最終選考 受賞は遠き魔導の果てに……。 ②

「神海! 何故、止めた!」


 編集長を呼び捨てにし、鳴子先輩はドレスを揺らして振り返る。


 体勢を整えたフルカスは斬撃を振り下ろす。

 ザガンは身を翻し、十メートルほど離れて距離を取った。


 先輩は忌々しげに神海を睨み付けている。


 自分が使役した鬼に手で差配した神海律子は、ゆっくりと腕を降ろした。大きなサングラスのせいで表情は相変わらずわかりづらいが、若干青白く見えた。


「落ち着いて聞いてください」


 と努めて冷静に神海は言った。だが、その言葉は少し震えていた。


「残念ですが、その方は日野霧音という人物ではない。まして水無月白羽という人物が、日野霧音という偽名あるいは本名を名乗ったものではない。……このソロモン出版編集長神海律子が保証します。その方は間違いなく水無月白羽で間違いない」

「まさか!」


 神海の告白とともに、すべての視線が日野霧音あるいは水無月白羽に注がれた。

 メイド姿の女性は、鼻で笑うと。


「あは。ばれちゃった、ウフ」


 と普段、絶対水無月白羽がやらないであろう――こびた笑顔を浮かべた。


「神海編集長ぉー。ちょっと、は・や・いー。もうちょっとドラスチック場面でぇ、種明かししたかったのにぃ。こっちの構成と演出を無視しないでくださるぅ」

「ちょっと待て! じゃあ、その声は!」

「ああ」


 水無月白羽の姿で、今度は悪戯っぽい笑顔を浮かべる。

 おもむろに口の中に突っ込むと、中から小さなスピーカーを取りだした。


『移・せ・声・の・術ぅ。……もしくはコナン的なあれですわ』


 唾液を大量に吐き出しながら、スピーカーと近距離無線通信ブルートゥースで繋がった携帯電話をこちらに向ける。


「またお前! 無関係の人に、魔術文字を刻んだのか!」

『いえいえ。今回はぁ、そんな非ぃ人道ぉ的な事はしてないわぁ。だって、ほら! これが彼女の王錫書だから』


 唾液で濡れた手で、今度は水無月が着ている黒のワンピースの袖を引っ張った。


 一体何をしているのか、とはじめは思った。が、闇夜の中――よくよく目を凝らしてみると、そのドレスが無数の文字で埋め尽くされている事がわかった。


『円環の最新作。ドレス型の王錫書ですわぁ。身体に刻むよりも、ずっと被験者の負担を軽く出来るし、何より簡単、スピーディ! どう! 今ならお安くして、2着着けちゃうわよぉ。……いやん、霧音は商売上手すぎぃ。自分の商才が怖いわぁ』


 そして最後に、水無月の顔は優しげに微笑んだ。


『だ・か・らぁ。……傷付けちゃ、ダメよ。だって、彼女――あの魔術界三財閥の一人メイザース枢機卿のお気に入りなんでしょ。あの方を怒らせたら、さぞかし怖いのでしょうねぇ』

「神海!」


 鳴子先輩は再び怒鳴った。

 編集長は首を振った。


 俺も神海には賛成だ。メイザースという人間がどれほど強大な力を持っているかは知らない。だが、ここで水無月の止めたとしても、何の解決にもならない。敵は携帯を通した向こう側にいるのだから。


 むしろ俺達は水無月さんを人質に取られているのも同じなのだ。


『さ。行きましょ。フルカスちゃん』


 日野の声が促すと、水無月はエプロンを翻し、その場を去ろうとする。

 フルカスもまた、それに従った。

 その瞳は、売られていく子牛のように――悲しげで――無惨だった。


 くそぉ!


 俺は――俺は――――目をそらすしかなかった。


 あれほど恋いこがれたフルカスが連れ去られていく。それを俺はただ見ていることしか出来ない。

 悔しい。

 とてもつもなく。

 身が裂けるほど。

 

 許されるなら、この場で朽ち果てたい。


 涙は堪えた。

 けれど噛んだ奥歯から血の味が滲んできた。

 情けないことに、それが今できる最大限の抵抗だった。


 具足を鳴らす音が遠ざかっていく。それすら聞きたくなくて、俺は耳を塞ごうとした。


「だめ!」


 いきなり声が上がり、俺は手を止めた。


 俺でもなければ、先輩でもない。日野、水無月、神海、ましてレフリー館川でもない。


 まるで子供のような可愛い声に気づき、ふと顔を上げた。


 腕を大きく広げ、少女が敢然と立ちはだかっていた。大きな胸を突きだし、柔らかなポニーテールを秋の夜風にさらしている。


「よみ!」


 俺の幼馴染みが、日野に操られた水無月とフルカスの前に立っていた。


『なに、あんた?』


 水無月の顔を使って、しかめっ面をすると、目の前の少女を睨む。


「だめ! フルカスちゃんは、ゆーちゃんのもの。あなたには絶対渡さない」

『だめ! フルカスちゃんは、ゆーちゃんのもの』


 とよみの声真似をした後。


『は! あんたみたいな素人が、なんでこの場にいるのか知らないけど。どきなさいよ!』


 ドスを利かせた声で凄むが、よみは一歩も引かない。

 ち、と日野は軽く舌打ちする。


『フルカスちゃぁん……。


 フルカスは前面に立って、剣を大きく振り上げた。


「まずい! ザガン!」


 先輩は自分の悪魔に視線を送った。が、意に反してザガンはその場で崩れる。


「申告①。身体が動かない」


 鳴子先輩はすべてを悟る。自分が持っているザガンの“君主の読物”を取りだした。


 魔導書に赤斑のようなものが浮かんでいる。

 それは自分の君主の読物も『赤い筆レッドデータ』に浸食されていることを意味していた。


「くそ! 私のザガンまで!」


 先輩はフルカスとよみがいるところまで走り出した。


 が、すでに遅い。


 騎士の両刃の剣は俺の幼馴染みに向かって、一直線に振り下ろされた。


 シャン!


 鋭い血しぶきが、青の世界にあって赤く輝いた。


 打ち水を払ったように鮮血が、地面に広がる。

 血の匂いがむっと臭ってきそうな大量の血が、丸い石の間を伝い、境内の方へと伸びていった。


「うぁ」


 俺はうめき声を上げながら、崩れ落ちた。


 胸によみを抱き寄せた格好で蹲る。

 背中が焼けるように熱い。

 瞬く間に俺を中心に広がった血の海を見て、自分が斬られたのだと悟った。


 ――前にもこんなことがあったっけ。


 ぼんやりとする頭の中で、思い出そうとするのだが、うまく記憶の焦点が合わない。


「ゆーちゃん!」


 よみの声が聞こえた。何度も何度も――ちょっとおかしなくらい――俺の名前を呼んでいる。


 大丈夫だ、よみ。俺は聞こえているよ。


 そんな言葉をかけたいのに、顎に力が入らなくて単なるうめき声になってしまう。


 そうだよ。お前の言うとおりだ。


 フルカスは俺のもんだ。


 なら奪い返すのが――小説のセオリー――醍醐味ってもんだろ。


 ああ。なんかカッコイイこといいたいのに、口が動かない。


 俺、死ぬんじゃないのか……。


 なら、ひとめでいい。


 もう一度、フルカスの姿を見たい。


 真っ直ぐに下に向かって垂れた白髪。新雪のような白い肌。鬼灯のように燃える赤い瞳……。


 渾身の力を込めて、振り向いた。

 切っ先をこちらに向け、振り下ろそうとするフルカスの姿があった。


 俺はただただ――目を広げるだけだった。


 つぷッ!


 わずかに腰に衝撃を受けた。いや、もっと強いものだったのかもしれない。


 俺は横に素っ転んでいた。

 向けられた刃物の痛みはまだ来ない。


 すでに背中の感覚がないからだろうか。

 もしかしてすでに斬られたのかもしれない。


 なんとか首をひねって見てみた。俺がもといたであろう場所を。


 フルカスの動きが止まっていた。寸前のところで……。


 騎士の剣をかいくぐるように鳴子先輩がいた。

 側にはよみが倒れている。


 よみは何かに怯えるようにあるものに目線を向けていた。


 俺はその先を追った。


 幼馴染みが見ていたのは、先輩が持っていたものだった。

 正確には、先輩が持っていたものの先にあるだった。


 先輩は傘を持っていた。

 いつも持ち歩いている蝙蝠傘のような日傘だ。


 その先端の石突きは鋭い針のようになっていて、1冊の本が串刺しにしていた。


「ああ」


 譫言のように呟いた。


 先輩が刺していたもの……。


 それは俺が腰に差していたものだった。

 肌身離さず持ち歩いていたものだった。


 そして俺の命の次にぐらい――いや、俺の命よりも大切なものだった。


 それは青い魔導書だった。


 別名を“君主の読物(マスターブック)”という。


 俺――秋月勇斗の――そして、72柱の悪魔、20の悪霊を束ねし騎士。


 フルカス――――。


 その契約書に傘が刺さっていた。


「ああああああああああああああああああああああああああ!」


 あらん限りの声を絞って叫んでいた。


 嘘だろ。嘘だよな。嘘だと言ってくれ。

 これはゆめだ。

 これはゆめなんだよ。

 絶対にゆめだ。


 信じたくなかった。信じられるはずがない。


 この世でもっとも残酷な現実。

 この光景の前では、己の死すら緩く思える。



 しかし――だが――けれど――けど――逆に――反対に――でも――――。



 今――。




 目の前には。


 傘の先端によって、確実に破かれた“君主の読物”という現実が存在した。




 俺は視線をフルカスに向けた。


 剣を振り下ろす直前の格好でホールドされた騎士の姿を見た。


 わずかにこちらに顔を向けた。


 赤い血を口端から滴らせたフルカスの顔は。

 心底ほっとしたように笑みを浮かべていた。


「申し訳ありません、主よ」


 謝罪――瞬間、弾けた。


 文字通り、フルカスの姿が弾けたのだ。


 目映い光となって。

 まるでダイヤモンドをちりばめた――いや、そんな低俗な表現ではない――星と星がぶつかりあい、四散していくような――そんな…………儚い…………。


 俺は手を振るった。

 星をつかみ取ろうとした。


 舞い散る木の葉を捉えるが如く、掴めない。


 それでも懸命に。

 不乱に……。


 背中の傷のことを忘れ、血が溢れることもいとわず、星をかき集めようとした。


 しかし無理だった。


 どんなに速く掻いても、どんなに力強く掴もうとしても、どんなに強く願っても、俺はフルカスだったものを捉える事が出来なかった。


 ついには、青の世界の中にとけ込むように、星は消えていった。


 いつの間にか、夜空に拝むような姿勢で固まっていた。神を呪うように、空を睨んでいた。


『あーあ、つまんないのぉ』


 悲劇を一層深める沈黙が流れる中、まるでオペラに退屈しきっている子供のような声が、スピーカーから漏れ出た。


『まさか。フルカスちゃんの“君主の読物マスターブック”を破壊するとは思わなかったぁ。さすがにそれはしないと思って、この作戦を立てたのにぃ』


 ぶー、と一人抗議の声を上げる。


「残念だったわね」


 一同が身を固める中、鳴子先輩は立ち上がる。

 傘を下に向けると、穴を開けられた魔導書は鋭い音を立てて、玉砂利の地面に落ちる。


 嶋井鳴子本人とは思えない冷酷な瞳で、日野が操る水無月を睨んだ。


 薄い紫のルージュの口からは今にも「殺す」という言葉が飛び出しそうだった。

 手に持った日傘の先端をメイド服の女性に向ける。


『そうなのよねぇ。これじゃあ、円環クラブのメンバーに怒られちゃうわぁ』


 巨大な殺意を向けられた本人は、全く気にしていない様子だった。


 しばらく、うーんと言いながら、考えていた日野は名案が浮かんだと言わんばかりに、『ぽん』と自ら効果音を声に出した。


『仕方ない。……じゃあ、ザガンちゃん。もらっちゃおう』


 すると今度は、ザガンが水無月の前に現れた。

 彼女を守るように、主たる鳴子先輩の前に立ちはだかる。


「ザガン……」


 名を呼び、先輩は一歩足を退いた。

 

 自分の悪魔の強大さに戦いたわけではない。普段、無表情なザガンがこの時だけは、苦しそうに――もしくは詫びるように先輩を見つめていたからだ。


 それでも先輩の強烈な精神力は、それ以上の後退を許さなかった。

 一度、目をつむり瞼の裏側に焼き付いたザガンの姿を消滅させると、再び双眸を開く。


 袖口から“君主の読物”を取りだした。


『ああ、ダメダメ』


 日野がザガンに指示を送る。


赤い筆レッドデータ』によって浸食された悪魔は、あっさりと命令を受け入れ、水球を放った。


 大きな水塊は先輩を包み込む。

 突如、水中に放り出された先輩は、手足をばたつかせながら、水牢から脱出を試みる。


 ザガンは水牢の中に入ると、いとも簡単に鳴子先輩から自分の君主の読物を取り上げた。


 水牢は弾け、中から先輩とザガンが出てくる。

 四つん這いになりながら、鳴子先輩は何度も水を吐き出した。


『はい。これでチェックメイト』


 ザガンから君主の読物を受け取ると、水無月の顔で日野は笑った。


『じゃあ、ちょっとぉ。私の憂さ晴らしに付き合ってもらおうかなぁ』


 小悪魔のような笑い声を上げると。


『この場の全員……皆殺しね』


 可愛くウィンクする。もちろん水無月の顔で。


「みなさん、逃げてください! 紅葉!」


 舞台の関係者を避難させると同時に、神海は自分が使役する鬼に命じる。


 小太刀を構えた黒子の鬼は、ザガンと対峙する。


 迷う事無く、懐に入り白兵戦を仕掛ける。


 ザガンは確実に目で見切りながら、ひらりと剣筋をかわしていく。

 紅葉は縦に薙いだ後、刀を返して、突きを放った。


 小太刀のリーチは短い。

 突きには向かない武器だ。

 だから、これは誘いだった。


 ザガンが一歩後退した瞬間、紅葉とわずかばかり距離が開いた。


 すかさず紅葉は前垂れを上げる。口内が赤く閃いた。


 ぼぅん!


 真っ赤な火の玉がザガンを包んだ。


「あのちっちゃいのやるやんけ!」


 観戦していた館川が歓声を上げる。


「愚か者! あんなの焼け石に水だ!」


 先輩の言うとおりだった。

 しかも焼け石に水ではなく、水にもなっていなかった。


 ザガンは全くの無傷で火の中から現れる。手から水刃を放った。


 乱れ飛んだ水の刃は、紅葉はおろか周辺にいたよみや先輩まで巻き込む。


 巻き上がった水泡を見ながら、先輩は叫ぶ。


「おじさん! あなた、君主の読物は?」

「おじさんちゃうわ! 館川巽也や。これでもまだみそ――――うわっぷ」


 再び飛んできた水刃を、館川はかろうじてかわす。


「あほんだらぁ! 君主の読物なんて今もっとるかぁ!」

「王錫書は!?」

「一冊もっとるけど、どうすんや!」

「とにかく私に向かって投げろ!」

「はあ?」

「いいから!」


 くそ、どうにでもなれ! と館川は文庫型の王錫書を投げつけた。


 先輩はその王錫書を日傘で突き刺す。

 滲み出た魔力を吸い込むと、自身の強化に使った。


「よみ君! そいつを連れて逃げろ」

「でも、先輩はっ?」

「私は出来る限り時間を稼ぐ。だからその間に――」


 先輩は臨戦態勢を取る。


 構えは堂には入っていた。見る人が見れば、武術の心得があるとすぐにわかる。

 だが、それが悪魔という人外の存在――その中で王と呼ばれる怪物に到底通じるものではなかった。


「それと………………秋月に言っておいてくれないか? 一言……すまない、と」


 漆黒のドレスを翻し、少女は死地へと走っていった。

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