最終選考 受賞は遠き魔導の果てに……。 ①

 何かが起きる。


 身構えた時には、すでに起こっていた。


 ザガンの髪がふわりと浮き上がった。手、足、頭、肩、腰――全身から蒼い海水のようなものが漏れる。始めは緩やかな波のように大気に伝播していったものが、次第に速度を上げ、世界全体を包もうとしていた。


「第一から第七までの支柱を解除三百三十三から六千六百六十六の魔術を起動ナイルの書の起動を確認並行してサヤナル禁書の読み取りを続行五行論書を燐華錬術書との同期を確認第八世界への結合状態良好三秒経過星位置の再確認獅子座から山羊座の位置を確認済み印章および陣を形成真円度オーナインを確認術式続行第八から第十七までの封印術の解除を確認地脈霊脈位置を再鑑定問題なし気象条件にも問題が認められません」


 世界を覆う海水と同じく、ザガンの口から湧水のように言葉が沸き上がる。


 それが呪文の一種であることは疑いない。


 気が付くと、腰まで水に浸かっていた。逃れようと身体を動かすが、ヘドロのように纏わり付いて離れない。顔を上げると、水は境内一杯に広がり、俺達を覆い尽くしていた。


「ようこそ。文色冥の世界へ」


 先輩が笑い声が聞こえた。


 振り返ると、書き上げた王錫書スペアブックを掲げた先輩が立っていた。その側には、ザガンが控え、身体中から水を吐き出している。


 すると先輩は何を思ったのか。王錫書をいきなりちぎり始めた。むしり取るような形で乱暴に自らの小説を破いていく。バラバラになり、破片となった魔導書をぱっと放り捨てる。風にさらわれた紙くずは、いくらも離れないうちに水面に広がった。


 次瞬、さらに水量が上がる。何万リットルという水が一気に加増され、胸の辺りまで来ていた水面は、一瞬にして俺を飲み込んだ。


 その時になって思いだした。


 自分が金づちだと言うことに!


 手足を必死に動かし、なんとか水中から脱そうと試みる。だが、水面ははるか上まで伸びて、とてもではないが上がって行けそうにない。


 それでも俺は全身を動かし、犬かきみたいに昇っていこうとした。


「落ち着いてください、主」


 もがく俺の腕を取って、フルカスは忠告した。

 半ばパニックの俺は「これが落ち着いていられるか!」と抗議の声ではなく、アイコンタクトで伝えた。


「魔力で作られた水です。息は出来ます」


 そんなの信じられん。ザガンが水攻めをしてきたのだ。


 水に対して、特別恐怖感がある俺は、自分の悪魔を信じて身体を動かす。

 しかし息は続きそうにない。そこであることに気付いた。


 なんで水中で声が通るんだ?


 手足を動かすのを止めた。そう言えば、足は地面についたままで、水中にいる浮遊感は皆無に近い。

 勇気を振り絞り口を開けた。なんなく息をすることが出来た。


 たははは、と苦笑いを浮かべる。恥ずかしい。


 ぐるりと周囲を見回す。


 一面青の世界へと変わっていた。


 まるで真っ青な紙の上にいるような……。

 すべて強制的に青で塗りつぶされた世界。


 篝火の炎ですら、赤色を抜かれ、青白い色をしている。


 そこにいるのは、俺とフルカス。そして先輩とザガンだけ。


「すべての性質、事象、法則を上書きし、すべてを原初の色へと変化させる業。それが我が悪魔と私の王錫書スペアブックによる最高の魔術!」



 ――幻素幽解アトムス・ムスティオ



 見つめているだけで気が遠くなる。


 すべてが青に彩られた世界。

 悪魔の王に服従し、その存在を青へと変貌させた世界。

 まるで空のように澄み渡り、今にも潮の香りが漂ってきそうな幻想的な風景。


 なのに、脂汗しか出てこない。


 世界にあるのは絶望と、力を解放したザガンの超巨大な魔力だけだった。


幻素幽解アトムス・ムスティオの中では、すべてザガンの法則に従う事になる。よって魔力を練ることも、彼女に敵対する事も出来ない。降参するなら、今のうちだぞ」


 クールな先輩が珍しく顔を歪め、俺を見下してくる。


「世迷い言を!」


 剣を構えたのはフルカスだった。


 魔力が空に近い状態ながら、その戦意までは失っていない。

 なけなしの魔力で炎を生み出すと、再びザガンに向かって斬り込んだ。


 が――――。


「な、に…………?」


 突然、フルカスの動きが止まった。

 足を地面につけ、上段で剣を振りかぶったままの姿で身体を静止させる。


 そんな騎士に向かって、ザガンが腕を掲げる。

 丁寧に標準を合わせると、水の刃が乱れ飛んだ。


 フルカスは回避しようと試みる。

 渾身の力を込めると、わずかに動いたが、高速で飛来する水刃をかわせるわけがない。


 直撃――! 


 落雷のようなスピードで動き回れるはずのフルカスが、呆気なく被弾する。肩、腿、腕の肉を削ぎ落とされ、力無くその場に倒れ込んだ。


「馬鹿な。2000年前のお前に、そんな能力は――」


 脂汗を額に浮かべながら、ザガンから視線を切ることはなかった。


「回答①。私とて、二千年遊んでいたわけでもない。人間が知恵を付けるに従い、我らの戦い方も変化しなければならなかった。もっとも飛躍的に能力の幅を広げたのは、今の主のおかげだが」


 俺は横を見る。鳴子先輩は微笑を浮かべた。


「そう。これが幻素幽解アトムス・ムスティオと私の王錫書『赤い筆レッドデータ』の力だよ」

「ああ。聞いたことあるわ」


 横から声が聞こえた。レフリー役の館川だ。

 いつの間にか、この世界に侵入してきたらしい。


「まず自分の王錫書スペアブックを水に溶かす。原子レベルまで分解された王錫書の破片は、直接相手の“君主の読物マスターブック”に侵入して、書き換えを行い、敵悪魔の支配権を乗っ取る。やらしい魔導書や」

「君主の読物の書き換えなんて出来るのかよ!」

「詳しい事はしらん。……でも、出来るんやろな、現に――」


 そう――現に、フルカスは全く動けないでいる。


「追記①。お前も強くなった。なかなか良い主を持ったと褒めてやる。だが、お前はあまりに非力すぎる。所詮、騎士の爵位止まりなのだ。お前は」


 ザガンがゆっくりと近づいてくる。

 剣によりかかりながら、フルカスは立ち上がり、なんとか構えた。


「賛同①。主の言うとおり。底は見えた」


 なおも近づく。

 その手には巨大な水球を握られていた。今までのものとは違う。水を超圧縮させたような硬質の玉。大きさも先ほどまで見せていたものとは明らかに別のものだった。


 フルカスは魔力を練り、剣を赤く灯した。だが、うまく炎を出せない。


 額に汗をかき、必死に息を整えながら、怨敵を睨む。


「終焉①」


 ザガンとフルカスの距離はすでに――零!


 やられる!


 俺は目をつむった。


「あらぁ。それはちょっと困りますわぁ」


 声が聞こえた。


 瞬間、フルカスに魔力が戻る。剣に炎が宿った。


 ザガンの動きがわずかばかり鈍る。

 好機を百戦錬磨の騎士が見逃すわけがなかった。



 炎魔破斬剣カリドゥス・ラーミナ



 渾身の一撃!


 だが、浅い!

 寸前のところで、ザガンはバックステップ。


 胸の辺りを切り裂く。深手ではなかったが、王の進行が止まる。

 それは傷を負ったからではない。


 幻素幽解アトムス・ムスティオに侵入した正体不明の人物を見つけだすためだ。


 ザガン、先輩、フルカス、俺は青の世界の中を万遍なく見回す。


 嫌な予感がした――。


 あの甲高い声。常に人を小馬鹿にしているような耳障りな口調。

 俺には聞き覚えがあった。


 俺“達”は同時に見つけた。


 ちょうど俺の背後――一人の人間が立っていた。


 前髪を切りそろえたボブカット。黒ダイヤを思わせるような純真な瞳。両手は楚々として、身体の前で重ねている。

 特徴的なのは、頭についたフリル付きのカチューシャ。そして同じくフリルが付いた純白のエプロン。

 ロングスカートの黒のワンピースを着た女性が、優しげな笑みをたたえていた。


「水無………………月……………………さん?」


 そうだ。俺の後ろに立っていたのは、水無月卿と言われるメイド姿の女性だった。


「フルカスちゃんわぁ。私のものなんだからぁ」


 確かに聞いた。彼女の口からとは思えない。ひどく精神を逆なでされるような言い方で、彼女はその場にいる全員に向かって言った。


「ちょ! あんた、なにやってんや。……いくら関係者とはいえ。悪魔戦やってる最中に」


 レフリー館川が注意しながら、水無月らしき人間に近づく。


「黙れ、虫けら!」


 甲高い声が、一瞬にして低く冷酷なものに変わった。


 フルカスが動いた。


 館川の側まで高速移動すると、躊躇いなく剣を薙いだ。


「なんや!」


 反射的に館川は反応した。後ろにステップ。かろうじて剣筋の外円をかすめる程度に留める。


 スーツは切り裂かれ、じわりと血が滲む。軽傷で済んだものの、反応があとコンマ何秒遅ければ、胴体を真っ二つだった。


「フルカス! 何をやっているんだ!」


 顔面蒼白になりながら、自分の悪魔を怒鳴りつける。


 騎士は何も言わなかった。

 ただ薙いだ姿勢のまま身を固め、荒い息をしている。

 その顔は主よりも青白く、紅玉の瞳は大きく見開かれていた。


「あれれ? おしいなぁ? まだ私の『騒霊文掌ゴーストライター』の操作下にはないのかなあ。さすがは、七十二柱唯一無二の騎士悪魔。……惚れ直しちゃった」


 騒霊文掌――――。


 聞いた事がある。いや、そう言った単語を話したのを、俺は一人しか知らない。


「あんた! まさか日野ひの霧音きりねか!」


 幻素幽解アトムス・ムスティオの青の世界で、俺は叫んだ。


 メイド姿の女性は人差し指を頬に押し当てながら、小首を傾げた。


「あれぇ? 今ごろ、わかったのぉ? 割とわかりやすい口調だからぁ。すぐわかっちゃったと思ったんだけどぉ。――わたしぃ、まだキャラ付け甘い?」


 とっくに気付いていたにはいたが、確証がなかった。

 正体を明かされた今となっても信じられないのだ。


 清楚で可憐な水無月白羽が、その真逆と言える残忍な性格を持つ日野霧音なんて、どんな聖人君子ですら虚偽を疑うだろう。


「あんた、フルカスに何をした?」

「何をした? きゃははははは……。そんなの私に聞くより、君の先輩に聞いた方がわかりやすいと思うよぉ」


 日野の話を聞いて、ようやく鳴子先輩も理解したらしい。

 冷静沈着――普段、あまり感情を表に出さない先輩の顔が、般若のように皺がより、日野を睨め付ける。


「貴様! まさか私の赤い筆レッドデータに便乗したのか?」

「ピンポーン! 大正解! はらたいらさんに三千点あげましょうって、私ってばふるーい」


 パチパチと拍手する。


 そうか。先輩が幻素幽解アトムス・ムスティオに魔導書を混ぜたように、日野も自分の王錫書を溶かし、俺が持っている“君主の読物マスターブック”に割り込んだのか。


 だが水無月白羽は、魔導書らしきものを持っていなかった……。


「あ」と俺は声を上げた。


 ないのだ。彼女が先ほどまでしていたマフラーがすっかり無くなっていることに気付いた。原則として王錫書は文字が書けるものならなんでもいい。


 つまりマフラーが日野の王錫書だったのだ。


「さて。……フルカスちゃん、手に入ったし。私はお暇させてもらおうかな」


 フルカスに向かって、手で合図をする。

 日野の操り人形と化したフルカスはあっさりと身を翻し、新たな主人の側へとやってくる。


 歯を食いしばり、眉間に皺を寄せた悪魔の顔は苦悶に満ちていた。

 彼女もまた戦っているのだ。


「そうはさせるか!」


 叫んだのは先輩。退却を試みる日野の前に立ちはだかったのは、ザガンだった。


 水を手の平に集中させると、フルカスの方へ走り出す。

 その動きは、水の世界の中にあって、まさに魚であった。

 時を置かず、一気に盟友に詰め寄る。


 フルカスは剣を構えた。タイミングを見計らい、横に薙ぐ。


 呆気なく、ザガンの体が両断された。


 手応えはない。

 フルカスが斬ったのは、ザガンを模した氷の彫像――。


「あらら」


 日野の顔から笑顔は無くならなかった。

 綺麗な氷の破片を見ながら、目の端でそれヽヽを捉える。


 右脇腹に潜り込んだザガンは、フルカスを通り過ぎると、メイド姿の女性に詰めた。


 水玉をさらに小さく絞る。

 ダメージの軽減を狙ったものだが、普通の人間に当たれば、どれだけの負傷をおうのか検討も付かない。


クラーナ①」


 日野に向かって、水玉がうがかれた。


 ――――かに見えた。


 ザガンの腕が、日野の眉間の数センチ手前で止められていた。


 止めたのは、フルカス――ではない。


 全身黒ずくめの黒子。

 確か紅葉くれはと呼ばれていた鬼。その主人は――。


 神海編集長だった。

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