七年前 晩秋 横浜
初めてアキに会ったのが晩秋の夕暮れ時だった。
元町のアイリスという雑貨屋で働いていた私は、たしか店長に頼まれて関内駅近くの銀行まで両替に行った帰りだったような気がする。
お店の自転車は雑貨屋の所有物とは思えないほどしゃれっ気のない、ありふれたいわゆるママチャリで、ブレーキを掛けるたびにヒステリー気質の猿のようにキーキーと騒がしい声をあげるのだった。
だいたいにおいて店長は大雑把だ。自分だって同じ自転車で用事に出かけたりするのに、私が指摘するまで自転車に棲みついた猿に気づいていなかった。
そもそも店名からして雑だと思う。店長の名前は保坂あやめという。「あやめ」だから「アイリス」なのだそうだ。なんの捻りもない。そのまま「あやめ」という純和風の店名にならなかっただけマシというものかもしれない。
そんなあやめさんのことだから、お店ではしょっちゅう釣銭切れが発生する。でもまあ、開店から閉店まで一緒にいる私も同罪なのかもしれないのだけれど。
そんなわけで、めっきり早くなった日暮れに急かされるように、関内駅から海に向かって自転車を走らせていた。
JRの線路沿いの大通りで石川町駅に向かっても元町に行けるのだが、アイリスは細長い元町商店街の海側に位置するため、私はいつも海岸沿いのバス通りを通ることにしていた。
関内駅から海岸方面へ向かうには、横浜スタジアムから神奈川県庁前を走る日本大通りが車道も歩道も広くていいのだが、この時期だけはいただけない。
国登録有形文化財である通称キングの塔、神奈川県庁本庁舎をバックに日本大通りの銀杏並木が見事な金色の風景を描いている。
もちろん見た目は美しい。テレビや雑誌などでもよくお目にかかる。なにしろ、テレビや雑誌は匂いまでは再現していないのだから。あのたとえようのない悪臭の元、
だからこの時期だけは日本大通りではなく、脇道も人通りも多い馬車道を走り抜けることにしている。
辺りは夕闇が迫り、馬車道の両側に立ち並ぶガス灯がノスタルジックな明かりを灯す。煉瓦の道はガタガタと自転車のタイヤを弾ませる。
昭和初期から残る歴史的建造物たちは陽が沈むと一層存在感を際立たせる。前方左手に県立歴史博物館がライトアップされ、青銅のドームが群青色の空に浮かび上がっている。
ドームを見上げたその視線を下ろすと、道を渡る人影が目に入った。ひょろりとしたその姿は、博物館の斜向かいにある四階建てオフィスビルに入って行く。
この建物も昭和初期のもので、一見シンプルではあるものの入口と最上部の壁面にアール・デコ独特の装飾が施されている。
そこに吸い込まれるように入って行った姿は、まるで今この季節、この時間が人の姿を借りてかりそめの散策を楽しんでいるかのようだと感じた。
――そう。だから思わずビルの脇に自転車を止めて、私もまたそのビルの黒い扉を押してしまったのだった。
今思い返してもなんとなくとしか言いようがない。その時点では特に惹かれていたという自覚もない。にもかかわらず仕事中の外出で寄り道などしたことがない私がふらふらと吸い寄せられたのは今もって謎でしかない。
もし名付けるならば、私はそれを運命と呼ぶだろう。
ビルの黒い扉を開けると、小さなエントランスになっており、その先に黒く幅の広い木枠のガラス戸があった。初めて足を踏み入れる建物なのに、私は何の躊躇いもなくそのガラス戸も開けていく。
その先には上下に階段が伸びている。どうやら地下があるらしい。迷わず階段を降りる。
階段を降り切ると目の前に一枚のドアがあるだけだった。わずかな床スペースにイーゼルとキャンバスのウェルカムボードが立てかけてある。
どうやらアーティスト集団のグループ展のようだった。
ドアにそっと近づいて耳を澄ましてみても物音ひとつ聞こえない。
私はドアノブに手をかけ、運命のドアを開けた――。
――ガツンッ!
……ガツン? ドアはまだ十センチほどしか開いていない。倉庫ならともかく、ギャラリーなのだから物がぶつかっているということはないだろう。建て付けが悪いに違いない。更にグイッと押す。
「ま、待てっ!」
再びのガツンという音と共に今度は声が聞こえた。私は慌てて手を離す。
「今、ドアノブがぐらついていたから見てみようと――」
声と共にドアが室内側へと開かれる。目の前には先ほど見かけた人……のはずだが、ガス灯の許で見かけた時のような人らしからぬ佇まいは微塵もなく、ただのひょろりと背の高い男性がいるだけだった。
「あ。すみません。てっきり仲間が戻ってきたのかと思って。この時間の担当の者がなぜかいなくなっていて」
伏せ目がちに静かな声で必死に言い訳をしている。けれども悪いのはドアを無理やり開けようとした私の方だ。
「こちらこそすみません。痛かったですよね?」
「いえ。大丈夫です。ほら」
屈んでいたから額にドアが当ったのだろう、彼は長い前髪を掻き上げて赤くなった額を見せてくれた。
「大変っ! 赤いですよ!」
「あー、そうですか? きっとすぐに消えますよ」
彼はのんびりと答える。
打ち身の赤さではない。血が出ているではないか。私はハンカチを取り出し、彼の額に当てた。彼も身を引くでもなく、されるがままになっている。
血を拭き取って……あれ? 白いレースのハンカチは白いままだった。途端に、馴れ馴れしく額にハンカチを当てたことが恥ずかしくなってきた。
「私ったら。すみません。あの……お怪我ではなかったようです」
彼は額をごしごしと撫でながら「ああ」と笑った。
「きっと絵具ですね。油絵具。もうあちこちに着いちゃって落とすのが面倒で」
手のひらをこちらに向けて広げて見せてくれる。指先があまり綺麗とは言えない色に染まっている。
「ああ。絵描きさんだからなんですね」
と口では納得したようなことを言ったものの、やはりどういう状況なら額に絵具がつくのかが想像できない。しかも前髪で隠れているのになぜ髪ではなく額につく? 芸術家というのは凡人の想像を超えた描き方をするのだろうか。
「どうぞ。見ていって下さい」
彼は一瞬で見渡せてしまうくらいの小さいギャラリーを長い腕を広げて示した。
「え?」
「見にいらしてくれたんでしょう?」
「え、あ、はい」
まさかあなたを追って来ましたなんてことが言えるわけがない。特に絵に興味があるわけではないが、ここで見ていかないのも不自然だろう。
私はゆっくりと壁にかかる絵画たちを眺めていった。
並ぶ作品は実に個性的だった。
高校では芸術選択が書道だったから、私が絵を描いたのは中学校が最後だ。クロッキーや水彩画しか知らない私にとって、このグループ展の作品たちを眺めたこの時が、絵画というものがどんなに自由度の高いものなのか初めて知った瞬間だった。そして芸術というのは理解不能だということも。
なにを表現しているのかまったくわからない。人物画、静物画、風景画とこれくらいしか判別できないのに、そんな絵は一枚もなかった。赤と黒の絵具が不気味に渦巻いていたり、やけにチカチカするカラフルな点がちりばめられていたり。
淡いタッチの絵の前で立ち止まる。霧の向こうに浮かぶ蜃気楼のようにどこまでも儚げで美しい。緑を基調としたその絵を私は近づいたり離れたりを繰り返しながら細部まで眺めた。
油絵は凹凸が出ていて水彩画よりも筆の動きが伝わってくる。この絵の表面を波打つ線はどれも柔らかく優しげに感じられた。触れればふわふわの感触があるのではないかと思えてくる。
「その絵、気に入りました?」
背後からの声にハッと我に返る。知らず知らずのうちに作品に触れていた。
「ごめんなさい。私……」
いくら絵画に疎い私でも、作品に触れてはならないことくらいは知っている。
「気にしないで下さい。そんなに気に入ってもらえるなら、作者として本望です」
「え? じゃあ、この作品って……」
「はい。僕のです」
作品プレートには『水城 彰大』とある。
「みずき……さん?」
「はい。みずき あきひろ といいます」
みずき、あきひろ。その名前を噛みしめていると、彼は突然こう言った。
「この絵の場所を見てみたくはないですか?」
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