第3話 友 里
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――一九九〇年 初夏
西田友里。十七才。まだあどけなさを残す円みを帯びたその顔は、色白で目が大きく、取り立てて目を見張るほどの美人と言うことはないが、その童顔に似合わず早熟な体は決して十七才とは思えない艶美さを醸し出していた。そのアンバランスさ所以、通学の電車ではしょっちゅう痴漢に遭遇し、街では頻繁に声を掛けられる。それもほとんどがかなり年上であろう男から。それは彼女にはまったく意味がわからず、ただ腹立たしいだけだ。つまりその時の友里は、異性に対する自分の価値に気付かないし、また、興味もなかった。その童顔の通りに心はまだまだ幼かったのだ。
その日、友里は一人、阿倍野近鉄百貨店の屋上遊園地にいた。平日の昼下がり、彼女が学校をサボったことには訳があった。
友里の両親は、堺市にある商店街で彼女が生まれるずっと以前から豆腐屋を営んでいた。
父、西田三郎、母、幸子。夫婦二人以外に従業員はいない。場末の商店街にある小さな店だった。豆腐屋の朝は極端に早く、まだ真っ暗い内から、夫婦二人は店の仕込みのために家を出た。だから友里は毎朝、がらんとした家で目覚め、そしてがらんとした家を後にする。物心付いた頃からずっとそうだったので、自分以外、誰もいない家で目覚めることに何の違和感も感じてはいなかった。
とても寝苦しい朝だった。起きようとしたが体はまるで鉛のように重かった。下腹部に重しを抱いたような鈍痛がある。はっと気付いて下着を恐々と触ってみると、指先にじっとりとした感触があった。夕べのうちにはその予兆はあったはずだが、まだまだ経験の浅い友里にはうまく対処しきれなかった。
「ああ……」
溜息とも嗚咽ともつかぬ声を発しながら、友里はその鉛のように重い体を起こした。幸い布団は無事だった。そのままトイレに駆け込み、履いていたスエットもろとも下着を床に脱ぎ捨てた。
忌々しげに下を向く。便器の水溜りには幾つもの真紅の飛沫が散る。それはゆらゆらと沈み、透明だった水をすぐに茶色く染めた。なんて汚い。まるで自分の汚い物を吐き出しているような嫌悪感が彼女を襲う。今から学校へ行き、何食わぬ顔で友人たちに会わなければいけない。こんなことぐらい何てことはない。至って日常的なことだと平気で来る子もいるだろう。けれど彼女には耐え難い苦痛だった。一気に気持ちが萎える。幸いにも親はいない。自分がどこへ出かけようと彼らには知る由もなく、また、どこへ行ったとしてもたいして心配もしないだろう。
彼女は再びベッドにゴロリと横になった。怠惰だ。しばらく何もせず、ただぼーっと天井のシミを眺めていたが、急に思い立ったように学校に電話を入れた。
「はい。はい。わかりました。すみません、明日には行けると思います」
幸い出たのは事務の女性だった。動けないほどではないが、かといって学校へは行きたくなかった。しかし無断欠席するほどの勇気はない。これはこれで良い理由だと感じる。
何をするでもなく、結局またベッドに戻った友里は再び浅い眠りに落ちて行った。顔を洗い、歯を磨いて、髪を整え、制服に着替え、そして家を出る。この一連の動作を三度繰り返した。一度目はそれがはっきり夢を見ているのだと思った。二回目も気付いたらまだベッドにいた。あまりに現実的な夢だったので、三回目にベッドで目覚めた時にはそれが夢であるのか現実であるのかもうわからなくなってしまった。下腹部の鈍痛がかろうじて今が現実であると告げていた。窓際のベッドに横たわって見える空は暴力的な青さだ。それは陰鬱とした気持ちにさらに拍車を掛ける。
「ここにおったらあかんわ……」
そう呟くと、何かを思い出したように身支度を始め、そしていそいそと家を出た。実際の自分はまだベッドで横たわっているような妙な離人感がふと頭をよぎったが、逡巡の後、もうどうでもいいと思った。
向かいの家の主婦が花に水を遣っているところに運悪く出くわす。燦々と降り注ぐ太陽の下で、薄青い額をたくさん付けた紫陽花が弱々しく咲いていた。
「友里ちゃん。おはよう。どっか具合でも悪いの?」
閑な向かいの主婦が心配している風を装う。面倒臭い。
「いえ、別に……」
「そう。えらい遅いから、どっか具合でも悪いんかと思った」
(せやから何なん?)と咄嗟に思ったが億尾にも出さず、目の前の萎れかけた花たちをじっと見る。
「紫陽花……」
「ああ、この子らはほんまによう水飲むやろ。根が浅いからな、ちょっと水あげへんかったらすぐに枯れてしまうねん。もうな、この時期、咲かな損なように咲きやるやろ? こんなええ天気の日には何回も水遣らなあかん」
(嫌なら花なんか全部刈り取ったらいいのに、何を文句言うことがあるんやろ、このクソババァ)友里は単純に思った。自分が自慢とストレスの捌け口にされているのがわからない。
愚痴る主婦は困った顔をしながら、持っていたホースで前の道路にまで水を撒き始めた。向かいの家の前の道路は、友里の家の前の道路でもある。つまり、(あんたのとこ水も撒かへんからうちが毎日こうして撒いたってるんや)と友里に言いたいのだろうが、友里にはそんな嫌味は通じなかった。それよりも(ちょっと水あげへんかったらすぐに枯れてしまうねん……)と言ったその言葉が、なぜか友里の心に小さな棘のようにチクリと刺さった。
友里の通う高校はJR環状線の桃谷駅が最寄り駅だった。毎朝、堺にある家を出て、南海新今宮でJR環状線内回りに乗り換えて三つ目の駅だ。しかしその日は次の天王寺駅で途中下車した。そして友里は歩道橋を渡り、向かい側の近鉄百貨店の屋上を目指した。鎮痛薬を出掛けに飲んだせいか、お腹の痛みは幾分落ち着いて来ていた。
エレベーターを降りた場所は小さなペットコーナー。今は熱帯魚や金魚、それとペット用品のみの販売だが、昔は犬や猫などの小動物も取り扱っていた。友里が父である西田三郎に連れられて初めてここにやって来たとき、ガラスゲージの中で生まれたばかりの子猫たちがぎゅっとひとつにまとまって眠っていた。
彼女は、三郎に「これ、友里、行くよ」の声を掛けられるまで、不思議な生き物でも眺めるように、子猫たちを飽くことなく眺めていた。でも欲しいとは思わなかった。かわいいとも思わなかった。死んだように目を閉じて動かない子猫たち。すでに親から離されて売り物にされている子猫たち。あの子猫たち、今はどうしているだろう。あれから十年は経つだろうから、もう生きてはいないかもしれない。きっともう死んで母猫の下へ還っただろう。そう思いたかった。
両側に熱帯魚水槽の並ぶ狭い通路。青臭さと生臭さの入り混じった濃い湿った空気の中を通り抜けてガラス扉を開けるとそこはすでに夏だった。出たところに金魚すくいの平たいプラスチック水槽が置かれていた。気の早い親子連れが熱心に金魚を追いかけている。
あの日、父に勧められて友里も金魚たちを追いかけた。でも一匹もすくうことなく紙は破れてしまい、店の人が申し訳なさそうに「どの子でもお好きな金魚、二匹お持ち帰りいただけます」と言った時、それまでやさしかった三郎の表情からすっと微笑が消えた。あれほど熱心に金魚すくいを勧めた三郎が、酷く冷静に「いりません」とはっきり言った。友里は「ああ、そうなのだ」と妙に納得した。今のやさしい父は、きっと家に帰ったらもういないはずだ。
あの日からわずか半年も経たぬ内に、友里は中学に入学するまでの七年間、児童養護施設に預けられることになった。名目は経済的理由だったが、いわゆる両親による育児放棄が原因だった。
※ ※
そこは遊園地と呼ぶにはあまりに狭い。もっと昔には屋上全面を遊園地に使用していたが、友里が生まれる少し前に別の百貨店で大きな火災があり百名以上の犠牲者が出た。それ以後、屋上は避難区域として敷地の半分を確保することと消防法で定められた。空いているからできるだけ詰め込まないと損だ、という考えは今ではもう通用しない。何事も余裕が必要だ。人も、物も。
子供がたくさん世に溢れていた時代だった。猫の額ほどしかない小さな遊園地だったが、子供のいる親たちには必要不可欠な場所だった。大概は大人の勝手な都合で連れて来られる子供にとって、デパートと言えば、まず玩具売り場、それから最上階の大食堂で食べるお子様ランチとクリームソーダ、そしてこのミニ遊園地。買い物など何の興味もない煩い子供たちの関心を引き付けるには十分だった。しかしそのような商業的な意味合いなどとは無関係に、友里はここが大好きだった。そして大切な場所だった。
南側の一番景色の良い場所にペンキの剥げかけたベンチが数脚設置されていて、彼女はここへやって来ると、クラッシュアイスと紙コップの出てくる自販機でべったりと甘いオレンジジュースを買い、決まってその場所に腰を下ろした。
東側、フェンスの向こうには濃い緑を湛えた生駒山地が連なる。山頂にはまるで小さな棘のような幾つものテレビ塔が見えた。ずっと昔から変わらない風景だ。
「友里、ほら見てみぃ、あれがな、生駒さんや。テレビ塔がいっぱい建ってるとこな。そんな高い山やないねんけどな、東の方を見たらいつでもそこに居てはる。大阪の人間はみんな生駒さんに見守られてるみたいや。ほんで生駒さんからずっと南に小さなまあるいのんが建ってるやろ? あれが高安山の気象台や。見えるか? 友里」
三郎が初めて友里をここに連れて来たとき、山歩きが趣味だった彼が、昔は信貴山から生駒までよく歩いたものだと指差しながら自慢げに言った。今でもあの時の笑顔を忘れたことはない。それは後にも先にもたった一度だけ、友里に見せた父親らしい所作だった。
物憂い(ものうい)性格の彼女にとって、ここは幼い時のきらきらした思い出でであり、今は誰からも邪魔されることなく心休まる場所だった。唯一、この先もずっと変わることなくここに在り続けて欲しいと願う場所――
近畿地方は先週梅雨に入ったとニュースは告げていた。けれど見上げる空は抜けるように真っ青で、おそらく梅雨前線は太平洋のずっと南の方でその涙をいっぱいに溜め込んでいるのだろうが、今はその気配すらなかった。薄っすらと汗が滲むほどの日差しを浴びて、彼女は目を閉じる。とても静かだ。
日曜ともなれば、あちこちで子供たちのはしゃぎ回る声が聞こえ、真正面のおもちゃのような観覧車が回り、賑やかな園内アナウンスも聞こえて、楽しげな音楽も流れているはずだろう。だが今は平日の昼下がり、訪れる人も少なく、ドラえもんもアンパンマンも時を忘れて静かに止まったままだ。それでいい。彼女にとってはその静寂がたまらなく心地よかった。その静けさの中で、今でも優しい父が傍で自分を見守っているような気がしていた。友里の心の時計は、あの時からずっと止まったままなのだろう。
その時だった。
「あの、すみません」
耳元で男の声がした。友里がハッと目を開けると、一人の若い男がこちらを見ながら立っていた。ボサボサの髪を肩口まで長く伸ばし、決して清潔とは言えないTシャツにジーンズ。以前テレビの再放送で見た七十年代の青春ドラマに出て来そうなむさ苦しい風体だ。いかにも貧乏臭い。友里は一瞬怖くなった。
「日向ぼっこ? ああ、、別に俺、怪しいものじゃないから」
(またや、またわけのわからんやつ来よった。面倒臭っ! もう邪魔せんとってほしいわ)
キッと睨みつける友里に対して別段悪びれる様子も無くへらへらしながらその男は言う。
「今日の一時からそこの特設ステージでライブやるんだけど、もしよかったら見に来ない?」
そう言いながら、男は手にしたビラを友里に手渡した。
「ライブ……」
「そうライブ。ナンパしに来たんじゃないから」
(バレてる)見た目のむさ苦しさとは裏腹に口から出た言葉はきれいな標準語だった。そのギャップと相まって、今まで大阪から一歩も出たことのない友里にとって、それはまるで異国の言葉のようで軽いショックを覚えた。
「ん? 俺の顔に何か付いてる?」
じっと見つめる友里に対して男が不思議そうに言った。
「あ、いいえ……」
「そう、じゃ興味あったらぜひ見に来てね。ここさあ、こんな街の真ん中にあるのにあんまり人いなくてね」
そう言いながら、男はきびすを返して向かいの親子連れのところへ向かった。先ほど金魚すくいをしていた親子連れだ。どうやら彼女だけではなくこの場にいる人すべてに声を掛けているようだった。
時計を見ると時刻は十二時を少し過ぎたところだ。夕方のケーキ屋のアルバイトまでどうせ何もする予定はない。本来なら学校にいるはずなのだから当たり前だ。友里は手にしたチラシに目を遣る。
『THE・CABOZライブ 和製S&G! 爽やかな歌声、感動をあなたに 阿倍野近鉄屋上特設ステージにて 日時 6/7(木)午後一時より』
一生懸命作ったのだろうが、素人感は拭えない。まるで文化祭のチラシのようだ。
「何て読むんやろ。和製S&G??」
友里はその一風変わった名前に首を傾げながら、青春ドラマ男の聞きなれない言葉に妙に心惹かれていた。
午後一時。狭い特設ステージ。友里は開場を告げるアナウンスに導かれるまま、その最後列に座った。席の数は五十にも満たない。狭い客席のさらに半分以上が空席のままだ。客はほとんどが、とんでもなく時間を持て余していそうな年寄りと孫らしき子供たち。イベント内容など何でも良いのだろう。友里以外に若い女性はもう一人だけいた。その女性は最前列にぽつんと一人で座っていた、と言うより、陣取っていたと言うほうが適切だ。それぐらい気合が入っているように見えた。バンドの追っ掛けか、はたまた身内だろうか。濃い化粧、ワンレンボディコン、その真っ黒な出で立ちは、明るい日差しの中でそこだけまわりの色を吸い込んでいるように見えた。とても浮いている。が、真っ白のセーラー服を着て、ぽつんと一人このようなところで時間を潰している友里も相当に浮いた存在だった。
「皆様、お待たせいたしました。それではこれからザ・カボズのお二人による演奏をお楽しみください」
作り笑顔すら普通にできないようなMCが紹介した後、二人の男性が元気良くステージに現れた。一人は先ほど友里のところへチラシを配りに来た七十年代青春ドラマ男と、もう一人もTシャツ、ジーンズ姿、首からギターを提げていた。どちらもさえない。
奇をてらってそれは突然に始まった。
hummmmmn hummmmmn hummmmmmn …………♪
その二人の外見からは想像できない美しい調べだった。今まで学校の音楽の授業以外に、身近で生の歌声、生の音楽を聴いたことのない友里にとってそれは衝撃的だった。あっという間に一曲が終わったが、曲についての紹介はなかった。
「何と言う曲だろう?」
友里の心に強く疑問が残った。
「次、エミリー・エミリー、聞いてください」
そっけなくギター男が言った。
ギターのソロから始まって例の青春ドラマ男がすぐにボーカルを被せた。その貧相な見てくれとは裏腹に恐ろしいぐらいに透き通った声だった。英語なので歌詞はわからない。けれど友里は後頭部に一発くらったような衝撃を受けた。出演の二人はほとんどしゃべることもなく、いや正確には二人はしゃべっていたはずだが、友里の耳には音楽以外は聞こえていなかった。
その後、淡々と二人の演奏は続き、僅か三十分ぐらいで終了となった。その僅か三十分の演奏が友里の人生観を変えた。
ステージが終わって友里はすぐに二人に会いに行った。どうしてももう一度、あの青春ドラマ男に会いたかった。彼女は今まで、ただ何となく生きて来た。どうでもいいような欲求や拒絶はあった。でもそれらすべては絶対的な思いではない。しかし今、友里が感じているものは、心の奥底から湧き起こるとても強い意志だった。こんなこと初めてだ。思考よりも本能。まさにこれだった。
衣装も何も、舞台荷物らしき大した持ち物もない。しいて上げるなら、ギター一本だろう。二人の若い男たちは自分たちの演奏が終わると、お情け程度のギャラをもらってさっさと会場を後にした。その背後を遠目に見て、友里は猛然と走る。人ごみを掻き分けて。生理痛はもうとっくにどこかに行ってしまった。
「あの!」
「あの! すいません!」
雑踏の中、二度目にようやく彼らは振り返り、友里の方を見た。
「あの……」
「はい。あ、君はさっき僕らの歌を聞いてくれた子だよね。どうしたの?」
何をどう言えばいいのかまったくわからなかった。友里の頭の中は真っ白だ。
「あ、あの、さ、最初の曲、何て言うのん?」
「え? 最初の曲? ああ、アメリカだよ」
「アメリカ……」
「ちょっと、あんた何やのん? 祐一のファン?」
先ほど最前列に陣取っていた黒いワンレン女だった。二人だけかと思ったら横でちょろちょろしていたのに気付かなかった。女子高生の友里に対してその女の目は明らかに挑戦的だ。まるで何かを鋭く感じ取ったように友里を睨みつけた。
「お前だってただの祐一の追っかけの一人じゃん」
ギター男が面倒臭げに吐き捨てる。
「ちゃうわ! わたしは祐一の歌う」と言い掛けて、祐一が制止した。
「君、高校生? 聞いてくれてありがとな。俺たちみたいな駆け出しはファン、大事にしないとな。特にこんな若い子は」
そう言うと、ワンレン女は恨めしそうに友里を見ながらそれ以上何も言わなかった。
「君、名前は?」
「友里」
「友里ちゃんか。かわいい名前だね」
「ありがとう」
「えっと、今から俺たち昼、食べに行くんだけど友里ちゃんはもう食べた?」
「ううん、まだ」
「じゃあいっしょに来る? と言っても一階のマクドナルドだけど」
そう言えば朝から何も食べていなかった。ハンバーガー! 思い出したようにお腹が空いて来た。
「え、いっしょに行ってもええのん?」
「ああ」
「結局ナンパかよっ! このロリコン!」
黒いワンレン女がぼそっと毒づいた。
それまで平々凡々と流れていた友里の時間が、突然大きなうねりとなって彼女を飲み込んだ。青天の霹靂。何気ない日常の中に、とんでもない魔物は潜んでいる。その夜、友里は家に戻らなかった。
やがて熱狂的なファンの一人となった友里は、憧れの的である祐一の望むことなら何でもした。どのような命令を出されたとしても、その時の友里にノーはない。たちの悪い熱病に侵されて完全に自我を乗っ取られてしまったようだ。だからあっさりとその初々しい肉体を献上した。出会ってその夜のことだった。友里はその尊い純潔を自分の中から湧き出すどす黒い血で汚してしまった。
2
村井祐一は十七才の時、地元大分県の高校を二年で中退し、まわりの猛反対を押し切って上京した。自分の才能を信じて疑うことなく、憧れの東京で華々しくデビューすることを夢見ていたし、また、自分の才能があればそれは可能だと思っていた。
九州の片田舎ではそれなりの評価は得ていたが、多少歌がうまい程度のことで、それぐらいなら東京には掃いて捨てるほどいる。所詮は井の中の蛙。自惚れ、挑戦、そして挫折。お決まりの道を歩みながらも、それでも夢を諦め切れず、昼間は引っ越し屋のアルバイトで糊口をしのぎつつ細々と音楽活動を続けていた。
上京して五年。何の目新しい変化もないまま、時間だけがだらだらと過ぎ行く。しかし職場では新しく入ったアルバイトを使える立場にまでなった。正社員登用の話しもあった。そんな日常に首までどっぷりと浸かり、やがて結婚して子供でも作って年老いてゆくのだろう。
なぜだろう。祐一の脳裏には色褪せた一枚の写真が浮かぶ。あるかないかもわからない、まだ見ぬ未来のことなのに、そのセピア色の写真には、年老いた自分と年老いた妻、子供や孫たちに囲まれた幸せそうな家族の風景が写っていた。人はこうして夢を忘れてゆく。いや、忘れると言うより麻痺すると言ったほうが的確だ。それもいい。少しずつ、そんなふうに感じるようになった、そんな時だった。
高校の同級生で、同じく音楽に身を投じていた衛藤一(えとうかず)馬(ま)が、大阪で小さく旗を揚げたことを知った。彼の心には、友を祝福する気持ちよりも先に悔しさが広がった。
――なんであんな奴が。 学生の頃は自分の方がずっと優れていると自負していた。そいつが、自分よりも先に一旗揚げたことで彼の自尊心は傷ついていた。東京ではなく、所詮は大阪という地方都市だからだ、と自分に言い訳しつつ、本当は悔しくて悔しくてたまらなかった。つまりは小心者。プライドの高さでは負けてはいない。
だからそいつからこっち(大阪)で組まないか? と話を持ちかけられた時、祐一の心は相当に凹んだ。だがこのままここ(東京)にいればおそらく何も変わらないのでは。夢は引っ越し屋のプロになることではなかったはずだ。上京して五年、妥協すべき時期が差し迫っていたことも事実だった。人生には、自分が動かなくても外部的要因によって強引に押し流されて行く時もある。それが今だと感じていた。
「そうだ、俺はあいつに媚びるのではない。利用してやるんだ」
何かにつけ自分を納得させる理由が必要だった。そうして祐一は、一馬を頼って来阪することになった。
来阪してからの祐一は、誘ってくれた相方、ギターと曲を担当する衛藤一馬とペアを組んで再び失いかけていた夢に向かって歩み出した。
こうして祐一と友里は出会った。当初はまるで若い通い妻のように友里は祐一の部屋へ足繁く通った。やがて若い二人はその本能の赴くままにずるずると同棲を始める。もちろんこれと言った将来的な計画も何もない。お互いがその傷を舐め合うようなそんな自堕落な生活が三年続いた。二人きりならそれでも良かった。
しかし精神的にはいくら幼くてもその肉体は、新しい命を育むには十分熟していた。朝と言わず夜と言わず、覚えたばかりの快楽の虜となっていた二人だったから、友里の月のものが姿を消して三ヶ月経ち、漸く事の重大さに気付く始末だった。
3
祐一との出会いから七年が経った。その間、友里は祐一と正式に籍を入れ、長女、都(みやこ)、次女、咲(さ)希(き)の二人の娘を儲けていた。実家では母、幸子が一時期体調を崩して入院したこともあって、それを機に豆腐屋を廃業し、今は夫婦二人、年金暮らしののんびりとした日々を送っていた。
友里、二十四才。それは、彼女が下の子、咲希を産むために三才になったばかりの都を連れて実家へ里帰りしていた時だった。無事出産も終わり、おおよそ一ヶ月が経とうとしていた頃、まだ咲希が生まれてひと月足らずだというのに、夫、祐一はそんな彼女を自宅へ呼び戻そうとした。
自宅へ帰れば容赦なく家事と育児が、産後間も無い彼女の上に圧(の)し掛かるだろう。それは当然のこと。彼女はわかっているつもりだった。
しかし、他所と少し違っていたことは、長女の都に少し問題があったということ。三才になる都は、いつも泣いては彼女を困らせ、また突然に大声を上げたり、高いところへ登ろうとしたり、少し普通ではない奇行がしばしば見られた。友里はそんな都をとても心配して、もしかしたら、何らかの障害があるのではないかと不安に思っていた。
祐一はそんな彼女の心配をよそに、仕事と自分のやっている音楽活動に持てる時間のすべてを注ぎ込んで、家事、育児など、どんなに彼女がしんどいときでも、ほとんど手伝うことはしなかった。九州の典型的な男尊女卑の旧家に生まれ、それを幼い時から見て育った祐一にはそれが当たり前だった。
ある時、彼女はもうどうしようもなくなって、祐一に相談したことがあった。しかし、祐一は彼女の頼みに対して予想もしていない言葉を返した。
「俺は外で仕事を一生懸命やっているんだ。家で、子供たちと楽しく遊んでご飯を食べているお前にそんなこと言われたくない。俺が一度でもお前に俺の仕事がしんどいから手伝ってくれと頼んだことはあるか?」
それを聞いた時彼女は、腹が立つよりも、やるせない思いでいっぱいになって、それ以来、夫に助けを求めるのは筋が違うと思うようになった。
(わたしが、やらなければ! わたしが! わたしが!)どんどん彼女への精神的負担は大きくなっていくばかりだ。
それから半年ほど過ぎた。それは、幼い二人の子供を連れて、堺市の実家から自宅へ戻る途中で起きた。
昼下がり、近鉄難波駅で電車を待つ友里。平日の午後三時にもかかわらず、地下にある近鉄奈良線のホームはけっこう混み合っていた。元々彼女は人ごみが苦手だった。特に閉鎖された地下街などの混雑は、彼女に相当な圧迫感を与えた。今までも何度か気分が悪くなったり息が苦しくなったりすることはあったがその日は特別だった。
列車待ちの列に並ぶ友里。混雑していたのでベビーカーをたたみ、乳飲み子の咲希を抱っこ紐で抱え、ちっともじっとしていない都を左手で強く引いて右手には三郎から渡された食品の数々が入ったバッグ。重くなるからと断ったが、三郎が孫を思ってこと。そうむげに断るわけにもいかず渋々詰め込んで帰って来たものの、南海難波駅からここまで歩いて来るだけで重い食品を持ち帰ったことを友里は相当後悔していた。
南海新今宮でJRに乗り換えれば歩く所はほとんどなかったはずだ。今日ばかりは友里はそうしたい思いに駆られた。けれど南海難波から近鉄難波までの地下通路に熱帯魚を展示した水槽が設置されていた。子供たちはその熱帯魚を見ることがとても好きだった。だから少々無理をしてでもそこを通らないといけなかった。
普通列車はなかなかやって来ない。しんどい時に限っていつもそうだ。最初にやって来たのは、奈良行きの快速だった。すぐにでも乗りたかったが、残念ながら彼女の住む駅には止まらない。扉が開き、中からたくさんの人が吐き出され、たくさんの人が吸い込まれてゆく。車内は明るい光に包まれていた。自分はその中へは入れない。乗っている人々が皆自分の方を見て、「お前はこっちに来るな」と一斉に言われているような気がした。
次に照明の消えた回送特急がホームにゆっくりと入って来た。扉が開くが、「回送列車です。お乗りにならないで下さい」のアナウンス。大きな車窓から見える車内は、暗く寒々としていてまるで亡霊たちを乗せて黄泉の国へと向かう死の列車のようだ。彼女はその列車が怖かった。
友里は突然、何かに締め付けられるような不安に襲われ、周りがぐるぐる回り出して息が出来なくなり、咲希を抱えたままその場で座り込んでしまった。咲希は、ただ、母をきょとんと眺めて、三才になったばかりの都は、母の突然の発作に、驚き、戸惑い、ただ「ママ、ママ」と声を掛けるだけで精一杯だった。幸い、周りにいた親切な年配の女性に助けられ、そのまま駅員に救護室に連れて行かれてしばらく休んで、なんとかその場は事なきを得た。
心配そうに母に寄り添っている都。
「ママ……」
「ごめんごめん、ママもう大丈夫。大丈夫やから」
疲れが溜まっていたんだと、そのとき彼女は思っていた。けれど、それは、これから彼女を襲う大変な病のほんの前触れに過ぎなかった。
その電車での一件から半年が過ぎ、上の子だけでも、相当に手が掛かるのに、さらに下の子も片時も目を離せなくなった。相変わらず祐一はそのことに理解を示さない。
4
あの近鉄難波駅での一件以来、そいつはやって来るようになった。何に対する恐怖なのか、何に対する不安なのか、まったく漠然としていたが、突然やって来ることは確かだ。その頻度は増すばかり。また、そいつがやって来る前に必ず前触れがあることもわかって来た。
初めに、白いキャンバスに蝿のような小さな黒い点が現れて、徐々に広がり、やがてまわりのすべてを黒に変える。それはまるでほんの少し開いた窓の隙間から漆黒の闇がゆっくりと部屋の中に流れ込み、やがて部屋を漆黒で満たすのに似ている。
呼吸は速くなり、立っていられなくなる。やがて恐怖が頂点に達すると首を絞められたように息が出来なくなった。その度に友里は眉間にぎゅっと皺を寄せて、両手のこぶしを爪が刺さるぐらい強く握り締める。そして怖くなくなるまでただじっと耐えた。短い時で五分、長い時でも三十分も経たない内にそいつは去った。そのうち友里は、体の痛みが麻酔のように恐怖を少し麻痺させることを知る。危険な兆候だ。今ならばそれは、パニック発作と言う名前で広く知られるようになったが、当時、そのようなものは世間一般には認知されていなかった。だから彼女はその恐怖の主に〝ダーク〟と言う名前を付けた。
ある日曜のことだった。その日もまったく言うことを聞かずに泣き喚く子供に、友里はほとほと疲れ果てていた。祐一は朝から音楽仲間と出かけていない。いつ帰って来るかも、どこへ行ったのかさえわからない。一応携帯は持っている。以前一度だけ掛けたことがあったが、今忙しいからと邪険にあしらわれてしまった。あれ以来祐一にはどんなことがあっても電話などしないと心に決めていた。
その日は重い生理痛で気分がすぐれない上に雨が降っていた。三階のベランダの窓ガラスには幾つもの雨粒。未明から降り始めた雨は本降りになっていた。本当なら今日は子供たちを連れて奈良のあやめ池遊園地に行く予定だったが、生憎のこの雨だ。子供たちの不満は募る。
「ねえママ、遊園地は?」
朝から友里の顔を見る度に都は、執拗に何回も訴えた。
「ねえママぁ、あやめ池は、ねえ、アンパンマンショーは、ねえいつ行くの?」
「今日はお天気悪いから、また今度ね」
「ねえママ、今度っていつ? ねえいつ? ねえいつ行くの?」
都の声が友里の頭の中で何度もぐるぐる聞こえる。
「ねえママ、ねえママ、ママ、ママ、ママ、ママ……」
彼女の感情は爆発寸前だ。そしてその声から逃れるようにトイレに閉じこもった。子供たちは急にいなくなった母を探して、「ママぁ、ママぁ」と大声で泣いている。でも彼女は、頭を抱えたまま便座に座り込んでドアを開けることはできない。
――ダークがやって来ていた。
息ができない。とめどなく友里の目から涙が溢れ出た。その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。都が自分を探して外に出たのかもしれない。いつまでもここに居るわけにもいかない。トイレを這い出た友里はすがる思いで、夫ではなく実家に電話を掛けようとした。
母の姿を見つけるや否や、都は泣きながら駆け寄って来た。電話を掛けようとする友里の背中に抱きつこうとするが、友里は、「いやっ!」と大声で怒鳴りながら闇雲に左手を振り回し、背中に被さる都を力任せに掴んで払いのけた。ゴツンと大きな音が響き、都がフローリングを転がる。その顔は恐怖に歪んでいた。友里の耳元でコール音が響く。恐ろしく時間が長く感じられた。
「もしもし」八回目のコールの後、やっと三郎が出た。
「お父さん!」
「なんや、友里、どないしたんや」
「助けて……」
「どないしたんや! 友里」
暫くの沈黙の後、父は彼女の悲痛な声を聞いた。
「わたし、わたし、怖い。もう、何するかわかれへん」
「おい、しっかりせえ、すぐ行く……」
そういい終わらない内に、都の叫び声が電話口の背後から聞こえた。
「あっ!」
友里の只ならぬ声で電話は一方的に切れた。三郎はすぐにリダイヤルするがコール音ばかりで通じない。やがて留守電の音声案内が虚しく聞こえた。
火が付いたように泣く都。一度は起き上がったものの、すぐにその場に倒れ込み、顔面は見る見る蒼ざめて行った。
「ミヤ! どうしたん! 都!」
友里はぐったりした都を揺する。顔を抑える都の小さな指が薄紅に染まっていた。
「血? ミヤ、どこ打ったん! あっ!」
耳だ! 左耳からほんのりと紅い半透明の液が都の可愛い顎を伝っていた。その次の瞬間、都は突然ゲホゲホ吐いた。大量に。辺りに吐しゃ物のすえた臭いが漂う。
「痛い、痛い、痛いいいいいい」
大きく咳き込みながら大声で泣き叫ぶ都。
「あんた、頭、打ったんか、都!」
(あかん!)友里は慌てて一一九を回した。気が動転していて係りの人の質問も、何をどう言ったのかすら覚えていなかった。「とにかく救急車を!」それだけで精一杯だった。
救急車を待つ間、ダメ元で祐一に電話を掛けてみたが、「お掛けになった番号は、電源が入っていないか電波の届かない場所に……」やっぱりだ。
留守電にすらならずまったく話にならない。わかってはいたが本当に悲しくなってしまった。が、しかし祐一が出なかったことに、どこかほっとしている自分もいた。この状況を説明しなければならないと思うと鳩尾(みぞおち)がぎゅっと痛くなった。
その間にも都の状態は目に見えて悪くなる一方だ。それは素人目に見てもわかった。あれほど大声で痛がっていた都は、今は時折小さく声を出してうつろな目で自分を呼んだ。
永遠とも思える時間の後、突然慌しくどかどかと音を立てて救急隊員がやって来た。その様子を見て二才の咲希が怯えて泣き出した。なぜか救急車のサイレンは聞こえなかった。
「患者、ムライミヤコ、三才女子、家屋内にて転倒して左側頭部打撲、耳介後部に腫れを認める、意識あり、激しい頭痛、嘔吐、痙攣、左耳からの髄液漏れを確認……了解! 至急搬送します。受け入れ準備よろしくお願いします」
事務的とも思えるてきぱきとした救急隊員の対応。友里にはそれがまるで現実ではないように感じられた。がらがらとけたたましい音を立ててストレッチャーに乗せられた都が頭を高く固定されて運ばれて行く。マンション前の道路が狭いために救急車はすぐ入り口まで入って来ることができなかった。そのため、少し離れた駅前までストレッチャーに乗せられたまま搬送しなければならなかったのだ。それでサイレンが聞こえなかったのだろう。その間も雨に濡れないようにしっかり咲希を抱きかかえた友里は、懸命に都に声を掛けた。近所のヒマそうな人たちが何事かと興味本位にその光景を眺めていた。
「ミヤ! ミヤ! しっかりして、すぐお医者さんやからな」
雨中、傘さえささずに搬送される都に寄り添って走る友里。
「お母さん、子供さんに触らないで!」
「はい、すみません」
その隊員のきつい口調が友里の不安を更に煽った。
到着した病院の救急受け入れには、すでに数人の医師や看護師が救急車の到着を今か今かと待ち構えていた。その様子だけでも十分怖い。
5
どれぐらいの時間が経ったのだろうか、もう友里には時間の感覚すらなくなっていた。友里が最後に都の姿を見たのは、もう随分と前のことのような気がしていた。その時の都はあれほど酷かった嘔吐も治まり、とてもよく眠っているように見えた。しかしそれは眠りではなく重篤な昏睡だと友里にはわからない。
友里は早々にエマージェンシールームを追い出されて、良く眠る咲希を抱きかかえたまま廊下の長椅子に座っていた。通路の突き当たり、緊急受け入れ口から見える向こうの景色はどんよりとした鉛色で、朝からずっと降り続く小糠雨(こぬかあめ)が目に映るすべてをしとどに濡らしていた。
頭の中は真っ白だった。どうして自分はこんなところでぼんやり座っているのか、我が子にとんでもない事が起こったことでさえ、共すれば忘れてしまいそうだった。
「おい」
「…………」
「おおい!」
友里はその声に気付いて顔を上げると、そこには眉間に皺を寄せた三郎が仁王立ちになっていた。
「お父さん……なんでここ、わかったん?」
「なんでて、家行ったんや。びっくりしたで、悲鳴聞こえて電話切れたから! ほんならマンションの大家さんから都が救急車で運ばれたゆうて聞いてなあ」
「それだけでここわかったん?」
「わかるかいな! 調べたがな。消防署に聞いて。おまえ連絡せんかいな!」
「ごめん、急やったから」
「ほんで、都は、都はどないやねん?」
「頭、強く打ったみたいやねん」
「ええ? 頭を? せ、せんせは何て言うたはんねん?」
「まだMRIやとか色々詳しく検査せなわからへんから、ここで待っててくださいって」
「そうか……」
先ほどまで眠っていた咲希が目を覚ました。
「ほんで旦那は?」
「昼から連絡取れへんねん。ずっと電話してるんやけど」
「何しとんねん、こんな時に! しょうもない奴っちゃなあ」
三郎は苛立ちを隠せない。もともと三郎は友里の結婚に猛反対していた。子供ができてしまった以上認めたくはないがそうせざるを得ない状況だった。父は祐一のことを未だにまったく信用していなかった。
三郎の怒りが友里の心の中に棲んでいる魔物を呼び覚ます。幼い頃に封印して来た三郎に対する恐怖の記憶が蘇る。
「ああ、お父さん……」
まるでこの世の物とは思えないほど暗澹(あんたん)とした面持ちで、友里は今にも泣き出しそうだったが、それを口にせずにはおれなかった。
「ん?」
「ううん、何でもない」
それきり口を閉ざした友里は、うつむいてじっとその左手を見つめていた。その指先が僅かに震えていることを三郎は見逃さなかった。
「何でもないって。……おまえ、まさか?」
「え?」
「やったんか?」
「!」
その時、ガチャっとドアが開いて看護師がやって来た。友里は震え上がった。
「村井さん」
「はい」
「先生から説明がありますので中へお入り下さい」
友里は思った。この人はどうしてこんなにも淡々と物事を伝えられるのだろう。人生経験のまだまだ未熟な友里にはそれが理解できなかった。
心痛めている人の心に同調すれば自分まで冷静さを欠く。命の世話をする立場にある人にはそれはあってはならないことだ。またその域に達するまで並々ならぬ苦しみを味わって来たということもわからなかった。そんな苦労もわからずに、この人にとっては、所詮は他人事だ、あまつさえ人でなしだ、などと一瞬思ってしまった友里はやはり思慮が足りない。でもそれも仕方のないことだ。冷静でいられる訳はない。今は抱きかかえた咲希の温もりだけが彼女の精神をかろうじて支えていた。
部屋に入り、友里はちらっと奥を覗く。ガラスに仕切られた救急処置室のベッド上にはまだ都が眠っていた。わけのわからないたくさんの線やチューブに繋がれて、それはまるで蘇生を待つ死体のように見えた。怖い。
「どうぞこちらです」
看護師に案内されたすぐ隣の部屋は、部屋と言っても大きなエマージェンシールームの片隅をパーティションで仕切っただけの簡易なスペースだったが、一応パーティションに扉があり、看護師はその仮扉をコツコツとノックした。プラスチックの安っぽい音が響く。
「はい、どうぞ」
「先生、村井さんがお見えになりました」
友里と三郎は恐る恐るその仕切りの中に入った。一瞬、そこは何もかもが白い世界のように思われた。おそらく白い壁と白い天井に加え、正面のレントゲン写真の投影機から漏れる蛍光灯の冷たい灯りが、その場の空気まで白く染めているような錯覚に陥らせたのだろう。それは清潔さを通り越して友里の不安をさらに煽った。
その医師はまだ若そうだ。たぶん三十才前後か。しかし目を細めてCT写真を見つめるその眼差しは、医者と言うよりも熟練の職人のそれに近い。国立病院の第一線で執刀しているのだから、かなりの手練れであることが推測された。近寄り難い雰囲気だ。友里は臆して言葉が見つからない。
「せんせ、どないなんですか?」
先に口を開いたのは三郎の方だった。なかなか声を発しない医師に痺れを切らした三郎が詰め寄った。友里の父はかなり短気な性格だ。ようやくゆっくりと医者は振り向き、そして険しい顔で言った。
「難しいです」
「難しいて、どういうことなんですか、せんせ」
「ここ見てください」そう言うと医者は写真の一部をペン先で指し示した。
「ここ、白くなってるでしょ。これ血腫です」
「血腫?」
「ええ、簡単に言えば血の塊です。ここ、頭蓋骨と、この線の内側、脳との境目、この凸レンズみたいな形をした白い部分。ここに血の塊があります。硬膜外血腫と呼んでいますが、こっちの写真見てください」
「それは?」
「これは一時間前の写真。明らかに大きさが違う。大きくなっているのがわかりますか?」
「はい……」
「この血の塊がね、脳を圧迫しています。頭蓋内圧昂進と言いますが、これ以上大きくなったら、行き場のなくなった脳がね、脳幹を圧迫することになります」
「ほんならどないなるんです?」
「脳幹は生命維持に関わる非常に重要な場所です。つまり脳があるべき場所をはみ出して圧迫することになる。それを脳ヘルニアと呼びます。いわゆるヘルニアです。脳の」
「脳ヘルニア……」
「そうなったらかなり厳しくなります」
「厳しいて、その、都は」
「ええ、そうならないように今から緊急手術を行います。開頭して血腫を取り除きます」
「た、助かるんですか? 都は、手術したら」
「できるだけのことはするつもりでおりますが、一応、最悪のことも覚悟しておいて下さい」
この人たちはいったい何を話し合っているんだろう。これは絶対に現実ではない。どこか自分の知らない遠い世界で起こっている絵空事に違いない。友里はその状況を受け入れることができず、ただぼんやりと二人のやりとりを眺めていた。
「おおい、友里!」
父の怒鳴るような大声が友里を否応なく現実に引き戻す。
「え?」
「え、やないやろ、何をぼーっとしとんねん」
そう言いながら一枚の紙を友里に差し出した。
「同意書や。今さっき、せんせの言うたこと聞いてへんかったんかいな」
「お母さん、それ一応読んでいただいて、先ほどの私の説明でご理解いただけたならサインをお願いしたいのですが」
「一刻を争うんや、早よ書かんかいな。友里」
「お父さん、書いて! わたしできへん。都、ちょっと床で頭打っただけやのに、なんで?」
「子供の頭は大人に比べてまだやわらかいので、ちょっとの衝撃でも簡単に折れることがあります。娘さんの場合は、耳からの髄液漏れが見られました。おそらく、頭蓋底部の骨折だと思われます」
そう言いながらその医師は、机の端に置いてあった頭蓋骨の模型を手に取り、ぱかっと上半分を割って見せた。怖い。
「この底の骨、脳を載せているこの器状の骨、これが頭蓋底骨ですが、娘さんの場合はこの左横の中ほどのところに骨折があります」
「えらいとこの骨、折ってしもたんやなあ」
ぎゅっと眉間を寄せながら三郎が唸るように呟いた。
「骨折は現時点ではどうすることもできませんが、まずはこの血を取り除かないと命に関わります」
(命に関わります)今、確かそう言ったの? 命に関わるって。嘘よ。朝、元気に走り回っていたはずなのに、嘘でしょう。その都が死んでしまうってこと? もう会えないってこと? そんな馬鹿なことあるわけない。あるわけない……絶対にあってはいけない。
「先生、都を、助けて下さい。都を取り上げないで、都を返して!」
「せんせが都をどっか連れて行くわけやない。ちょっと落ち着け、友里!」
「わたしが悪いんや。わたしが」
「それは今はええ、とにかく先にサインせえ」
「すみません、すみません、すみません、すみません、すみません」
何度もその言葉を口にしながら友里は一瞬、気が遠くなった。
「危ない!」
抱えていた咲希を危うく落としそうになって、医師が咄嗟に受け止めた。目を覚ました咲希が驚いたように医師の顔を見ていた。
「お母さん、ちょっと休んだ方がいいようですね。ご主人は今はどちらに?」
「いや、それが連絡取れしませんねん」
「では祖父であるあなたにお願いします」
「わかりました」
そう言いながら友里の父は指示された箇所に名前を書き入れた。とても筆圧の高い尖った文字だ。医師はすぐさまその同意書を持って出て行った。まもなく手術が始まる。
6
急な坂道を一歩ずつゆっくりと下っていた。
正面から照りつける日差しが眩しかった。眼下には青い海が広がる。坂道はその海に向かって一直線に下っているように見えた。ふと横を見ると自分一人ではなかった。白い開襟シャツの男が自分の右手をしっかりと引いている。じっとりと汗ばむ手。季節はおそらく夏だろう。
父だった。ここはどうやら昔、父に連れて来られた生まれ故郷のようだ。確か広島県南西部の瀬戸内海に面した小さな漁村だったはずだ。
坂を下る途中、向こうから車椅子を押しながら坂を登ってくる女とすれ違った。女はゆっくりと、でも力強く車椅子を押していた。サンバイザーを被り、その上から手拭いで顔を覆っていた。ここらの漁師のおかみさんたちの風体だ。遠くからでは逆光で顔はわからなかった。その車椅子には女の子が乗っていた。その子の顔にはどこか見覚えがあった。誰だったろう。
勾配のきつい坂道だった。女は一生懸命に車椅子を押す。すれ違いざまに顔を見ると、それはとてもみすぼらしい老婆だ。老婆は何か言いたげにこちらの方をじっと見ていた。はっとした次の瞬間、老婆は自分になり、父に手を引かれた小さな自分をじっと見つめていた。入れ替わった。その車椅子を押す老婆は年老いた自分の姿になった。醜く老い果てて尚、懸命に車椅子を押していた。都! 車椅子の少女は都だ。
「村井さーん、村井さーん!」
誰かが自分を呼ぶ。どこかで咲希の泣き声が聞こえていた。
「これ、友里」
「お父さん」
窓から見える外の景色はすっかり宵闇に包まれていた。あれから三時間以上眠っていたようだ。とても嫌な夢を見た。
「やっと起きたか。咲希がお腹すいたみたいや。オムツも替えたらなあかん」
「都! 都は?」
「ああ、手術は無事に終わったで」
そう言いながら父は泣きじゃくる咲希を友里に抱かせた。
「咲希、ごめんな、お腹すいたな。お父さんごめん、紙おむつとお尻拭き、どっかで買って来てくれへん?」
「それでしたら地下の売店に置いてますよ。あとは向かいのドラッグストアでも」
看護師がそう言いながらシャッとカーテンを閉めた。
ささやかだが、こんな時だからこそ、その少しの配慮が嬉しかった。よっぽどお腹が空いていたんだろう、咲希は友里の白い乳房を一心不乱に頬張った。ごくごくと勢いよく乳を飲む咲希。その姿を見て一瞬だけ友里の心が安らいだ。だが心の中の不安は依然としてそこにあった。
「あの、都は?」カーテン越しに問い掛ける友里。
「ああ、頭の血はうまいこと取れたらしいよ。心配せんでええ」
「村井さん、落ち着かれましたら先生からご説明がありますので。あ、交換された紙オムツは処分しておきますね」
「すんませんなあ」何度も三郎のへつらう声が聞こえた。
友里の小さかった頃はこんなに人に媚びる人ではなかった。友里の知る父は、自己中心的で傲慢で、謙虚さの欠片もなかったはずだ。それが年を取って、孫が生まれるや、まるで今までの贖罪のつもりなのか、手の平を返したように優しくなった。これが自分を七年間も施設に預けた父なのか。友里は咲希のオムツを替えながらふと思った。
程なくして友里と父は再び担当医の下を訪ねた。先ほどと同じレントゲン写真の投影機からこぼれる光が辺りを白く滲ませていたが、友里の恐怖はさっきより少し和らいでいた。
CT写真の前で医師は言った。
「血腫は取り除きました。血圧も平常値範囲まで下がって最初の山は越えたと感じます。でもまだまだ余談は許しません」
これ以上恐ろしい言葉がその口からこぼれないことを祈りつつ、友里も三郎も医師の重い言葉に懸命に耳を傾けた。
少しの重苦しい沈黙の後、医師が続けた。
「えっとですね、取り敢えず、我々は子供さんの命を救うことを第一目的に処置を施しました」
「と言うと?」
「つまり、はっきり申しまして、例えばこのまま意識が戻らないと言うことがあっても、まず、救命と言う観点から見れば、それは条件クリアになるわけなんですよ」
「意識が戻らへんて、都はこのままずっと眠ったままの植物人間なんですか?」
「それは現時点ではまだ何とも言えません。ひょっとしたら明日の朝にでも意識が戻るかもしれませんし、場合に寄っては、もしかしたら〝そういうこと〟もあるかもしれない」
友里はただ頷くだけで頭の中は真っ白だった。
「それとお母さん、大変言いにくいことなんですが」
「はい」
「報告ではお子さんは、室内で転倒されて頭を打たれたとお聞きしておりますが」
友里の顔色がさっと青ざめた。
「部屋で転んで打っただけであそこまで酷いことにはならないかと。まさかとは思いますが、虐待とかはないですよね?」
「い、いいえ! ありません」
「そうですか。わかりました」
「あの、すみません」
「はい?」
「あの実は」
医師の表情が変わった。
「ただの転倒ではなくて」
父が友里を睨みつける。友里がさっと視線を逸らす。
「食器棚から落ちたんです」
「転倒ではなく転落?」
「ええ、あたしが嫁入り道具で持って来た食器棚です。大きな木製の上下二段に分かれてるやつで、前にも都は上下の段差のところに足を掛けてよじ登ってて、慌てて降ろしたことがありました」
そのどす黒い言葉たちは今までどこに隠れていたのかと思うほど滑らかに友里の口から流れ出た。
「今回もあたしがトイレに入った隙によじ登ってて……」
「なるほどね」
「あの子、三才になっても全然落ち着きないし、高いところへ登るのが好きで、もしかしたら何か障害でもあるんと違うやろかと思っていた矢先の出来事やったんです」
大きな後悔、しかしそれと同時にどこかほっとしている自分がいた。きっと地獄に落ちるだろう。友里はもう一生戻れないと思った。
「わかりました。お母さん、お気持ちはよくわかります。心配でしょうけれど、今暫くはお子さんの回復を待ちましょう。我々もできるだけのことはやります」
その担当医は別段疑っている風もなく、それ以上何も言わなかった。
もしかしたらもう二度と都の意識が戻らないかもしれない。友里は心のどこかでそれを願っていたのかもしれない。最低の母親だ。自己嫌悪が彼女を襲う。
時刻は午後十時を過ぎていた。この時間になっても祐一とは連絡が取れなかった。きっとまた打ち上げと称して仲間たちと遅くまで飲み歩いているに違いない。友里は気が進まなかったが、自宅に電話を掛けてみた。やはり誰も出ない。まだ帰っていないのだろう。そこで留守電に震える声で自分の居場所と簡単な経緯を入れておいた。
看護師が二人のところまでやって来て、「何時になるかわからないから、下のお子さんのこともあるし、一度帰宅されてはどうですか?」と勧めたが、友里も父も顔を見合わせて丁重にこれを断り、指示されたICU前の待合で朝までは待つことにした。こんな状況では何もできないだろう。けれど、都を置いて帰れるわけがなかった。
しばらくして父が何か食べるものを買って来ると表のコンビニに向かった。そういえば朝から何も食べていない。しかし食欲はなかった。ベンチには父が差して来たであろう蝙蝠傘が立て掛けてあった。それも持たずに出て行った父。雨はもう上ったのだろうか?
待合には友里たちの他にもう一家族がこの世の終わりとでも言いたげな青い顔をして座っていた。ここはまるでこの世とあの世の境界線のような気がした。嫌な場所だ。
深夜零時を回る頃になって、自宅の留守電に入れておいた友里の伝言を聞きつけた祐一が血相変えてやって来た。
「友里、都は? 都はどうなんだ?」
開口一番、強い口調で祐一が詰め寄る。かなり酒臭かった。予想通りだ。
「おい、あんた、何や、こんな遅っそい時間までどこほっつき歩いてたんや!」
友里が何か言う前に父が怒鳴った。祐一は三郎の顔を忌々しげに睨む。
「仕方ないでしょう。こっちだって日曜なのに付き合いで遅くまで出かけていたんだから」
「仕方がないて何やねん。音楽か何か知らんけど、一銭にもならんような事してて。こっちから何回電話したと思てるんや。ほんまに役にたたん電話や。しかも何や、あんた、酔うとんのんかいな!」
少なくとも現時点では祐一のやっていることは家計に取って何の足しにもなってはいない。それどころかマイナス面ばかりが目立つ。それなのにまったく悪びれた様子もなく、あくまでもそれが仕事であるような祐一の物言いに友里も呆然となった。しかし仕事でないことは三郎にもわかっていたようだ。
「お父さんやめて」
「そやかて友里……」
友里が止めに入ったが三郎の怒りは収まらない様子だ。
「友里、こ、こんな奴あかんぞ!」
友里はこの先のことを考えると鳩尾(みぞおち)がきりきり痛んだ。向かいに座る家族が険しい表情でこっちを睨んでいた。
(悪い夢なら早く覚めてほしい)何度もそう思ったが、これは紛れもない現実だ。
「お静かにお願いします。これ以上うるさくされたらお引取り頂きますよ!」
ICUの観音扉がバーンと開き、中から出てきた看護師が二人の間に割って入る。当たり前だ。都を始め数名の危機的状況にある患者が収容されているのだ。
「ああ、すんません」三郎は素直に謝った。祐一は依然として怒りの収まらない様子だったが、声のトーンを落として「都は?」と再び友里に尋ねた。彼女は核心部分には触れずに、淡々とその経緯を説明すると、祐一はそれこそ耳まで真っ赤にして感情をあらわにして友里に言った。
「おまえ、子供と家にずっといっしょにいるのは何のためだ?」
この男は他人を責めることしかできないのか。友里は悲しくなって、ただだまってうつむくしかなかった。核心部分に触れていないのにこの調子だ。もし本当のことを言えばただでは済まないだろう。それを考えると心の底から怖かった。
「あんたな、自分は何様のつもりや。ここが病院ちゃうかったら殴ってるとこや」
祐一を睨みつける三郎も本当に怖かった。
(この先、一体わたしら、どないなってしまうんやろ?)友里は不安を隠しきれずにいた。
それ以来三人は一言も口を聞くことなく、時間はまるで止まってしまったように遅々として進まない。そのうちに三郎の鼾が聞こえ出した。高齢の上、この一連の騒ぎで疲れが出たのだろう。ふと祐一を見ると、こちらもアルコールのせいもあるのだろうが、死んだようによく眠っていた。咲希も長椅子の上ですやすやと寝息を立てていた。向かい側の椅子に座っていた悲壮感漂う一家は一時間程前に呼ばれたまま帰って来ない。容態が急変したらしい。おそらくはもうここには戻って来ない。
友里はこの世界で自分一人が取り残されたような気になった。廊下の突き当たり窓の向こうがぼんやりと白み出し、長い長い夜がもうすぐ明ける。その時だった。
集中治療室の観音開きの扉が開き、先ほどの看護師が友里のところへやって来た。友里が顔を上げると、看護師は少し笑みを浮かべてやさしく言った。
「お子さんの意識が戻りましたよ」
その言葉はずっと待ち侘びていた言葉。けれど、同時に友里の心に暗い影を落とした。隣で居眠りをしていた三郎も目を覚ました。しかし祐一は鼾を掻いている。しかも酒臭い。友里が起こそうとしたが、三郎が「そんな奴はほっておけ!」と制止した。まだ怒りが収まらない様子だった。
仕方なく友里は咲希を抱きかかえて部屋に入ろうとすると、看護師からストップがかかった。乳飲み子の咲希は規則で部屋には入れない。その看護師は寝ている祐一をちらりと横目で見遣り、呆れ顔で「面会の少しの間だけ私が看ていましょう」と申し出てくれた。友里は咲希を彼女に託した。おそらくは彼女にも子供がいるに違いない。咲希を抱く彼女にはどことなく母の匂いがした。
それから二人はICUの準備室のような部屋で入室に関しての説明を受けた。執拗に手を洗い、靴も履き替え、頭からつま先まで完全防備で望んだ。頑丈なドアは、それがまるで入室の儀式のように足元のスイッチをつま先で蹴って操作する。まるで要塞だ。ここまで厳重に守られた奥に都がいるのかと思うと、友里は驚きと共にますます滅入るばかりだった。
先ほど待合で見かけた家族の一人がICUの入り口で医師と何かをひそひそと話し合っていたが、他の身内の姿はおろか、肝心の患者の姿もなかった。その表情と口ぶりではたぶんダメだったのだろう。ここは生と死が混在している場所だ。どこまでが生でどこからが死? その境目は何だろう。石のように動かぬ患者を見ながら友里はふとそんなことを思った。しかし、ベッドに横たわる都の姿を見た時、生とか死とか、そんな哲学じみた他人事のような考えは一瞬でどこかに消え去ってしまった。
都は生きていた。いや、懸命に生きようとしていた。複雑な機械に囲まれ、頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、口には管、全身をチューブや線で繋がれて、昨日の朝まで元気に走り回っていた都は、今は死んだように動かない。肌は青黒く、薄目は開けていたがその視線は虚ろに宙を泳ぐ。瞳には何が写っているのだろう。
「ミヤ?」と友里が声を掛けると、視線はゆっくりとその声のする方に向けられていたが、声を発することはなかった。とりあえず、耳は聞こえているようだ。
「せんせ、どないなんですか?」真っ先に尋ねたのは三郎だった。
「今のところ安定していますよ」
隣のベッドでこちらに背を向けてせわしなく動いている医師はそれ以上語らなかった。目下の患者の容態が最重要事項なのだろう。詳しくはまた後ほどと言うことらしい。
「また来るわな」と、友里は一言だけ話し掛けると、都の虚ろだった視点は友里を認め、ほんの少し微笑んだように見えた。枕元の機械から発せられる規則正しい音だけがいつまでも友里の耳に残った。とても嫌な音だ。
7
一週間が過ぎた。
都の怪我は思ったよりも順調に回復していた。子供の回復は早いと言うが、都はすでに一人で起き上がれるところまで良くなっていた。ここまで心配された後遺症と呼べるものは、時折、顔の左側がぴくぴくっと引き攣(つ)るぐらいで特にこれと言って重篤な症状は見られなかった。担当した医師もその回復力に驚いていた。
そして友里が最も恐れていたこと――都の怪我の原因について――は、幸か不幸か、頭を打った前後三十分ほど、都の記憶がまったく抜け落ちていたために表沙汰になることはなかった。都が覚えていることは、ママが急にいなくなったこと。そして気が付けば病院のベッドで寝ていたこと。都は何度聞かれてもこれしか言わなかった。
医者に言わせると、頭を強打すると、こう言った一時的な記憶障害が起こることはよくあることらしい。(記憶障害? でももしかしたら……)ここから友里の懊悩(おうのう)煩悶(はんもん)が始まった。
父、三郎だけは知っていた。祐一には何度も言おう、話そうと思ったが、いざその時になると恐怖のために口は貝のように閉ざされて何も話せなかった。三郎にそのことを相談すると、「二つ三つの子がそない巧妙なウソついたりするかいな! 考えすぎや」と窘(たしな)められたが、これに加えて、「ええか、妙な気を起こすな。いらんこと言わんでもええ。このことはだまって墓まで持って行け」ときつく言われた。ここに父の本質を見たような気がした。しかしこの問題は、友里一人で抱え込むにはあまりに荷が重過ぎる。
一般外科病棟に移ってひと月が経とうとしていた。経過は順調そのものだった。この分ならうまく行けば、秋口には退院も可能だと告げられて、ほっとしてはいたが、ベッドで静かに眠る都を眺めながら、この夏の騒動を振り返り、本当に大変なことはたった一つしか起こってはいないはずなのに、心の中で(いろんなことがあった、いろんなことが……)と繰り返し呟く。身も心も憔悴しきっていた。
その日は朝から都の食欲もあまりなく、少し眩暈と顔の痙攣を訴えていたが、午後回診に訪れた医師に尋ねると、つらつらとカルテに目を通し、顔面の痙攣意外、バイタルサインに異常は認められないので現時点ではそれほど心配することもないだろうと言うことだった。
午後三時を少し回った。窓の外は、建物も、木も、空も、そのすべての陰影がとても色濃く、くっきりとして見えた。クマ蝉のシャンシャンと鳴く声が閉めた窓から病室にまで響いていた。外はおそらく摂氏三十度は軽く越えているだろうが、院内はとても快適な温度に保たれていた。今年の夏は結局ここで過ごすこととなったが、夏は何度でもやって来るはずだから、一回ぐらいこんな夏があっても仕方のないことと、昼寝中の都を見ながら友里は不毛な考えに思いを巡らせていた。その時だった。
「ママ」
都がゆっくり目を開けてぼんやりしている友里を呼んだ。友里はうつらうつらと眠りに落ちかけていたが、一瞬で現実に引き戻された。
「ああ、ミヤ、目、覚めた?」
「ママ、あのな、電器が、すごく近くに見えるねん」
「え?」
ベッドで仰向けに寝ていた都はゆっくりと右手を天井の蛍光灯に向けて差し出した。
「おかしいなあ、電ん、器、捕まれへん」
都の指先が何かを掴もうと小さく動く。
「何言うてるん? ミヤ」
「だってな、こ、ここに……」
会話が数秒止まった。
「あんねん、ほら……」
また止まった。まるで電波状態の悪い動画を見ているようだ。上に突き出した右手は小刻みに震えていた。
「え? 何? 都、どないしたん?」
その時、天井を見つめる都の顔の右と左が極端にずれているように見えた。怖い。
「ちょ、都、しっかりして!」
友里の言葉は都の耳には届くことなく、宙に浮いたまま消えた。
都の小さな口から粘り気のある白い泡が溢れ、すぐに尻の下のシーツに水しみが広がった。
「誰か、せんせ、看護婦さん!」
友里は慌ててナースコールを押した。
「はーい、どうしましたか?」
間延びした看護師の声がインターホンから届く。
「すぐ来てください! 都が!」
午後のゆっくりした病室は一転して蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
「うーん、やっぱり出ちゃいましたか」
これが担当の脳外科医が友里に向けて言った最初の言葉だった。
様々な検査の結果、都の体に起こった症状は、外傷性癲(てん)癇(かん)と判断された。頭蓋骨折などの影響で脳に何らかの損傷があったとき、後遺症としての癲癇の発作が起こる。担当医はこの事態は十分に想定していたようだ。普通は一週間以内に症状が現れるらしいが、都の場合は、軽い顔面痙攣(けいれん)程度で顕著な癲癇は起こらなかった。「やっぱり出ちゃいましたか」は、その嫌な予感的中を如実に言い表していた。
これ以降、度々、都は癲癇を起こすようになった。それは一時的なものではなかった。一時的であってほしかったがその期待はものの見事に裏切られた。これから長きに渡ってこいつと付き合っていかなければならないのだ。
それを引き起こす原因ははっきりとわからないが、予兆はあった。最初のあの「電器が近くに見える」もその一つなのだろう。だが現時点では都の精神年齢も若すぎてうまく説明できないでいた。周りの人にしてみれば、まるでパソコンがエラーを起こして突然フリーズしてしまうように都の体は活動を止めるものだから皆一様にびっくりしてしまう。
初めは友里も慌てふためいたが、やがてそれが日常化すると徐々に慣れてうまく対処できるようになった。医師の処方によってある程度の抑制はできたが、しかし、それ以後、都や、都を含めた家族の生活様式が大きく変わった。すべての優先事項を押し退けて「てんかん様」が家族のど真ん中に居座ってしまった。つまりは日常生活に大きな重荷を負うことになったのだ。しかも都はまだたった三つの女の子だ。やがて年頃になっても、皆の前でぶるぶる震えながら泡を吹き、糞尿を垂れ流すのだろう。その未来を思うと友里は居ても立ってもいられなかった。
――誰のせい? 今は覚えていないのかもしれない。けれどいつかきっと都の口からその言葉が出る。その恐怖は〝ダーク〟に取っては最も美味しいエサとなった。ダークの吐き出す毒はどんどん強くなり、その存在は大きくなるばかりだ。
それからひと月ほど過ぎ、夜の空気にようやく秋の気配が混じり始めた頃、都はリハビリルームにまだ名札を残したまま退院することになった。これからは家と病院を小まめに行き来する生活が始まる。付き添いはもちろん友里の役目だった。
今までの家事、育児に加えて、都の介護、通院、そしていつ襲って来るかもわからないダークの影に脅えながらの生活。希望の見えない真っ暗闇の中を手探りで進むような毎日が友里を待ち受けていた。
友里の心の糸はもう限界まで張り詰めていた。どう考えても友里がたった一人ですべてをこなすには無理があった。都が癲癇を起こす度にすべての作業はストップしてそちらに全精力を傾けなければならない。
それは祐一の行動にも当然影響を及ぼした。祐一は自分の行動を制限されることを最も嫌がった。元来〝我が道を行く〟をそのまま擬人化したような男だったから、自分の時間が取られる度に「こんなことになったのはお前せいだ! お前が何とかしろ」と友里をなじった。
その上たちの悪いことに――実はこちらの方が友里に及ぼす悪影響は計り知れないが――彼の性欲は人一倍強かった。しかし小心者の祐一には堂々と浮気をする甲斐性はない。その捌け口は友里しかいなかった。夜遅くに酔っ払って帰って来ては、疲れて泥のように眠る友里の下着を無理やり引き摺り下ろして、酒臭い息を吐きかけながら彼女にのし掛かった。その永遠にも感じられる時間を友里は目を閉じて懸命に耐えた。友里の祐一に対する思いは憎悪を超えて恐怖の域にまで達していた。それは日に日に大きくなるばかりだ。このままでは友里の精神が完全に参ってしまう。
8
それは都の通院の日のことだった。都の手を引きながら見上げた空は、カンと晴れ上がって雲一つない。その日も朝からとても暑かった。十月下旬だというのに、すれ違う人は皆一様に真夏を思わせる出で立ちだ。この国はいつからこんなに季節がなくなってしまったのだろう。その時、友里の心に暗黒の雫が一滴、ぽたりと落ちた。
もちろん咲希もベビーカーに乗せて連れて出ていた。都の通院の間だけでも祐一が咲希を看てくれたらどんなに助かることだろう。しかしそんなことを言えばまた祐一の機嫌が悪くなる。おそらく祐一は今日が都の通院日だということも知らないだろう。
友里の家は大阪市と東大阪市の境目にあった。病院までの道のりは、普通ならば徒歩と電車でゆっくり行ったとしても四十分ぐらいだろうが、病み上がりの都とベビーカーの咲希を連れてとぼとぼと歩くものだから一時間近くかかった。
「ミヤ、大丈夫? しんどくないか?」
友里は手を引く都の顔色を窺いながら道々何度も尋ねた。都は「うん。大丈夫だよ」とにっこり微笑んだ。その度に友里は自分の方が余程病人であるような気がした。実際そうだった。片や癲癇持ち、片やダークの恐怖。どちらもいつ襲ってくるかわからない。もう二人とも立派な病人だった。何もわからないベビーカーの咲希だけが友里の顔をじっと見ていた。おとなしい子だ。
近鉄上本町駅で降り、市営地下鉄谷町線に乗り換える。上本町から地下鉄谷町九丁目、通称谷九までは少し地下道を歩いて移動しなければならない。その日は朝から友里の体調もかなり悪かった。きっと疲れが溜まっていたのだろう。陰気な地下道を歩き出してまもなく、友里の感じる世界のすべてが恐怖に変わった。それは行き交う人なのか、地下道という狭い空間なのか、それともむせ返るようなどこかカビ臭い熱気なのか、はっきりとした原因は思い当たらないが、兎に角怖かった。友里はガタガタ震えながら一歩一歩ベビーカーを押す。すこし気を抜けば、すぐにでもその場に座り込んでしまいそうだ。
それでも何とか谷九の切符売り場までたどり着いた。券売機前には切符を買おうとする数人の列ができていた。友里の番になり、鞄から財布を取り出し、小銭入れのファスナーを開けようとしたが手が異常に震えて金具をうまく掴めなかった。何とかファスナーを開けたは良いが、今度は小銭が掴めない。後ろに並ぶ人々から無言の圧力がかかる。
「ママ?」都が心配そうに友里を見上げる。
次の瞬間、財布は友里の手から滑り落ちた。ぎざぎざ模様のプレートの上に小銭入れから出たコインが散乱する。慌てて拾おうとするが、友里はしゃがみこんだままとうとう動けなくなってしまった。券売機の前の列がしゃがんだ友里を囲むようにぱっと膨らんだ。
すぐに真後ろの年配の男性が転がり出たコインを拾って友里に渡そうとしたがまるで石のように彼女は動かなかった。
「ママ?」都が心配そうに呼び掛ける。
「お母さん、大丈夫ですか? どっか具合悪いんですか?」
その親切な男性が友里の背中をさすろうと触った瞬間、友里は突然大声で怒鳴った。
「いやっ! 触らんといて!」
男性は目を丸くしてすぐに逃げるように立ち去った。周りの人たちが何事かとざわめき出した。友里は這い出るように列の外に出て、壁際まで行き、その場にぺたんと座り込んでしまった。ぽろぽろと涙が止め処なくこぼれた。すると驚くことに小さな都が友里の財布と鞄を拾い、咲希の乗るベビーカーを懸命に友里のところまで押して来た。そして何も言わず、ただ友里に寄り添って冷たいタイルの上にちょこんと座った。
都の体温が友里に伝わった。こんなに小さな都、こんなに傷を負った都。その都が今、ダークに侵された友里をやさしく介抱していたのだ。咲希は相変わらずそんな二人をじっと見つめていた。
すぐに駅員が二人やって来た。切符売り場だったので様子を見ていたのかもしれない。あるいは誰か親切な人が知らせたのかもしれない。やって来た二人の駅員に抱えられるように友里はすぐ近くの駅事務室に担ぎこまれた。駅で倒れたのはこれで二度目となった。
いつものことだったので、暫く休めば発作が治まることはわかっていた。だがそれよりも早く救急車が到着した。若い駅員の一人が都と咲希を連れ、友里は地下道を担架に載せられて運ばれた。野次馬たちのざわめきの中、壁の白く光る電照看板の意味を持たない文字たちがゆっくりと友里の横を流れて行った。
そして皮肉にも行き先はそこから一キロと離れていない今まさに向かおうとしていた都の病院だった。あの都が担ぎ込まれた救急にまさか自分も行くことになるとは友里は思いもしなかった。
「あら今度はお母さん?」
看護師たちのひそひそ声が聞こえた。よくよく縁のある病院だと友里は点滴を打たれながら思った。暫くしてまた父、三郎が呼ばれてやって来たがこの頃には友里の発作も治まっており、せっかくやって来たが、今更と言う感は拭えなかった。友里は大変うしろめたい思いがした。
「友里、大丈夫か」
「お父さん、ごめん」
「どないしたんや」
「……もう、うち帰りたない」
「帰りたないって、旦那と喧嘩でもしたんか?」
「ううん。けどもうあのうちには帰りたくないねん」
「せやかてお前、子供らどないすんねん。連れて行くんかいな」
「いやや、もうほんまにいやや。お願いやから」
涙が溢れた。
結局その日は、友里の容態が安定した後、二人の子供たちを連れて三郎が堺市の実家に連れ帰ることになった。
祐一の下へは二度と帰りたくなかった。顔も見たくない、もう声も聞きたくない。三郎はそんな友里を心配して、暫くの間、気持ちが落ち着くまでここで暮らしなさいと言った。
けれど、やはり友里の心中にはこれで良いのか? と言う葛藤がある。妻として、母として、これで良いのか……そのことを考えると、ますますどうしようもない不安に襲われる。都の病気のこともすごく気になる。どうすればいいのか、堂々巡り。そして混乱。
それからら暫くして、友里は都の担当医の紹介で初めて心療内科を訪れた。そこで彼女は度々自分を苦しめるダークについて話すと、その医師はたいへんその説明に興味を持ったようだ。
「なるほど、ダークか。確かに。なかなか面白いこと言いますね。医学用語で言うところの予期不安に当たるのでしょう。しかしその呼び名の方がしっくりきますね」
「予期不安?」
「ええ、村井さんの病気はパニック障害だと思われます」
「パニック障害?」
「そう。パニック障害は決して珍しい病気ではありません。よく効く薬もあります。予期不安はその症状のひとつです」
「ちゃんと名前があるんやね」
「ええ、人はね、まあ人だけではありませんが、予期せぬ危険に遭遇したとき、その身を守るために恐怖や不安といった感情が湧き起こります。防衛本能です。でないと本当に命を落としかねないですから。考えてみてください。ライオンに遭遇した時にボケッと見ているシマウマはおらんでしょう? 猛然と逃げますね。あれです」
その医師は、診察室なのに白衣を着ていなかった。仕立ての良い黒のスーツ姿。岡田というネームプレートを胸に付けていた。年は五十代半ばと言ったところか。上品な初老の紳士といった感じだ。物腰が柔らかく、言われなければ医者には決して見えなかった。
岡田医師は話を続けた。
「ところがね、村井さんの場合は、まったく身に危険が迫らない時にでもその反応が起きる。脳の誤作動でね。度々その誤作動が起こるようになるとね、次、いつどこでそれが起こるかわからない。すると今度は起こってもいないその誤作動に対する不安が起こる。それが予期不安です。あなたを度々苦しめるそのダークと言うやつですね」
――なんや。あたしだけと違うんや。名前まであるんや。なんやそうか……
岡田の言葉は友里のもやもやしていた心にストンと落ちた。その正式名称がわかっただけでもここへ来た意味は大きいと思った。闇雲だった存在が、名前がわかったことによってほんの少しだけれど光明が差した気がした。それは言うならば、悪魔祓いの儀式で悪魔の名前がわかれば除霊できるように。
「せんせ、あたしの病気、治るんですか?」
「治る方もたくさんいらっしゃいます。けれども残念ながら、今の段階ではそれははっきりとは申し上げられない」
「じゃあ、あたしはこのままずっと?」
「ええ、元々それは人間に備わった防衛本能ですから。無くすと逆に大変なことになる。今はそいつが暴走しているんです。だから治すことよりも、まずそのダークとうまく付き合って行くことを考えて頑張りましょうか。大丈夫ですよ」
初めて友里は、自分は厄介な病気に侵されていると言うことがわかった。そして自分が勝手に命名した病気にもちゃんと名前があって、かなり研究が進んでいると言うこともわかった。けれど、友里は未だ、漠然とした思いに揺さぶられていた。まず何から始めれば良いのか、遠いゴールは何となく見えたような気になったが、具体的には皆目検討が付かなかった。
「せんせ、あたし、何をすればいいの?」
当然の疑問だった。
「そうですね、まず、あなたが〝したくないこと〟をできるだけ〝しないように〟そして負担に思っていることを軽減するところから始めましょうか」
「したくないことをしない…………そんなん無理です。絶対無理!」
「そこ、それ!〝絶対無理〟それがダークを呼ぶんですよ。人間、世の中、絶対なんてありません。今のところはっきり決まっているのは、いつか死ぬことぐらいですよ。やらなきゃ、そう決めているのは私たちの心ですから。縛っているのも自分自身。ね、わかるでしょ?」
「せんせ、なんかお坊さんみたい」
「いや、私は医師ですよ。坊主なんかじゃない。至って理論的です。実際ね、何とかなるものです。あなたが〝絶対〟しなくてもね」
「せんせ、ここ、また来てもいい?」
「ええ。もちろん。あ、予約はしてください。ああ、それとカウンセリングも受けてください。あなたにはぜひ必要だと思いますのでね」
「カウンセリング?」
これも友里には初めて聞く言葉だった。一九九〇年代当時、カウンセリングどころか、精神科を受診することすらまだまだ差別的な目で見られる時代だった。この国は精神医学ではかなりの後進国であったことは否めない。
「ええ、臨床心理士による、まあ簡単に言えば悩み相談ですよ。あなたが今現在抱えている問題をね、きちんと分析しながら一つずつ潰して行きましょう。それにはカウンセリングが必要だと思いますので」
岡田は驚くほどやさしかった。友里は今までこれほど真正面から真摯に話を聞いてくれた人に出会ったことがなかった。父にも、もちろん今現在、友里を悩ませている夫、祐一にもこれほどやさしく接してもらったことはなかった。友里は単純に好意を寄せてしまった。
彼はにっこり微笑んだが、何も言わず、カルテにDPD傾向(依存性人格障害)と書き足した。彼にとって友里は心を病んだ患者の一人に過ぎず、もちろん職業柄、こう言った患者に対してのマニュアル通りの接し方であったはずだ。そんなこと世間知らずの友里にわかろうはずもなかった。その時の友里にとって彼は救世主であったに違いない。
9
友里は子供たちを連れて実家に戻っていた。しかしこれで済む訳はない。ふと我に返った時、それはまるで刺さったまますっかり忘れていた棘に何かの拍子に触れた瞬間のように突然チクリと痛んだ。祐一に対する決着をいつか着けなければいけないと思った。それはもう強迫観念にも似た思いだ。しかし今だけは、それが泡沫(うたかた)の平穏であったとしても構わない。ただ祐一のいる家には戻りたくはなかった。
一週間が経ち、それから一ヶ月が過ぎ、季節はようやく秋から冬へと変わろうとしていた。友里の実家のすぐ近くに大きな公園があった。春は桜、夏はプール、秋は紅葉と古くから地域住民のスポーツや憩いの場として広く愛されてきた場所だ。そこは友里にとっても小さい頃から友達たちとよく遊んだ馴染み深い場所であり、そして今も都のリハビリを兼ねて毎日のように散歩に訪れていた。
よく晴れた日の午後。日差しこそまだ眩しくて暖かかったけれど、時折吹く風は
肌を刺すように冷たかった。正面入り口を抜けて中央広場まで続くメインストリートの両側には黄金色に輝く銀杏並木がずっと続いていた。友里は咲希を乗せたベビーカーをゆっくりと押す。それが一時の現実逃避であることはわかっていた。でも今少しだけ、ここでこうしていたかった。
「ミヤ、寒ない?」
「うん。寒ないよ。ママ、葉っぱ、いっぱい落ちてる。みんな黄色や。きれいなあ」
「そうやな、きれいなあ」
初冬の園。友里と幼い子供たち。三人だけのとても幸せなやさしい時間。
でもそうそう世の中甘くできてはいなかった。その世界のすべてを叩き壊すように友里の携帯が鳴った。
携帯など本当は持っていたくなかった。けれど、またいつ何時ダークに襲われて動けなくなるかもわからない。あるいは都が癲癇の発作を起こすかもわからない。だから三郎は友里に携帯を持つように命じた。当然のことだろう。
声の主は三郎だった。友里は眉間にきゅっと皺を寄せ、目を閉じて、恐る恐る耳に当てる。こめかみに蒼い静脈が浮き出て見えた。
「もしもし」
「友里、今どこや?」
「大浜公園やけど」
「あんまり言いたくないんやけどな、今ここへ旦那さんが来てはるんや。今おれへんって言うたら戻るまでここで待つ言うたはるんや」
友里が実家に戻ってから何度も祐一から電話が掛かって来ていたが、彼女は頑なに出ようとはしなかった。それでは埒が開かないと思ったのだろう。とうとう祐一がここまでやって来た。友里は祐一を恐れていた。その恐怖たるや尋常ではない。できることならばもう二度と顔を見たくなかった。どう考えても、今はもう自分の正気を保つのが精一杯な状況だ。
「ごめん、お父さん、悪いけど、今は会いたくないねん」
「友里、旦那さんはお前やなくて子供らに会いたいって言ってはるよ。どうする?」
「嫌っ! 会わせたくない。お願い、連れて行かんといて、お願い!」
友里は咄嗟に大声で叫んでいた。手を繋いでいた都がびくっと驚いて友里の顔を見る。受話器から洩れた友里の声を聞きつけた祐一は、三郎の手から受話器を強引に奪い取った。
「おい友里! 今は子供ら連れて帰るつもりはない! ただ様子を見に来ただけだ。第一、今俺が連れて帰っても何もできないだろうが! お前のやっていることは誘拐にも近いぞ」
「そんな、誘拐やなんて酷い! 都も咲希もあたしの子ぉです」
「とにかく、俺は子供たちの無事をこの目で確認するまでここから一歩も動かないからそのつもりでいろ」
それだけ言うと祐一は受話器を三郎の手に返した。
「友里、ここはとりあえず一回帰って来なさい。旦那の思い通りにはさせへん。わしが付いてるさかい大丈夫や」
どうしようもない。どうすることもできない。友里は都の手をぎゅっと握った。
「ママ、痛い」都の表情が曇る。
「ごめん、都。お父さん、うちに来てはるんやて。都、お父さんに会いたい?」
都は友里の顔色を窺いながら、そして少し淋しそうに、こくんと頷いた。
「もしもし、友里、もしもし、おい聞いてるか?」
三郎の声が電話から響く。友里はじっと目を閉じて搾り出すように言った。
「うん。わかった。帰る。けど、ほんまに子供らはあかん」
「ああわかった」
これ以上言うと三郎まで怒り出しそうで怖かった。仕方なく友里は今来た道をゆっくりと戻ることにした。
家が近付くに連れ、友里の足取りはさらに重くなった。普段は気にもならないベビーカーさえずっしりと重い。次の角を曲がると家までは一本道だ。遠くから玄関の引戸が開けっ放しになっているのが見えた。中に人がいる。間違いない。祐一だ。彼は靴も脱がずにたたきに立って友里の帰りを、いや正確には子供たちの帰りを今か今かと待っていた。
(わざわざ平日にここまで会いに来るなんて……)
祐一がこんなに子煩悩だったとは友里は予想もしていなかった。しかし単に祐一が子煩悩と言うことではなく、この時点で祐一の独善的な計画が彼の脳裏で着々と進みつつあった。その目処がある程度立ったのでこんな平日に仕事を休んでまで子供たちに会いに来たのだった。その目論見はこの先、友里にとって更に不安の陰を落とすことになった。
都の手を引きながら、片手でベビーカーを押してゆっくり家に向かう友里。祐一も友里と子供たちを見た。しかし友里は目を合わせようとはしなかった。彼が不機嫌に満ちた空気を身に纏っているのを遠目で見て瞬間的に感じ取ったからだ。
玄関に着くと、そこには祐一ひとりしかいなかった。助けてくれるはずの父の姿はなかった。逃げ出したは思えないが、如何ともし難い気まずさに耐えられなかったのだろう。
祐一はほんの一瞬鋭い視線で友里に一瞥をくれると、すぐに二人の子供の方を見てにっこり笑った。友里はその刹那を見逃さなかった。背筋がゾクッとした。
物音を聞きつけて奥から三郎が顔を出す。友里は咄嗟に父の方を見た。助けを求める娘の顔だ。その悲しげな友里の目を見た時、三郎は一言「お前は上に上っとり」とだけ言った。それだけで十分気持ちは伝わった。
友里はその言葉を信じて一人階段を上り始めたが、どうにも心配で一度だけ振り返って子供たちの方を見た。ちょうど祐一が咲希をベビーカーから抱き上げているところだった。それは父として実に自然な行動だ。しかし友里には祐一が子供に触れることですらもう耐えられなかった。どうしてここまで祐一を許せないのだろう。自分でもわからなかった。
自室に入ると涙がどんどん溢れて、顔を覆う手の震えが止まらなかった。嗚咽がこぼれる。祐一は子供たちの父親だ。だから自分の子供と触れ合うのは当然の行為である。にも関わらず友里にはどうしても生理的に受け入れられなかった。今はただ早くこの時間が過ぎてくれることを心から神に祈った。
小一時間程して階下から子供の声や物音がしなくなった。どうやら祐一は帰ったようだ。友里は恐る恐るそっとドアを開け、階下の様子を窺いながら忍び足で下に降りた。ところがそこには祐一の姿どころか子供の姿も三郎の姿もなかった。嫌な予感がした。
奥の部屋には母、幸子が休んでいた。最近は体調があまり良くないらしく、ずっと塞ぎがちだった。
「お母さん、子供らは?」
「ああ、旦那さんと大浜公園に行くゆうて出て行ったよ。お父さんもいっしょのはずやで」
「ええ、そんなんあかん!」
「これ、友里! ちょっと、あんた……もう、すぐに帰るってゆうてたのに」
友里は幸子が止めるのも聞かずに慌てて表に駆け出した。
先ほど帰って来た道を再び走る。走る。なりふり構わず若い女が走るものだから、すれ違う人々は皆何事かと立ち止まって友里の目指す方を見た。すぐに公園の入り口が見えた。しかし祐一たちの姿はない。友里はゲートを抜けて、落ち葉で黄色く染まったメインストリートをさらに駆け抜ける。息が切れ出した頃、盛大に水しぶきを上げる大きな噴水と、それをぐるりと囲む広場が見えた。広場にはベンチが置かれていて、天気の良い昼下がり、憩いの時間を楽しむ人々が思い思いにくつろいでいるのが見えた。
いた! 祐一だ。その一団の中、祐一と子供たち、そしてその隣のベンチに仏頂面でどっかり腰掛けている三郎の姿があった。向こうはまだ友里には気付いていないようだ。友里は子供たちのところへ駆け寄ろうとしたその時だ。
ひとり、多い。友里ははっとして慌てて立ち止まった。祐一、都、ベビーカーの咲希、その隣に黒っぽい服を着た女性らしき人が並んで腰掛けているではないか。友里は重度の近視だ。コンタクトをしているとは言え、この距離からではわからない。しかし何となくその雰囲気には覚えがあった。(誰や?)友里はそれ以上近付くのは止めて、銀杏の幹の陰からその様子をじっと窺った。三人、手に手にソフトクリームを持ち、とても和やかに、それはまるで仲の良い親子のように見えた。三郎だけが隣のベンチで一人浮いた存在となっていた。とてもではないがそこへは行けなかった。もし行けば、きっと自分も三郎のようにぽつんと浮いた存在になりそうな気がした。
あれが誰だったかあれこれ記憶を巡らしている内に三人はゆっくりと席を立ち、そして祐一とその女は都にやさしく手を振り、それからかがんでベビーカーの咲希を覗き込むように見た。どうやら今日はそのまま帰るようだ。祐一と女は二人、反対側に向かって歩き出し、三郎は、ベビーカーを押してこちらに歩き出した。都がその横をちょこちょこ付いて来ていた。向こうから一陣の風が吹き、地面に散らばった黄色い落ち葉を舞い上げた。都が舞い上がった銀杏の葉を不思議そうに見上げる。友里は巨木の陰から思わず大声で呼んだ。
「ミヤ!」
都はその声のした方を振り向く。
「あ、ママや」
三郎もベビーカーを押す手を止めて振り向く。
「友里……」
「おとうさん、あれ、誰なん?」
「あの女か?」と三郎が言おうとした言葉を都が遮った。
「メロディさんや」
「メロディさん?」
「せやで、メロディさんはな、今お父さんとこにおんねんて」
「え?」
「そうらしいねん、いっしょに住んどるらしいわ」
「メロディさんはパパの歌う曲作ってるねんて。ほんでメロディさん言うねん」
「曲? あっ!」
あの時のワンレン女だ。まだ付き合っていたのか!
もう今更、祐一のことなどどうでも良かった。しかし一ヶ月前に自ら捨てて来た家なのに、なぜか心の底から怒りが込み上げて来た。沸々と。
「ちょっと、それどう言うことなん?」
「……そう言うこっちゃ」
「何それ、あたし家出てまだひと月やのに」
「ああ」三郎はちらっと都の方を見遣り、忌々しげに言った。
「ほんで、何しに来たん? あの女」
「ママ、女ちゃう。メロディさんや」
都の口出しがいちいち癇に障った。友里の強張(こわば)った表情から怒りの色を感じ取ったのか、都はそれきり口を閉ざして積もった落ち葉をじっと見つめた。賢い子だ。
「まあ、顔見せってとこやろな」
「顔見せ?」
「ああ、まだ今日はその辺のこと詳しくは何にも言わんかったし、わしも聞かへんかったけどな、行く行くは、たぶん、その、後釜に据えるつもりなんやろ。せやから、顔見せや。子供らにな」
「それでわざわざ仕事休んでまで来たんやな。二人そろて。おかしい思たわ」
友里は目の前が真っ暗になりそうだった。悔しくてたまらなかった。悔しくて自然に涙がこぼれた。(あかん、絶対あかん!)
「友里、おい、ちょっと落ち着け、まだそうなると決まったわけやない」
「嫌っ! あんな女になんで子供ら渡さなあかんの! アホちゃうか!」
怒り心頭だ。足元ではまだ幼い都が積もった落ち葉をかき集めていた。久しく聞く母の怒りに震える声。瞬間、都はびくっと震えた。怖かった。
都はその「嫌っ!」をどこかで聞いたことがあった。でも決して触れてはいけないような気がした。
道の端っこで、まるで何かに憑かれたように、ただ懸命に両手で葉っぱをかき集める都。咲希も泣き出した。その大きな泣き声が引き金となって今まで何とか抑え付けて来た友里の自我が崩壊する。
ダークが暴れ出した。そして友里はいつものパニックの発作を起こしてその場にへたり込んでしまった。こうなるともう動けない。家に居るときは、あんなに子供たちのことで悩んでいたのに、今は「都……咲希……」と、友里は何度もその名前を呼んでいた。
「おい、しっかりせえ、友里!」
何度揺すっても、起こそうとしてもただ震えるばかりで反応がない。友里の蒼ざめたこめかみに幾筋もの紫の血管が走っている。三郎は初めて友里のパニック発作を目の当たりにして、その尋常ではない様子にただただ恐怖を感じていた。
〝気がふれる〟よく耳にする言葉だ。あくまで非現実な世界の中で。だが今、目の前で実の娘が正にその状態にある。〝物の怪に憑かれた〟昔の人たちがそう表現したこともわかった気がした。そのときだった。
「おじいちゃん、こうするねん」
さっきまで銀杏の落ち葉を集めていた都が、いつのまにかうずくまる友里の横にぴったり寄り添ってぎこちなくその背中をさすっていた。友里の中の氷がゆっくり溶けて行く。
「ミヤ、お前……お母さん、いつもこんなんか?」
都はこくんと頷いた。
これは本当にえらいことだ! ようやく三郎は友里に起こっていることの重篤さを理解した。
数日後、友里は父に付き添われて、先日受診した心療内科医、岡田の勧めでカウンセリングを受けることになった。
カウンセリングでは、まず友里が抱えている問題について岡田が言ったように一つずつ挙げていくことから始まった。その結果、祐一に援助が頼めないのであれば、行政の手を借りるしかない。そこで友里は初めて保健福祉の存在を知る。
友里の住民票はまだ大阪市にあったので、実家の堺ではなく、大阪市生野区にある区役所を訪ねることとなった。そして区役所の健康福祉課の勧めにより、都と咲希の福祉施設への通所が決まった。そのあまりの安直さに友里も三郎も拍子抜けだ。行政のベルトコンベアーだ。そして辿りついたところは、あの〝ひかりの家〟だった。
――運命の歯車はゆっくり、でも確実に動き出した。.
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