第1次選考 俺のラノベが一次落ちするはずがない。⑤

 試合開始の合図の号令がかかったにも関わらず、誰も動かなかった。


 どうしていいかわからず、フルカスと蒔村の様子を交互に見やっている。

 俺の悪魔は帯剣をしたまま自然体の構えを崩さず、対峙者をじっと見つめ、正対する書鬼官は薄気味悪い笑みを浮かべるだけだった。


「どうしたんだい? かかってきなよ」


 最初に口を開いたのは蒔村だった。

 金色の前髪を掻き上げながら、魅惑的な淡い水色の瞳でこちらを伺う。

 挑発とも取れる青年書鬼官の言動に、悪魔は全く動じていなかった。


「何故、悪魔を召喚しないのですか?」


 薄い唇が開かれ、尋ねた。蒔村は肩を竦める。


「なるほど。待ってくれるというわけだ。……それも騎士道精神かな?」

「そうです」

「お優しい、騎士様だ。じゃあ、お言葉に甘えよう」


 君主の読物マスターブックを取り出す。

 そして――。


「めくれ!」


 言い放つ。瞬間、魔法陣が目の前に現れる。

 九字に敷かれたライン。それを囲うように行書体の漢字らしきものが浮かび上がる。陣の色は赤。フルカスの瞳のような純粋さはない。血の池を見るような禍々しい色をしていた。その色はいっそう光を放射すると、境内全体を覆う。夜の闇が紅蓮の世界へと変貌し、同時に風と篝火の炎を巻き上げた。


「来い! 鑿歯さくし!」


 光の明滅と激しい突風。目を開けるのも困難状況で、俺はかろうじて片目を開けて見ていた。

 九字の陣から血塊のようなものが噴き出し始めると、中から人の手のようなものが地面に手をかけた。するともう片方の手がかかると、マンホールから人が出てくるかのように上半身をつきだした。一気に下半身を抜くと、片膝をついて地面に蹲った。


 こうして説明すると、まるで人間の様相に思えるだろうが、正体は違う。四肢と頭は人間のそれに相違ないが、容姿はまさに悪魔という言葉にふさわしい姿をしていた。

 今にも臭ってきそうなざんばら髪。額は広く、目は落ちくぼみ、一見髑髏のような顔をしている。ぼろ布と変わらぬほどの着物は、日本ではなく中国の官職たちが身につけるような服装をしていて、腰の辺りで閉められた帯は幾重にも結ばれていた。片手には横に三日月型の刀身がついた矛。もう片方には木で出来た小さな盾を装備していた。

 そして何よりの特徴は、大きく伸びた牙。名前の如く大工道具の鑿(のみ)を思わせるような長い歯牙は、顎からさらに飛び出している。

 頭に角こそついていないものの、鬼と表してもおかしくない異形の姿をしていた。


 驚きはしたが、立ちすくむほどではなかった。フルカスという少女の騎士と比べれば、鑿歯と呼ばれた悪魔は、想像の範疇内だったからだ。


「さあ、これならどうだい?」


 蒔村は手を広げた。打ってこい、と言っているのだろう。

 だがフルカスはまたも挑発を無視した。


「主よ。絶対に私から離れないでください」


 視線を前に向けたまま、後ろの契約者を気遣う。

 正直――少女に、大の男の子が守られるという構図は容認しかねる。戦わせるだけ戦わせて、自分は震えて見てるだけなんて真っ平ごめんだ。


 だが、今は従うしかない。

 わずかに逡巡した後、俺は頷いた。


「あくまで守勢を崩さずか……。なるほど。では、こちらから参ろう。鑿歯!」


 蒔村は相手をロックオンするかのように手を振るった。

 主の合図と同時に、ざんばら髪の悪魔は飛び出す。


 速!


 という間もなく、二十メートルほどあった距離を制圧。鑿歯の矛が突き入れられる。この時点でフルカスはまだ帯剣したままだ。


 が――――。


 こおぉぉぉん、とどこか気持ちのいい金属音が、夜空に舞う。気がつくと、矛の軌道は明後日の方向へ向けられていた。


 フルカスが何をしたのか。体勢で明白だった。自然体だった左手の位置が、払うように左に流れている。鑿歯の渾身の突きを、彼女は身につけた籠手だけで払ったのだ。


 これには俺はおろか、対峙者である蒔村すら口を開けて固まった。その場に居合わせたもののほとんどが、彼女の動作に驚いたことだろう。能舞台で検分する大人たちが一斉に息を呑んでいる様子がわかった。


 フルカスはそこで初めて剣を抜いた。体勢を崩した鑿歯の懐にあっさりと潜り込む。抜刀の勢いそのままに左から右にかけて、斬光が閃く。鑿歯は咄嗟にもう片方の手で防御の構えを取る。


 それは愚行だった。

 本来は、その盾は受けるのではなく、受け流す用途に作られたものだからだ。

 フルカスの分厚い両手剣はあっさりと木の盾を斜に切り裂き、さらに喉元まで達する。ようやく足の運びが整った瞬間、鑿歯はバックステップをして、惨事を免れた。


 ピン、という短い音がこだます。遅れて玉砂利に、曲剣のような刃先が突き刺さった。鑿歯の牙だ。


 落ちくぼんだ瞳が怒りに震える。だが一瞬でも遅ければ、首を落とされていたかもしれない。

 数瞬のファーストコンタクトはこうして終わりを告げた。フルカス優位という形で。

 蒔村は最初こそ動揺していたものの、すぐに冷静さを取り戻す。


「なるほど。フルカスというのはあながち間違いではないようだな」


 仮面でも被るかのように、いつもの禍々しい笑みを浮かべる。


「降参してはどうか? 雌雄は決していると思うのだが。あなたの悪魔では私は倒せない」


 フルカスはまた自然体に構え、提案する。手には剣を握ったままだ。


「否定はしない。なるほど。鑿歯では少々荷が重いかもしれない。だがもう少し付き合ってもらう」


 言って取りだしたのは、数枚の紙だった。もう片方の手にはペンが握られている。一見単なるコピー紙と万年筆だった。


「さて、相手がフルカスと言うことになると出し惜しみはよくないか。六編すべていこう」


 一人呟くと、自分の悪魔の名を呼び、コピー紙を投げつけた。手裏剣のように投げられた紙を鑿

歯は壊れた盾の方の手で受け止める。あろうことか、その紙をむしゃむしゃと食べ始めた。


 バリ、グシャ、シャン、とキャベツを一玉丸ごと囓っているような咀嚼音が、殺し合いの最中の場に響き渡る。鑿歯(さくし)はすべて食べ終わると「げ」と汚いげっぷを吐き出した。

 変化はその後に起きる。

 大きな矛を振り回していた腕がさらに膨らみ、太股はサラブレッドのように引き締まる。肩幅は明らかに大きく、背中の僧帽筋が浮き上がっていくのがわかる。気がつけば、先ほどよりも鑿歯は大きくなっていた。


 ひゅん!


 意識した時には、鑿歯はフルカスの目の前にいた。紅玉の瞳が大きく見開かれる。が、横薙ぎに振るわれた矛を寸前のところで剣で受け止めた。重い金属音が響く。鉄靴てっかが地面を抉る。衝撃の強さを如実に物語っていた。


 鑿歯の攻撃は止まない。受け止められるやいなや、手を返して振り上げると、がら空きになった脳天へと振り落とす。フルカスは冷静だった。両手を使って受けた後、鑿歯の脇に潜り込み、体位を変える。背後をとったかにみえたが、鑿歯は矛を若干短く持つと、突きを放った。


 フルカスはさらに右へ移動。脇腹をかすめながら、ぎりぎりで突きをかわす。体勢は不十分ながら、両手剣を振り下ろす。鑿歯はあろうことか背を向ける。いやそうではない。その場で一回転すると、刀身とは逆手の部分を横薙ぎに振るった。ここまで読み切れていなかったのだろう。フルカスは慌てて距離を取る。


 お互いを睨み合った。

 違う。全然違う。先ほどの鑿歯とは、スピードもパワーもまるで別人のようだ。

「それが、あなたの王錫書スペアブックの力というわけですか?」


 フルカスは鑿歯から視線を離さず、その主に問いただした。


「これぐらいで驚いてもらっては困るけどね。六曜(ろくよう)の能力強化なんて。プロの書鬼官を目指すものなら、出来て当たり前なんだから。おっと。僕はもうプロだけどね」

「フルカス……」


 自分でも情けないくらい弱々しい声で、俺は名前を呼ぶ。


「心配めさるな。問題ありません。あなたは私が守りますから」


 フルカスは振り返らず、三合目に備える。俺はその時一抹の違和感を感じていた。

 鑿歯は強くなった。それでもフルカスにはまだ及ばない事は見ていてわかる。だから決して不安があるわけでもない。まして実力に不満があるわけでもない。

 何かギアがかみ合っていないような。俺たちの間に、決定的な考えの相違があるような――そんな気がした。


「さて、――では、書こうか」


 蒔村はペンを回す。再び取りだしたコピー紙に向かった。


「筆鬼術“星屑の一掌ニュースターダスト”」


 すると猛烈な勢いで書き始める。目を見開き、口端を歪め、涎を拭うことすら忘れ、蒔村は突如ペンを走らせた。

 戦いの場での執筆活動。だが、俺にはその意図がわかっていた。王錫書の追加。さらに鑿歯を強化するつもりなのだろう。

 フルカスは走った。初めて彼女のほうから仕掛けたのだ。一瞬で、鑿歯の構えとは逆側に飛び込むと、横薙ぎに払う。鑿歯は矛を立てると、渾身の一撃を受け止めた。おそらく強化前であれば、そのまま吹っ飛んでいただろう。かろうじてと言ったところだろうが、今の鑿歯なら守勢に転ずれば問題ない。


 騎士の打ち込みはそれだけに留まらない。横、縦、はすと縦横無尽に剣戟を繰り出す。鑿歯はすべて受け止めた。それで精一杯。攻勢に転じる暇など全くない。紙一重の守りが続く。


 だがそれでいいのだ。主の王錫書で再び強化されるのを待てばいい。


 蒔村はペンを動かし続ける。

 気のせいではなく、光ってみえた。星のように。そして夕暮れ時――空に星が一つ一つ灯るかのように、物語を完成させていく。

 枚数の少なさから言って、おそらく蒔村の書いた魔導書は掌編――つまりショートショート。まさに名の通り、星々が灯るように小説を創造していく。敵である俺も、思わず羨望の眼差しで見つめてしまった。


「完成だ」


 そうこうしているうちに、書鬼官の手が止まった。

 王錫書が完成した。三分も経っていないのに。

 鑿歯、と王錫書を掲げ、自分の悪魔を手招く。フルカスが阻む。これ以上の強化は、彼女とて望むところではないのだろう。


「おやおや。これは弱ったなあ。これでは鑿歯を強化できない」


 ピンチを迎えながら、蒔村の表情は全く変わらない。今言った言葉も、まるで棒読みだった。むしろこの場面を楽しんでいるきらいさえある。


「ああ。困った困った。仕方ない。フルカスでは仕方がない。……正直二次選考まで取っておきたかったのだけど、奥の手を出そうか」


 すると蒔村は一冊の“君主の読物マスターブック”を取りだした。相手の動きをチェックしていた俺にはすぐわかった。その魔導書の色は焦げ茶色。覚えている。鑿歯を召喚した魔導書は、黄緑だったはずだ!


「めくれ! いでよ、シラウス!」


 魔法陣が閃いた。鈍色の円陣にアルファベットをのたくったような文字が浮かぶ。地面が沸騰し始めると、液化した金属が吹き出すようにどろどろとした灰の中から、何かが飛び出してきた。


 召喚された悪魔はフルカスとも鑿歯ともまた違う。異形どころ形をとどめていなかった。

 フードが付いたローブを身に纏っているようにみえるが、泥を擦りつけたように液化している。肉を削ぎ落とされた四肢は、骨だけしかなく、かろうじて目、口らしきものは確認できるが、もはや素顔などないに等しい。骨だけになった手には、大振りの鎌が握られ、腐臭を辺りにまき散らしていた。


「二体目!」


 俺が叫ぶよりも少し速く、シラウスは真っ直ぐ俺の方にやってきた。


 やばい!


「主!」


 遠くでフルカスの声が聞こえた。が、鑿歯に押さえ込まれ、動きが取れない。

 俺は考えた。おそらく一秒もなかっただろう。その中で、必死に考えた。そして一つの良策をひねり出す。


“君主の読物”を差し出すこと。蒔村の目的は――いやここにいるすべての書鬼官の目的は、君主の読物の破壊。それを差し出せば、俺に危害が加えられることはない。二次選考落選。晴れて自由の身になる。また明日からは、ラノベ作家になるため、執筆の日々が始まる。学校に登校し、文芸部へ行き、よみや鳴子先輩と読んだ本の書評について話し合う。


 そんな取り留めない日常が待っている。


 なのに――――。


 俺は背中に隠していた“君主の読物”を取りだした。

 襲ってくるシラウスに背を向けると、魔導書を守るように亀になった。

 瞬間、背中に炎で抉られたかのような鋭い痛みが走った。


「あるじぃぃぃぃぃ!」


 フルカスの絶叫がこだました。


 鑿歯の矛を思いっきり払うと、後退し歩み寄る。同時にシラウスも引き、蒔村の側に控えた。

 目の前の玉砂利に赤い点が付く。次第に、それは増えていき、点と点は結ばれ、大きな溜まりになっていく。背中が焼けるように痛い。なのに、頭はどこかぼんやりとして判然としない。


「主、主……。お気をたしかに」

「ふ、フルカス?」


 ぼやける視界の中で、俺は確かに少女の顔を見ていた。

 細かくさらりとした白い髪。雪原を思わせるような白い肌。真っ直ぐな心を想起させる無垢な唇。そしてルビーよりも赤く、揺らぎのない瞳。


 ああ、なんて可愛いんだろう。


 ずっとこうして見てみたい。この瞳の視線を独占してみたい。首筋から漂ってくる甘い匂いをいつまで嗅いでいたい。透き通るような声を好きな時に聞いてみたい。


 欲深いな俺は――。

 でも、本当の願いは……。



 彼女を描いてみたい――――。



 ただそれだけだった。

 その彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。紅玉の瞳が今は激しく揺れている。その色はさらに赤く腫れ上がっているというのに。


 顔もぐしゃぐしゃで凛々しい騎士の容貌はどこにもない。あるのは、俺とさほど年の変わらぬどこにでもいる普通の少女の泣き顔だった。


「申し訳ありません」と何度も謝罪の言葉をかける。


 俺はその頬に、そっと手を伸ばした。


「俺こそすまない」


 フルカスは何度も頭を振った。

 否定する少女に、俺はさらに首を横に動かした。


「ごめんな。頼りない主で。お前はずっと俺の言葉を待っていてくれたんだよな。だから倒せる相手を倒そうとしなかった」


 フルカスは息を呑み、目を丸くした。

 彼女が本気になれば、一合目で試合は決していた。鑿歯を制し、蒔村から“君主の読物”を取り上げ、斬って捨てる事が出来たはずだ。だが彼女はそうしなかった。


 俺を守るため? 


 ――否。勝たないためだ。


「お前はずっと俺の気持ちをくんでくれただよな。俺が書鬼官を望んでいなかったから。お前はただ俺を守ることしか出来なかった。ごめんな」


 フルカスは俯き、頭を振った。何度も白い髪が揺れた。


「フルカス、俺の望みを聞いてくれるか?」


 少女は顔を上げ、腫れ上がった目で俺を見た。


「勝ってくれ」


 弱々しい調子だったが、俺は精一杯の声で言った。


「しかし」

「書鬼官の事は今は気にしなくていい。……それよりも今目の前で女の子が泣いている事の方が大問題だ」


 俺は一旦言葉を切る。顎の汗を拭うと、朱が混じっていた。


「俺の夢はラノベ作家になることだ。けど、女の子が泣いているのをほっとくヤツなんて、ラノベ作家になる資格なんてない。それが飛びきり可愛い子ならなおさらだ。もう一度言うぞ。勝て、フルカス。お前の全力をぶつけて、あいつに勝て」


 揺らめいていた瞳が、再び澄み渡り、綺麗な紅玉へと戻った。

 立ち上がり、剣を構えると、二体の悪魔に対峙した。


「やっとその気になってくれましたか? いくらソロモンの悪魔を打ち倒したとはいえ、手加減されていたという風聞を立てられては困りますからね」


 ふざけるように蒔村は肩を竦めた。どうやらフルカスが手加減していた事をわかっていたらしい。


「残念ですね。あなたは勝機を逃した」

「それはお互い様でしょ。それよりもあなたの主は大丈夫ですか」

「は! これぐらいの傷! 痛くもかゆくもないっつの!」


 俺は脂汗を滲ませながら、なんとか立ち上がる。


「二体の悪魔ってせこくないか。そんなにうちのフルカスが怖いのかよ」

「君と違ってね。僕は複数同時応募。同時通過したに過ぎない。悪魔を二体召喚してはいけないなんてルールはないしね」


 こいつ、二作も一次受かったのか。うらや――いやいや、むかつく野郎だ。


「それよりも本当に大丈夫かね」

「何が言いたい」とフルカス。

「シラウスはね。源魔術書ヌクテメロンの中でも死を司る悪魔。そして毒の鬼神。彼が持つ鎌には強力な毒が塗り込まれていてね。悪魔すら悶絶するほどの激痛を伴うはずなんだが」


 聞いた瞬間、俺は崩れ落ちた。


 突然体が軽くなったかと思えば、今度は全身に力が入らなくなった。ぐっと力を入れても、筋肉が締まる感覚がない。自分の体なのに、全く言うことを聞いてくれない。


「あ~らら、やっぱりね」とせせら笑う蒔村。

「く! 卑怯な!」とフルカスが叫ぶ。

「卑怯? 君がわざわざ確認してくれたんじゃないか。書鬼官への殺生は禁止しない、とね。僕の戦術は当然だと思うけど。さて、ここからが本題だ、フルカス。君の主を助ける変わりに、“君主の読物”を差しだしたたまえ。そうすれば、君の主の命は保証する」

「ふざけんのもたいがいしいや!」


 その罵倒は、能舞台で観覧する群衆の中から上がった。

 見ると、よれよれの背広姿の男が立ち上がり、関西弁をまくし立て怒鳴っている。館川だ。額に青筋を浮かべ、ボサボサの髪の毛を振り乱し怒りを露わにしていた。


「さっきから卑怯な手ぇ使いおって。人様のことからやから、ずっと黙ってたけど、我慢ならん! 正々堂々勝負せんか、このへたれが!」

「正々堂々勝負をしていますよ。ルール内でね」

「俺はそういうこと言ってんちゃう! お互いの悪魔と筆鬼術を持って正面からぶつかる! それが悪魔戦の醍醐味やろうが!」

「館川さん。なら、聞きますが。あなたなら――いや、あなたの悪魔なら、この目の前のフルカスに対して正面からぶつかる勇気がありますか?」


 館川の勢いが削がれる。口を噤み、出かかった反論を飲み込んだ。


「ほら、やっぱり。……目の前にいるのはフルカス。悪魔でも最高位といわれる七十二の悪魔の一柱。少なくともそれに匹敵するほどの実力の持ち主であることは間違いない。認めたくはありませんが、まともに戦えば、私の悪魔のうち一体を犠牲にしなければならないほど、きわどい勝負になる。僕は最善の策を取っているにすぎない」

「アホ! そういう事を言ってんちゃうねん。関西人はな。黒白の前に、おもろ――」

「おっさん!」と制したのは俺だ。

「おっさんちゃう。館川巽也や。それに俺――――」

「ありがとな」

「なんや、て」


 俺は渾身の力を込めた。ゆっくりと足が動く。立て膝を付くと、立ち上がり始めた。何度もバランスを修正しながら、腰を上げる。相変わらず全身は弛緩していて、言うことをきいてくれない。力を入れるたびに、傷口が開いていっているような感覚がある。もうボロボロだ。


 だが、だ――!


 このまま突っ立っては入れない。


 俺は――――。


「俺は、フルカスの書鬼官なんだからな」

「主……」


 立ち上がった俺を支えながら、騎士は心配そうな目で見つめる。


「蒔村……。さっきの取引だが……断る!」


 俺は対峙する書鬼官に対して言い放った。


「死ぬ気か。君は」と蒔村は目を細める。

「取引になってないんだよ。こっちが断然有利だってのに」

「なに?」

「お前、さっき言ったろ。悪魔を犠牲にしなければならないほどのきわどい勝負になるって。それってフルカスがまともに戦うことが出来れば、それほどの戦力差があるってことだろ。つまり、現状で有利なのは、俺達ってことじゃないのか?」


 蒔村は答えなかった。変わりに笑顔の仮面を外し、完全な素の状態で俺とフルカスを交互に見つめた。

「有利な立場にある俺達が、不利な条件をのむ道理なんてないだろうが」

「なるほど。確かに勝負事ではそうかもしれない。しかし君の命を天秤にかけた場合はどうだ」

「それも同じだ。フルカスが勝てば問題ない!」


 堂々と俺は言い切った。


「ふん。馬鹿め」


 蒔村は側に控える鑿歯とシラウスに王錫書スペアブックを分け与えた。二匹の悪魔の見てくれが、さらに膨張していくのを感じた。戦いの中、次第に研ぎ澄まされてきた俺の感覚にも感じるものがあった。二匹の悪魔の周りを覆うオーラが広がっていくのを。

 試合続行――というわけらしい。

 フルカス、と側にいる俺の悪魔を呼んだ。


「俺のことは心配しなくていい。……その代わり頼みがある」

「なんなりと」

「三分でいいから、二匹の悪魔を抑えておけるか」


 フルカスは今一度正対する悪魔を見やった。目を細め、戦力を推し量るように分析した後。


「問題ないかと」と短く答えた。

「しかし、どうされるおつもりですか?」

「俺も王錫書を書く」

「そのお体で!? 本気ですか?」

「大まじめだ。言ったろ、心配するなって」

「ですが――――」

「俺はな。昔バイクにはねられた事があってな。次の日から包帯ぐるぐる巻きにされながらも、書いた事がある。その時に比べれば、こんなのかすり傷だ。それに――」


 懐から本を取り出す。“君主の読物”ではない。神社の入口で、ゴスロリ少女から押しつけられたものだ。表紙を開くと、中は真っ新だった。


「どうやら、俺達を応援してくれているのは、館川のおっさん以外にもいるらしい」


 ニヤリと笑う。


「未来の読者達の期待には応えないとな。……だから、頼む。やらせてくれ」


 赤い瞳が俺をのぞき込む。紅玉に俺の姿が映った。なんとも貧相な顔だ。それでも精一杯の誠意を込め、悪魔に願った。


 フルカスは「ふ」と一瞬笑ったような気がした。俺が確認しようとした時には、すでに目線が敵の方へ向けられていた。


「悪魔にそう何度もお願いするのは、感心しませんね」

「悪魔としてはどうなんだ?」


 きょとんとしてから俺の悪魔は絶妙な笑みを送る。


「やりがいがあります」

「じゃあ、頼む」

「委細承知!」


 フルカスが飛び出した。剣を上段に構え、ロケットのように飛んでいく。

 蒔村は鑿歯とシラウスに迎撃を命じる。王錫書によって、強化された二匹の悪魔は易々と悪魔騎士の進行を阻んだ。


 が、フルカスも打ち負けてはいない。攻勢に転じる事はできないまでも、守勢を貫き、うまく足止めしている。時に鑿歯の矛をかわし、シラウスの鎌を受ける。体位を変え、懐に活路を見いだし、絶妙のタイミングで距離を取る。

 一方が主の方へ向かおうとすれば追撃し、間に滑り込む。徹底して、俺に近づけさせない戦法を採用していた。


 王錫書の連続使用ならば、押し切る自身が蒔村にあったのだろう。だが、フルカスの実力はあいつの斜め上をいったらしい。表情に余裕はなく、仮面の笑みは見る影もない。


 その中、俺はそっと愛用の鉛筆をズボンのポケットから取りだした。

 よみが買ってきた出雲大社で売っている合格祈願と彫り込まれた鉛筆だ。

 フルカスと自分の悪魔たちの様子を観戦していた蒔村は、そこで初めて俺の行動に気付いた。


「まさか、君……。王錫書を書くつもりか?」

「ああ、そのまさかだよ」

「書き方も知らない君が? 笑わせるね」

「ああ、わかんねぇよ。でもな、要は小説を書けばいいんだろ。こちらとら五年もワナビやってんだ!

 あんたみたいに輝かしい執筆歴なんてない! 新人賞に二百回落ちてる! けど、小説の書き方なら知ってる!」

「馬鹿か! 君は! 王錫書は本来実戦の中で書くものじゃない」

「お前だって書いてたろうが」

「君と一緒にしないでほしい。僕の『星屑の一掌ニュースターダスト』はショートショートという形式と僕の類い希な速筆と構成能力にあるんだ。実戦昇華にだって、時間をかけている。今まで一度も書いた事がない君が書けるわけがない!」

「あんた、1日に何枚書いたことがある?」

「は? それは……そうだな。80枚ぐらいか」

「俺は数えたことがない」

「なんだと?」と蒔村は眉間に皺を寄せた。

「長編でも半日あれば書けるからな。どんな物語でも、一日も経たず書いちまうから、数えたことがないんだ」

「長編を半日だと! 嘘をつくな! プロでも一日百枚が限界だといわれているんだぞ」

「知り合いにプロがいるんだけどさ。その人に言われたよ。書くスピードなら、プロに混じっても一番だって。それ以外はD判定だけどな。だから、今のうちに言っておく。俺達を倒すなら、この三分間にすべてをかけた方がいいぜ」

「くそ! これだから素人は! 鑿歯、シラウス! 何を手こずっている! 早く仕留めろ!」


 敵書鬼官の叱咤を聞きながら、俺は右手で鉛筆を持ち、左手に閉じられた本を握る。

 蒔村にはああ言ったが、実は勝算などなかった。


 あいつの言うとおりそもそも何を書いたらいいのか、わからなかった。

 何を書こうと、考えてすらいなかった。


 ただ俺は頭を空っぽにした。


 何も考えず、筆が赴くままに書いてやろうと思った。

 俺の小説はたいてい出来上がっている。

 プロットはあまり書かない。キャラの設定も決めない。


 筆が走るまま。赴くまま。


 鳴子先輩にはよく怒られるけど、そうして書いた作品は、きちんと決めた作品よりも、自分の中では満足のいくものが多かった。


 その技術をそのまま魔導書に使用する。

 俺が立てたプランはその程度のものだった。


「めくれ」


 静かな声を、夜風がさらっていく。


 本は自ずと開き、一ページを示した。


 気持ちがいいほど真っ新な紙。


 心臓が弾む。この高揚感には覚えがある。


 自分の見たことのない世界が開けるような感覚。


 そうだ。小説を書く時の一ページ目。第一行を書く時と同じだ。


 迷いはない。


 今、ここにあるのが魔導書だろうと。悪魔を強化するための道具であろうと関係ない。


 俺はただ小説を書くだけだ。


執筆開始リライト!」





 その時の俺は無我夢中で、一体自分に何が起こっているのかすらわからなかった。


 ただ後に聞いた話によると、その様子を一言で現すなら――。


 疾風迅雷――。


 否!


 執筆迅雷ライトニング ブレッド――。


 ――であったそうだ。

 星体光エーテルのような淡い紫色の不可思議な光を放ち。


 目で追うのにすら困難なほどのスピードで書き上げ。


 まるで一首の歌留多カルタを払うかのように、次々とページをめくっていく。

 瞬き一つせず、本に集中し――というよりは、それ以外すべての情報を遮断し、不乱に物語を綴る。


 三分といった俺の宣言はすでに破られ、百二十ページほどの紙の束が二分で右へと集まる。


 およそ原稿用紙換算で二百枚以上の物語が、仕上げられようとしていた。


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