五月十三日 鎌倉
山手駅から京浜東北線で大船駅まで下り、そこで横須賀線に乗り換える。
大船駅は伊豆へ向かう踊り子号や成田空港へ向かう成田エクスプレスなどの特急電車も止まる大きな駅だが、京浜東北線と横須賀線のホームは隣り合っているから乗り換えは簡単だ。
横須賀線に乗り込み、ドア付近に立って流れる景色を眺めていると、急に懐かしさに包まれる。不思議とアキの家へ訪れた頃の記憶ではなく、横須賀の実家にいた頃の記憶だ。
両親は五年前に横須賀の家鳴りがひどい家を二束三文で売り払い、父の退職金と併せて伊豆の辺鄙な場所に温泉付きの一戸建てを購入した。
念願の田舎暮らしと舞い上がる両親は、ありがたいことに一人娘が三十五歳にして未婚であることになんの関心もないらしく、忘れた頃に気味の悪いラブラブツーショットをメールしてくるくらいだ。
横須賀は鎌倉とほど近い。なので、子供の頃から鎌倉には土地勘があり、そんなこともあって、アキの家に遊びに行くことに抵抗はなかった。
一方、アキの実家は鎌倉山だそうだ。鎌倉山はそう高くもない丘で、鎌倉の西の外れに位置し、東は極楽寺と接している。自然豊かではあるけれども道路沿いにゆったりとした邸宅が点在する高級住宅地だ。
アキが実家について深く語ることはなかった。私も特に知る必要性を感じなかったから尋ねたこともない。
裕福な家庭で育ったにも関わらず、わざわざごく近いところで一人暮らしをするにはそれなりの理由があるのだろうとだけ、ぼんやり思っていた。
出会った頃、私は二十八だったから、アキは三十一だったはずだ。
実家が裕福だからと言ってその年で仕送りを受けているはずもなく、絵は主に平日の夜や休日に描き、普段はみなとみらいにある美術館で警備員の職についていた。
だから横浜で会うこともなくはなかったけれど、それでもやはり私たちは静かな鎌倉でのんびり過ごすことが多くなった。
ドアのガラスに映る桜貝が陽射しを受け、淡い光を放つ。
大船駅から二駅目で早くも鎌倉駅に到着する。南北に延びるホームからの階段を降りて東西出口に向かう通路に出る。
東口の改札は大きく、こちら側を出れば小町通りや若宮大路を抜けて
一方、西口は構内から眺めても改札口が小さく、東口に比べると人通りも少ない。ただ、少ないとは言っても観光地鎌倉だから有人改札には観光客らしき人々が群がっている。
西口の近くには鎌倉市役所くらいしかないけれど、こちら側は江ノ電への乗り換え口でもある。極楽寺に行くのなら江ノ電に乗り換えなければならない。
私は西口につま先を向け……立ちすくむ。
修学旅行生らしき制服の一団が、きゃあきゃあ言いながら江ノ電への乗り換え改札口を抜けていくのが見える。
古い民家の軒先や海沿いを走る緑色の車体。二両か四両の小さな電車。
鎌倉、和田塚、由比ヶ浜、長谷、極楽寺。乗車時間七分。
幾度この電車に乗ったことだろう。なにも考えずとも自然に乗り換え、極楽寺の小さな駅で降り、線路沿いの坂道を上って行った。
こんなにも鮮やかに目に浮かぶ光景にどうしても近づくことができない。
背筋に冷たい汗が流れる。
酸素が薄い。
胸に真綿を詰め込まれたように浅い息しかできない。
こめかみから一筋の汗が流れ落ちる。
頭の芯が痺れ、ゆらりゆらりと揺さぶられる。
青紫や赤紫の柔らかな色が揺れる。
成就院の紫陽花の時期ももうすぐだろう。
極楽寺の駅から海に向かって坂を下っていくと道沿いの苔むした壁に張り付くように階段が現れる。その階段を何度か折れながら上っていくと成就院の山門とその向こうに本堂がひっそりと建つ。
細い参道の両側は紫陽花で埋め尽くされ、その向こうには相模湾が眼下に広がっている……。
「今年は紫陽花見られないらしいわよ」
ざらざらした声が近づいてくる。
「やだ、どこの紫陽花? 北鎌倉の明月院?」
「違うわよ、極楽寺のほら、あの坂の途中にある」
「ああ、成就院、だっけ」
声はくぐもってざわめきに漂う。
「そうそう、そのなんとか院。紫陽花の植え替えとかで、今年から三年は花が咲かないんだって」
「あらぁ。残念ねぇ」
「え。あなた、見に行く予定だったの?」
「べつに予定はないけど」
「なんだ、だったら関係ないじゃない」
声が目の前を通り過ぎていく――。
「あら。あなた、大丈夫?」
ふいに二の腕をがしりと掴まれる。ゆらゆらとバランスを取っていた揺れが止められて、私はその場にふにゃりと座り込んでしまう。
「あらあら。大変。具合悪いの?」
ああ、放っておいてほしい。
「あなた、ひとり? 誰か一緒じゃないの?」
ひとりよ。ひとりで来ちゃいけないの?
「真っ青な顔して」
腕を掴んでいるのとは別の手が、私の右手をぎゅっと握った。
――いやっ!
とっさに手を振り払う。
紫陽花色の靄が晴れ、目の前に還暦前後と思われる女性ふたりが口をぽかりと開けて佇んでいる。
「あ……すみません。大丈夫です」
私は慌てて頭を下げる。
「あら……そう? じゃあ気を付けてね」
女性ふたりは「なんなのあの子」「心配してあげているのにねぇ」などと不機嫌そうに囁き合いながら江ノ電乗り場へと消えていく。
右手で桜貝のネックレスを握りしめる。そしてその上から左手でそっと覆う。
右手はだめ。唯一アキに触れたところだから。唯一アキが触れたところだから。ここでしかアキの感触を感じられないから。
アキ。あなたに触れた右手の感覚が薄れていくよ――。
アキ。あなたを想った気持ちも薄れていくのかなぁ。それがあなたの望みなの?
アキ。忘れるってそういうこと?
私の問いかけはアキに届くはずもなく、鎌倉の雑踏に紛れて散っていった。
*
立ち止まっていても仕方がない。
私は西口へ向かうのを諦め、鎌倉駅の表側ともいうべき東口へと向かう。
不思議と足取りがしっかりしているのが自分でもわかる。こちら側にだってアキとの思い出がたくさんあるというのに。
改札口を抜けると左手に進み、土産物屋の並ぶ小道、小町通りの入口に立つ。が、制服姿の中学生の多さにうんざりする。
そうか、春は修学旅行の時期だった。駅構内で江ノ電に乗り換えていた集団のことを思い出す。中学生くらいの年齢だと、歴史的な寺社よりもお土産選びに熱が入るのだろう。
小町通りには小さなお店が立ち並び、おまんじゅうやクレープなどの食べ歩きもできるから観光客には大人気だ。
私は並行して通っている車道もある大通り、若宮大路を通ることとする。こちらも人通りは少なくないものの、修学旅行生の姿がないので比較的歩きやすい。
突き当りに朱が映える大鳥居が見える。鶴岡八幡宮だ。
大鳥居をくぐり、左右の源平池と朱色の太鼓橋を横目に広い参道を進む。正面の大石段の先に本宮が山を背負って建っている。
けれども今日は本宮まで上るつもりはない。大石段の下に建つ
実際に静御前が舞ったのは若宮廻廊らしいけれど、その跡に建てられたのがこの舞殿。
地元出身者なら必ず小学校の社会科見学で一通りの知識を詰め込まれる。その知識が数十年後に思い出されることになるなんてあの頃は思いもしなかったけれど。
舞殿の目の前まで来ると、突如神楽演奏が始まった。
神前結婚式かあ――。
わらわらと観光客が集まってくる。人々の目線よりも高い舞台に柱と屋根だけの舞殿で執り行われる挙式。
外国人観光客が写真を撮り始め、後方では観光ガイドが小声で説明している声が聞こえる。
神職によるお祓いに続き、祝詞奏上。そして巫女による神楽舞の奉仕。
巫女装束なので白い直垂・水干に立烏帽子の白拍子とは違うはずなのに、見たこともない静御前の舞と重なって見える。
その連想は私だけではないらしく、観光ガイドが例の静御前の舞を紹介している。
吉野山峰の白雪踏みわけて
入りにし人のあとぞ恋しき
しづやしづしづのをだまきくり返し
昔を今になすよしもがな
兄頼朝の追っ手から逃れ落ち延びていく義経の後ろ姿を今も目に焼き付けたまま、昔を今に手繰り寄せたいと舞い唄う白拍子。
アキからの手紙には、そんな彼女ですら北条政子に説得されて京へ帰ったと書かれていた。
だから私にも過去を見るなという。
私は思う。
静御前は義経を過去としたのではないと。どこにいてもなにをしていても義経と共にあると思えるまでになったから、新たな道へと向かったのだろう。
過去を捨てたわけではない。形は違えども手繰り寄せることができたのだ。
バッグの中でスマホが唸っている。見れば桂介からの着信。
私は周りに小さく目礼を繰り返しながら人の輪を抜けつつ、通話ボタンをタップした。
「もしもし」
「ああ、俺」
「うん。どうしたの?」
舞殿では神酒拝戴へと進み、雅楽の曲目が変わった。
「……なに、この音? どこにいるの?」
「え……あ、ちょっと。散歩」
どうして隠そうとしているのだろう。なにも疾しいことなどないのに。
……ないの? ほんとうに?
「どうしたの? 散歩なんて珍しいね」
「うん。まあ。それより、なぁに?」
言ってしまってから、冷たかったかなと気が咎める。ただでさえ、プロポーズの返事を保留にしているのに。
けれども桂介は気にした素振りも見せない。
「ああ、そうそう。今夜そっちに行ってもいい? 定時で上がれそうなんだ」
とっさに昨日届いた手紙の存在が心に浮かんだ。
桂介の目には触れさせられない。きっと余計な心配をさせてしまう。でも別にどうってことはない。あんなに薄っぺらい物、どこにだって隠せる。
けど。
「あー。今日はちょっと……」
「あれ? 都合悪かった? あやめちゃんのお店、もう閉店したんだよね?」
「うん。そうなんだけど、ちょっと親に電話しようかと思って」
「え。あ。そ、そうか! うん、いいよ。じゃあまた今度で」
「うん。ごめんね」
うそ、ついちゃった。初めて。
しかもとっさに思いついた嘘とはいえ、親に電話とか思わせぶりなこと言って。きっと桂介は結婚について親に相談するのだと思っただろう。もちろん親に電話なんかしない。自分で決めることだと思うから。
ただ、なんとなくいやだった。あの手紙と桂介が同じ部屋にいることが。
だから桂介を追い出してしまった。手紙と一緒にいるために。
私、おかしい。どうしちゃったんだろう。手紙を送る前は思い出の整理のつもりだったのに。
アキが返事なんかくれるからいけないんだ。
よりによって、人を拒んでいながらもけして遠く離れられずにいる薄汚れた捨て犬みたいになって私の許に戻ってくるから。ぎゅっと抱き締めたくなっちゃうじゃない。
以前のアキもどこか世捨て人みたいな感じがしていたけど、本人はその状態で満足している様子だった。それが心地よくて、そばにいると私も心穏やかでいられて、この世のすべてに感謝したいようなゆったりとした気分でいられた。
それがどうだろう。以前と変わらずに澄んだ魂を抱えながら、誰も触れてくれるなと鎧を着こんでいる。
かつて私が包まれたように、今度は私が包み込んであげられたら。戦になど行かなくてもいいと、そっと鎧を脱がせてあげられたら。そしてアキのすべてに触れられたら。私のすべてでその澄んだ魂を包み込んで――。
バサバサバサッ。
白い鳩が一斉に飛び立ち、舞殿を大きく旋回してから大石段の上の本宮の屋根を越えていく。
もう。やだ、私ったら。桂介と話した直後なのにこんなこと考えて。
私は想いを振り落すように大股で歩き出す。
日はまだ高い。妙な想いを抱えたまま帰るよりはもう少し気分を変えたほうがいい。
そして私は若宮大路を真っ直ぐと海に向かって歩き始めた。
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