一通目の手紙

五月八日 横浜

 細く開いた引き出しの隙間から、かすかに潮の香りが立ち昇る。それは永遠に甦らせまいと誓ったはずの記憶の欠片かけら――。



         *



 小ぶりのライティングデスクの隅に遺跡のように静かに眠る卓上の木製小引き出し。三段縦に重なったレターケースは、鍵などないのに封印されたまま三年の月日を数える。カタンと軽い音をたてて最上段の引き出しが大きく開かれる。自分の手で開けておきながら、どこか他人ひとの所作を見守っているような錯覚に陥る。


 引き出しの中には畳まれた白いレースのハンカチが一枚。ただそれだけ。


 そっと手に取り、口づけをするように顔を近づけると、湿気を含んだ木の匂いがした。三年もほったらかしにしていたのだから、引き出しの匂いが移るのも道理だ。先程感じた潮の香りなどするわけもない。そのことに淋しさとも安堵ともつかない想いが胸の奥で渦巻き、涼やかな痛みとなって全身を駆け巡る。


 それでも確かに感じたはずの潮の香りを求めて再びハンカチを顔に近づけようとすると、ぽたりと一滴の雫が吸い込まれていった。ぽたり、ぽたり。一度落ちた雫は絶え間なく落ち続け、ハンカチを濡らしていく。


「アキ――」


 思わず口をつく懐かしい名前。かつての恋人。


「……アキ」


 三年ぶりに呼ぶ名前。もう二度と口にすることがないと思っていたのに。想い出の蓋が開かれたらもう止まらない。未練がましいと自らを嫌悪しながらも、とめどなくアキが溢れてくる。


「アキ……アキ……」


 名前を呼べば答えてくれそうな気がする。あの頃のように。


 ――どうしたんだ、美鈴?


 ぴたりと涙が止まる。ああ、これが三年という日々――。

 彼の声が滲んで響く。忘れたわけではない。忘れられるはずがない。けれども耳の奥に残るアキの声はアキらしさを失いつつある。


 わかっている。もうアキが私の名を呼ぶことはない。アキが私を思い出すこともない。彼とは完全に終わったのだから。


 息苦しい焦りを覚えつつ、今この時まで思い出すことを避けてきたアキの顔を思い浮かべようとするが、焦点の定まらないままアキの姿が溶けていく。


 薄れるはずのない記憶が風化していくのを感じずにはいられない。この引き出しから潮の香りが消えてしまうように。



 忘れるはずだった。忘れられたはずだった。



 ハンカチをそっと机の上に置くと、玄関に投げ捨てたバッグを取りに行く。探すまでもなく、その小箱は圧倒的な存在感で私に取り上げられる瞬間を待っていた。


 丁寧にというよりは恐る恐る蓋を開ける。中には一粒のダイヤモンドが清楚に光るリング。


 指輪を渡しながらのプロポーズなんて、映画かドラマの世界だけかと思っていた。一度も行ったことがないような高級レストランを予約したと聞いた時から、予感がなかったと言えば嘘になる。けれどもまさかこんな絵にかいたようなプロポーズを受けるとは思いもしなかった。


 嬉しくなかったと言えば、これまた嘘になる。桂介けいすけのことは本当に大好きだし、結婚そのものにも憧れはある。子供だってほしい。三十五歳という自分の年齢を考えれば、このプロポーズを受けない理由などひとつもない。――ないはずだった。なのに。


「……考えさせて」


 そう答えた私の言葉に桂介は言葉を失うほど驚いていたけれど、私だって驚いた。まさか自分の口からそんな言葉が飛び出すなんて。


「――元カレが忘れられないのか?」


 桂介に問われて初めてアキを思い出した。桂介と付き合いだしてからの一年は本当にアキのことを思い出さなかったのだ。なのに、忘れられないのかと問われた途端、ああそうなのだと妙に納得してしまった。一年もの間、新しい彼のことしか考えていなかったくせに、実はずっと元カレに未練があったのだと思ってしまった。


「しかたないな。いいよ、ゆっくり考えて」


 桂介は気を悪くした風でもなく、初夏の風のような爽やかさで笑顔を見せた。でも本当は傷ついていたはずだ。ずっと前から誘われていたフットサルの試合にも応援に来なくていいと言われたのは、きっと私を気遣ってのことではない。仲間に紹介したいからと言っていたのは、彼女としてではなく婚約者として紹介しようとしていたのだろう。だから試合前日の夜にプロポーズをしたのに違いない。


 私の返事のせいで桂介が明日の試合で調子が出なかったらどうしようと不安になるのは自信過剰だろうか。たぶんいらぬ心配なのだろう。桂介に限ってそんなことはない。とても強い心を持っている。私より二歳年下なのに、ちっとも頼りなさを感じない。いつだって私が寄りかかってばかりいる。



 鷹野たかの桂介けいすけは初夏をまとっている。

 眩しくて、生き生きとしていて、暖かい。だから私は彼の許で安心して猫のように微睡んでいられる。とても楽。とても幸せ。


 一方、アキは――水城みずき彰大あきひろは晩秋の人だった。

 他人とは礼を欠かない程度の付き合いしかせず、私より三歳年上であるだけなのにやけに老成した雰囲気があった。落ち着きがあると言えば聞こえがいいが、彼が笑っている時ですら見ている方はなぜか夕暮れを思わるせつなさを伴った。


 声や姿の記憶は薄らいでゆくのに、あの頃の想いだけは鮮やかにこの胸によみがえる。きっと薄れることなどないのだろう。色褪せない一枚の絵のように。

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