二通目の手紙

五月十一日 横浜

「ふ~ん。それで?」


 あやめさんは椅子にそっくり返ったままコーヒーカップに手を伸ばす。


 山手イタリア山庭園に建つ洋館に併設されたガーデンカフェ。数ある山手西洋館の中でも山手よりは石川町に近い。

 木立の向こうにみなとみらいのビル群が真っ青な空にくっきりと浮き上がって見えている。


 そよ風が吹くたびに掠めていく甘い香りは庭園の薔薇か、それともテーブルの上の紅茶の香りか。


 私はあやめさんの問いへの返答をわずかでも遅らせようと、紅茶に口をつける。薄いティーカップの淵がくちびるにしっとりと馴染む。

 ニナスのマリーアントワネットからは甘く爽やかな香りが立ち昇る。セイロンティーにりんごとバラの花びらで香り付けした紅茶。


「ねぇ、それでどうしたのよ? 美鈴ちゃんってば」


 あかねさんは私に紅茶を飲む隙も与えないつもりらしい。ほんのちょっぴり舐めるように紅茶の香りを味わい、カチャリとカップをソーサーにもどす。


「……返事を待ってもらっています」


「はぁ? あんた、なにやってんの?」


「すみません……」


 私は小さくなる。身体の大きさは変えられないので、声だけが小さくなる。


「桂介からなんの連絡もないから、もしかして、とは思っていたけど」


 桂介はあやめさんの従弟いとこだ。アキのことを引きずっていた私を桂介と出会わせてくれたのもあやめさんだ。


「私がオランダに行く前にあんたと桂介の結婚式に参列したかったのに」


「そんなの無理ですよ。あやめさんがオランダに行くのって来月でしょう? さすがにそんなにすぐ結婚式は挙げられませんって」


「うるさいわね。気持ちよ、気持ち。なに開き直ってるのよ」


「すみません」


 あやめさんは旦那さんの転勤でオランダ行きが決まっている。だから雑貨屋アイリスも先月で閉店した。そして私は晴れて無職の身。今はハローワークに通いながら失業保険受給中。


 こんなふうに時間にだけは余裕があるから過去のことなど思い出してしまうのかもしれない。


「だいたいね、桂介と結婚しちゃえば職探しなんてしなくてもいいのよ? 職を奪った私が言うのもなんだけど」


「そういうつもりで結婚するのもなんだか……」


「……だから断ったの?」


「断ったわけでは……。ただ、考えさせてって」


「即答しないわけはなに?」


「……」


 ボーッっと太く低い汽笛が響く。横浜港から聞こえる汽笛。高台であるこの場所からも海が見えている。


 同じ海辺の街でも鎌倉とは大きく異なる。鎌倉は砂浜と山に囲まれた街だ。潮の香りと緑の香りが混じり合い、観光地でありながら人々の生活も感じられる場所。

 温かいというのとも違う、長閑で伸びやかなゆったりとした時の流れ。ともすれば止まってしまいそうにゆるゆると流れる時。


 ずっとあのまま――何度そう思ったことか。そしてそれは叶えられると思っていた。


「美鈴ちゃん。あんた、まさか、まだ――」


 あやめさんの目元がきゅっとすぼめられる。眩しいからではないだろう。


 私は返事に困って笑みを浮かべてみる。が、うまくいかず、あやめさんの姿が水中に沈んでいく。かろうじて溢れ出すことだけは免れた涙が目頭の奥に吸い込まれていく。


 あやめさんはわざとらしいくらいに大きな溜息をついた。


「あたしはね、別に美鈴ちゃんが桂介と結婚するべきだって言ってるんじゃないの。あの男のことは忘れなさいって言ってるのよ。あんただって、そうするべきだってわかっているんでしょ?」


「ええ。わかっています」


 わかっている。よくわかってはいる――。


 ゆっくり頷いた拍子に紅茶に水紋が広がった。



     *



 あやめさんと別れ、山手の尾根伝いに南へ向かう。


 西洋館や教会、私立学校などが立ち並ぶ道を木漏れ日を踏みながら歩いていく。


 山手駅へ降りる急な階段が見えてきた辺りで細い脇道に入る。

 車が通れないどころか、人とすれ違うのも容易ではないほどの細い道。山手の住宅地はこんな道ばかりだ。車が通れるのは一部の高級住宅地くらいしかない。


 山手駅に近づくほどに町はモザイクのようになってくる。細くうねった道沿いの斜面に張り付くようにごちゃごちゃと一戸建てやアパートが立ち並ぶ。


 この辺りは車が入れないため、引っ越しの際は超過料金が科せられる。しかも私の部屋はアパートの一階部分なのに、路地からそこに辿り着くまでに二十段もの階段があるから、そこでもまた追加料金がかかる。

 単身引っ越しの割に高くついた教訓から、私はもう十年近く同じアパートに住み続けている。


 アパートと言っても白壁にオレンジ色の瓦屋根のかわいらしい建物で、とても気に入っている。だから引っ越し代金が高いことだけが住み続けている理由ではないのだけれど。


 アパート前の階段を上り切ると、建物と同じ白壁にオレンジ瓦のアーチがあり、そこをくぐったところに住人用のメールボックスが並んでいる。ダイヤルを回し、詰め込まれたチラシ類を掻き出す。


 よくもまあこんな車も入れないような路地の奥までポスティングに来るものだと感心してしまう。

 まったく単身者用1DKのアパートにどんな人種が住んでいると思っているのだろう。男性向けとしか思えないようなチラシがわんさか入っている。うんざりして備え付けのゴミ箱にまとめて放り込む。

 と、ぴょこんと真っ白な封筒の角が飛び出ているのが目に入った。


 え? 手紙?


 ダイレクトメールならもっと目立つ封筒だろう。だからといってプライベートな連絡ならメールでしてくるはずだ。もっとも友人たちはみな結婚し子育てに忙しく、滅多なことではメールすら寄越さない。ましてや手紙なんて――。


「……まさか」


 唯一の可能性に思い至り、慌ててゴミ箱から救出する。もしそうだとしたら、一瞬たりともいかがわしいチラシなどと一緒にしておくわけにはいかない。


 ごくありふれた一般的な白い定型の長封筒だ。でもそんなことは問題ではない。



 差出人――水城彰大。



「アキ……」


 想いが私という殻を突き破って弾けたのかと思った。一瞬にして辺り一面にアキへの想いが広がり、傾いた陽射しさえいつかアキと見たはずの色に思えた。


 まさか返事が来るとは思わなかった。てっきり実家に帰っているのだとばかり思っていたから。私の手紙は宛先不明で帰ってくるのだと。


 それでいいと思った。それで諦められると思った。


 まさかまだ鎌倉の――極楽寺のあの古くて小さな家に住んでいたなんて。



 返事が来た。返事が来た。アキから返事が来た。



 バッグから部屋の鍵を取り出すのももどかしく、がちゃがちゃと騒がしい音をたてながら感情を開放できる空間へと転がり込む。


 封筒の口を爪でカリカリと引っ掻きながらもペーパーナイフを探そうとしたが、送る際に慌てて封をしたのかペーパーナイフを使うまでもなく、呆気ないほど簡単に糊がはがれた。


 手紙の方でも早く読まれたがっている。


 私はこの三年間を走り抜けてきたかのように息が苦しくなり、いつしか口で忙しなく息をしていた。


 指先がじんじんと痺れる。目にはそれとはわからぬほどに細かく震える指。


 そっと便箋を抜き出すとアルコールのような匂いを嗅いだ気がした。



 鼻腔にアキの家の匂いが甦る。


 アキは一番奥の部屋をアトリエにしていて、いつだって灯油かシンナーのような匂いがしていた。

 初めの頃はそれをくさいと言えずに我慢して、頭痛に悩まされたものだった。頭痛を耐えて笑顔が減った私を見て、アキは自分が退屈な人間なのではないかと悩んだという。

 そんなことならもっと早くに言ってしまえばよかったと笑いあったのはもう遠い昔のこと。



 あれは、梅雨も間近の湿った風が重たい日のことだった。


 気温と湿度が上がったせいか、その薬品のような匂いは濃度を上げ、どろりとした触手で私に絡み付いていた。


 さすがに耐えられず、それでも控えめに「なにか匂いませんか?」と聞いたものの、アキは「いいえ」と言ったきり。


 慣れとは恐ろしいものだと思う。あんな強烈な匂いを感じなくなるとは。この匂いの元が灯油であれ、シンナーであれ、こんなに古い木造家屋に充満していては火事にならないとも限らない。

 私は思い切って「臭いですよ」と言った。その時のアキの顔と言ったら。心底驚いて腕だの来ている服の裾だのを嗅ぎまわっていた。


 結局、あれはアトリエから漂う画用液というなにやら油絵具と混ぜて使う液体の匂いだった。


 それからというもの、私が訪れる日にはアキはアトリエの襖を閉じるようになった。



 手元の封筒から感じたその匂いは既に失われている。


 すると先程までの焦燥感はおさまり、とくんとくんと響く鼓動を感じながらようやくぱらりと便箋を開くことができた。


 封筒もシンプルなものだが、便箋もレポート用紙のようで素っ気ない。けれどもそれが却って急いで返信をくれたようで喉の奥が大きく脈打つ。


 これがアキの書く字……。


 思えば三年半も付き合っていて、文字を書くところをみたことがない。あの家に筆記用具があったのかどうかも怪しい。


 アキの右手は絵を描くためだけのもののような気がしてしまう。食事の時などはお箸を持っていたのだから、本当は絵のためだけのはずはないのだけれど、どうしてもアキの右手は特別に思えてしまう。


 あの手に一度でいいから触れてみたかった。初めて見たあの淡い緑の庭の絵を描いた右手に触れてみたかった。


 私が触れたことがあるのは左手だけ。アキの右手どころか髪も頬もましてや唇など触れたことはなかった。


 アキも私の右手のほかは触れなかった。三年半の間に一度も。



 ――ああ。一度だけ。ただ一度だけアキの手が私の頬に触れたことがある。ただそれだけ。



 私は右頬に手をあてる。……違う。こんなのじゃない。アキの手と感触が違うのは当たり前なのに。アキの手はひんやりと冷たく、私の右手と吸い付くようだった。


 ――美鈴の手は柔らかくて温かいなぁ。


 そう言ってむにむにと握るのだった。今頃の時期はあの濡れ縁でこんもりと咲いたツツジを眺めながらむにむにと握るのだった。土は湿り気を帯び、植物の吐息まで感じられそうな庭で――。


 手紙は柳のようにしなやかなアキの印象とは異なっていた。

 文章こそ丁寧だが、どこか無気力で投げやりな、やさぐれた感じを受ける。そう、まるで反抗期の少年か、手負いの獣のような。繊細で傷つきやすい正体を隠すように牙を剥き出し、必死に威嚇する姿が映し出される。


 私の知っているアキとは違う。


 けれどもあんな別れ方をした後に、アキがどのような月日を送ってきたのか、私は知らない。あんなことの後ならば、この手紙に浮かび上がる姿になっていても不思議はない。


 だって、精一杯強がっている姿の中にある魂は間違いなく清廉な画家そのものだ。

 あの庭のポンプで汲み上げた冷たい井戸水のように澄んで清らかな凛とした魂。


 手紙では、私とのことはすっかり過去のこととなり、思い出にすらなりえずに、私からの手紙によってようやく記憶の底から汲み上げたかのような表現をしている。


 今まで一度なりとも思い出さなかったかのように。


 そして、忘れろと。前へ進めと。


 静御前でさえ義経への想いを過去のものとし京へ帰った伝承を添えている。

 アキはいつから歴史になど興味を持つようになったのだろう。私といる時にそんな話はしたことがないのに。


 私の知らないアキがいる。もう私と一緒にいたアキではない。私が変えてしまったんだ。忘れることが互いの幸せだと綴るアキの気持ちは本心なのだと思う。


 今更アキとやりなおせるとは思っていない。桂介のプロポーズだって受けるつもりでいる。ただ思い出の整理をしたいだけ。きちんと蓋をして鍵を締めて、そっとしまっておきたい。その前に思い出とお別れを――。



 ライティングデスクの上の小引き出しに手を伸ばす。


 二段目の引き出しを開け、そっと摘まみ上げる。しゃらりとチェーンが伸びる。桜貝をハート形に重ね、透明樹脂で固めたネックレス。


 やっぱりかわいい。素直にそう思う。


 鏡の前でつけてみる。三年ぶりのネックレスはまだ私に似合うだろうか。


「美鈴は肌が白いから、桜貝の淡く柔らかい色がよく似合うね」


 そう言って鏡越しに目を合わせ、優しく微笑んでくれたアキ。



 ……鎌倉に行こう。


 そう思った。



 アキとの別れ以来、鎌倉には訪れていない。どうしても足が向かないのだ。


 辛い? 苦しい? 悲しい? どれもがそうであるようで、どれもが違う気がする。


 行ってみよう。


 アキに会いに行くわけではない。あの頃の私に会いに行ってみよう。

 あの山と海に囲まれた鎌倉に散らばっている私の魂を拾い集めてこよう。



 届いたばかりの手紙を胸に抱いてそう思った。





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