜか得意げに微笑む桂介。


「わかった、わかった」


 私はなんだか楽しくてしかたがなくなる。


「どこがいいかなぁ」


 山下公園を過ぎ、本牧方面に向かいながら桂介が歌うように問う。


「私、行きたいお店があるんだけど」

「よし。じゃあそこにしよう」


 どこのなんのお店なのかも確かめずに即答してくれる。



           *



 私が提案したお店は、鎌倉七里ヶ浜の海を見下ろす高台にあるイタリアンレストラン。赤いパラソルがかわいらしいテラス席からは相模湾が視界いっぱいに広がる。


 クリスピー生地のマルゲリータピッツァを運んできた店員が去ると、桂介が身を乗り出した。


「鎌倉、もう大丈夫なのか?」

「うん。桂介となら来られる気がしたの」

「お、おう。そうか」


 焼きたてのピッツァを頬張り「あつっ、あつっ」と言いながらもぺろりと一切れを食べ終える。


 トンビがすぐ近くを旋回し、テラスの人々が笑い混じりの嬌声をあげる。


「あの、さ。あいつともこの店に来たこと、あんの?」

「あいつ?」

「その……元カレ」


 桂介でも気にするのかと意外に思う。


「ないよ」

「ないの?」

「うん。あやめさんとは一度来たことがあるけど」

「ああ、そうなんだ……。ここ、いいよな。景色も最高だし、料理もうまいし」


 桂介はピッツァの二切れ目に手を伸ばす。



 アキはこういうところには来ない。もっとひっそりとしたところ。佐助稲荷の近くのお蕎麦屋さんとか、銭洗弁天に行く途中の甘味処とか。


 でもあの手紙のアキはちょっと違う。もうそんな池の水面ような静けさはない。もっと原始的ななにか。荒々しさを秘めた由比ヶ浜の海。


 由比ヶ浜の沖には今でこそヨットなどが浮かび、穏やかで美しく陽の光をきらきらと煌めかせているけれど、鎌倉時代には合戦の地となったこともあって、いまだ人骨が埋まっているという。静御前が産み落とした男児もこの浜に遺棄されたとの言い伝えもある。


「しづやしづしづのをだまきくり返し――」


 思わず零れる静御前の唄。慌てて口を閉じても零れた言葉は辺りを漂う。

 桂介が眩しそうに眼を細めて問う。


「おだまき? 誰それ? 俺の知っている人?」

「え。オダ、マキ……? 誰って?」


 意表をつく問いに一気に現代に引き戻される。


 ああ、こういうところ。こういうところが桂介のいいところ。なんていうか、滑らかなの。すっきりさっぱりしている。からりとした五月晴れ。


「……なに笑ってるんだよ」

「あれ、ごめん。笑ってた?」

「で、そのオダさんがどうしたって?」

「ううん、いいの。桂介の知らないヒト」


 執念のような湿っぽくねっとりまとわりつくような想いは桂介に似合わない。



 ピッツァはタバスコをかけ忘れたせいか、なんだかちょっと物足りなかった。



         *



 葉山や逗子の方などをドライブして、大きな夕陽が波打つ水面に長く伸びるころには再び鎌倉に戻ってきていた。

 桂介と過ごす鎌倉はなんだか知らない場所の様で、私の心は凪いでいた。小波すらたたずに――。


 私たちは、稲村ヶ崎の海を眺める公園の柵に乗り出し、言葉もなく一日が終わりを迎えようとするのを感じている。


 ふいに桂介の気配が濃くなる。息遣いを自分のそれのように感じるほどに近づく。まさに触れようとするその瞬間、私は夕陽に目が眩んだかのように装って、つと顔をそむけた。


「……どうして? 鎌倉では、いや?」


 甘く耳元で囁く。桂介のいじわる。


「そうじゃなくて」

「あいつを思い出す?」


 常にはないなぶるような言葉とは裏腹に、声はますます柔らかく深くなり、私は耳元から蕩けそうな痺れを感じてしまう。


「だから違うの」


 違う……違くない……違うんだけど……。


「あいつともここで――」


 今日に限って執拗な桂介を一瞬汚らわしいと感じてしまう。


「するわけないでしょっ! 手にしか触れたことがないのに!」


 つい声を荒げてしまい、慌てて口を噤む。

 けれども勢いよく吐き出された言葉は桂介を貫き、流鏑馬やぶさめの矢のように的の中心にしっかりと刺さっている。


 あいつだなんて。アキを示すにはふさわしくない言葉に思わず声を……。そうじゃない。そういうことではなくて。


「だって……美鈴はその人と三年半も付き合っていたのに……?」

「……」

「……本当に?」


 私は頷く。言葉にするのはなにか違う気がした。

 そう、穢されたくない。……穢す? こんなにも朗らかで清らかな桂介が?


「――ごめん。俺、今日すげーみっともねー」


 桂介が自分の髪に両手の指をつっこんでぐしゃぐしゃと掻き回す。


「なんか焦ってて。不安つーか」


 いつもの桂介の魂が還っている。あの手紙から立ち昇る気配の主とは異なるけれど、これもまた間違いなく清い魂。それは水晶のように澄み、周りのものをありのままに映し出す。


「桂介は悪くない。私が返事をしないからいけないのよね」


 私はいつも間違える。


「いや、あ、いいんだよ、それは。だって気持ちの整理がついたら返事くれるんだろ?」


 承諾の返答を疑っていない。焦りや不安を感じつつも揺るがない自信が見え隠れする。

 思いっきり傷つけたくなった。

 艶やかに煌めき、光を反射する魂。小さな傷などではなく、粉々に打ち砕いたら一層美しく煌めくだろう。

 砕け散ったらもとには戻れない。けれどもどうしても衝動を抑えることができない。


「眩しすぎるのよ」

「へ?」

「桂介はいつだって正しく生きている」

「俺? そんなことないでしょ。今だって、ほら、ねぇ? みっともないとこ見せちゃったし?」


 照れ臭そうにへらへら笑う。そんなふうにして私の心を軽くしようとしないで。


「桂介は真っ直ぐで……一緒にいると私、自分がどんどん醜くなるの」


 違う。こんなことを言いたいんじゃない。こんなこと思っていない。


「なっ? ちょ、ちょっと待てって」

「これ、お返しします」


 指輪を差し出す。

 受け取らないので上着のポケットに突っ込む。


「なに言ってるんだよ」

「光が眩いほどに闇は濃くなるの」


 違うのに、言葉が止まらない。

 眩しくて眩しくて苦しくなる。本当はこんなにも綺麗な心を傷つけたくなんかない。けれど、どう伝えればいいというのだろう。

 桂介に響く言葉を私は持たない。


「だからなんなんだよ。難しく考えるなって」

「難しくなんかないよ。とても簡単なことなの。もっと早くに気付かなくちゃいけなかった」


 気付かなくちゃいけなかった。私は美しいものが欲しいわけじゃない。見晴らしのいい景色ではなく、薄暗い切通しの先や露に濡れる植込みの影にふいに現れるなにか。そんななにかを感じたい。


――あなたの幸せを願っています。だからこそ、忘れてほしいのです。


 アキからの手紙。私の幸せをどうしてあなたが決めるの? 私の幸せがどこにあるかなんてわかるはずもないのに。

 そして、私はわかりやすい幸せを望んでいるわけじゃない。ただ想いが止められないだけ。想いのままに流される快感を味わいたいだけ。たとえその先に涙しかなかったとしても。


「ありがとう。さよなら」


 この言葉を言えてよかった。ちゃんと伝えられてよかった。


 国道134号線の細い歩道を歩き出した私を追ってくる足音はしなかった。







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