第1次選考 俺のラノベが一次落ちするはずがない。④


 驚くことに住所は隣町を指し示していた。

 おそらくソロモン出版の所在地。しかし示された場所はビルが並ぶオフィス街ではなく、閑静な住宅が並ぶ山沿いの住宅地の中。ますます俺の心中を不安にさせた。

 まあ、本当に魔導書を扱うような出版社であるなら、世の中の常識など通じないだろう。


 フルカスもまた同じだ。存在そのものが人知から外れた存在ではあるのだが、外出するにも関わらず帯刀し武具を外そうとしない。

 日本は安全だ。ここは戦乱の世ではないと説明をしても、納得してもらえず、妥協案として俺のパーカーを着てもらうことにした。すっぽりと甲冑と彼女の目立つ容姿を隠すことに成功したものの、如何にも下に何か物騒な物を身に纏ってますという無言の主張を覆すことには失敗した。だが、何もしないよりは百倍ましだ。


 俺は男女のカップルを襲うような暴漢が出ないことを祈った。そんな事態になっても、フルカスは一刀の下に切り伏せるだろう。技量を測るべくもない。だいたい彼女は悪魔なのだ。

 電車で二駅。バスで十五分。徒歩で十分ほどのところに、ソロモン出版は存在した。


「これが?」


 俺が何度も通知を見たのは当然だった。


 そこにあるのは、神社だった。

 何本もの松や桜がぐるりと取り囲み、一帯をドーム状に覆っている。外から見ると、まるで一本の大きな樹木が神社を隠しているかのようだ。入口には巨大な石の鳥居。台石に置かれた柱は凹凸が少なく丁寧に円を描いている。一番上の笠木は綺麗な弧を描き、額束がくつかには何やら文字が描かれているのだが、暗闇で見えないのか、それともくすんでよく見えないのか――ともかく解読不能だった。大鳥居の向こうはぼんやりと明るくなっているものの、石畳の参道は途中からカーブしており、よく見えなかった。


 ソロモン出版という文字はどこにもない。だいたい隣町にこんな神社があることさえ知らなかった。


 先ほどから俺を外敵から守るように先導するフルカスは、躊躇なく足を踏み入れる。「あ。ちょっと」と俺が制止するのも構わず、騎士は中に入っていく。どうしようかと迷っていると、声は突然横から飛んできた。


「一次選考通過者の方ですか?」


 落ち着いた女性の声。俺達は同時に声の方へ振り向く。

 鳥居のすぐ側にある水飲場に人影が揺れる。白衣びゃくえ行灯袴あんどんはかまの巫女さんかと思いきや、出てきたのは悪魔のように青白い肌をしたスーツ姿の女性だった。


 俺より一回りぐらい年上と言ったところだろうか。非常に落ち着いた風情がある女性だったが、真っ暗な夜だというのに真っ黒なサングラスをかけていた。

 フルカスは女性と俺の間に入る。警戒するのはもっともだ。明らかに怪しい。


「秋月勇斗様ですね」


 女は俺の名を言い当てた。

 警戒しつつも「そうです」と答えた。女は全く俺に興味がないといった感じで、フルカスを見つめている。一瞬、悪霊が取り付いたかのような笑みを浮かべたが、すぐに向き直った。


「ソロモン出版編集部の編集長の神海こうみ律子りつこと申します。このたびは、数ある出版社の中から、弊社に応募していただきありがとうございます」


 丁寧に頭を下げた。

 俺は少し面食らった。編集者という人間は、ネットを見た人づての噂などで「お前らの拙い創作物を読んでやっているんだぞ」と傲慢不遜な人間だと思っていたからだ。

 まさか「出してくれてありがとう」と言われると思わなかった。


「じゃ、じゃあここがソロモン出版?」


 今一度辺りを見渡す。鬱蒼と茂った樹木のおかげで周りは闇だ。月もかげっていて、肝試しをするには打ってつけの場所だろう。

 俺の質問に神海は目を丸くした。正確にはサングラスのおかげでわからないのだが、そんな間があったのだ。ソロモン出版の女編集長は軽く首を振った。


「いいえ。ここは二次審査が行われる場所です」

「二次審査?」

「案内に書かせて頂いていたと思いますが」


 そんな馬鹿な。俺は持ってきていた書類を確認する。『貴作品云々』の他に住所が書かれているだけだ。


「まあ、それはそうとして。会場に来られたのは僥倖ぎょうこうです。どうぞ中へ」


 オレンジ色に光る行灯を持ち、俺達を境内の奥の方へと誘おうとする。が、すぐにその足は止まった。神海の視線がさらに後方へと向けられる。そして笑みを浮かべた。邪悪な……。


「これは文色あいろ先生……」


 俺達は振り返った。

 立っていたのは一人の少女だった。


 真っ黒な髪を腰まで垂らし、雨も日差しもないのに黒い傘を両手でギュッと握りしめている。黒い服は一見司祭服のようにも見えたが、ドレスだった。フリルまで黒いゴスロリ衣装。全身を漆黒に染まった姿は、まるで死に神のようだ。しかし少女の青白く整った顔立ちは、天使に匹敵するほど美しかった。


 その顔が歪む。

 黒い瞳に宿った憎悪は、己を除くすべてに向けられているようだった。


「来ていただけたのですね。どうぞ席に案内させますので。紅葉くれは


 いつの間にいたのだろうか。黒子の衣装を身に纏った小柄な人影が現れる。顔も隠され、少女なのか少年なのか判断が付かなかった。黒絹の隙間からは角のような物が見えた。


「先生に案内を」


 短い要求を出すと、黒子は文色先生と呼ばれた少女に手を差し出す。先生というからには、かなりの御仁なのだろう。察するにプロの書鬼官なのかもしれない。

 神海の淡々とした対応に、文色は毒気を抜かれたのか。瞳に宿った怒りを押さえつけるように、瞼を閉じた。黒子の後に付き従うように、しゃらりしゃらりと歩き始める――かに見えた。


「秋月勇斗君」


 突如、文色は俺の名前を呼んだ。

 横に並び立ち、真っ直ぐ前を向いたまま、青いルージュが引かれた唇を動かす。


「君が何を思ってここに来たのかは知らない。だが、一つだけ忠告しておく」


 少女は一旦言葉を切り、大きく息を吐いた。


「君がどちらの選択をするにしろ、君にとっては最大の不幸であることは間違いない。なら、君はどうする?」


 訳のわからん問答をする。

 唖然としていると、少女はドレスの裾から一冊の本を取りだした。そして俺に押しつけるように渡す。


「ちょ、ちょっと……。これ」

「選別だ」


 ただそう言い残し、文色は黒子の後に付き従い、境内の奥へと進んでいった。自作か? と思いつつ、もらった本をめくってみたが、全ページ白紙だった。

 彼女が見えなくなるまで見送った後「我々も参りましょうか」と神海が先導する。


「ま、待ってくれ、神海さん」


 神海はどんどんと奥へと入っていく。仕方なく付き従った。

 俺はここまでの経緯を話した。自分が全くの素人であること。ついさっき悪魔という存在がこの世にいることを知ったこと。そして書鬼官を目指していないこと。包み隠さず、洗いざらい喋ったつもりだった。

 返ってきた言葉は、フルカスが言った事とほとんど同じだった。


「あなたが悪魔を召喚した。それは魔導にとって、あなたが魔導書を記したという紛れもない証拠になります。そして書鬼官になりたいと望んだことも」

「けど!」


 反論する俺を、神海は立ち止まって手で制した。


「調査はします。ですが、あなたの作品がなんらかの方法で我々のソロモン出版に持ち込まれ、魔導書化され、魔導に素人のあなたが悪魔召喚に成功した。私の代では初めてではありますが、過去素人の人間が悪魔召喚に成功したという例はいくつもあります。そしてあなたがここに来たという時点で、拒否権はありません。もうあなたは魔導こちら側の人間なのですから」


 道が開けた。いつの間にやら境内の前に辿り着いていた。

 玉砂利が丁寧に敷かれた広い空間。四方には組み木された大きな炎が舞い、周囲を照らしている。立派な瓦屋根の本殿は広い空間を見つめるように鎮座し、漂う火の粉とオレンジの光にさらされている。

 右を向くと、小さな御殿があった。開放的な能舞台のような場所に、幾人もの人間が座してこちらを伺っている。ほとんどがスーツ姿の男性だが、中に混じって二人の異色の顔ぶれがあった。

 一人は先ほど出会ったゴスロリ少女だ。静かに瞑想でもするかのように瞼を閉じ、じっとしている。


 もう一人は見たことがない顔だった。ショートカットのヘアースタイルに、大きくパッチリとした瞳と、薄く笑みを浮かべた魅力的な唇。肌は白く、如何にも清純な雰囲気を醸し出しているのだが、先ほどのゴスロリ少女と同じくこちらも負けず劣らず変わった格好をしていた。


 ずばり言おう。頭にフリルがついたカチューシャ。黒の長袖に、同色の長いスカート。そして清潔感漂う真っ白なエプロン。そう。そこにいたのは、紛れもなくメイドさんだった。

 それもコスプレしているという風でもない。如何にも大屋敷に住んで、マジでメイド長でもしていそうな印象がある。生まれた時からメイドでしたという風だ。


 はっきり言う。俺はメイドさんが大好物だ。

 俺が凝視していると、メイドさんは視線に気付いたらしく、こちらに手の平を向けて、三回手を振ってくれた。

 はにゃあ、とここに来て初めて俺は、暗鬱な気分が晴れたような気がした。


「そろいましたね」


 神海の蠱惑的な声が、俺を現実に引き戻す。

 その声が合図だったか。組み木の側、灯籠の影、拝殿の奥からそれぞれ一人ずつ人がやってきた。男が二人。女が一人だ。


「ぼーず、遅すぎや。年長者を待たせるもんちゃうで」


 独特なイントネーションで俺に忠告したのは、本人が言うとおりの年上の男性だった。おそらく三十路前か後ぐらい。ワカメのようなウェーブがかった長髪に、顎には無精ひげをはやし、スーツもよれよれでだらしない印象を受ける。細めの三白眼は威圧的だが、しゃべり方のおかげか、何故か憎めない空気を持っていた。


「それが君の悪魔……?」


 鼻で笑いつつ、フルカスを足先から頭頂まで眺めたのは、俺とさほど年の変わらない青年だった。長い金髪に、淡い水色とでも称せばいいだろうか、中性的な目の色をしている。鼻の高さも、顎の角度も、纏う雰囲気も明らかに日本人とは違う異国人。肌も驚くほど白く、赤のネクタイに、グレーのシャツ、黒のスーツという取り合わせもよく決まっていた。

 ただ態度が気に入らない。全く俺に一瞥することなく、ずっとフルカスの方に好色そうな視線を送っている。すかしたヤツだ。


 最後の一人は少女だった。異国の青年と同じく、年は俺と同じくらい。黒のショートカットに、真っ黒な瞳。襟元に水色のラインが入った夏の制服は、おそらく隣町の高校のものだろう。 如何にも日本の女子高生という感じだが、二つ特徴的なところがあった。一つは首に巻いたマフラー。いくら初秋の夜とはいえ、決して寒くはない。しかし少女は長めのマフラーを口元が隠れるぐらいぐるぐる巻きにしていた。二つ目は背中に背負った袋。おそらく何かの武器という事は推測できるが、詳しくはわからなかった。


 三人が集まったところで、神海は静かに宣言した。


「では、これよりソロモン新人小説賞の二次選考会を開始したいと思います」

「待ってくれ」


 いきなり物言いを申し立てたのは、言うまでもなく俺だ。


「さっきも神海さんには話したんだが、俺はあくまで一般人だ。ここで何が行われるのか知らない。そもそも――――」


 俺は魔導書を――と言いかけた時、声は隣からやってきた。


「殺し合いさ」


 物騒な一言を突きつけたのは、金髪の男だった。

 自分が予想していた事態とは、大きく外れた言葉に俺は声を失った。


「悪魔をかけた殺し合いだよ。そう言うことでしょ。神海編集長」


 皆の視線がソロモン出版編集長に注がれる。神海は軽く咳払いをした後。


「あなたも一文学者なら、少し言葉を選ばれた方がいい。――ですが、否定はしませんよ、まき村銀むらぎん君」

「ほう。……あんたが蒔村まきむらぎんか。エノク新人賞の佳作に選ばれたらしいやないか。もうデビュー決まってるんやったら、おじさんに譲ってくれてもバチは当たらんで」

「そうしたいのは山々ですけど、少なくとも館川たてかわ巽也たつやさん――あなたみたいなベテランのアマチュア書鬼官のプライドが許すのですか?」

「あ。俺、全くそんなん気にならへんから。もらえるもんはもらう主義やしな」


 二人は勝手に会話を始める。


「あんたらの自己紹介はいい」と俺は二人の会話をぶった切る。「殺し合いってなんだ?」

「その点は今から私がご説明します」


 三人の会話に、神海が入り込んだ。


「勝敗は君主の読物マスターブックの破壊によって決することにします。……秋月君。君主の読物についての説明は必要ですか?」


「悪魔の魂だろ」と懐から君主の読物を取り出す。俺が書いたとおぼしき魔導書。フルカスの歴史が刻まれた魂の代用物。それを見ながらあることに気付いた。


「待てよ! その破壊ってことは、フルカスはどうなるんだ?」


 俺はすでにその答えに辿り着いていた。

 フルカスは魔導書のことを魂であると言った。そしてこうも説明した。


“契約書”だと。


 その破壊ということは、つまり俺とフルカスとの契約が切れるということでもある。その代償行為がどのような形で償われるかは知らない。だが少なくとも予想されるのは別離。フルカスという悪魔と離れる事だ。


 今一度、俺はフルカスを見た。

 悪魔という太古より畏忌(いき)されし者。忌避されし存在。確かに彼女との別れは、俺と魔導を分かつ絶好の機会なのかもしれない。再び好きなラノベを描く日常を手にする一つの選択なのかもしれない。


 しかし――。


 フルカスと別れることを望まない気持ちが存在していることも事実だった。


 ふと誰も何も言わないことに気付いた。同時に、誰も俺のことを見ていないことにも気付いた。

 皆の視線の先にはフルカスがある。皆一様に全身を石のように固くして、微弱に震えている。蒔村も館川も口開けたまま。まだ名乗りすら上げていない無口な少女も、目を大きく見開いていた。

 その中にあって、神海だけが一人薄く口を開け、笑っているように見えた。


「フルカス…………やて………………」


 やっと言葉をついだのは、館川だった。蒔村が追従する。


「おいおい。冗談はよせ。……フルカスと言えば、ソロモン王の時代に召喚されて以来、一度も召喚された事がないんだぞ。かの大魔術師レヴィやローゼンクロイツすら成し遂げた事がないんだ。それを昨日今日、魔導に踏み込んだ一般人が召喚できるはずがない。冗談にしては品がなさすぎる」


 少しふざけるような調子で語る。こいつなりの冷静さを保つための言い方なのだろうが、言葉に熱がこもりすぎていて、動揺しているのはみえみえだった。


「そや! はったりに決まったとる!」と館川も同調する。

「証拠が必要ね」


 ずっと黙っていた少女も、この時初めて口にした。


「そや。証拠や証拠! フルカスっていう証拠をだし!」


 激昂する館川。俺はどうしたら良いかわからず、あたふたするばかりだ。

 とその時、バッと炎に照らされ、一枚のパーカーが夜空に舞った。夜気に流され、数メートルのところで音もなく着地すると、玉砂利の上に広がった。

 姿を現したのは、見事な甲冑装束を着た少女の姿だった。


「証拠というなら、存分に。……戦えば、すぐにでもわかることですから」


 努めて冷静に――そして冷酷に、フルカスは三人の書鬼官候補ともくされる老若男女に忠告した。今にも刃を走らせ、三人の首を取らんというような気迫が放たれていた。

 騒ぎ立てていた三人は同時に口を噤み、額に汗を滲ませた。


「説明を続けましょう」


 沈黙を破ったのは、神海だった。慣れているのか。トラブルに動じた気配はない。


「察しの通りかと思いますが、君主の読物を破壊されれば、悪魔との契約が切られることになり、その場で悪魔とはお別れです。こういう説明でよろしいでしょうか? 秋月君」


 サングラスの奥で神海は笑った。


「ああ」


 と応じたが、もちろん釈然としない。二次選考のルールにではない。俺の気持ちにだ。

 もうこのまま進みたくないというなら、今この場でも君主の読物を破壊してもらえばいいのだ。


 だが、それに踏ん切れない自分に対して、納得が出来ていない。

 神海の進行はそんな俺の気持ちを知ってかしらずか。コンベアのように流れていく。


「まず、こちらで決めた組み合わせで1対1で戦ってもらいます。ああ、ちなみにここで言う“1”というのは、悪魔と書鬼官をあわせたペアの事をいいます。魔導具は“王錫書スペアブック”以外の使用は禁止とします」

「スペアブック?」

「これや」


 館川が差しだしたのは、文庫本だった。表紙には何も書いていない。めくってみると、文字が書いてあった。どうやら小説の形式になっているらしい。

 あんま、じろじろ見んな、と言って、ひったくるように俺から取り上げる。


「簡単に言えば、魔導具としての魔導書や。主に悪魔の強化。けど、自分の護身にも使えるんやで。なんせ悪魔が戦闘不能に陥ったら、自分が君主の読物マスターブックを守らんとあかんからな。怪我せんようにってことや」


 館川は自分の君主の読物を取りだした。俺のとは少し違う。白い装丁がなされていた。


「君主の読物はたいがいみな同じ形をしとる。けど、王錫書は文字が書けるもんやったら、なんでもエエ。俺のは文庫本やけど、宝石や衣服、武器に書いてるヤツもおるわ」

「館川さん。少し塩を送りすぎじゃないですか?」


 忠言したのは蒔村だった。


「エエやないか。これぐらい……。書鬼官なら誰でも知っとる知識や。それにもしぼーずが言うとることがホントやったら、俺ら全員歴史的な証人になれるんやで。魔導が廃れ、科学全盛の時代で、こんな大イベントないやろ。なのに、書鬼官がヘボすぎて、折角のイベントを台無しにするわけにもいかん。関西人はな。黒白よりも、面白いかそうでないかが重要なんや」

「だから、あなたは万年なんですよ」

「なんやと」


 若年者の嘲弄に、館川は歯をギシギシさせながら睨んだ。


「質問が」


 手を上げたのは意外にもフルカスだった。


「他の書鬼官マスターを殺し、君主の読物を奪うことはルール上に抵触するのでしょうか?」


 悪魔の大胆とも言える質問に、俺は声を失った。が、他の三人は違う。真っ白な髪の騎士を睨むだけだった。


「問題ありません」とだけ神海は答える。

「フルカス!」


 噛みつくように叫んだが、悪魔は手で制した。


「ご心配なく。私は悪魔ではありますが、騎士道というものを崇拝している。出来れば刃傷にんじょう沙汰ざたは悪魔の間だけで収めたい。しかし私以外のものがそういう考えを持ち合わせているかどうか別でしょう」


 フルカスは境内に来て、初めて振り返る。

 紅玉の瞳が真っ直ぐに俺を射抜いた。曇りのないまなこは、舞い散る火の粉の光を受けても全く揺るがない。まるで火の粉すら糧として、赤い色をさらに紅くしているようにすら思える。


 少女の言いたいことはわかる。


 ここで引くか止まるか。

 そう問うているのだ。

 だけど俺には出来なかった。

 自分が書いたとおぼしき魔導書を切り裂くこと。そして少女と別れることを。

 迷っているうちに、神海の説明は淀みなく続いた。


「では、各人の対戦相手を発表させてもらいます。蒔村銀対秋月勇斗」


 蒔村の浅葱色の瞳がこちらを向いていた。その口元には笑みが張り付いている。対して俺は喉を鳴らすのみだった。


「そして館川巽也対静原しずはら光里ひかりになります」

「あんじょうよろしく頼みますわ」


 館川が言うと、初めて名前をアナウンスされた静原は静かに瞼を閉じ、集中した。


「一次通過者はこの四名。その中から三次選考に進めるのは二名――つまり勝った方が三次選考に進めるということです」


 三人が同時に頷く。俺は首肯しなかった。だが、二次選考の進行が止まることはない。


「では、蒔村銀と秋月勇斗の試合から始めます。両ペアは中央へ。他参加者は、舞台での見学をお願いします」


 蒔村は迷わず篝火に囲まれた空間の中央へと進む。俺は二、三歩遅れて、後についていく。


 足が重い。

 よく――鉛のようだと比喩するが、まさしく今の状態がそうだ。死力を尽くした戦い。ラノベ作家を目指す人生を続けていれば、おそらく交わることがなかったであろう経験。これほど“死”を意識したことはない。今この時に比べれば、町中で行われる喧嘩など、児戯じぎに等しい。


 いつの間にか、自分の足が止まっていた。中央まであと数メートルの距離にある。蒔村はすでに位置についていた。口端を歪め、好物を待ち望む子供のように笑っている。

 くそ、と自分に悪態をついても、一向に足は動かない。汗だけが流れてくる。

 こんなに臆病だったのか。

 俺は自分に失望した。


「主よ、心配めさるな。……あなたのお命は私が守りますゆえ」


 フルカスがそっと耳元で囁く。悪魔の少女はそのまま主を追い越し、蒔村と正対した。

 ふと体が少し軽くなっていることに気付いた。杭でも打たれたかのように動かなかった足が動く。発汗量はそのままだったが、俺はなんとか空間の中央までやってきた。


 蒔村は「ふ」と小さく笑った。よくここまでやってきたな、とでも言いたいのだろう。

 睨んでやったが、笑顔を崩さなかった。


「フルカスとの歴史的な一戦に望めるのは光栄の至りだ」


 視線を悪魔の騎士に移し、蒔村は言った。


「まあ、君が本物であるかどうかはわからないけどね」


 やはり笑う。ここまで馬鹿にされて、さすがに腹が立ってきた。


「では、お互いに“君主の読物マスターブック”を」


 いつの間に横に立っていたのか、俺と蒔村のちょうど中央に立った神海が割って入る。

 蒔村は懐から君主の読物を取り出し、地面と平行になるように掲げた。黄緑色の装丁がされた魔導書だった。俺も同じように倣う。

 その後お互い距離をとるように、と指示され、それぞれ十歩ほど距離を取った。


「それでは、ソロモン新人賞第二次選考を始めます」


 神海は俺と蒔村を交互に見る。二人を制すように両手を掲げた姿勢を取った。

 数秒、沈黙が流れた。

 火が爆ぜ、木々がしなる音が聞こえる。

 緊張感が最高度に研ぎ澄まされた。



筆鬼ひっき開始!」



 そうして、望まぬ殺し合いが始まった。

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