五月八日 横浜
ライティングデスクに向かい、机上に白いレースのハンカチと桂介からの指輪を並べて置く。またするはずのない潮の香りが立ち昇る。アキの住む鎌倉の風の香り。
前へ進まなくてはならない。そのためにはアキのことはきちんと思い出にしなくてはならない。けじめ。そんな言葉が心をよぎる。
とうに振り返る気はない。けれどもアキのことを想うと今もあの頃と変わらない温もりが甦ってくる。ひとりでいるのならそれもいいのかもしれない。だけど私は桂介と生きていこうと思っている。思っているのに、アキのことを今でも引きずっている。
きちんと心の中のアキにさよならしなくてはならない。
いっそ残酷な現実を突き付けてほしい。もう私の言葉や心はアキに届かないのだと。
私は引き出しから蔦の透かしが入った便箋と封筒を取り出した。ペンスタンドから万年筆を選ぶ。
目の前のハンカチと指輪をもう一度眺め、ひとつ深呼吸をする。
万年筆のペン先を便箋につける。横に引くと紙の繊維のわずかな凹凸が指先に伝わってくる。そっとペン先を離す。
ブルーブラックのインクは、出会ったあの日の夕闇のような色をしている。
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