第4話 命、巡るとき


     1


――1999年 夏

直也は四才になった。世間では世紀末だ、ノストラダムスだと浮かれてはいたが、天宮家はまだまだそんな余裕はなかった。とは言え、ひかりの家を中心に、家族一丸となっての生活にも慣れ、直也は快方に向かって大きく踏み出そうとしていた。

日ごろ、当たり前に使っている言葉たち。しかし、ものの名前を口にすると言うことは大変なことだ。ようやく意思を言葉に表すことを学んだ直也を見ていると、その難しさをまざまざと思い知らされる二人だった。

最寄り駅の構内にJR関連のポスターが貼ってあった。それは風向明媚な四季折々の景色であったり、癒しの温泉宿であったりと、その内容は定期的に変わった。いつもその壁の前で直也はポスターを食い入るように見つめた。時折何かを指差しながら。

しかし声を発することなくじっと見つめる直也を見て、秀俊も静子も、そのポスターの何が直也の心を捉えているのかわからなかった。そんなある日のこと。

いつもはその前で止まってポスターを見ながら楽しそうにニコニコ笑うだけだったが、その日は少し様子が違った。じっと見つめて、やおら指差してたった一言だけ小さく「デンデン」と発した。

「小さい子供の言葉ってかわいいなあ」

その場にいっしょにいたひかりの家のママ友達が何気なく言った。

「え?」

静子が直也の指差す方を見つめる。ほんの一瞬、まるで時が止まったような沈黙が訪れ、そして我に返ったように静子は言った。

「直也、あんたそれ、わかるのん?」

「デ、デデン、デンデン、デンデン!」

 直也はポスターを指差しながら小さな声で繰り返し言った。

それは、春から営業運転を開始された新幹線。七〇〇系のぞみの何となく間延びしたフロントマスクが大きくアップで映し出されたポスターだった。

「そうや、それ、デンデンや!」

静子は思わず直也を抱え上げ、そして人目もはばからず大粒の涙を流してぎゅっと直也を抱きしめた。プラレールが大好きだった直也にはそれが何であるか、あるいはそれが運行を開始されたばかりの新型車両であるということさえもきっとわかっていた。いつもプラレールを繋げて円形の線路を作り、ぐるぐる回る電車を飽くこと無く何時間でも見ていたのだから。

でも言葉にしたのはこの時が初めてだった。それは確かな意思疎通だ。

このような当たり前の事でも、静子と秀俊にとって、特に静子にとっては涙するぐらい新鮮で嬉しい出来事だった。二人は広い海原をたった一人で彷徨う直也をやっとの思いで見つけた思いだ。

 しかし、この世に神仏がいるとするならば彼らは、「そう易々と事は運ばないよ」とほくそ笑んだに違いない。真っ暗闇の先に、やっと見つけた出口。三人は恐る恐る出口から下を覗く。そこは着地点さえ見えない奈落だった。断崖の真ん中にぽっかりと口を開けた出口。戻るか、一歩踏み出すか。


――そうだ、二人目の子供を作ろう。

ある時、突然、秀俊はふと思った。

確固たる信念も理由もない。もしかしたら直也には将来、誰か助けてくれる親族が必要だと考えたからかもしれない。あるいは世間一般の家族計画を模しての行動だったのかもしれない。いずれにしても浅はかだ。〝世間一般〟と言う言葉が裸足で逃げ出しそうな家庭だったのに。

さすがに今回は、静子は賛成しなかった。当然だろう。現在の状況から、あるいは、直也に対する今までの秀俊の態度を鑑みて、そいつは至って冷静な判断だ。静子に比べて秀俊の感覚は世間一般から相当ズレていた。

しかし彼はそんなことはお構いなしに、なぜか今回は二人目を作らなければいけないような気がしていた。あれほど子供を苦手としていたのに、まるで何か神秘的なものに操られるように。神秘的? 否、それは彼の暴挙を正当化するための言い訳で、本当は単に種を増やせと言う生殖本能に忠実に従っただけで――これも神の成せる業なので神秘的と言えば言えなくもないが――まあとにかく、静子の困惑も省みず二人目の子供を作ろうと言ったのは彼の方からだった。そんな秀俊に静子は真剣に尋ねた。

「ほんまに、ちゃんと協力してくれる?」

「当たり前や!」

静子の不安な気持ちを拭い去るように彼は強く答えた。確かにその気持ちに偽りはなかった。例えるなら、欲しい物を目の前にして無茶なローンを組むようなもので、その時点では決して支払いが滞るなどとは考えない。

実際、直也の世話も、以前に比べたら、多少? はできるようになっていた。どれぐらい進歩したかと世間から問われれば、彼は自信を持ってこう答えただろう。

「俺な、はじめて直也を風呂に入れたよ」と。

ちなみに直也はもう四才だった。父親としては出来損ないもいいところだが、それまでがあまりにお粗末だったのでいっしょに風呂に入るだけでも相当な進歩だ。ついさっき裸足で逃げ出したはずの〝世間一般〟がせせら笑う。

 

ここで大きな問題がある。子供は天からの授かりものでも、ましてや気のいいコウノトリがわざわざ運んで来てくれるものでもない。

そう。直也を身篭って以来、足掛け五年、秀俊と静子の間には性交渉どころかスキンシップさえもまったくなかった。そう言えば、直也も性交渉の末に生まれた子供ではない。現代医学の申し子だ。セックスレス、というか、夫婦間の秘め事なぞ、どこか違う世界の話のような感じさえしていた。だが再び子供を儲けるとなればそれは避けては通れない。前回のようにプラスチック容器をおめおめと持参することは何としても避けたかった。

二人は付き合い始めた頃は朝な夕なと、ほんの僅かなプライベートな場所と時間があればさかりの付いた犬猫のように体を合わせていた。それこそ極端な例を挙げれば、寝静まった夜行バスの車内でさえ、人知れずお互いの秘所を慰め合うほどにその肉欲は行き場を失っていた。

それがどうだ。時が経つに連れ、秀俊の欲望の炎は小さくなる一方。直也が生まれて五年、とうとう秀俊の静子に対する性的欲求はまったく費えてしまった。だが静子はそうではない。彼女の性は情と同じところをずっと彷徨っていた。

元々彼女は秀俊と出会うまで正真正銘の処女だった。そして出会った後も男は秀俊一人しか知らない。彼女の性を解放し、悦びを教えたのは秀俊たった一人だ。だからこそ余計に静子は秀俊を求め、そして待った。ずっと一人で。

明らかに秀俊と静子の間の温度差は広がっていた。何と残酷なことか。

いつだったか、確か直也を身篭る前、例の、「わたし恋をしたい」と同じぐらいの時期だった。彼女は、あまりに自分に対して関心を失ってしまった秀俊に言ったことがあった。「本当は、わたしの体が目的やったんやろ?」と。笑いながら。

冗談にしてはあまりにキツイ、が、的を射た一言だ。その時、秀俊は笑ってごまかしてはいたが、実際のところ、彼の薄っぺらい良心がチクリと痛んだ。

確かに付き合い始めた当初は、性欲の受け口としての彼女の体を求めていたことは事実だ。しかし今、体は体だが、性欲の受け口ではなく純粋に生殖能力を持つ彼女の体を目的としていた。

秀俊に取ってみれば、(そうか、産んでくれるか。ではお願いしようか)ぐらいの話で、それならば子供を産めれば静子でなくとも誰でも良いのか? と言うことになる。女性にしてみればこちらの方がはるかに屈辱に違いない。

子供がほしいのではなく、子供を作らなければならないと言う打算的な考えのみだった。言葉にすれば微妙なニュアンス。だが心情的には天と地ほども違う。


それから数週間後の夕食時、静子がぼそっと言った。

「今日からいけるで」

テレビに夢中になっていた秀俊であったが、それが何のことなのかすぐにわかった。やはり心のどこかでずっと気にしていたのだ。それはすぐに動揺に変わったが、静子に悟られまいと努めて冷静さを装った。

「排卵日過ぎたから。たぶん今日ぐらいからいけると思う」

静子が今度は言葉を濁すことなくはっきりと言った。宣言するように。

(付けとったんや!)

秀俊の心中は穏やかではない。自分から言い出したことなのに静子の目を直視できない。

「ちょっと、わかってるの?」

「ああ」

「何、その気のない返事。ほんまに作る気あるの?」

「わかった。行くわ」

やはり静子と目を合わすことなく、手元をじっと見たまま答えた。

あまりに身近な存在になった時、秀俊の中で性欲は厭わしいものに変わった。まるでそれは、母親や姉妹と交わす背徳の行為にも似ている。家族とはセックスできない。だが秀俊は覚悟を決めた。やるしかない。


寝室は別だった。住居は2LDKの間取り。秀俊は六畳の和室に、そして静子と直也はもう一方の洋室に寝ていた。深夜二時。彼は布団を抜け出して隣の洋室へと向かった。

(まるで夜這いやな)彼はふとそう思ったが、根本的に意図するところがまったく違うことをわかっていなかった。

音を立てないようにドアを開け、そっと中に忍び込んだ。エアコンの切れた室内は蒸し暑かった。そして人間の汗や吐息の臭いが、閉めきった部屋に重く、濃く漂っていた。

薄暗いナツメ球の下、汗だくになりながらも二人はよく眠っていた。

(うわ、暑っいな、この部屋)

秀俊はたまらずエアコンのスイッチを入れた。ピッと言う電子音に静子が目を開けた。いや、元より起きて待っていたのかもしれない。だが彼女は何も言わず、秀俊の方を虚ろに見つめていた。

彼女の目を見ずにベッドに近付き、腹から下を覆っていたタオルケットをそっとめくる。秀俊は、「あっ」と思わず悲鳴にも似た小さな声を上げた。

静子は上にTシャツを着ていたが、下には短パンはおろか下着すら付けていなかった。薄暗い灯りの下、肉付きの良い真っ白な下半身がぼんやり浮かんで見えた。

(準備OKってか? まいったな)

秀俊がちらりと静子の顔を見ると、彼女はうっすらと笑いを浮かべていた。照れ笑いだろうか。再びヘアーまでむき出しの下半身に目をやる。かつて呆れるぐらい交わりあったその肢体なのに、今彼は思わず怯みそうになった。彼女のほうが、よほど肝が据わっている。 

そして始まった。心配したが、この期に及べばそれはきちんと機能したことに我ながら驚いていた。だがそこには色気も何もない。もちろんキスも前戯もない。当たり前だ。彼に取ってその行為は愛の営みなどでも、百歩譲って、性的欲求を満足させるためでもないのだから。あるのは生殖に係わる単純作業のみ。

暑い。肌にぬるぬると汗が絡み付く。生理的嫌悪感。彼は雑念を払い、下半身に意識を集中させた。深く沈めるたびに子宮口の硬い隆起が何度も秀俊を刺激する。その中の様子はまるで映像を見ているようにはっきりとわかった。今までこんなにも冷静なセックスはしたことがなかった。安物のベッドが軋み、静子が小さな声を上げる。

秀俊が思ったよりもすぐにその時はやって来て、ほんの一瞬、鈍い快感と共に彼の頭と心と体、そのすべてが性器に集まった。しかしすぐにそれぞれが遠く距離を置いてばらばらになった。あの時、あのプラスチック容器に射精した時と同じだ。

事が済んで、彼は一刻も早くシャワーを浴びたかった。静子の膣から溢れた粘液が自分の陰毛にまでべったりと絡み付いていた。エアコンから吹き出される風を受けて、背中の汗は湿り気を残したまま急速に冷やされる。不快だ。でも静子にはきちんと労いの言葉を忘れない。

「疲れてるとこ、悪かったな。ありがとう」

「ううん。けど今回は、できるような気がする」

「なんで?」

「わからんけど、絶対大丈夫。できる。そんな気すんねん」

あのせり出した嘴(くちばし)のような子宮口が彼の放出した精を一匹残らず、すべて貪欲に飲み込んだに違いない。ふとそんなことが彼の脳裏をよぎった。

「それやったらええんやけど……」

「うん。大丈夫や」

彼はむき出しの静子の下腹部をその薄い陰毛の上からやさしく撫でて、そしておもむろに二回、拍手を打った。

「何やそれ。神頼み?」

「うん」

静子がにっこり笑った。そして言った。

「ちょっと気持ち……良かったな」

彼は逃げ出すように浴室へと向かった。


   2


あの直也の時の苦労は一体何だったのだろう。といっても辛い思いをしたのは一方的に静子だけだったのだが。妊娠までの血の滲むような努力に加え、あまつさえ、あの出産。あれはまるで静子の腹から無理やり搾り出したような出産だった。

比べて、今回の妊娠はあまりに自然。あまりに安易。彼は拍子抜けしてしまった。あの夜、静子が言った通りだ。これが女の動物的な勘と言うやつなのか。

 つわりもほとんどなく、出産までずっと食欲もあり、経過は順調そのものだった。世間では不妊治療を経た経産婦は授かりやすい体質に変わる、とよく言われている。しかし秀俊はそうは思ってはいなかった。(ほらやっぱり、俺の思ったとおりだ。この妊娠は神がかり的な何かがついている)などと都合良く考えた。浅はかだ。

 産み月近くに入り、静子の腹はこれでもかと言うぐらいにせり出して来た。しかし秀俊は、直也がお腹にいた時のように〝欲望の塊〟がどんどん膨らんで行くあの何とも言えない嫌悪感は覚えなかった。彼の中で多少の人間らしい変化が起こったのかもしれない。

それでも彼女の孤軍奮闘感は拭えない。言うことを聞かない直也の尻を叩き、非協力的な秀俊を横目に見ながら、家事や育児を懸命にこなしていたが、できることとできないことの取捨選択、精神論ではもう何ともならない物理的に困難な状況はすぐにやって来た。

ある夕食の時のこと。テーブルに付かせても、片時もじっとしていない直也が勢い余って目の前のコップをひっくり返した。当時流行のポケモンの絵柄の付いた大きなプラスチックコップだ。満々と入っていた麦茶は、あっという間にテーブルクロスに薄茶色の大きな水溜りを作り、テーブルの端からポタポタと滴り落ちた液体は床を濡らした。何もかも麦茶まみれだ。だが秀俊は席を立とうともせず、その様子をあっけに取られて見ていた。

次の瞬間、静子の怒号が響き渡る。

「直也ぁ! あんた、せやから言うたやろ、ちゃんとしなさいて!」

そう言うや否や、彼女は倒れたコップをさっと拾い上げ、勢いに任せて背後のシンクに向かって投げつけた。派手な音がしてシンクの縁に当たったコップは跳ね返って床に転がり落ちた。でも割れない。プラスチックだから大きな音がしただけだ。でもそれは直也を縮み上がらせるには十分だった。慌ててテーブルの下に逃げ込む直也。静子は振り返り、秀俊の方を見て、静かに言った。

「すみませんが、直也のひかりの家への送り迎え、お願いできませんか?」

有無を言わさない、絶対的な威圧感。改まった敬語が怖い。彼女はずっとこれを言いたくて我慢していたのだと、その時秀俊はやっと気が付いた。彼女の目を見ず、「わかった」と小さく答え、従う他なかった。

当然のことながら、送迎は父親の役割だ。自発的にその役を買って出るべきところだし、普通なら、普通の父親ならばもっと早くにそうしただろう。しかし彼はいよいよ静子が動けなくなるまで、そして意を決した静子から頼まれるまで行こうとはしなかった。

彼は、ひかりの家に通う子供たちや、その親たちに対して恐れにも近い違和感を未だに持っていたが、事態は急を要していた。


五月下旬。どんよりとした空から針のような雨が降っていた。。梅雨の走りだろうか。午前中からの小雨は昼過ぎには本降りとなった。すり減ったワイパーがガラス越しの街を滲ませる。車で来て正解だ。自転車ならばずぶ濡れになっていたところだ。

大通りから、気を付けていなければうっかり通り過ぎてしまいそうな一方通行を曲がり、少し走るとその狭い道路沿いにそれはあった。なんとなく見覚えがあった。小規模な幼稚園か、あるいは小さなコミュニティーホールのような建物だ。もう随分と古そうだ。その正面入り口まで来て、まず車で敷地の中まで入っても良いものかと悩むところから始まった。外で停めて、歩いて入った方が良いのではないか? と迷っていた時に、後ろからもう一台車がやって来て狭い道で立ち止まって塞ぐなと言わんばかりにクラクションを鳴らされる。追い立てられるように彼は敷地に乗り入れた。場違い感は抜けない。

 彼がここへ来るのは、あの運動会以来二度目だ。運動場と呼ぶにはあまりに狭い広場――前回の運動会会場だった――の隅に遠慮がちに車を停め、建屋までの数十メートル、水溜りを避けて足早に向かった。

その日、彼は通所二年目にしてようやくひかりの家の館内に足を踏み入れた。

古びた公民館のような建物の玄関を入ると、乳臭さともアンモニア臭ともつかぬ空気が彼の鼻腔を刺激した。奥の方から子供たちの動物的な奇声が聞こえていた。入ってすぐ左に靴箱が並び、雨模様のせいか、黄色やブルーのかわいい長靴が横倒しにぎゅうぎゅうと押し込まれていた。右側にはガラス小窓があり、中では女性が机に向かって何か書き物をしている。事務室らしい。

彼は小窓をコンコンとノックした。三十代ぐらいの上下ジャージを着た女性が彼の方を見てガラス窓を開けた。事務員だろうか。それにしてはラフなスタイルだ。えび茶色のジャージの上着には左胸のところに近藤と刺繍で名前が施されていた。

「あの、すいません」

「はい。何か」

「あの、天宮直也の父ですが……」

その近藤と言う女性は怪訝そうに彼を見ていたが、彼が直也の父だと知ると、急に驚いたように立ち上がり、先程のいぶかしげな表情から、とても珍しいものを見た、と言う驚きの表情に変わった。まるで不審者扱いだ。だが仕方あるまい。二年もの間、おそらく彼のことは噂にはしょっちゅう上ってはいただろうが、実物に会うのは初めてなのだから。

「ああ、直也のお迎えですね。しずちゃん、あ、奥さんから聞いてます。奥さんどうですか?」

「あ、いつもお世話に……」

秀俊が言い終わらない内に彼女は「お待ちください」と言い残してすぐ横のドアから玄関に現れ、彼ににっこりと微笑みながら小走りで奥へと消えた。

すぐに奥の方で「なおやぁ、直也どこぉ? お父さん来たでぇ」と大きな声が聞こえた。

本当に事務員なのか? とても事務方らしくない。彼が驚くのも無理はないが、事務方を含めた職員、保育士、父兄、もちろん子供たちも、皆本当に仲が良い。杓子定規な壁はまったくない。それはまるで一つの大きな家族のようだ。ここは本当に良いところなのだろう。

けれど、その結束の輪を乱し、自分たちを傷つけようとする者には容赦ない。――怒らせたら怖い人たち。それは深く関わりたくないと言う警戒心が彼にそう思わせるのかもしれない。彼には、そのニコニコ顔の裏側にはヒステリックなナイフが隠れているような気がしてならなかった。


子供たちの送迎時間は決まっていて、こうして直也を待っている間にも玄関には次々と保護者たちが子供を迎えにやって来た。それは母親であったり、祖父母であったりする。   

しかし誰一人として秀俊の見知った顔はなかった。二年も子供を通わせているのに、会う人は、彼の知らない人ばかりだった。

「こんにちは」と皆笑顔で挨拶はするが、その表情に隙はない。彼は自分から名乗るのも気まずかったので何も言わないで、ただ玄関先で突っ立って待っていた。他の保護者たちは、靴を脱いで勝手にどんどん奥へと消えて行った。まるでここは彼らの家のようだ。

秀俊は知らなくとも彼らは皆、ほぼ秀俊が誰であるかをすぐに聞き及んだはずだ。

(なあ、あの玄関にいてる男の人、誰?)

(ああ、直也のお父さんや)

(へえ、あの人が直也のお父さん!)

などと奥でひそひそと囁くのが聞こえて来そうだ。居心地が悪い。

すぐに帰りたかった。だが直也は出て来ない。五分経ち、やがて十分が経とうとしたころ、奥から近藤が直也をがっしり掴んで連れて出て来た。忘れられていたのではなくて彼はほっとした。

彼女は肩で息をしていた。直也は抱きかかえられながらも、捕まった小動物のようにジタバタと暴れていた。

「こらっ直也、じっとしとり、お待たせしました。ああ、やっと捕まえました。ほんまにこの子は!」

ところが、直也は、彼の姿を見ると、ほんの僅かの隙を突いて彼女の腕を振り払ってあっという間に再び奥へと逃げ込んで行った。

「あっ、しまった、こらぁ直也!」

「ああああああああーっ」

 奥から激しくドタバタと走る音と直也の奇声が木霊する。

「なおやぁ! こらぁ、ええかげんにしときや!」

彼女は再びすごい勢いで追いかけて行った。まるで鬼ごっこだ。彼はいよいよ申し訳なくなった。もう玄関口でボケッと立って見ているわけには行かない。これまでだ。意を決して靴を脱いだ。

建屋はロの字型の平屋造りになっていた。中央にかなり大きな部屋がある。おそらく集会やいろいろなイベントがこのスペースで催されるのであろう。その広間を回廊がぐるりと取り囲み、広間の四方にある扉は開放されていて中の様子が通路から良く見えた。そして広間と反対側に保育室や、トイレ、手洗い場、スタッフルームなどがずらりと並んでいた。しかしそのどこを見ても老朽化は否めない。かなりの年月が経っているように思われた。これだけの敷地があれば相当立派なビルが建ちそうだ。

ミニチュアのような便器の並ぶトイレを横目に見ながら、彼は直也を探してどんどん奥へと進んで行った。すると向こうの角から直也がひょっこり顔を出した。彼は急いでそこまで行くと直也は通路の真ん中に立ち止まって彼を見ている。と、次の瞬間、すぐ横の部屋に直也の姿は消えた。まるでここまでおいでと彼を誘っているようだ。

『なかよしルーム』入り口にはそう書かれたプレートが貼られていた。部屋に入ると、テーブルに向かって座る直也の小さな背中が見えた。すぐ傍に先ほど直也を取り逃がした近藤と、その向かいには姉妹らしき幼い女の子が二人。妹とおぼしき幼子を母らしき女性が抱きかかえていた。友里だ。しかし秀俊にはまだ彼女の名前さえも記憶になかった。彼はその姉の方にすぐに注目が行った。頭にボクシングのヘッドギアのようなものを付けていたからだ。友里も子供たちといっしょにテーブルに向かって一生懸命に何かに取り組んでいたが、秀俊に気付くと、顔を上げて「あ、こんにちは」とにっこり笑いながら挨拶した。

二児の母にしては若く美しいと思った。確か昨年、運動会で会った女性だ。見覚えはあったが名前まで思い出せなかった。

「あ、お父さん……すみません」

近藤がにっこり笑いながら彼に話しかけようとした時、直也も振り向き、その顔は得意満面の笑みに溢れていた。

「直也ね、これまだ途中やったみたいで」

テーブルの上にはトレーに色とりどりの細かいビーズのような粒が無数に載せられていた。それを子供たちは小さな手で一つずつ摘んでは手元のパネルに嵌めて行く。

「それは?」

「アイロンビーズです。今ここですごく流行っていてこの子ら朝からヒマあったらここに来てずっとこれやってやるんですよ。もう何日も」

「アイロンビーズ?」

良く見るとそれは球体ではなく、とても細いチューブを細かく輪切りにしたような円筒形で、それをこれもまた小さな剣山のような樹脂パネルにたくさん並べて点画のような一枚の絵を形作っていく。とても緻密で根気の要りそうな作業だ。

「これね、並べたらアイロンでぎゅって押し付けて絵にするんですよ。あんなふうに」

彼女は壁の方を指差して言った。

彼が壁の方を見ると、そこには子供たちの力作が何枚も飾られていた。花や、動物や乗り物、そのどれもがみごとだ。これをこの子たちが作っているのかと思うと鳥肌が立ちそうな感動を覚えた。

「直也の作品もあるんですよ。あれ」

秀俊は彼女の指差す一枚の絵を見た。その大部分を地味なモノトーンで塗られたその絵は動物でもない、花でもない。それは片側三車線の大きな道路が交差する、どこかの交差点を上から見た地図だった。どこだったろう。彼にはその交差点に見覚えがあった。道路に表示された矢印や車線、幅、そのすべてがまるで正確に測られたように描かれていた。それは他の並べられた作品とは違って、とても無機質な感じがした。けれど、何か心に訴えるものがあった。間違いなく直也の作品であり直也の感性そのものだった。彼はその作品をただじっと見つめた。

「お父さん、すごいでしょう? 直也、きっと、お父さんに見せたかったんですよ。これ」

彼は知らなかった。直也の興味のあるものは〝おかあさんといっしょ〟のビデオを見ることぐらいだと思っていた。いつのまにこんなことができるようになったのだろう。ふと横を見ると直也が隣に立っていっしょに自分の作品を見ていた。やはり満面の笑みを浮かべながら。

「この子ね、すごい能力持ってるんですよ。一回通った道とかね、すべて覚えていて、後からそれを真上から見た平面図で描きやるんですよ。まるで頭の中に精巧なカメラがあって、パシャっとシャッターが切れるようになってるんやと思います。ね、記憶だけでこれだけ描けるってほんまにすごいでしょう」

(記憶だけで!)

秀俊は言葉が出なかった。改めてその図をじっと見つめていたその時だった。

「ねえねえ、直也のお父さん」

先程の頭にヘッドギアを装着した小さな女の子だ。

「直也のお父さんもやってみる?」

「え、あ、ご、ごめんね、今日はもう遅いから」

その子はちょっと悲しそうな顔をした。彼はその悲しげな表情に対してどのように接すれば良いかまったくわからなかった。彼の恐れているものは、保護者や職員ではなく、本当はここに通う小さな子供や障害児たちなのだと、その時気が付いた。子供は、苦手だ。何を考えているかわからない。

そんな彼の当惑した様子を近藤はどこか楽しげな様子で傍観していた。その彼の困った様子を察知したのだろう。友里が言った。

「こら、ミヤ、あかんよ。直也のお父さん困ってはるやんか」

「すみません、僕、こういうの苦手で」

「コンちゃん、人悪いなあ。だまってニヤニヤして。直也のお父さん、顔真っ赤にして困ってはるやんか。何か言うたげえな」

「嫌やわ、村井さん、酷いわ。あんた。まるでわたしがお父さんの困った顔見て楽しんでるみたいやん。てその通りやねんけどな」

「あはは。やっぱりやん。せやけど、直也のお父さん、正直でええ人やね」

「ほんまや。絶対ウソつかれへん人やな。あはははっ」

(絶対ウソつかれへん人、か。そうかもな)

その場は彼女たちと子供たちの笑顔に包まれていた。まるで魔法のように、彼の心の垣根は一瞬で消え去った。このやさしさと温かさ。人と人との触れ合い。静子もこうやって閉ざされた心を解放されたのだと彼は思った。

「さて、すっかり遅くなったわ。みんな帰ろか。ほら直也も、もうそれ置いとき。そのままでええよ。また続き明日したらええから」

近藤の号令で皆一斉に立ち上がった。鶴の一声か。彼には近藤の立ち居地がよくわからなかった。ただの事務員ではなさそうだ。

なかよしルームを出て、玄関口で靴を履こうとしていた彼に近藤が声を掛けた。

「あの、お父さん、申し遅れました。わたし、近藤と言います。ここで一応、副所長させてもろてます。今後ともよろしくお願いします」

「ええ、副所長? コンちゃん、そんなエライ人やった?」

すぐ後ろで二人の子供の手を引いていた友里がすかさず突っ込んだ。

「ちょっと村井さん、今頃そんなこと言うかなあ。けどわたし全然偉くないよ。ただの雑用係やし。みんなからはコンちゃんで通ってますので、お父さんもそう呼んでください。何でも困ったことあったらわたしに言ってくださいね」

(副所長! 事務員ちゃうやん)彼は心の中で苦笑いしていた。

「ほんならわたしも言うとこかな。直也のお父さんすっかり忘れてるみたいやし」

「忘れてるって村井さん、直也のお父さん知ってるの?」

「忘れてないですよ。運動会でお会いしましたよね」

すかさず彼は言った。

「ありがとう。それは覚えててくれたんや」

「もちろん」

秀俊は女性に対して変に気を遣う。そういう厭らしさが自分でも嫌いだった。しかし本人の意向とは裏腹に、そういう気さくなところが女性受けを良くしている。ただの八方美人なだけなのに。

 雨はさらに強くなっていた。玄関先の地面にいくつも水溜りができている。まるで大量のコーヒー牛乳をぶち撒けたようだ。何としてもあの中は通りたくない。

「雨、止みませんね」

 嫌がる直也に無理やり小さめの青い長靴をぎゅうぎゅう履かせながら彼が言った。

「これからもっと酷くなるって天気予報で言ってたよ」

友里が困った顔で灰色の空を見上げる。友里に手を繋がれた都も同じように空を見上げて困り顔だ。秀俊にはその様子がとても可愛く見えた。

「どちらまで帰られるのですか?」

「うん、ちょっと遠いねん」

「せやなあ、この雨で小さい子二人連れて堺は遠いわなあ」

近藤が言った。

「堺ですか。遠いとこから来てはるんですね。電車で? ですよね?」

「うん。もう慣れた。けどこの雨は駅までが辛いわ」

「よかったら送りましょうか? JR桃谷駅までですけど」

「え? ええのん?」

「村井さん、送ってもらい。子供ら濡れて風邪でも引いたら大変やわ」

「嬉しい、助かります。ありがとぉ」

「いいえお安い御用です」

「ミヤ、よかったなあ。直也のお父さん、車乗せてくれるて。この子は都、そしてこっちの小さいのが咲希。ほらミヤ、さっき直也のお父さんにこんにちはって言うた?」

「こんにちは」

ミヤと呼ばれる女の子は少し恥ずかしそうにペコリと頭を下げた。その子の付けているヘッドギアについてはあえて何も聞かなかった。

そして直也はとても機嫌がよかった。いつもは静子の自転車の荷台に乗せられて帰るはずが、今日は車だ。車に乗れることを喜んでいると彼は思っていた。もちろんそれもあっただろう。助手席のチャイルドシートに座ってからも笑顔で、やたらに秀俊の頭や顔を触ろうとした。

「こら、直也、ちょっとじっとしなさい。車、乗れて嬉しいんやな」

「違うよ。直也のお父さん。直也、お父さんが来てくれて嬉しいんやで」

聡明な都の一言。

「え?」

「せやで。お父さん来たってコンちゃんが迎えに来た時もすごく嬉しそうやったで」

「あの逃げ回ってたのは?」

「よっぽど嬉しかったんやよ。直也はちゃんとしゃべられへんけど、嬉しい時はああやって全身で表すんや。なあミヤ」

「うん。直也なあ、嫌がってる時も大声出すけど、嬉しい時もああやってうるさくなるねんで」

「なんでお父さんよりわたしらの方が詳しいの? 変やなあ」

友里が楽しそうに笑った。

フロントガラスの油膜が雨で洗い流されたのだろう。ようやくワイパーがうまく動くようになった。街並みははっきり見えるはずなのに、秀俊の目にはぼんやり滲んで見えた。

また少し直也を近くに感じられるようになった。


「奥さん、具合、どうなん?」

 少しの沈黙の後、エンジン音だけの車内にやさしい友里の声が響いた。

「あ、ご心配お掛けしてますが、今のところすごく順調です」

「来月?」

「ええ」

「そう。大変やな。直也一人でも大変やのに……」

友里の脳裏を祐一の顔が一瞬よぎった。秀俊は頷いたが何も答えなかった。歯切れの悪い友里の言葉は、車内にゆらゆらと漂ったまま、やがて車は駅に到着した。

「ほんまにありがとう。助かりました。ミヤもお父さんにありがとう言うて」

「ありがとう。直也バイバイまたな」

都が明るく手を振る。直也は都の方を向き、少し笑ったような顔になったが、すぐに高架上に停まっている電車に興味を示した。

「ほら直也、都ちゃんがバイバイって」

(言うわけないか)彼は思った。その時。

「ばばぃ」

依然として直也の視線は高架上のオレンジ色の列車にあった。が、直也の口元はぎこちなく動き、小さく小さく言葉を発した。


 

   3


六月に入り四国も関東甲信越も入梅した。けれど近畿地方だけはぽつんと忘れられたように取り残されていた。

 夕べ静子は入浴前に脱いだ下着にうっすらと染まったおしるしを確認した。しかしその後、まったく慌てることもなくてきぱきと入院の準備を始めた。前回のような深夜のドタバタ劇はなかった。、 

一夜明けて、その日も朝から曇り空。今にも降り出しそうだ。立派な梅雨空のように見える。後は気象台の事後報告を待つばかりだろう。

破水もまだだったので病院に行くには少し早いと思ったが、静子は余裕を持って向かうことにした。

今回は出産前から受け入れ態勢の整った産科専門の病院に変更した。とても人気があり、その分、料金が割高だ。秀俊は頭の中で他人事のようにソロバンを弾いていたが、静子は違った。前の病院でのあのベルトコンベアーのような出産はもう懲り懲りだった。

そして、決して病院のせいではないのだろうが、直也の障害のこともあって前の産院には良い印象を持っていなかった。でも一番嫌がっていたのは静子の両親だった。だから今回の入院費の相談をした時、両親は二つ返事でお金を出した。そう、お金には代えられないことなのだ。だがら、自分の稼ぎの悪さを棚に上げて、身の丈にそぐわない事だと心に引っかかっていたのは秀俊一人だけだった。

秀俊は会社を昼から早退して静子の両親といっしょに病院へ来ていた。外はとても蒸し暑かったが、院内は快適な湿度と温度が保たれている。

そこは四人部屋だった。光沢のあるフローリング、清潔感溢れる純白のクロスが張られた壁面、高い天井、明るい陽光の差し込む大きな窓、全体として落ち着いた自然な雰囲気の部屋だ。とても清潔感に溢れ、まるで洗練されたホテルの一室のようで、ベッドと仕切りのカーテンがなければとても病室には見えなかった。前回のあの前線部隊の野戦病院さながらの部屋とは随分違う。料金の高いのは伊達ではない。

「大丈夫か?」

秀俊はベッドで横になっている静子に声を掛けた。

「うん、ありがとう。今回は前よりだいぶマシやわ」

静子も満足気だ。余裕が感じられる。

「もうすぐ直也、お迎えに行かなあかんね」

 ふと時計を見ると、四時を少し回ったところだった。お迎えを理由に病院を離れられることが彼には有り難かった。

「そやな、そろそろお迎え行くわ。もし、僕のいない時に何か変化があったら、携帯に連絡ちょうだい」

 そう言って部屋を出た。大義名分。ほっとしていた。赤い絨毯の敷き詰められた高い天井の豪華なエントランスを抜け、駐車場に向かう。本当にホテルのようなところだ。ベルボーイが居たとしても何の不思議もない。

駐車場で彼の帰りをひっそりと待つトヨタRAV4に乗り込む。これでも一応SUVなので座席が高い。若い秀俊たちにはいいけれど、高齢の両親たちには、次は私たちのこともちっとは考えて車を選べ、と乗せる度に文句を言われていた。

「降って来たか」

フロントガラスにぽつぽつ付き出した水滴を見て呟く。

両親との会話も他人行儀で気まずかったが、本当は今から出産と言う怪物と真正面から戦おうとしている静子の姿や、それに臨む、いかにもな、張り詰めたあの部屋の空気が嫌だったのだ。人の苦しんでいる姿を見るのは苦手だ。それが、自分に原因があることならば尚更に嫌だった。逃げてばかりでは、前に進まないことはわかっているけれど、まだ今の彼にはできずにいた。卑怯だ。

 秀俊が、静子の代わりにひかりの家に通い出して二週間以上経った。お迎えにも随分と慣れた。ひかりの家に着いて玄関で当たり前のように靴を脱ぎ、そのまま館内に入った。多少残るよそよそしさは、彼のまじめな性格の表れだろう。

玄関でちらりと横の事務室を見る。明かりが消えていた。いつもいるはずの近藤の姿が今日に限って見えなかった。二週間通って初めてのことだった。不思議な感じだ。

館内もいつもと少し雰囲気が違う。何か重苦しい気が漂っているようだ。廊下を奥に進むと、よく見かけるスタッフの男性と出くわした。未だに名前も知らなかった。お互い軽く会釈を交わし、まるで何かに追い立てられるようにすれ違う。いつもの笑顔はない。何かあったのか?

 彼は違和感を覚えながらも、いつもそうするように、直也を探してなかよしルームへ向かった。やはり直也はそこにいてホッとした。そして友里たち親子もいた。最近は毎日のように彼女とここで会う。時間はいつも四時三十分と決まっていた。まるで待ち合わせをしているように正確だった。彼は心のどこかでその時間を意識していたのかもしれない。いや、きっと意識していたはずだ。ここへ向かう車の中でぼんやりと友里のことを考えていた。(彼女のあのつぶらな瞳の奥に見える憂いは何だろう?)

       

 ※                ※

「こんにちは」

秀俊は日常的に挨拶をする。だが友里は答えない。その日の彼女はやはり少し違っていた。まるで何かに脅えているように見えた。  

「天宮さん……」

友里は何か言おうとして急に口篭った。秀俊はただその次の言葉をじっと待っていた。

「天宮さん」

「はい。どうしたん? なんか雰囲気が……」

「あんな、今朝な」

「うん」

「翔一くんが、亡くなったんやて」

「翔一くん、翔一くん? ああ、伊藤さんやったっけ。なんで亡くなったん?」

「わたしもよく知らないんやけど、目を離した隙に、椅子から落ちたらしいねん」

咄嗟に彼は、鼻からチューブを入れてぐったりと車椅子に座っていた翔一くんを思い浮かべていた。

「確か、あの子、長い時間横向きに寝られへんとか言ってたよね。お母さん見てなかったってことか」

「うん。けど、ほんまは誰も詳しく知らんねん。知ってるのは伊藤さんだけで……」

「気の毒やな」

「それでな、今、彼女、警察の事情聴取受けてるんやて」

「そうか。事故死やもんな。そうなるやろな」

「彼女ね、普段はすごく平静を装ってたけど、そら、ものすごく苦しんでたと思うよ」

「そらそうやろ。けど、程度の差こそあれ、ここに子供通わせてる親はみんなそうなんと違うかな」

「まあそうやねんけどな。天宮さん、彼女のこと、何にも奥さんから聞いてないの?」

「え、伊藤さんのこと?」

「そう」

友里は少し困った表情で頷いた。

「いや、何も聞いてないなあ。ちょっとほかのお母さんと雰囲気違うな、とは思ったけど、何かあったん?」

その時、ドアが開き、近藤が入って来た。

「村井さん、ちょっといい?」

「うん。どうしたん?」

「ちょっと警察の人が聞きたいことあるんやて」

「え? わたしに?」

「うん。ちょっと向こうの部屋まで来てくれるかな」

「僕は?」

彼は咄嗟に尋ねた。

「あ、村井さんだけでいいです。話が終わるまで、まあすぐ済むと思うけど、天宮さん、それまでここで子供ら見ててもらえたら助かります」

「わかりました」

「ママ……」

「ミヤはちょっとここで直也のお父さんといっしょに咲希と直也見ててくれる?」

「うんわかった」

〝わかった〟の〝か〟のイントネーションが上っていた。大阪では聞き慣れないきれいな標準語訛りだった。彼は少し不思議に思った。

「咲希。あかんでここで待っとかな」

都が友里の後をよちよちと付いて行こうとした咲希の手を引っ張った。咲希は泣きそうな顔だ。直也はそんなこと一切お構い無しに手元のアイロンビーズに恐ろしく集中していた。

 友里が出て行って少し経った頃、都がぽつんと言った。

「ねえ、直也のお父さん」

〝なあ〟ではなく〝ねえ〟なのか。これも標準語だ。彼は直也の作品から徐(おもむろ)に顔を上げて都の方を見た。

「都ちゃん、言葉が少し大阪弁違うんやね」

秀俊が聞いたことに、都はまったく意に介さない様子で、再びそっけなく言った。

「ねえ、直也のお父さん、翔一くん、どうしたん?」

「え?」

僅か五つの子供のはずなのに、その表情はとても大人びて、逆にいい大人のはずの秀俊が慌てた。

「ねえ、直也のお父さん、翔一くん、死んだん?」

彼はその答えを人生で最大級に迷った。自分がまだ幼かった頃、実父の死に直面した時にそうであったように、幼い子供たちには、死というものの概念がまだぼんやりしているはずだ。この僅か五才の子に、すでに死についての概念が備わっているとは思えない。

そこで考え抜いた末、やっとこう言った。

「都ちゃん、悲しいけどな、翔一くんにはもう会われへんねん」

彼はそう言いながら、昔、父の棺の中で物言わぬ亡骸に、母に言われるがままに、白い百合を手向けた時のことを思い出していた。

幼い彼が、棺に百合を手向けた時、「こんな小さな坊やがおるのに」と周りを取り囲んだ人々が一斉に声を上げて泣き出した。母も泣きながら秀俊に、「よく見ておきや。もう最期やから。もう見られへんから」と言った。

幼い彼はあまり悲しくはなかったが、不思議な、とても不思議な気分だった。その時わかった。死とはもう二度と会えなくなることなのだと。

ところがわずか五才の都は、秀俊の意表を突くように「そう。死んだんだね」とあっさりとした調子で言った。

「え? 都ちゃん、それどう言うことか知ってるの?」

「死んだんでしょ? 翔一くん。この世からいなくなるってことでしょ?」

「うん。でも都ちゃん小さいのによくわかるね」

「わかるよ。前に入院した時な、隣に寝てたおじいちゃんが夜はしゃべってたのに、朝早くに血を吐いて死んだんだよ。ほかにもわたしがおった部屋の人いっぱい死んだ」

「壮絶やな、それ」

「朝になって看護婦さんに隣の人死んだ? って聞いたらな、何て言うたと思う?」

秀俊は答えられなかった。このような会話、普通に話すこと自体尋常ではない。しかも都はまだたった五才だ。ここに通う人は皆、何かしら修羅場を踏んで来ている。たとえ幼い子供であっても侮れない。恐るべしひかりの家、だ。

「わからない? 言うたろか? あんな、ミヤちゃんは大丈夫やで、そやし、亡くなった人はな、また新しい命、神様からもらえるからって」

「都ちゃん、僕にはそんなこと言われへんわ」

「直也のお父さん、大人やのに。知らなかった? 死んだらな、また新しくなるねんで。だから翔一くんも新しくなるんやで」

「そうか。お父さんよりよっぽど都ちゃんの方がよくわかってそうやな」

都は得意げににっこり笑った。一体この子に何があったんだろうか? 秀俊はその過去にとても興味を持った。常日頃それに携わる仕事でもしていれば話は別だが、日常の中に普通に〝死〟というものが存在していると言うことをまざまざと見せ付けられる。ここはそんな場所なのだと改めて思い知った。

さてそうこうしているうちに友里が戻って来た。

「ごめん、お待たせ。咲希大丈夫やった?」

「ええ。村井さん、一体何を聞かれたのですか?」

「うん、まあ、ちょっとな」

友里の表情はすぐれない。

友里が何か言いかけたその時、再び近藤がやって来て事務的に言った。

「いろいろお騒がせしてます。伊藤さんね、なんとか検死だけで終わるみたい。こんなこと言うのもアレやけど、事故扱いで済んでホッとしたわ」

「検死だけ? 事故扱いって? 近藤さん、もしかしてこういうことって、ここでは割とあるようなことなんですか?」

秀俊がやはり事務的に聞く。

「いや、そんなにはないよ。伊藤さんはちょっといろいろあって、特別やねん」

「何があったんですか? さっき村井さんもそんなようなこと言うてましたけど」

「ごめん、プライベートなことやから、わたしの立場ではこれ以上は、な」

その時二人の会話を遮るように友里が呟いた。

「事情聴取とか、検死とか、最低や」

二人は友里を見た。もうほとんど泣きそうな顔だ。

「伊藤さん、ほんまに翔一くんのこと一生懸命に育ててやったのに。翔一くんのこと、ものすごく愛してやったのに……」

「村井さん、その思いは村井さんだけやない。わたしも、ここにおる人みんなも、同じこと思ってるよ。伊藤さん、翔一くんがあんなことになって、ほんまはものすごく悲しかったんやと思うけど、誰に頼ることもなくて、たった一人で一生懸命育ててやった。いっつも笑ってやったけど、心はしんどかったと思うよ。誰でもいいから聞いてほしかったと思うよ。それは村井さんも、天宮さんの奥さんもいっしょやで。みんなしんどい。けど、泣き言一つ言わんと必死で頑張ってるんやで」

 近藤の言葉は一つ一つに重みがあった。それはこの修羅場でずっと見守って来た人だけが言える言葉だと思った。そして友里は静かに泣いていた。伊藤さんのやり場のない〝母の悲しみ〟が、きっとそうさせているのだと秀俊は思った。都が友里の涙を見上げながら、その袖口をぎゅっと掴んでいた。それは、わたしはここにいるよ、と主張しているように見えた。

 その時、スタッフの一人がやって来て、近藤に電話が掛かっていると告げた。

「ごめん、ちょっと失礼します」

三人の会話の腰を折られた格好で近藤は出て行った。なかよしルームには気まずい空気が流れていた。その時、直也が突然両手を挙げてひらひらと動かし始めた。いつもの自閉症児独特な動作だ。ふと見ると、直也の手元にはどこかの交差点がみごとに再現されていた。直也が一人で黙々と、何日も掛けて完成させた作品だった。ひらひらは、「やった、できた!」と言えない、彼なりの喜びの合図。場が、少し和んだ。

そこへ再び近藤が戻って来て冷静に言った。

「先ほど伊藤さんの妹さんから連絡で、明日の夜七時にお通夜、明後日一時に告別式とのことです。村井さんはどうしはるんですか?」

「わたしはどっちも出るつもりやけど、天宮さんとこ、奥さん、無理やなあ」

「ええ、今日明日が出産ですからね。代わりに僕でよかったら出ましょうか? 土日で仕事休みやし。あ、でも直也がおるか」

「え、うちも子供二人連れて行くからぜんぜん気にしなくて大丈夫やで」

「わかりました。じゃあ一度静子に聞いてみますね」

「それと、伊藤さんのうちって駅から遠くってすごい辺ぴなとこにあんねん。それでな、言いにくいねんけど……」

「いいですよ。乗って行って下さい」

「助かります。ありがとぉ」

秀俊はお通夜の場所を聞き、所要時間を計算して明日六時に桃谷駅で友里たちと待ち合わせしようと決めた。

この頃ではひかりの家から駅まで秀俊が友里たち三人を車で送ることが通例となっていた。

「天宮さん、いつもごめんな」

「いえいえ、どうせ通り道ですから」

「ありがとう。駅までけっこう遠いし、天気悪いからほんまに助かります」

「村井さん、さっき近藤さんに呼ばれて行く前に伊藤さんのことで何か言いかけましたよね?」

「あ、うん。あれは、ちょっとここではな」

ルームミラーに映る後部座席の友里は伏し目がちに言った。それは子供たちには聞かせられないようなことなのだとすぐに理解できた。

「また今度教えてください」

「うん。わかった。ほんなら明日六時にまたここで」

そう言い残して友里は二人の子供といっしょに駅の雑踏に消えた。

一体、伊藤さんに何があったんだろう。静子に聞いてみたかったが、それは憚(はばか)られるような気がした。

そして再び静子と両親の待つ病院へ。小康状態だった雨が再び降り出した。今度は本降りだ。フロントガラスに付いた雨粒を必死で触ろうとする直也を無理やり座らせて彼は病院へと車を走らせる。そのとき携帯が鳴った。『静子・父』の表示。彼はすぐに車を端に停めて耳に当てた。

「はい、もしもし、天宮ですが」

「あ、今生まれたよ。男の子や。すごく元気な男の子やで!」

とてつもなく明るい声だった。喜びに満ち溢れていた。

上ずった義父の声とは対照的に、彼の心はこの空のように重く垂れ込めていた。幸せ一杯のその声を聞いても、彼は別段、喜びは感じなかった。翔一くんが亡くなって、自分と静子の下に新しい命が誕生した。これも何かの巡り合わせなのかもしれない。ただ、そんな気がしていた。



     4


君は一体何を思う?

  君は、未来を知っているのか?

  なぜここに生まれて来た?


秀俊は暫くの間、保育器の中で眠る、その赤ちゃんをぼんやりと見つめていた。

その時何処からか声が聞こえた気がした。

――ここはお前のような者がいる場所ではないぞ、と。

ゆっくりと顔を上げて辺りを見回す。すると、彼には霊感などないはずなのに、その子を取り囲む親族たちは皆、ピンク色の眩い光で包まれているように見えた。怖かった。きっと自分は精神を病んでいるのではないか? あるいは心の中に、悪魔でも潜んでいるのかもしれないなと思った。そのピンク色した眩い光は彼には痛くて痛くて仕方がなかった。


 前回、まる二日間も苦しんだことがまるでウソのようだ。陣痛が始まって二時間足らずの安産だった。予定より二日早かったが、とても立派な男の子だ。彼はベッドで休んでいる妻に労いの言葉を掛けながら、例の伊藤さんのことを伝えなければならないことに心を痛めた。とてもではないが今は言える状況にない。

 よく見ると、ピンク色の光に包まれていない人物が秀俊ともう一人いた。当の静子本人だ。その表情は暗い。無事に出産を終えて、普通なら安堵の表情のはずなのに、なぜそんなに哀しそうな顔をするのか?

 静子の親たちが席を外した時、彼女は秀俊の目を見ずにぽつんと呟いた。

「この子は、大丈夫なんやろか……」

秀俊はすぐに悟った。それが彼女の顔を曇らせている理由だと。

「大丈夫、しっかりしてる。大丈夫や」

すぐさま答えた。たぶん空元気と聞こえただろう。しかし、たとえこの子の未来に何が待っていようと、こう言うしかないことも今までの経験から知っていた。

それでも静子の不安は拭えない。彼女もわかっていた。障害児の生まれた家庭は、続い

て障害を持った子供が生まれる可能性はかなり高い。ひかりの家には、そんな兄弟姉妹がたくさんいる。彼はますます翔一くんのことを伝えにくくなってしまった。

「名前、決めなあかんな」

彼は話を逸らした。幾分でもポジティブな話題へと。

「うん。そやな。決めなあかんな」

「まあとにかく、無事に生まれて良かった。今はゆっくり休めよ。お疲れさん」

「うん。ありがとう」

静子は淋しそうに微笑んだ。

翔一くんのことは、明日の朝には伝えよう。今は、よそう。そう思った。


明けて土曜日。朝、彼は少し早い目に病院を訪ねた。

昨日とは打って変わって、空は雲一つない抜けるような青さだ。入梅宣言を控えた大阪管区気象台に軍配が上ったのか。でも彼にとっては嫌な天気だ。澄み切った青空が恨めしい。

「すみません、四〇一号の天宮です。着替えを持って来たんですが」

「おはようございます。朝からご苦労様ですね。今ちょうど授乳時間でお母さん出てはりますけど、すぐ帰って来られると思いますので病室の方でお待ち下さい」

「え、あの、嫁のいない病室に私一人で入ってもいいのですか?」

「ええ、こちらで入室手続きしてもらって……あ、ではご案内しますので私といっしょに行きましょう」

若い看護師は彼の一瞬の困惑を見逃さず、部屋まで同行してくれると言う。怖いほど親切で愛想が良かった。いつぞやの婦人科の受付とは違う。業務意識が非常に高い。(値段はただ取らんもんやな)と彼は思った。

ナースステーションで手続きを終えて案内されるままに病室へ入った。一斉に彼に注目が集まった。彼は軽く会釈する。まるで品定めされているようだ。前回の野戦病院さながらの大部屋よりははるかに落ち着いているが、それでも何回来ても慣れない。子宮を持たぬ性を拒むかのような威圧感は、まるで女性専用車両(いや、ここは母専用車両と言うべきか)に間違って乗ってしまった時のようなバツの悪さだ。つまりここは男子禁制の母の園。とても神聖な領域だ。昨日は静子がいたのでそうでもなかったが、看護師の案内なしで彼一人ここへ入ることははばかられただろう。

 正面の大きな窓のレースのカーテン越しに明るい陽光がたくさん降り注いでいた。昨日は焦っていてよく気付かなかったが、見渡すと、よくある病院の白いパイプベッドではない。見た目の美しさと機能性を兼ね備えた洒落たベッドが、広々とした部屋に四床。仕切りのカーテンも閉じられていない。朝早いせいもあってか、見舞い客も付添い人もいない。もちろん男は彼だけだ。あとの女たちは彼のことなどまったく気にする様子もなく、テレビを見たり、本を読んだり、皆、思い思いの時を過ごしている。いや過ごしていると言うより、満ち足りた時間を満喫していると言った風か。これもあのピンクの眩い光の成せる業かもしれない。情報誌では退院することが惜しまれると記載されていた。なるほど。おそらく出た後は、それこそ大変な時間が待っているのだから。

彼が静子のベッドを訪ねるも、先ほど、入室手続きの際に告げられていたように、彼女は授乳のために部屋を離れていた。帰って来るまで病室で待っていてくださいとのことだったが、静子のいないベッドは、親鳥がエサを探しに行った後の空っぽの巣のようだ。もっとも雛鳥もここにはいないが。

 母親から言われていたように、秀俊はここへ来るまでの道にあるケーキ屋で買ったクッキーの詰め合わせを取り出して周りの女たちに配った。そういう心遣い一つが、狭い同一空間での人間関係の潤滑剤に成り得る。どこで習ったのか随分と安っぽい処世術だと思ったが、プレゼントや土産をもらって嫌な顔をする人もおらんのだろう。

同時期に出産を体験した女性たちは、まるで同じ戦場で戦った友のように妙な連帯感が出来上がっていたが、静子に言わせると、それは大概の場合、ここにいる間だけのもので、ここから出れば各々の住む世界によってすぐに名前も忘れ去られてしまうような一過性の浅い友情なのだそうだ。前回も退院してから一、二度は食事会などをしたらしいが、直也に障害が見つかってからは一度たりとも連絡を取り合っていない。そんなものだ。

周囲の観察もすっかり終わって手持ち無沙汰になった頃、静子が戻って来た。昨日よりもかなり表情は明るいので、秀俊は少しほっとした。授乳で少しは癒されたか。赤ちゃんの癒しパワーは高名なヒーラーが束になってかかっても勝てないだろう。

今しかない。そうだ、話すのは今しかない。彼は気持ちを奮い立たせた。そしてタイミングを見計らって一気に言葉を投げた。

「昨日は、ちょっと大変そうやったから話されへんかったんやけど」

「何?」

「昨日、直也のお迎え行った時にひかりの家で聞いたんや」

「せやから何?」

「伊藤さんておるやろ? 前にうちに来た」

「……もしかして、翔一くんのこと?」

「なんでわかるん? 静子、誰かに何か聞いたんか?」

「聞いてないよ。やっぱり何かあったん?」

「うん。昨日の朝にな、亡くなったんや。けど、やっぱりってお前……」

静子の表情が一瞬曇り、悲しみがあっという間にあたりの空気を包み込んだ。

「そう……そんな気してた」

「何で? 何でなん?」

「うん、まあ、あの子、いろいろあってな」

皆一様に同じことを言う。

「いろいろって?」

秀俊は、それがまるで初耳であるかのように白々しく尋ねた。

「いろいろや。まあ誰でも知られたくないことってあるんや」

「教えて」

「私もはっきり知らんから、いい加減なことは言われへん」

「昨日は警察が来て事情聴取してたよ」

「せやろな。まあいずれ、もうちょっと落ち着いたらわかるわ」

静子の一点を見つめるその目が怖かった。友里もそうだったが、静子も間違いなく怒っていた。女たちをこれほど怒りに駆り立てる理由とは何だろうか。とてもではないが興味本位だけでこれ以上踏み込んで聞く勇気は彼にはなかった。彼女がうちにやって来た時の、あの乾いた笑い声が彼の中で何度も木霊していた。

少しの気まずい沈黙が二人を包む。となりのベッドから聞こえるテレビニュースの小さな音声だけが、やけにはっきりと二人の耳に入った。皇太后が昨日崩御され、本日のJRAの開催は取りやめになったと告げていた。そう言えばそんなことを昨日ニュースで聞いた。

秀俊はふと思い出した。

「そうか、あ、それで急やねんけど、翔一くんな、今晩お通夜で明日お葬式なんやけど」

ほんの逡巡の後、彼女は冷静に言った。

「そう……。わたしも行きたいけど、ちょっと無理やから、代わりにお願いしていい?」

「うん、近藤さんにも頼まれたし、僕も行くつもりやったから。それでひかりの家で、村井さんに会って、連れて言ってもらえませんかって言われたんや。伊藤さんのうちがすごく駅から遠いらしくて」

 言い訳がましく聞こえただろう。しかし、隠すのも変なので彼はきちんと静子に伝えた。

でも彼女はその時点で何かを感じ取っていたのかも知れない。一瞬、その目が鋭く変わったような気がした。女性の勘は、どんなに些細な出来事や言葉だけでも、遥か未来のことまで感じ取ってしまうものだ。この時点では、秀俊は清廉潔白だった。けれど彼の心の中に芽生えつつある友里への感情を敏感に察知していたのかもしれない。

しかし静子は、翔一くんのことを本当に気の毒に思っているらしく、何度も秀俊に自分の代わりに、ちゃんと弔問するように頼んで、退院したら必ず行くから伊藤さんに伝えて、と言った。それから彼女は、誰に語るでもなく目を伏せ、独り言を呟くようにこう言った。

「わたし、なんかすごく彼女に悪い気がする」

「その気持ちはよくわかる。僕もそれは思ったから」 

「まるで生まれ変わったみたいや」

――まるで生まれ変わったみたいや―― 

この言葉は秀俊の脳裏に深く刻み込まれた。



    5

 

その日の夕方、秀俊は直也を連れて友里との待ち合わせ場所に向かっていた。夕方の大阪市内は、土曜とは言えけっこう混んいてなかなか車は進まない。

 直也は車に乗ることが大好きだった。行き先はどこであれ、車で行くとなったら、どこでも喜んでついて来た。今日も車でお出かけ。助手席で無邪気にはしゃいでいる直也。

 この子は一見して何もわかっていないように見える。嬉しいことには喜び、嫌なことには、泣く。ただそれだけ。でも、今の秀俊に一番欠けているものだ。何もわかっていないのは、実は彼の方なのかも知れない。

 信号で車が止まり、ハンドルを握りながら彼はちらりと直也を見る。その目をきらきらと輝かせながら景色をじっと見つめている直也。

その時、ある思いがふと彼の脳裏をよぎった。もしこの子が、今、翔一くんのように、自分の前から突然消えてしまったなら? このあどけない笑顔がもう二度と見られなくなるとしたら? そう考えたとき、彼は眩暈にも似た感覚を覚えた。

(このぎゅっと胸が締め付けられるような感覚はいったい何だ? 直也、君は僕に、何を伝えようとしているの?)

 直也は何も答えず、そのすべてを正確に録画するカメラのように、つぶらな瞳は、車窓の景色をただじっと見つめている。それは目から入ってきた情報を余すことなく、一度に処理できる能力だと近藤は言った。純粋にすごい。彼は考えた。たぶん、ある面から見れば、それは障害なのかもしれないが、別の面から見れば、人類の新しい進化への一歩なのではないかと。でも……。

でも、そんなことより、障害なんてどうだっていい。どれだけ自分を苦しめてくれてもいい。ただ、自分の前から、この世界から、消えないでほしい。いっしょにいてほしい。彼は素直にそう願った。それこそが愛だとも知らずに。

彼の心に雨が降り出した。静かに、静かに。ひび割れた大地を緩やかに潤していった。愛の雨だ。とてもやさしく。


「待ったぁ? ごめんな、ありがとう」

友里の甘ったるい声が聞こえる。駅前のコンビニでしばらく待っていると、ベビーカーを押しながら友里たち三人が慌ててやって来た。咲希はもうそろそろベビーカーを卒業しても良さそうな齢なのに、にこにこ笑顔でちょこんと座っている。都も変わらずマイペースだ。秀俊は少し嬉しかった。でもどこか後ろめたい気持ちだ。

それから、三人を拾って、計五人で翔一くんのお通夜に向かった。

誰も何もしゃべらない。FMラジオの音楽だけが、乗車定員を満たした車内に静かに流れていた。通夜に向かっているのだから当然と言えば当然だが、秀俊はその空気が重苦しかった。何かしゃべろう。そう思った時、都がぽつんと呟いた。

「ねえお母さん、翔一くん、もう新しくなったかな?」

「うん。きっとなったよ。ほんで今度は絶対幸せになるねん」

ルームミラー越しに見る友里は、母の顔をしていた。

 翔一くんのお通夜は、府営住宅の一角にある小さな集会所で行われた。同じような造りのかまぼこ板を並べたような建物が何棟も建っている。いわゆる団地だ。それもかなり昔に建ったのだろう。全体的に相当古ぼけた感じがした。建物にはエントランスと呼べるものもなく、入り口は一棟に二ヵ所。扉はなく、いきなり上に登る階段があるのみ。誰でも容易に侵入できる。治安が悪そうだ。

どこからか生ゴミのすえた臭いがする。うす汚れた子供用の自転車が階段の入り口に捨てられたように放置されていた。その府営住宅の三階に伊藤さんの自宅がある。秀俊は古びた四階建ての団地を見上げながら友里に話しかけた。

「ここで暮らしてたんやね」

「うん。翔一くんが生まれて今年で七年目や」

「七年も、しんどかったやろな」

「しんどかったやろね……けど」

「けど?」

「しんどいだけやないよ。楽しかったことも嬉しかったこともいっぱいあったと思うよ。それが母親やで」

「そうか。そうやな」

秀俊は彼女の過去にあえて触れようとはしなかった。でも、そこにあった彼女の悲しみも苦しみも、そして喜びも、その一部始終、残らずすべてをこの古びた団地は見て来たのだろう。 

 集会所の周りにはすでに喪服に身を包んだ多くの弔問客が集まっていた。友里が目を伏せて会釈を交わす中には、秀俊の見知った顔も数人いた。ひかりの家関連の人たちだ。友里と秀俊が同伴している姿は彼らの目にはどのように映っただろう。彼は一瞬、躊躇したが、あえて挨拶はしなかった。偶然を装いたかった。

秀俊も友里も、もう何も言わず、記帳台の前に並んだ。やがて通夜が始まり、僧侶の読経が流れ出した。最初の読経が終わり、参列者の焼香が始まった時、その列から集会所の中を覗くと、喪服に身を包んだ伊藤さんの姿が見えた。

彼女は祭壇の前で正面を向いて畏(かしこ)まり、目を伏せて弔問客の焼香に対して機械的に頭を下げていた。彼の家にやって来た時に見せた、あのお水風の艶やかさは微塵も感じられなかった。その姿はとてもとても小さく見えた。それはまるで何かに脅えているようだ。

よく見ると彼女は泣いていた。深い悲しみが、幾重にも彼女を包み込んでいるように見えた。

「あ、あの写真や」

友里が呟いた。祭壇に飾られた翔一くんの遺影は、鼻にチューブが入れられたまま、でも百点満点の微笑み。彼女が笑い飛ばしていたあの写真なのか。これこそが、誰でもない、彼女が、親戚や友人一同に堂々と自慢する翔一くんなのだと思った。

 秀俊の順番が来て、焼香の後、伝えるのは今しかないと思った彼は、目を伏せて頭(こうべ)を垂れる伊藤さんに声を掛けた。まずお悔やみを述べ、そして、静子からの言葉を伝えた。退院したら必ず来るからと。

 小さく「ありがとうございます」と言ったその顔は、懸命に明るく振舞おうとしていた。彼は心の中で、彼女のこれからの幸せを祈っていた。

 翌日曜。秀俊は告別式にも出席をした。連日参列するほどの親しい関係ではなかったが、友里がどうしても出たいと言ったので会社が休みということもありいっしょに付き合うことになった。でもそれはどう考えても不自然だ。本当は、彼女に会いたかった。

告別式が終わり、友里たちを駅まで送った後、秀俊は静子の下へと向かった。さすがに喪服で行くような場所ではないので、上着と黒のネクタイは車に置き、そして粗供養の袋に入っていた粗塩で簡単に身を清めて病院に入った。

病院はやはり美しく生気に溢れていた。廊下も天井も壁も、何もかもがきらきら輝いているように見えた。まるであの世から戻ったようだ。

部屋に入ると静子は本を読んでいた。姓名判断という表紙が見えた。

秀俊がベッドに近付くと顔を上げ、「早かったな」と言った。そこには感情が感じられなかった。彼には逆にそれが怖かった。

「ああ、式、終わってそのまま来たから」

「そう。ちゃんと清めて入った?」

「ああ。もちろん。さすがにそれはするよ」

彼は多少の笑いを誘おうと言ったつもりが、静子は無表情だった。彼女は無表情で怒る癖がある。彼は知っていた。自分が不浄な体で神聖な場所に舞い戻った非常識を責めているのか、それとも……。

静子とは、少々下品な下ネタや、非常識な馬鹿げた話題を話し合っても笑い飛ばすような間柄だ。場にそぐわない格好でやって来たことぐらいで目くじらを立てるような女ではないはずだ。二人の間に小さなわだかまりが生まれた。


それから三日ほど経った夕方。秀俊はいつも通り、直也を迎えにひかりの家まで行った時のこと。

「天宮さん、大変や!」

友里が血相を変えて駆け寄って来た。

「どうしたん?」

「伊藤さんが、自殺した」

「え」

「わたしも今コンちゃんから聞いたとこやねんけど、もうびっくりして」

近藤の説明に寄れば、事の次第は次の通りだった。

告別式の翌日の昼、伊藤さんは、島根から手伝いに来ていた遠縁の知り合いに「ちょっと買い物をして来る」と言い残して車で家を出たきり、行方がわからなくなった。いくら待っても帰って来ない伊藤さんを不安に思い、その知り合いが警察に捜索願いを出した。

そして昨日の夜、家から十キロほど離れた信貴山の山中で、捜索中のパトカーが乗り捨てられてあった伊藤さんの白いフィアットと、そこから百メートルほど入った林の中で伊藤さんの遺体を発見した。死因は縊死(いし)。つまり首吊りによる自殺だった。現場に遺書らしきものはなかった。検死の終わった遺体はすぐに妹さんの手によって荼毘に付され、翔一くんの遺骨と共に郷里の島根に連れて帰るそうだ。

今日の午前中にその遠縁の知り合いと言う方がひかりの家に挨拶に来られた。その時に、生前の伊藤さんから一通の手紙を言付かって来た。遺書だった。近藤はその手紙をひかりの家に通っている保護者たちに紙面を通じて公開することにした。それが伊藤本人の意思でもあったので。 


近藤様、ひかりの家の皆様へ


ごめんね翔一 

私が翔一をこの手に掛けました。私は裁かれなければなりません。

あの朝、私がシャワーを浴びている時のことでした。翔一は、早朝に入れたエンシュアが逆流してそれを誤嚥してしまいました。吸引してほしかったのでしょう。翔一は私を懸命に呼んでいたようです。でもわたしはいつものようにシャワーを浴びていました。たぶん時間にすれば十分にも満たないほんの僅かな間でした。

浴室から出て来た時、車椅子から転落して床で苦しんでいる翔一を見つけました。私は、慌てて駆け寄ると、翔一は眼をほとんど閉じ、ほんの少し開いた瞼は白目をむいて、ひゅうひゅう喉を鳴らしながら一生懸命空気を吸おうとしていました。

今ならまだ間に合う。私は吸引しようと、慌てて翔一に触れたその瞬間、翔一は僅かに残った力で、いやいやと首を左右に振りました。それはいつもの拒絶の合図でした。七才の翔一の必死の意思表示を目の当たりにした私は、その場で動けなかった。手が出せなかった。これ以上翔一を苦しませることはできません。もう十分です。この子は十分苦しみました。私にそんな権利があるとは思わない。けれど、おそらくこの先もずっと苦しむ翔一をこれ以上見ていることはできませんでした。もう解放してあげたいと思いました。

徐々に翔一から命の光が薄れて行って、やがて動かなくなりました。

警察の方に正直にすべてをお話しました。警察の方は私にこう言いました。これは事故や。あんたはやるだけのことをやった。すぐには無理かもしれへんけど、あんたはまだまだ若い。これからいい人にもめぐり合うこともあるやろう。お気の毒やけど息子さんのことは諦めて、新しい未来に向かってしっかり歩いてください。いいですか? これは事故やから自分を責めたらあかん、と。

そんなこと私が納得できるはずありません。翔一がこんな不自由な体になってしまったのも元はといえば私に責任があります。ですからこの子一人で行かせるわけには行きません。この子はとても弱く、私を必要としています。警察が私を裁かないと言うのであれば私もいっしょについて行こうと思います。どこまでもいっしょに行こうと思います。翔一と私は一身同体です。

近藤さんを初め、ひかりの家のたくさんの方々には感謝してもしきれません。また、このような私のわがままのために皆さんにご迷惑がかかってしまうことを心よりお詫び申し上げます。そして最後に、こんな私が言うのもおかしいですが、私と同じような境遇で苦労なさっているひかりの家の方たちに、どうか私のような誤った道を歩まないことを心からお祈りしております。私と同じような選択を迫られて岐路に立たされた時、どうぞ私と翔一のことを思い出して、反面教師にして下さい。こんな母親にだけは絶対にならないと。

                                               伊藤愛子


    6


「お母さん、大丈夫?」

都が友里の手を握りながらうずくまったままの友里の顔を心配そうに覗き込んだ。

嗚咽が聞こえた。友里は号泣していた。伊藤がどれほどの苦しみを味わっていたのかわからないはずはない。母親として。そして自分自身も過去に不可抗力とは言え、その手で都を酷く傷つけてしまったのだから。その苦しみ、わからないはずがない。おそらく静子がここにいたならば、同じように泣き崩れていただろう。

友里は都をぎゅっと抱きしめながら、なおもその涙は止まらない。これはさすがに秀俊の石のような心にも響いた。彼は何も言えなかった。やさしい言葉さえ偽善的に思えた。

 ただ、世の中には、そっとして置かなければならないことも、あるのだと思った。もし、自分が翔一くんのお母さんだったら? 水も飲めない。ご飯も食べられない。寝返りさえ打てない。目もほとんど見えない。しゃべることなんてもちろんできない。ただ苦しかっただろうと思う。七年もそんな生活が続いて、ようやく二人は解放されたのだと思った。後は冥福を祈るばかりだ。人はなぜこんなにも苦しまなければならないのだろう? 彼のその疑問は増すばかりだ。


「ちょっと、村井さん、奥で休もか?」

近藤が友里の背中をやさしく撫でながら言った。心配そうに見守る都。先ほどのショックから友里はまだ立ち直れない。ずっと座り込んだままで動かなかった。

「大丈夫でしょうか?」

秀俊が突っ伏したままの友里を覗き込んだ。

「うん、村井さんな、割とよくこうなるみたいよ」

「大丈夫だよ、直也のお父さん。お母さんいつもなるんだよ」

「さすが都、よくわかってるな」

少しほっとした様子で近藤が都に言った。

「帰れますか?」

秀俊が友里に尋ねると、友里は依然として両手の掌で顔を覆ったままうんうんとだけ頷いたものの、どう見てもそれは無理そうに見えた。

「よかったら家まで送って行きましょうか?」

「あ、申し訳ないけど、そうしてもらえたら助かります。わたし、ここ閉めて帰らないとあかんので」

近藤はいかにも済まなさそうな顔だ。

「お安い御用です。ほんならいっしょに行こか? 都ちゃん」

その時ようやく友里がゆっくり顔を上げた。その目を強く閉じ、眉間に皺を寄せ、こめかみには幾筋もの細く青い血管が浮き出ているように見えた。明らかに調子が悪そうだ。

「こら、あかんな」

秀俊は近藤と二人で両側から支えるようにして何とか友里を車に乗せた。ベビーカーを畳み、都と咲希も後部シートに乗せた。直也はもうすでに助手席のチャイルドシートに収まっている。早い。

子供や病人、障害者、高齢者などを含めた家族が多いと車で出発するだけでもけっこう骨が折れるものだと秀俊はその時初めて気付いた。

近藤に別れを告げて車を出したものの、秀俊は友里の家がどこにあるのかわからないことに気が付いた。友里に聞こうにも、今は口も聞けない状態だ。住所どころの騒ぎではない。困った。

「都ちゃん、おうちの住所とか知ってるかな?」

「知らない」

「そうやわなあ。お母さん寝てる?」

「うん。たぶんしばらくは起きないよ」

「あかんな、どうしよう」

「直也のお父さん、ミヤな、お腹すいた」

時刻は午後六時を少し過ぎようとしていた。こんなに明るいのにもうそんな時間なのか。もうすぐ七月だ。この頃の太陽はまるで眠ることを忘れているようだ。そう言えば秀俊も空腹を覚えていた。昼前に軽いランチを食べたきりだったことを思い出した。

「そやな、晩ご飯食べようか。食べてる間にお母さんも少しは良くなるやろ」

「わたし、ピザ食べたい。電話で持って来てくれるやつがいいな」

「ああ、宅配のやつか。じゃあ、直也のお父さんとこで取って食べようか。みんなで。な?」

「やった!」

都は本当に嬉しそうだ。相変わらず友里はずっと目を閉じたまま。起きているのか眠っているのかわからない。早く回復してくれることを祈るばかりだ。

そして急遽、秀俊は友里たち三人を連れて自宅へ戻ることになった。静子のいる病院を出る前に彼は、「帰って来たらいっしょに名前を考えよう」そう静子と話していたのに、結局その日はもう病院には戻らなかった。(仕方ない。非常事態だ)彼は自分にそう言い訳していた。

不安と碌でもない下心を乗せたまま、車は家に着いた。

「村井さん、着いたよ。さあ降りて」

声を掛けたぐらいでは友里の固く閉ざされた瞳は開かない。埒が明かない。後部ドアを開け、秀俊は友里の肩をぐらぐら揺らす。ようやく目を覚ました彼女は、うわ言のように「ごめん、天宮さん、わたし、ここで寝てる」と言った。もはや尋常ではない。

「ここでって、車でか? あかんよ、子供らいっしょにうちでご飯食べよって言うてんねん。村井さんもおいで」

しかし友里は返事をしていない。また眠ったようだ。秀俊は、先に子供たちを部屋に入れ、再び車に戻った。友里は後部シートを占拠して、死んだようにぐったりしている。信じられないことに、彼女は本当に車で寝るつもりだ。とんでもない。

彼は仕方なく友里の腕を引っ張って車から降ろし、背中に負ぶってエレベーターに乗るという暴挙に出た。重い。まるで死体を負ぶっているようだ。彼は心の中で祈った。「どうか部屋に着くまで誰にも会いませんように」と。

遅いエレベーター。わずか四階なのに随分長く感じられた。友里の吐息を首に感じる。死体ではなかった。そしてふくよかな左右の膨らみが彼の背中に当たる。なんて柔らかい。なんて無防備な。


午後十一時過ぎ。友里は静子のベッドで目覚めた。四時間近くは眠っていたことになる。いったいどれだけ眠れば良いのだ。秀俊は対処にすっかり困り果てた頃、ようやく目覚めた友里は、「迷惑掛けてごめんなさい」と小さな声で謝った。

子供たちは先ほどまで三人で楽しそうに遊んでいたが、今はようやく隣の部屋で仲良く眠りに就いた。都は直也の扱いにも手馴れたものだった。ひかりの家ではいつもあんなふうに遊んでいるのだろう。さしずめ都はひかりの家ではしっかり者のリーダーだ。とても面倒看が良い。

「子供らは?」

目覚めた友里が聞いた。秀俊は部屋の灯りを点ける。と、彼女は寝汗をびっしょり掻いていた。

「うん。さっきまで騒いでたけど、今はもう寝てる。それより具合どう?」

「うん、だいぶマシになった。心配掛けてすみません」

「そう、よかった。エアコン入れるわ。蒸し暑いやろ」

ピッと言う電子音と共に室外機が回り出す。

――あの夜も暑かった。静子と最後に体を合わせたあの夜。あれからもう一年になる。そしてそのベッドに今、友里がいる。

開け放たれたアルミサッシの引き戸を閉めようと窓際に立つと、網戸の向こうから湿ったコンクリートの匂いがしていた。

「夏の匂いや……」

「わたし、この匂い好きやねん」

友里はゆっくり起き上がり、秀俊の隣りにたたずんで少し甘えたように言った。

「うん、僕も好きやで」

「天宮さん、わたし、たまにあんなふうになるねん。自分でもどうしようもないねん。びっくりしたやろ?」

「いや、そんなことないよ」と、彼は口ではそう言ったもののかなり驚いていた。

「明日も朝から仕事やろ? わたしら朝、直接ひかりの家へ行きます。ほんとにごめんなさい」

「いや、遠慮せんでもええよ。ゆっくり休んで。すごい汗掻いてるみたいやけど、シャワー浴びる?」

「着替え持って来てないから……」

「静子のスウェットやったらあるけど?」

「ありがとう。ほんならお借りします」

そう言って友里は浴室へ消えた。ここは自宅なのに、子供たちも皆いるのに、何とも言えない後ろめたさが彼を襲う。女のシャワーを待つ。それだけで淫猥な気分になりそうだ。そのようなシチュエーションでもあるまいに。(ないわ、それはない!)頭の中で彼は何度も反芻するように呟いていた。

暫くして、静子のスウェットを着た友里がバスルームから戻って来た。彼の胸がチクリと痛む。その濡れた髪をバスタオルで包み、彼女はずいぶんさっぱりしたようだ。

「ありがとう。もう大丈夫」

「そう、よかった」

「ごめん、ちょっと駅前のコンビニ行って来ます」

「え、こんな時間から? 何買いに行くの?」

「秘密……」

「秘密?」

(まさか、本気なん?)彼の脳裏に碌でもない妄想が湧き起こる。

「うそうそ、下着や。さすがに借りられへんやろ? すぐ帰って来ます」

妄想は落胆へ。

「何かいる?」

秀俊の心を知ってか知らずか、至ってまじめな表情で友里が聞いた。これが友里の天性の才かもしれない。そこには何の下心もない。至って自然に、そう、とても自然に男を惑わせる。

「あ、いや」

彼は、俺もいっしょに、と一瞬言いかけたが、こんな夜更けに二人で部屋から出て近所を歩いているところを、しかも友里の下着を買いにとか、誰かに見られたらたまったものではない。だから口を閉ざした。正しい判断だ。

「遅いから気をつけてな」

「うん。ありがとぅ」

そう言いながら、友里は出て行った。秀俊はふと思った。もしかしたらもう友里は戻らないのではないか? と。だが二人の娘たちがここにいる。そんなことあるわけもないのになぜか一抹の不安が彼の脳裏をよぎった。やはりいっしょについて行けばよかったか。 

友里が出て行った部屋には洗い髪の残り香がふんわりと漂っていた。甘い香りだ。妙なことになったものだ。多少の困惑、そして期待。どうしようもない。

時刻は午前零時を少し回った頃、友里はコンビニ袋を片手に帰って来た。彼はほっとした。時間にして出て行ってから十五分も経っていないのに随分と長く感じられた。

「ただいまぁ。雨降って来たよ」

「ああ、明日はまた雨かな。梅雨明けはまだ少し先やろな」

「なあ、もう寝る?」

「いや」

「ちょっとお話せえへん?」

「ええよ」

二人はベッドに並んで腰掛けて、正面の引き戸から見える外の景色を眺めていた。と言っても、深夜なので四階の窓の向こうには都会の闇が広がっているだけだったが。

その時、いきなりザーっと言う音が聞こえた。友里は驚いたように秀俊の顔を見た。

「何? 雨?」

「ああ、バルコニーを雨が叩く音や。すごい音やろ。夜は特に響くねん」

それはまるで今日一日の出来事をすべて洗い流すような雨だと思った。

「きっと涙の雨やな」

「うん。わたしもそう思った。伊藤さん、翔一くんに会えたかな?」

「会えたよ。絶対」

「なあ、人ってな、幸せになるために生まれて来るんやって昔、本で読んだことあるんやけど、ほんまにそうなんかな。ひかりの家に来てる人見てたら、神様て残酷やなって思うわ」

「うん。次に生まれ変わったら、二人とも幸せな親子になれたらええな。そう願うばっかりや」

 彼はふと思った。輪廻と言う思想は、苦しんで苦しんで、そして絶対今度はこんな苦しい人生は送りたくないと思って生み出された思想なのかもしれない。なんて哀しい。

二人ともそれきり黙り込んだ。静寂の雨音だけが聞こえていた。


それから暫く経って、激しかった雨音が聞こえなくなった頃、秀俊が口を開いた。

「なあ、村井さん」

「何?」

「一つ聞きたいことがあるんやけど」

ようやく二人がお互いの顔を見た。友里は目に涙を溜めていた。

「伊藤さんの昔のことやねんけど、一体何があったん?」

 友里は今にも泣きそうな顔で秀俊の目を見る。

「あんまり言いたくないんやけどな、まあひかりの家ではみんな知ってることやねんけど」

 友里はその重い口をやっと開いた。

「あの子な、昔、翔一くんがまだ生まれる前に、お水やってやってん」

「うん、そうかな、と思った」

「うん。それでな、あの子、妻子ある人と不倫して、ほんで翔一くんが生まれたんや。けど、略奪したろとか、そんなことじゃなかったみたい。初めから独りで産んで独りで育てるつもりやったらしいねん。せやから妊娠がわかった時、店辞めて、その相手とも別れてんて」

「自分から身を引いたんか」

「て言うか、子供がほしかったみたい。その相手の子がほしかったのか、単に子供がほしかったのかはわかれへんけど、とにかく自分の子供がほしかったって言うてやった」

「母性か。それで、生まれた子があんな重い障害があった?」

「ううん、違うで、生まれた時は、翔一くんは立派な健常児やったんやで」

「え? どう言うこと?」

「病気でああなったって言うことになってる」

「なってる?」

「翔一くんが生まれてまだ一年経つか経たないかの頃やった……」

秀俊は静かに友里の話に耳を傾けた。

 

  7


――再び生活費を稼ぐ為に、一才にも満たない翔一を保育園に預けて伊藤は夜の仕事に戻った。それは以前勤めていた北新地のクラブではなく、新地は新地でも今里新地のしょぼい飲みラウンジだった。保育園から近いと言うこともあったが、できるだけ翔一といっしょに居たいと思う伊藤は、たとえ収入が減っても、スケジュールやノルマに縛られる高級クラブより、気取らないラウンジをあえて選んだ。

しかし、場所柄が変われば客層もそれなりに変わる。伊藤はそこの常連だった兼田と言う男と懇(ねんご)ろになり、成り行きでその男と付き合うようになった。

兼田は関西に拠点を持つ指定暴力団の構成員だった。と言っても下っ端も下っ端。所謂チンピラだ。なぜそんなつまらん男に彼女は惹かれたのか。

品行方正な女性ほど自分にはない部分を持つ男に惹かれるらしい。つまりその相手とは、どうしようもないヒモ男や、DV男、社会からドロップアウトしたアウトローたちだ。伊藤はその男勝りな性格も相まって、そこら辺に掃いて捨てるほどいるエセフェミニストとはまったく反りが合わなかった。と言うか彼女にはまずどんな時も彼女の顔色を窺い、彼女の気持ちを優先させるやさしさがどうにも物足りなかったのだ。

その頃の伊藤の体中には青痣が絶えなかったと言う。殴られても足蹴にされてもそれでも尚、彼女は気丈に耐えていた。が……。

それはある寒い冬の日のことだった。その日、朝から降り続いた冷たい雨は、夜半にはみぞれに変わった。伊藤は店を終えて、日付が変わる頃、翔一を抱きかかえて部屋に戻った。鍵が開いていた。玄関には一目で兼田の物だとわかる黒い革靴が乱雑に脱ぎ捨てられていた。嫌な予感がした。

灯りの点ったリビング。店でしこたま飲まされた伊藤にもわかるぐらいビールの臭いが辺りに漂い、しかし兼田はいない。中央のコタツの上には酎ハイとビールの空き缶が数個、その内一つは横倒しになり、そこからこぼれた薄黄色の液体がコタツの天板に大きなビールの海を作っていた。そしてその海の中に目を疑う物が転がっていた。

使用済みの注射器だ。

伊藤は兼田が常習者であることは知っていた。そして今までも「決めてアレするととんでもなく気持ちがええから」と何度も勧められた。しかし彼女は頑なに断ってきた。明らかに非合法。犯罪だ。だが、そういう世界がすぐ身近にあり、極めて非日常的なことなのにいつの間にか彼女自身も麻痺していた。だが、今、目の前にあるそれは、彼女を震え上がらせ、それが決して普通ではなく狂気の世界の物であると思い出させるには十分だった。

伊藤は不安を覚えて、翔一をしっかり左腕に抱きかかえたまま、右手で寝室のドアを開けた。暗い寝室。手探りで灯りを点けると、ベッドには兼田の着ていたと思われる上着や、ズボン、靴下、そして下着までが脱ぎ捨てられていた。だが兼田はいなかった。

その時、聞き覚えのある男の、呻きとも喘ぎともつかぬ情けない声がバスルームの方から聞こえた。あの声は何だっただろう? そうだ、あれは確か昔見た映画の中のワンシーン。豚だ。屠殺される豚の断末魔にも似ている。伊藤は翔一を決して離すことなく、恐る恐る風呂場の扉を開けた。

いた。兼田は湯気の上がる湯船にその半身を仰向けに浸し、刺青の入った右腕を激しく動かしながら恍惚としていた。泡にまみれて赤黒く不気味に光る陰茎が湯面から猛々しく顔を覗かせていた。思わず翔一を抱くその手にぐっと力が入る。

兼田は手を止め、ゆっくり伊藤の方を見た。翔一を抱きかかえたままの伊藤を飢えた男の視線が捉える。(やばい!)背筋に戦慄が走った。

兼田はザバッと勢いよく浴槽から立ち上がった。股間の赤黒いモノは天を向いたまま衰えを知らぬ。伊藤は凍りついたようにその場を動けない。次の瞬間、兼田は人間離れしたスピードで伊藤に掴みかかろうとした。その目は完全に常軌を逸している。

「やめて!」

兼田の手を振り払い、慌てて後ずさった彼女は洗面所の框(かまち)に踵(かかと)を引っ掛けて派手に尻餅をつき、その衝撃であろうことか翔一を放してしまった。フリースのブランケットから転がり出た翔一は一瞬の沈黙の後、火の付いたように泣き声を上げた。

伊藤は急いで立ち上がろうとしたが足と手に力が入らない。恐怖で腰が抜けてしまったようだ。浴室の入り口で兼田が突っ立ったまま、泣き喚く翔一の方をじろりと見た。伊藤が兼田の翔一を睨むその視線に気付くよりも先に、獲物に跳びつく獣よろしく目にも留まらぬ速さで翔一に近付き、そして掴み抱き上げ、大声で言った。

「お前、こ、こいつ、ど、どこで拾って来たんや」

呂律が回っていない。完全に酩酊している。

「あかん、やめて、何すんのん、翔ちゃんから手を離して!」

伊藤が懸命に翔一を奪い返そうとするが、兼田の体はまるで全身が鋼のように硬く、そして血管の浮き出たその丸太のような腕はがっしりと翔一を抱いたまま離さない。

「うるさい、こいつ、何や」

「うちの子や、離せ!」

「こ、こいつが子やと? こいつは、でかい、気色の悪い……」

そう言いながら兼田は翔一を顔の高さに抱え上げた。

「こ、こいつはミ、ミミズの塊やないけ、気色の悪いミミズが体じゅうから噴き出しとるやないか、わしが退治したる」

「あかん、何するんや、やめて! お願い、酷いことやめて。翔ちゃん返して!」

「じゃかましい!」

そう言うや、兼田は泣き叫ぶ翔一をバスタブに投げ込んだ。

ドボンと言う音と供にバスタブに沈む翔一。伊藤は慌てて助けに行こうとするが、男の丸太のような腕が彼女を掴んで離さない。バスタブの底でもがく翔一。時間にして十数秒、しかしその僅かな時間が確実に翔一の命を削ってゆく。

咄嗟に伊藤は足元にあったヒノキの頑丈な腰掛を兼田に向かって闇雲に振りかざした。その鋭利な脚の角が兼田の右目を直撃して、ぎゃっと言う悲鳴と供に兼田は顔を抑えてしゃがみこんだ。伊藤はその隙にバスタブに駆け寄り、ぐったりしたわが子を抱き上げた。息をしているのかしていないのか、それさえはっきりわからない。ふと見ると、翔一を救い上げた湯には、白い糸くずのようなものがゆらゆらと漂っていた。兼田の放出した毒だ。なんて汚い。

よほど焦っていたのだろう。伊藤は額から血を流してうずくまる兼田をその場に残し、スリッパのまま、靴も履かずに玄関を飛び出した。幹線を外れたマンション前の道路はこの時間帯、通る車もほとんどない。行く手には無数の雪混じりの冷たい雨が、街灯に照らされて白く光って見えた。

誰でもいいから。あの男以外なら誰だっていいから……。伊藤は半狂乱になりながら、びしょ濡れでぐったりした翔一を抱いたまま、街灯もまばらな夜道、助けを求めて走る、走る。真冬の冷気に晒されて翔一がどんどん冷たくなって行くのがわかった。それは伊藤の正気まで凍らせてしまいそうだ。まるで夢を見ているようだと思った。

その時、遠くにこちらに向かう車のヘッドライトが見えた。その光に向かって彼女は闇雲に走った。ハイビームの中に突然飛び出した人間に驚いたドライバーは力任せにブレーキを踏む。真夜中、辺りには水の枯れた田んぼしかない。そのしじまに耳をつんざくタイヤの音が響き渡った。そしてぎりぎりのところで車は止まった。

「あほんだら! 危ないやないか! 死にたいんか!」

「お願いしますお願いします、病院へ!」

運転席から飛び出したドライバーの罵声にも負けずに伊藤はその腕にすがり付いて離さなかった。最初はただの酔っ払いかと思った。だがこの寒空に靴も履かず、道路に飛び出して来たびしょ濡れの赤子と母親。尋常ではない。  

ようやく状況を理解したドライバーはすぐに近くの救急病院へ二人を運んだ。四の五の言う状況ではなかった。

結局、翔一がバスタブで溺れてから病院で蘇生術を受けるまで三十分以上も要したが、奇跡的に一命は取り留められた。本来ならばそれほど長い時間心肺停止状態が続けば助からないことが多いが、翔一は浴槽から救い上げられた後、全身びしょ濡れのままで、雪混じりの雨の降る寒い夜、家から病院までの移動に時間を要したことが偶然にも幸いした。体温はぎりぎりまで下がり、生命維持活動が抑制され、その結果、翔一の体は低体温症となり奇跡的にその一命は取り留められた。が、当然、脳には血流が長時間止まっていたために、低酸素脳症を発症して、意識が戻るまで数ヶ月間を要し、また、意識が戻った後も神経機能に大きな障害を残すことになってしまった。伊藤の苦悩は計り知れない。

翔一が救急病院に担ぎ込まれた翌朝。救命センター横の長椅子に腰掛けてうなだれていた伊藤の前に二人の男が現れた。二人に気付いて伊藤はゆっくりと顔を上げた。。男は速やかに旭日章の入った身分証を提示しながら物腰も柔らかく問い掛けた。

「伊藤愛子さんですね? 大変な時に申し訳ありませんが、少しよろしいですか?」

「あ、はい」

(来た!)伊藤は咄嗟にそう思った。夕べ状況を説明した時に、医師から警察に連絡する旨を伝えられていた。当然の結果だ。だが彼らの話は伊藤の予想とは少し違っていた。

「兼田のことはご存知ですね?」

「ええ」

「兼田は今朝、遺体で発見されました」

「え?」

彼女はすぐに、バスルームで顔面から大量に血を流して全裸で横たわる兼田の姿を想像した。もう言い逃れはできないと覚悟した。

「すみません。わたしがやりました」

毅然と言い放った伊藤に対して意外にも刑事は頭を振った。確かに伊藤のバスルームでの一撃は兼田を傷つけたことには違いないが、それが死因ではないと言う。

しかも兼田の遺体は伊藤の自宅で見つかったのではない。自宅から一キロほど離れた石川と言う大きな川の河川敷で見つかったのだと言った。服は着ていなかったそうだ。

どうやらバスルームでの一悶着の後、彼もまた氷雨降る真夜中に飛び出して行ったのだろう。それは伊藤を探していたのかもしれないし、薬が兼田を狂わせたのかもしれない。とにかく兼田は素っ裸で、あの氷雨降る寒空の下へ飛び出して行ったことは間違いなさそうだ。そして暫くさまよったあげく、家から一キロほど離れた石川の土手から河川敷に転落し、運悪く足首を骨折。自力でその場から動くことはできなかった。

「くっそ寒いなあ……」

最期に兼田は、震えながら月も星も出ていない真っ暗な空を見上げながら呟いた。しかし、生に対する執着は感じなかった。もうどうでもよかった。

気温は氷点近くまで下がり、何も身に着けていない兼田の体温はみるみる失われて行った。すると驚いたことに随分と疎遠になっている友人や昔の恋人、死んだ仲間たちが彼のところにやって来てはすぐに消えて行った。そしてやがて、穏やかな時が訪れた。薬物中毒の末の凍死だった。

冷気で体温を奪われた翔一はそのおかげで生き長らえ、兼田には死が与えられた。なんとみじめな最期なのだろう。あまりに皮肉な結末に伊藤はなぜか笑いそうになった。

しかし伊藤が直接命を奪ったのではなくとも、傷つけたことは事実であるし、何より、彼女は使用したことがなくとも、兼田がブツを部屋に残して行ったことは間違いない。彼女が所持していたと見なされてもおかしくはない。

当然警察は伊藤自身の使用も疑い、詳しく検査もしたが結局彼女の体から成分は検出されなかった。当たり前だ。また傷害に関しても、状況から判断して翔一を救うために止む得ない行為であった、言わば正当防衛に当たると言うことで厳重注意のみ。起訴されることはなかった。

身寄りもない半端者のヤク中一人、寒空の下で野垂れ死んだところで誰も迷惑しない。彼女は同情こそされ、誰からも責められることはなかったが、命懸けで守ろうとした翔一には壮絶な傷跡が残ってしまった。



※           ※



バルコニーを叩く雨音はもう聞こえなかった。冷房が良く効き、正面のサッシ窓が白く曇り始めていた。

「ちょっと冷房緩めようか」

「うん」

秀俊は手元のリモコンの設定温度を上げ、サッシの前に立ち、少しだけ扉を開けた。

生温く湿った夜の吐息がじんわりと肌に纏わり着いた。思いのほか部屋は冷やされていたのだと気付く。目を凝らすと、雨はまだしとしとと降り続いていた。その時、背後に座っていたはずの友里が秀俊のすぐ真横に立ち、そして暗い外を見ながら言った。

「あそこに来てる人ってな、天宮さんも含めてみんな大変やけど、伊藤さんは特別やった」

それがひかりの家のことだと秀俊にはすぐわかった。

「せやな。結局伊藤さんは自分を責めてたんやろな。ずうっと長い間な。全部自分の弱さが引き起こしたことやって思ったんやろうな」

「わたしが聞いた話ではな、あの子、子供の頃は孤児やったんやて」

「孤児?」

「うん。何かな、幼い時に海の事故で両親を亡くして知り合いに引き取られてひとりぼっちで育ったって言うてやった。その知り合いと折り合い悪くて高校卒業したらすぐ島根の田舎からこっちに出て来たんやて。まるで逃げるように。両親亡くしてからずっと孤独やったんやと思う。せやから自分と血の繋がった家族がほしかったんと違うかな」

「血の繋がった家族か……」

「何にも知らん人からは、子供ができた時、バカ女が私生児作ったとか、生まれて来る子供がかわいそう、子供は親のペットと違うとかな、えらいボロクソに言われたって話ししてやった。いつものあのあっけらかんとした調子でな」

「痛いなあ。けど、たぶん翔一くんを身篭った時、やっと一人じゃなくなるって思ったんやろうな。それまでどんだけ淋しかったんやろ。それ思ったら切なくなる。その不倫相手のことは本気で好きやったと思うよ。けどその人には奥さんも子供さんもいてはったわけやからな。だから彼女は誰に迷惑かけることもなく身を引いて、一人で産んで一人で育てようとしたんや。子供がな、この世界で自分を必要としてくれるたった一人の存在で、同時に自分の存在意義を確認できるたった一人の人間やったんや。生き甲斐であり未来の幸せを約束してくれる存在や信じてたんや」

「女はな、女の幸せはな、愛した人との子供を産むことやってよく言うけど、わたし、あの子見てたらそれだけじゃないなって思った。翔一くんを育ててる彼女はほんまに輝いてやった。ああ、父親の分まで愛情注いでるってわたし思ったもん」

「せやけどな、いつも苦しむ翔一くんを見るたびに自分を責めてたんやな。全部自分のせいでこんなことになったって思ってたんやな。僕、思うんやけど、彼女、顔では笑ってたけど、ほんまはものすごく心は脆(もろ)かったんと違うかな。それを精一杯隠してたんや。負けるもんか、絶対に負けるもんかって」

「うん。わたしもそう思う。七年やで、そんな長い間ずっと心の中で、翔一、しんどいな、辛いな、ごめんな、って思ってたんや。それをずっと我慢してたんや。あの子が一体何をしたって言うの?」

「だからあの朝、翔一くんが車椅子から落ちた時、ためらったんや。もう限界やったんや」

「ためらうよ。普通。そんな長い間、ほんでこれからもずっと、いつまで続くかわかれへんねんよ。それ、全部、翔一くん苦しむの、全部、自分が悪いって思ったら……」

「翔一くんもきっとそれ、わかってやったんやな。自分が苦しめば苦しむほど、伊藤さんが苦しむんやって言うことが」

「だからいやいやって首ふりやった」

「悲しかったやろうなあ」

秀俊は、あのお通夜の夜、うつむいて泣いていた伊藤の顔を思い出していた。尋常ではない悲しみがあの時、彼女共にあったのだ。それを思うと、秀俊も涙がこぼれそうになった。

「悲しいに決まってる。もしわたしやったとしても……わたしも、たぶん、伊藤さんと同じやから……ミヤ……」

友里から嗚咽がこぼれた。秀俊はそんな友里をそっと抱きしめずにはおられなかった。友里は声を震わせて泣いた。その黒髪からは甘い香りがした。

二人はそのままベッドに横たわり、そして秀俊は一人ベッドを離れようとしたが、友里は彼の腕を強く掴んだまま離そうとはしなかった。

「お願い、ここにおって」

静子と、生まれたばかりの子供が病院にいる……。そのとき静子はきっと何かを感じていただろう。

秀俊は泣きじゃくる幼子のような友里の髪をやさしく撫でた。彼女がゆっくり秀俊の顔を見る。溢れんばかりの切なさを込めて秀俊は、ゆっくりゆっくり、友里の唇に唇を重ねた。どうしてこんなにも悲しい気持ちなのに、彼女が愛おしく感じられるのだろう。

「あかん……」

彼女は、初め、ほんの少し拒んだ。秀俊の頭の中で罪悪感がごうごうと音を立て吹

き荒れていたけれど、彼女の甘い麻酔の力ですぐに何も感じなくなってしまった。

彼は思った。これはほんの出来心だ。絶対戻れる。日の当たる、けれども急峻な登り坂

からほんの少しだけ脇道に入ってみたくなっただけだと思った。入り込んだ脇道は細くて、生い茂るいばらが足元に絡みつく。けれど、まだ戻れる、すぐそこに戻るべき、明るい道は見えていた。帰らないと。

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木蓮の花の散るとき 天野秀作 @amachan1101

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