第2話 欲望からは欲望しか生まれない

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―― 一九九三年  冬

天宮秀俊、三十一才、妻、静子二十五才。あえて作ろうとしたわけでも避妊していたわけでもないが、結婚してから丸五年間、何となく子供はできなかった。二人はまだ若いし、もちろんそういう行為が二人の間になかったわけではない。その気になれば子供はいつでもできると思っていた。 

彼の一方的な見方をすれば、自分は子供など意識したこともなかったし、妻もきっとそうだと思い込んでいた。そんな訳はない。

二人で暮らし始めた当初、静子はよく秀俊にメールを送った。

「今夜は何が食べたい?」のメールに対して「何でもいい」を定型文で返し、そして当然出された料理に文句を付けることはない。

けれども気に入らないと、すっと席を立ち、だまって料理に手を加えて自分好みの味に変える。無神経だ。まだ「まずい」とはっきり言うほうが遥かに心理的ダメージは少ないだろうに。

料理だけでなく、生活の一時が万事そんな風だったから、彼も妻も、夫婦であるにも関わらず、まるでそれぞれが一人で生活しているような感が常にあった。やがて静子は秀俊にメールを送ることさえ臆するようになってしまった。

もちろん表向けはとても仲睦ましい夫婦を演じていたが、家に帰ると口数も少なく、食事が終わるとテレビの前に座って好きなゲームをするか、ビデオを観るか、何もやることがない時は、一人風呂に入ってさっさと寝てしまう。アルコールでも嗜むのであれば、晩酌などで妻との会話も少しは生まれたかもしれないが、生憎、彼は酒も煙草もやらなかった。

いつも家に篭りきりの静子はきっと淋しかったのだろう。彼女はずっと一人で耐えていた。秀俊の静子に対する気持ちはとっくに冷めてしまっていたのに対して、彼女は心の底から秀俊のことを愛していた。それは彼女にとって、生まれて初めてその身も心もすべてを許した男だったということもあっただろう。だから気の毒なことに彼女は秀俊を待った。何時間でも何日でも、おそらくこの先もずっとだ。  

そのころの静子は、恋愛小説やきらきらした少女漫画を片っ端から読み漁っていた。まるで恋に恋する少女のように。そういう物を読みながら、一人、家で秀俊の帰りを待った。 

 そしてある夜、彼に向かってこう呟いた。

「わたし、恋が、したい」

それを聞いて、(浮気宣言か? 何をバカなことを)と彼は思った。静子がどれほどの思

いでそう言ったのか。「わたし、恋がしたい」の目的格に「あなたと」が省略されていたことにも気付けない。きっと、本気で愛していなかったのかもしれない。いや、彼は元より静子のことを愛してはいなかったに違いない。

「わたしのどこが好きなん?」に対する答えに、「おまえが俺のこと好きでいてくれるところ」と答える。それは彼の本心だった。妻の気持ちに応えなければならない。その思いはほとんど義務感に近かった。始まりは、愛ではなく、自分の性欲に応じて体を開いてくれたことに対する義務感だ。身も蓋もない。だが事実だ。 

その当時、彼がいつも聞いていた在阪ラジオ局のある番組の中で「バレンタインに、大切な人に普段言えないことを言葉にして送ろう」という、よくありそうなベタな企画をやっていた。いかにも大阪らしい。それで彼は、早速、妻へのメッセージをハガキに書いて送った。

 番組で取り上げられたリスナーの中から抽選で、バレンタインにリーガロイヤルホテルのディナー付き宿泊券が当たる。これもまたベタな、いかにも関西のラジオ局がやりそうな企画だと知りながらハガキを書いた。

当日、彼は職場で机に向いながらこの放送を聴いていた。割と自由な風潮の会社だった。いつも職場にはラジオが小さな音量で流れていた。

「さて、次は、大阪市天王寺区にお住まいのヒデさんから、家でひとり旦那様の帰りを待つ奥様、しーちゃんさんへの愛溢れるメッセージです」

 一瞬、彼の手が止まり、小さな音量で流れるラジオにじっと聞き入る。職場の人たちは気付いていない。不幸中の幸いだ。


「しーちゃんへ いつもうちでひとりぼっちにしてゴメンな。もう君が淋しがらないように、かわいいベイビーを作りましょう。愛しています  ヒデより」 


DJがそのメッセージを読み終えた途端に、ラジオからヒューヒューと囃し立てる声が一斉に響き、「もうアツアツですね、まいったなぁ。ほんと、羨ましいわ。お二人の幸せがこちらまでビンビン伝わって来ますね」の女性アシスタントの呆れた声。

そしてそれを小耳に挟んだ隣の席の上司の「けっ、平和やなぁ」の冷めた呟きに続き、矢継ぎ早に「天宮さん、あんたんとこも早よ作らななあ」と、向かいの席に座っている年配のパートのおばさんのまったく配慮に欠けたノリだけの発言。彼が女性ならいや、男性でもか。間違いなくセクハラ発言だろう。仕事中でもしっかり耳はラジオに傾けられていると言うことがよくわかる。

――何も知らない人たち。ぞわぞわっと彼の背筋に寒気が走り、思わず持っているペンをポトリと落としてしまいそうになった。顔はおろか首まで羞恥でかっと赤くなるのがわかる。まるで自分の出した排泄物を皿に盛られて人前で公開されたような気持ちになった。

当然、自分のメッセージが、ラジオから流れるかもしれないと事前に静子に知らせていた。彼女はひとりきりの家でこのメッセージを聞いた。そして涙を流すほど喜んだ。彼の狙い通りに。そして彼は、その思惑が当たったことに対して自画自賛して悦に入った。ここまで来るともう救いようがない。 

 この彼の取った一連の行動には、静子においしいエサを与えて機嫌を取るだけではなく、もう一つ綿密に計算された意図が込められていた。メッセージの文面通り、彼は足りぬ愛情を子供に代行させようとしていたのだ。自分だけに向けられた彼女の気を逸らすよう、たったそれだけの為に子供すら利用しようとしていた。

けれども彼にはまったく悪意はなかった。幼い頃より親からのネグレクトを受けて育って来た彼は、親の気を引くために親の喜ぶことをしよう、親の期待に添うことをしようとそればかりに苦心して来た。やがて彼の中でそれは愛情表現だと位置付けられた。

他人の期待に応えることこそが愛の形だと信じて疑わなかった彼と、それを相思相愛の真実の愛だと思い、幸せな家族の未来の姿まで期待した静子。そんな二人が合う筈がない。二人の間には随分と温度差があった。


 ラジオのメッセージを実行するべく、二人の共同作業は始まった。だが、二人が思い描いたようにそう易々と事は運ばなかった。家庭の医学書を紐解き、人に聞き、基礎体温も付けて、食生活にも気を遣って、現状出来得る限りの努力は惜しまなかった。

 妻に子供を授けてあげたいと、彼もできるだけのことはやったつもりだった。しかし、「妻に」とは思えど、「僕たちに」と思わなかったということは、彼自身、心から子供が欲しいとは思っていなかったのだろう。妻の期待に応えるために一生懸命になっていた。ただそれだけだ。そんなもの共同作業でもなんでもなく、ほとんど心のこもらないサービスだ。 

 それでも簡単に子供は授からなかった。それまでこれといった避妊をしているわけでもなく、五年も子供ができなかったということは、やはり彼か、妻か、もしくはそのどちらにも、何らかの医学的原因があったのであろう。

そこでいよいよ二人は、医療機関で本格的に不妊治療を始めることにした。

初診日は静子一人での受診でも構わなかった。けれども、ラジオで歯の浮くようなセリフを公言してしまった以上、同伴しないわけにはいかなかった。

「俺もいっしょに行くわ」

彼はどれほどこの言葉を発することを躊躇ったかわからない。

「ほんま? ほんまにいっしょに行ってくれるのん?」

静子の少し頬を赤らめた嬉しそうな笑顔。もう引き下がれない。

春、ある晴れた月曜の朝。病院までは徒歩で十分程度だった。途中、公園の横を二人は気まずい思いを一生懸命にひた隠しながら歩いた。桜が満開に咲き誇っていた。

「きれいやなあ」

静子がぽつりと呟く。

「あ、ああ」

静子にとっては、満開に咲き誇る桜は、まるで二人のこれからを祝福するように映ったのかもしれない。だが静子が見ていない時の秀俊の顔は、氷のように無表情だった。その無表情の裏に何か恐ろしいものが隠れているような気がした。

「ごめんやで、ほんまに。つき合わしてしもて。すぐ終わると思うから……」

「いや、かまへん。あやまらんでもええよ。仕事より大事なことやから」

静子は、彼に仕事を遅刻させることよりも産婦人科に連れて行くことに後ろめたさを感じていた。でも彼にはそのことがわかっていないようだった。

そして彼は嫌な顔一つせずに、静子といっしょにレディースクリニックのドアを開いた。

一斉に皆の視線が注がれる。週明け、月曜日の朝のこと。混み合った待合室。男性の姿は一人も見受けられなかった。全体的に薄いピンク色を基調にした、とてもフェミニンな待合室だ。それだけで居心地が悪い。一分一秒たりとも居たくない。

「すみません、予約しておりました天宮ですが」

「おはようございます。あ、今日はご主人様も一緒に受診されますか?」

彼の方を一瞬ちらっと見遣り、受付の白衣の女性は言った。にこやかな、大変にこやかな作り笑顔。毎日鏡の前で練習しているのでは? と彼は思った。

「いいえ、今日はわたしだけで、付き添いで」

「そうですか。わかりました。ではこちらに書き込みお願いします。保険証はお持ちですか?」

「はい、あ、あの、基礎体温表は?」

「あ、問診表と一緒にお出し下さい。保険証だけ先にお預かりしますね」

実にてきぱきとした受け答え。まるでマニュアル通りなのだろう。

それから問診表を二人で書き込んだ。じっと見られたわけではない。彼も見たわけではない。だが、そのチラチラと見ている女性たちの視線を確実に彼は感じていた。静子が名前を呼ばれて診察を受けている間、彼はたった一人、この拷問部屋で待たなければならなかった。居心地の悪さは最高だ。彼は思った。ここはまるで女風呂、いや女子トイレか。

永遠にも思える時間の果てにようやく静子が出てきた。顔面は蒼白だった。診断結果は、卵管狭窄症ということだ。卵管を広げる治療が必要らしい。聞くだけで痛い。

そこから約半年の間、静子はすさまじく恥辱的な検査と処置に耐えなければならなかった。だが彼女は、秀俊と自分の愛の結晶を手に入れるために、どのような苦痛にも耐えた。強い薬を飲み、副作用でいつも気分が悪いと言い、また、婦人科の診察台で何度も恥部を晒しながら、彼女はその激痛に耐えた。 

 彼はと言えば、初日の付き添いですっかり心が折れてしまい、それ以来、自分から付き添いを申し出ることはなかった。そんな秀俊に対して静子は、どんなに辛くともいっしょに行ってほしいと頼んだり、ましてや責めたりすることなど絶対にしなかった。

「じゃあ行って来るわな」

すぐ目の前の苦痛よりも、もっとずっと先にある未来を思い描きながら明るく家を出る静子。

「ごめんな、いっしょに行けなくて。今日はちょっと大事な仕事があるねん」

これ幸いと思う秀俊。妻にたむけた心配顔の裏でぺろりと舌を出しながら、婦人科に通う静子を見送る日々が続いた。二人の温度差がますます明らかになる。

 きっと静子は、そんな彼の気持ちに気付いていたのかもしれない。時折ふっと一瞬、ものすごく悲しそうな顔をすることがあった。それはほんの一瞬だったが、彼は決してそれを見逃さなかった。

 うちでずっと秀俊の帰りを待つ静子には、ある懸念がずっと付きまとっていた。それは消そうとしても決して消すことができない。頭の片隅にぽつんと空いた小さな黒い穴のような存在だった。考えるまい、見るまいと思えば思うほど、その黒い穴は広がって彼女の心を蝕んだ。秀俊がいつかきっと自分を捨ててどこかへ行ってしまうのではないか? と言う懸念だった。

けれど、静子にとっては、秀俊との間に子供を儲けることで、うすうす気付いていた、彼の離れつつある心を繋ぎ止めて、今後の二人の関係をもっと磐石なものにできるのではないか? と言う期待があった。そしてすべての苦悩から解放されるのだと言う願いにも近い思いがあった。もう、後へは戻れない。

 

 それでも子供は授からず、いよいよ人工授精ということになった。ほんの軽い気持ちで出したハガキがここまで大変なことになるなんて彼は思いもしなかった。

「ほんまにごめんな、嫌やろうけどお願いします」

病院への行く道で静子が改まって彼に言った。

「いや、いいよ。俺も望んでいることやから」

「ありがとう。うちで採取しても良かったらしいねんけどな、いろいろ本とか調べたら、やっぱり病院で採取する方がええらしいねん」

「そうか……」

口では調子の良いことを言ってはいたが、不機嫌な表情だったのだろうか。静子はとても申し訳なさそうな表情だった。悲しいぐらいに。


病院へ着くと、やはり混み合ってはいたが、珍しいことにその日は自分を含めてもう三組のカップルが来ていた。〝そういう日〟は特別に設定があるのかもしれない。たぶんそうだろう。クソみたいな配慮だと思ったが、初日のあの女子トイレに放り込まれたような違和感は多少和らいだ。  

受付では例のマニュアル女が、やはり機械的に応対していた。おそらく二十代半ばぐらいだろうか。極めて事務的に問診表を手渡された。このすまし顔のマニュアル女も、きっとプライベートでは随分とヤリまくっているに違いない。下世話な想像がふっと彼の脳裏をよぎった。卑屈だ。

彼は手渡された問診表につらつらっと目を通して驚いた。その内容たるや、性交渉の頻度はおろか、今日、禁欲期間は何日目か? だとか、一回の射精量はどれぐらい? だとか、射精時に違和感や痛みなどはないか? などと、もうこれ以上ないぐらい徹底的に丸裸にされて、苦笑いしながら静子の顔を見ると、こちらもいたって真顔。無表情だ。同じような苦笑いを期待していたのに、「何よそんなぐらい、男のくせに」と、まるでその顔は物語っているように思えた。

恥を忍んで問診表を書き込んで受付に持って行く。照れ笑いを隠しながら手渡すと、例のマニュアル女はちらりとその紙に目を通し、不備がないかを確認して、さらにこの上なく機械的に、丸い小さなプラスチックの容器を取り出した。

「こちらに精液をお願いします」

「え? あ、はい」 

 マニュアル女は、彼の目をしっかり見ながら容器を差し出す。やはり無表情で。それは機械的であるがゆえ、逆に卑猥さを感じてしまう。こんなきれいな若い女性が、自分に向って「精液を」だって? 不謹慎だ。彼は、このようなところで欲情する自分が嫌になりそうだった。

「奥に採精室がございますのでそちらでお願いします。奥様はいかがなさいますか?」

「奥様? 」

「お一人でもお手伝いされてもかまいません」

「いやいや、いいです、いいです」

 静子が恥ずかしそうに協力を申し出たが、彼は頑として受け容れなかった。とんでもない!

「そうですか。ではお済になりましたら部屋に小窓がございますのでそちらににお出し下さい。終わられたらまたこちらでお待ち下さい」

まるで検尿のようだ。というか、ここでは変わらないのだろう。排泄と。

 

 案内されて採精室に入った。そこは広さ二畳にも満たない小さなスペースに、大きな背もたれのある黒い椅子と、その前にはヘッドフォンの付いたテレビ。そしてDVD。横の本棚にはアダルトDVDと成人雑誌が並ぶ。この部屋を写した写真を見た人は、間違いなくここをネットカフェだと言うに違いない。一つ違うのは、横に小さな小窓があることと日付と天宮様と書かれたプラスチック容器を手に持っていること。

彼は何気なくその棚からDVDを一本手に取ってみた。それは意表を突いて、というか、想像通りと言うか……(うわっナースかよっ! シャレならんな)立つ物も立ちはしないではないか。院長は中年の男性だったはずだ。あのおっさんの趣味か? 声にならない笑いを抑えるのに必死だった。しかし段々と腹が立って来た。なんとデリカシーのないことか! 彼はそっとそのDVDを棚に戻した。やってられない。

 淡々と作業をこなそうとするが、そこにはどこをどう探しても「愛の結晶」などと言うものは見つからなかった。妻の申し出を断って正解だったな、とも思った。しかし、彼女はもっともっと苦痛と羞恥を伴う辛い〝作業〟に耐えているのだ。それを考えると、たとえ愛はなくとも、肉体的には快感を伴うその〝作業〟に文句を言うのは贅沢だと思った。

焦る。時間だけがどんどん過ぎ行く。自分はどれだけ小心者なのだ。自己嫌悪がその腐った頭をもたげ出す。するとますます気持ちは焦る。ダメだ。できない。彼は目を閉じて深呼吸をした。するとふいに思い出した。

この部屋に入る時、あの例のマニュアル女は、引きつり笑いを浮かべて言った。

「焦らなくてもいいですよ。リラックスしてくださいね」

テレビモニターに映るエロ動画も、ヘッドフォンから聞こえる下品な喘ぎ声もすでにただのBGMでしかなかった。結局彼は、頭の中でマニュアル女を陵辱し、彼女の苦悶の表情を想像しながら果てた。虚しさと、白く濁った排泄物だけが残った。


「ああ、ちょっと量、少ないですね」

年は四十代半ばといったところか、好色そうな髭を蓄えた、いかにもナースの好きそうな院長先生は言った。

「少ないですか?」

「一回の量にしてはね。一CCあるかないか。んー全部取った? こぼさんかった? 部屋汚したんちゃうか?」

「い、いいえ」

(本気でそんなこと言ってるのか? こいつ)

「まあそれは冗談やけど、最初やからちょっと緊張したかなあ」

「あ、少し……」

(最初でなければ緊張しないのか?) 

「まあ単位あたりの個数は標準より多少少ないけど元気の悪いやつもそんなに多くはないし、もう少し量があったら妊娠は可能ですよ」

その机に置かれたモニターには、好き勝手に泳ぎ回る小さな蟲たちが映っていた。こいつらすべてが自分の欲望なのだと思った。昔、まだ静子と付き合い始めた頃、セックスが終わって彼が外したコンドームを静子は手に取り、それを蛍光灯にかざしながら言った言葉を思い出した。

「ああ、子の元、子の元」

あの時彼は思わず噴出しそうになった。事後の余韻も何もあったものではない。しかし静子は笑うことなく、その白濁液を愛おしそうに眺めていた。その様子は、どこか動物的な欲望を彷彿させて少し怖かった。あの袋の中身が、今こうしてモニター狭しと泳ぎ回っているのだ。やはりこいつらは欲望だ。欲望の塊に違いない。

静子は医師の話を聞いて安堵に胸を撫で下ろした。それと共に、やはり自分が頑張らなければならないのだと酷く思った。

「今回はちょっと少なすぎてね、試すだけ無駄だと思うので、次は家で採取して来ますか? そのほうがご主人、あなたも落ち着くでしょう。きっと」

「はい。そうできるなら」

あんな気まずい思いはもうたくさんだった。女子トイレから始まって次は実験動物にでもなった気分だった。できるならここへはもう来たくない。世の妊活と言うものに真剣に取り組んでいる男たちはきっとそうは思わないのだろう。

「じゃあね、容器と説明書渡しますから、次回奥さんが持って来てください」

そのナース好き医者は、まるで「おう、同じ男同士じゃないか。そんなに緊張するなよ」とでも言いたげに厭らしい笑いを浮かべながら彼に言った。たぶん励ましているつもりなのだろう。だが、こいつに毎回、静子は……。そんな下世話なことがつい頭をよぎった。しかし腹は立たなかった。ただ一刻も早くここから出たいと思った。

「お大事に」

受付で会計を済ませて出ようとした時に、例のマニュアル女が彼らに声を掛けた。当然マニュアル通りだろうが、珍しく彼にはその女が自然に微笑んでいるように見えた。さっき〝した〟からか。その笑顔。彼は再び、とても厭らしい気分になった。

「あんた、何さっきからにやけてんの?」

静子が帰り道で彼に尋ねた。彼は思わず心を見透かされたようでドキッとした。

「あ、いや、その、採精室でな、ア、アダルトビデオ置いてあったんやけどな」

「ええ、そんな物まで置いてあるの?」

「ああ、あったで。それもなあ……」

「それも、何? なあ勿体ぶらんと教えてよ」

「ナース物やったで」

「うそっ!」

「ほんまや。あの院長の趣味ちゃうか?」

 二人して大爆笑した。仲良く見えるな。たぶん。こんな他愛もないことをきっと積み重ねて行くのだろう。普通なら。


 二度目以降の採精は家での作業となった。本来ならば神聖な行為の筈が、神聖のシの字も感じられなかった。しかしあの公然猥褻のような場所から解放されるだけでも有難かった。

「唾液と混ざったらあかんねんて。せやから手でしかできへんけど……」

「いや、大丈夫。俺一人で」

「そう」

その朝、静子はまた手伝いを申し出たが、やはり彼は頑なにそれを拒み続けた。

(絶対違うやろ!)と言う意識が常に彼を支配していた。これは男と女がお互いに身も心も求め合ってすることではない。妊娠の第一ステップ、受精において、第三者が介在する医療行為だ。私的感情はない。それは頭ではわかっていても、医療行為だと完全に割り切れないところに如何ともし難い虚しさが残る。

静子が出て行った寝室に一人残り、袋からプラスチック容器を取り出し、じっと見つめる。違和感は拭えない。そして彼は、意を決したようにパンツを下ろした。

「じゃあ出たら言うてな。二時間以内に持って行かなあかんから」

静子の声がドアの外で聞こえた。(待っているのか? しかも出たらって……)

「ああ、わかってる」

 平然と答えたものの、心中穏やかではなかった。まるで種馬のようだ。これを嬉々として協力する世の男たちがいることが信じられない。

三度目の人工授精でようやく妊娠が確認された。静子は本当に嬉しそうだった。彼も上辺は喜ぶ様を装っていたけれど、心は晴れないままだ。ただ、あの自慰行為を強要されなくて済むかと思うと少しだけほっとしていた。


暫くして静子は本当に辛い〝つわり〟に見舞われた。米の炊ける匂いで吐き、口当たりの良いものならば少しは大丈夫だからと口にするものの、結局それも吐き、あげく今まで感じることもなかった部屋の臭いや、天日に干した洗濯物の香りにまで吐き気を催す。朝起きてから夜寝るまで、トイレに居る時間の方が長いのではないかと思うぐらいに酷かった。 

彼はそんな静子を見ているだけで自分まで重苦しい気分になった。本当に辛いのは静子なのだとわかってはいたが、そういう日々が二ヶ月、三ヶ月と続くうちに、段々といっしょにいることが苦痛になってきた。一日も早く生まれて欲しいと願う気持ちは静子と同じであったが、苦しみの果てにはきっと明るい未来が待っている、それを心から楽しみにしている静子とは違って、彼はただ、今の重苦しさから解放されたい。それだけのために一日も早い出産を願っていた。

酷かったつわりがやや落ち着きを見せ始めた頃、彼は、あのナース好き院長の産婦人科で開催される『母親教室』なるものに参加した。本当はもうあそこへは行きたくはなかったが、日ごろ秀俊にはあまり強要することがない静子のたっての頼みで、押し切られる形での参加となった。

それは、母親教室とは言うものの、父親も参加を推奨されていた。これから親になるカップルのための出産、育児に備えた、両親教室と言ったところか。秀俊と静子にとっても今回が初産だったので知っておくべき事柄は山のようにあった。他人事では済まされない。しかし悲しいかな、彼にはこれから人の親になるという自覚がほとほと欠けていた。

その日は彼らを含めて十組ぐらいのカップルが参加していた。そんなに広い部屋ではない。〝教室〟と謳っている割には椅子も机もなく、フローリングに少し毛足の長いラグが敷かれいて、母親の数だけ座椅子が置かれてあった。父親には座椅子はない。その椅子も体を動かす必要のある講義の途中で取り払われた。

どのカップルも真剣そのものだった。しかし秀俊は今一乗り気ではない。あくまで静子の付き添い感は拭えなかった。だが予想に反して、その授業は非常にわかりやすく、親としての自覚のない彼にもそれなりに楽しめた。それは彼の旺盛な知識欲を満たしてくれるにはちょうど良かった。

会場をぐるっと見回す。母親未満の女性たち。参加している女性たちの腹は、大きさもまばらだったが、皆それなりに膨らんでいた。その中に一人、特大のスイカのようなお腹を抱えた女性がいた。あの巨大スイカの中にはいったい何が詰まっているんだろうか?

彼はふっとあのモニターに映る、うごめく精子を思い出した。

「子の元、子の元……」

静子の囁きが聞こえた気がした。――あれは、女たちの本能を満たすためのもの。女たちのその強大な本能の餌食となるもの。あのうごめく小さき命の片割れが、やがてこうやって女たちの腹を膨らませているのだ。それは欲望。どんどん欲望が大きくなって、やがてこの世に産み出される。産み出されたものも、やはり欲望だ。 

欲望からは欲望しか生まれない。その証拠に、ここに来ている女たちは皆、目の色が違っているではないか。その行く手を阻むものは何があっても許すことはないだろう。怖い。彼はにこやかに笑っている女のその笑顔の裏に隠された牝の鋭い爪を見たような気になった。他の男たちのようには笑えなかった。そして彼は、そんなふうにしか考えられない自分はきっと異常なのだと思った。

途中、出産シーンのビデオが上映された。他の面々は「生命の神秘」だとか、「すごく感動する」だとか、まるで申し合わせたように口々に言う。もうすでにその目はうるうるしている者さえいる始末だ。そしてあろうことか、最後に、男たちは皆、立ち会い出産希望に強く強く丸を付けた。当然だと言わんばかりに。

その映像は、血の苦手な秀俊にはおぞましいスプラッター映画のように見えた。百歩譲って医学的参考資料だろう。非日常的な光景。そこにはエロスも感動も微塵にも感じられなかった。そんな彼だったから、冷酷だと言われようが、人でなしだと罵られようが、立ち会いなど、どう足掻いても出来そうになかった。

しかし、本当に彼が立ち会うことに違和感を抱いていた理由は、心から祝福の気持ちがない者は、そこに入るべきではないのではないか? とうすうす感じていたからだ。静子は、頑なに丸を付けない彼に、「どうしていっしょに居てくれないの?」と言う目を向けた。

「ゴメン、俺、血ぃあかんねん。見て倒れでもしたら迷惑やろ?」

そう答えると、静子はもうそれきり彼に望まなかった。しかしその表情には深い孤独感が漂っていた。彼は良心の呵責を感じざるを得なかった。

そして彼が母親教室に参加したのは、後にも先にもこれ一回きりだった。


  2


――一九九五年  夏

その年の夏も暑かった。連日の猛暑が続いていた。そんな八月の熱帯夜のこと。エアコンのタイマーが切れて、室内の温度と湿度が一気に上がった。

秀俊は、先ほどからあまりの寝苦しさに夢とうつつの間を行きつ戻りつしていた。意識は現実に、体は夢の中に、その時だった。

「あんたぁ!」

 彼は驚いて飛び起きた。全身汗びっしょりだ。夜中のトイレから彼を呼ぶ大声と共にそれはやって来た。

「あかん、破水してしもた! どうしよう」

「どうしようって、病院行くしかないやろ。すぐ車回して来るわ」

「お願いします。それと押入れに出産セット用意してるからそれ出して」

「わかった。痛いか? 大丈夫か?」

「うん、まだそんなに。大丈夫。夜用ナプキンでいけると思う」 

便座に座り込んだままの静子の背中を起こすと、ふっと魚のような臭いがした。

慌てて病院に駆け込む。担当の助産師は静子の状態を見て言った。

「ああ、まだまだですよ。ぜんぜん開いてませんわ」

「ええ? そうなんですか?」

「破水したらすぐやと思ってはった?」

「…………」

「初産やしね、長丁場になると思うから、ご主人も覚悟しておいてね」

 その助産師はぞんざいな物言いをした。彼はまるで小バカにされたようで少しイラっとしたが、彼女の言葉は決して間違ってはいないだろうし、ここは従うしかない。


やはり難産だった。助産師の言った通り、破水から分娩まで、なんと四十時間以上もかかってしまった。あまりに進行が遅いために途中から陣痛促進剤を使用することになった。 

それまで波はあったものの、時折、話ができるぐらいの痛みだったが、促進剤を点滴し始めた途端、一変してその様子が変わった。静子はいつ終わるとも知れぬ凄まじい苦痛に見舞われて、断末魔のような声を出しながらのた打ち回った。

「もう、もう、点滴止めて、お願い!」

そして二の腕に刺した点滴の針を無理やり外そうともがいた。看護師が慌てて抑え付ける。彼女は理性を失いつつあった。彼はその間、手を握るか腰をさするぐらいしかできなかった。腰をさする手からもその苦痛は十分伝わった。しかし彼は、髪を振り乱し、涙と鼻水とよだれで顔を真っ赤にしながら大声を上げるその顔をとても醜いとさえ思った。  

 そんな時でも(なぜ彼女はこんなに苦しむのか?)とひどく冷静にその光景を見つめていた。(誰のために? 何のために?)静子がこんなにも苦しみ、頑張っているのかを理解できないでいた。まるで夢を見ているような感じがした。ただ、この時間が一刻も早く過ぎ去ってほしい、夢ならば早く覚めて欲しいと願った。惨たらしい叫び声を聞くのはもうたくさんだった。  

 後から入院して来た妊婦たちが、次々と分娩室へ入って行く中、静子だけはずっとその苦痛に耐えなければならなかった。地獄の責め苦とはこういうことを言うのだろう。

「もう、薬止めて! お願い、早く分娩室に!」

陣痛室の外まで聞こえる静子の絶叫に、後からやって来た彼女の父は酷く驚いた顔で、

「あの声、うちの娘かいな?」と呆然と呟いていた。不妊治療から始まり、この出産まで、ほかの女性よりも、なぜ静子だけがこんなにも苦しむのか。子を望むことはそれほどまでに対価を要することなのか。彼の安易な発想がここまで彼女に苦痛を与えるとは、まったく考えもしなかった。浅はかだ。

 二日間苦しみ抜いたあげく、ようやくその子は生まれた。最後は静子も力尽きて吸引分娩になってしまったが、とにかく無事に生まれた。

分娩室の扉が開き、勝ち誇ったような顔の看護師にうやうやしく抱きかかえられながらその子は彼の目の前に現れた。彼はただその子を呆然と眺めていた。嬉しいとも、幸福だとも、そんな実感は何も湧き起こらなかった。彼も静子に付き合ってこの二日、まともに休んではいなかったので、やっと終わったという脱力感に見舞われていた。

「元気な男の子ですよ。お父さん、さあ抱いてあげてください」と、その看護師は、微笑を浮かべながら彼にその子を渡そうとした。

皆が見ていた。皆の前でその子を抱かなければならないことに凄まじい恐怖と不安を感じた。彼を取り巻く、彼の実母や静子の両親たちは皆、心待ちにしていた初孫の誕生を純粋に喜んだ。彼も顔では同じように満面の笑みを浮かべ喜んで見せている。しかし、赤黒いその子のからだや髪の毛はべっとりと濡れていて、まるで異形の生き物に見えた。そして、大きな声で泣くその子は、まるで彼の心を見透かしているような気がした。 

「俺は知っているぞ。お前の心を知っているぞ」

どこかでそう囁く声が聞こえた。できるならその場から消えてしまいたかった。だが、静子はまだ分娩台の上にいる。 

  

 

    3


――一九九八年  春 

子供が三才になる年のことだった。

「園長先生、すみません、私たちもう、正直言って直也くんのこと、面倒看きれません」

その保育士は、嘆願するように園長に言った。

「またそのこと? そうは言うてもね、あなたたちそれが仕事なんやから。主任のあなたがそんなこと言うてどうするの?」

「いいえ、以前から何度も申し上げておりますように、あの子は、その、普通じゃありません。今日もちょっと姿が見えないと思ったら、二階の手洗い場とトイレの、蛇口という蛇口を全部ひねって廊下にまで水が溢れて、そこらじゅう水浸しで大変なことになってたんです。それももう二回目ですよ、二回目! 私たちもかなり頑張ってはみたんですが、あの子に手を取られると他の園児さんたちに、その、迷惑がかかります。今の少ない人手では到底回りきれません。きっとそのうちほかの保護者の方からクレームが出ます」

そう言うと、主任と呼ばれるその保育士は一枚の報告書を園長に手渡した。

園長は渋々その報告書を手に取ると、ざっと目を通して、そして深いため息をつきながら言った。

「わかりました。おうちの方へ連絡を取ります」

そう言って園長は天宮家に電話を入れた。生憎不在だったので留守電に伝言を残しておいた。

午後、静子がパートから戻って来た。

エントランス脇には都市型賃貸マンションには珍しく、少し広めの前裁があった。秀俊の情報によれば、オーナーが無類の花好きと言うことで、このマンションを建てるに当たって、わざわざ利益の出る駐車場を潰してまで前栽をこしらえたそうだ。そこには数々の花木が植えられていて、季節ごとに鮮やかな色や香りを楽しむことができる。オーナーの花へのこだわりが感じられる。

その中の一本に、優に三メートルを超える立派な木蓮の木が植えられていた。春、このぐらいの時期になると、まだ葉さえ付かない細い枝に大ぶりの薄紫色をした木蓮の花たちが天を仰いで一斉に咲く。

これも秀俊に聞いた話だが、一斉に咲いた木蓮の花は、散る時も一斉に散るのだそうだ。それも何の前ぶれもなく突然に。しかも花びらがはらりと散るのではなく、椿のようにその花ごと散る。花一つ一つが大人のこぶしぐらいあるものだから、それはもう散るというよりぽとりと落ちると言った方が正しい。

しおれたり、色があせたりとか、そういった終焉を迎える変化もなく、いきなり散るものだから、それがいつなのかはわからない。ただその光景を目にした人に言わせると、それはまるで花たちに意思があり、「さあ、落ちましょう」と皆で申し合わせたように一斉に落ちる。無数に咲いた花々が一斉に落ちるものだから、大粒の雨が突然降り出したごとく、バラバラっと音が聞こえるのだそうだ。夜まできれいに咲き誇っていた花たちが、朝にはすべて残らず落ちていたこともあった。それはそれで大変潔い。いつもすべて落ちきった後、地面に積もった花の残骸しか見たことがない静子も一度はその落ちる光景を目にしてみたいと思った。

そして木蓮にはもう一つ大きな特徴がある。それは甘い香り。その強烈な香りはずっと遠くまで届く。秀俊はトイレの芳香剤だ、などと言うけれど、この時期、ここを通ることが静子にはとても楽しみだった。ああ、またこの季節がやって来たのだと実感する。やさしい気持ちになれる。

良い香りを放つ木蓮を横目で見ながら、静子はエントランスに入った。小奇麗には見えるけれど、この建物ももう二十年は経っているらしく、エレベーターもかなり旧式なものでゆっくりとしか動かない。たった三階までなのだから非常階段を上がればいいとは思う。しかしエントランスに入るとついついエレベーターのボタンを押してしまう。

②のランプが付いたままなかなか一階まで降りて来ないエレベーターを待つのは、忙しい静子にとってはかなりのストレスだ。やっと降りて来たと思ったら誰も乗っていなかった。拍子抜けしてしまう。

エレベーターを三階で降り、短い通路の突き当りにある扉の鍵を開ける。決して高級なマンションではない。小さな不満はいくつもあった。けれども静子はここがとても気に入っていた。秀俊と暮らし始めてもうすぐ十年になる。努力の甲斐あって二人の愛の結晶も授かった。何の問題もない。とても幸せだった。

中に入ると、今まで居た外の暖かい陽気とは対照的に、朝出がけのままの空気が冷たく沈んでいた。静子は一直線にバルコニーを目指した。アルミサッシを開け放つとたちどころに薄暗い部屋は春の空気に満たされていった。

玄関の方を振り向いた時、電話機の留守電ランプが点滅していることに気が付いた。彼女は近付いて躊躇なく再生ボタンを押す。スピーカーから聞き覚えのある女性の声が流れ出した。

「こちらはハッピー保育園、園長の幸田と申します。直也君のことでお伝えしておきたい大切なことがございますので、できましたらご主人様といっしょに一度こちらにお越しいただけますか? よろしくお願いいたします」

(なんやろ?)

開け放った窓から、木蓮の甘い香りが部屋の中にまで漂って来ていた。しかしそのメッセージは明るく柔らかな外の世界とは裏腹に静子の心に暗い不安の陰を落とした。あまりに不安だったのですぐにでも秀俊に電話をしようと思った。 

彼女は、携帯を握りしめたまま暫く考えたあげくに結局、携帯を置いた。それはいくら何でもあんまりだ。

その夜。静子は仕事から帰って来てすぐの秀俊を玄関で待ち構えるように捕まえて電話のことを話した。

「今日な、直也のことで大事な話があるって保育園から電話があってん」

(その悲壮感漂う静子の形相。仕事から帰って来ていきなりこれか!)と、かなりげんなりとしたが、彼は、できるだけ静子を刺激しないように慎重に答えた。

「大事な電話って?」

「わかれへんけど、あたし、なんか心配で」

「わかった、ごめん、先に着替えさせて」

「うん。ごめん、ごめんやで」

元々静子には、急な場面に直面すると、どうして良いかわからなくなるメンタル的に弱い部分があった。今までも秀俊に対する依存度はかなり高かった。それは秀俊もわかっていたが、時に彼女のペースに振り回されてしまう。

「それでなんて?」

「ほんで、あんたにもいっしょに来てほしいって」

「そうか……」

「こら、直也! あんたまた何やってんのん、さっきからおとなしい思たら!」

会話の途中でいきなり静子が大声をあげた。静子はいつも怒鳴っているような気がしていた。ふと見るとさっきまで〝おかあさんといっしょ〟を噛り付くように見ていた直也は、今は一生懸命本棚の上に這い上がろうとしていた。見ると番組はすでに終わっていて、棚の上のビデオを取ろうとしていたようだ。そのビデオも〝おかあさんといっしょ〟だ。彼は慌てて席を立って直也のところまで行く。

「こいつ、これ好きやなあ」

彼が呆れたように言いながらひょいと直也を抱きかかえて本棚から下ろす。直也は一瞬泣きそうな顔になるが、彼がすぐにビデオデッキにテープをセットすると再びテレビの前におとなしく座った。少しして聞きなれた音楽が流れ出した。「だんご三兄弟」だ。

「せやろ、それもう二本目やで。しかも同んなじやつ。まあこれ見てる間はおとなしいからええねんけどな」

「そうか……」

「それで、保育園、いつ行ってくれるのん?」

「来週明けにでも時間作るようにするわ」

「うん、助かるわ、無理言ってすみません」

「いや、子供のことやからな」

顔では心配を装ってはいた。けれど、内心は面倒臭いし、第一、直也を預けて働きに出ると勝手に決めたのは静子なのに、と思ったがそれは億尾にも出さなかった。 


そして次の週、二人は連れ立って保育園を訪れた。園長先生の話を聞くために。

いつもならば静子は、自転車に子供を乗せて送り迎えしているが、その日は二人して家から徒歩で保育園に向かった。

帰りは子供を乗せて帰るから、と静子は自転車を押して歩いた。彼はちらっと静子の方を見る。その横顔に滲み出る不安は隠せない。

「何言われるんやろな」

そのとき突然、静子は彼の方を向き、ぽつりと呟いた。

「うん、何やろな……」

この時点では彼はまだそれほど心配はしていなかった。どうせまた保育園で子供がしでかした酷い悪戯か何かを注意されるのだろうと思い込んでいたのだ。

今思えば、静子には園長先生から言われることやこれから先に起こりうることのある程度の予想ができていたに違いない。それきり二人とも何もしゃべらず、ただ黙々と早足で歩いた。ただ静子の押す自転車のチェーンが空回りする音だけが二人の耳に届いていた。

十五分ぐらい歩いて二人は保育園に到着した。古びた雑居ビルの一階と二階が保育園になっていた。一階のビルの出入り口の上から二階の窓との間の壁面いっぱいに、かわいいキリンや象やライオンなどの動物の絵が所狭しとペンキで描かれていた。その真ん中付近にライオンを押しのけるように巨大なコアラが鎮座していたが、これはすぐ近くにある天王寺動物園だろうか? ここの子供たちが見学に行き、一生懸命描いたものだろう。

その古びた外観は、見た目からしてお世辞にも綺麗だとは言えない。民間の都市型保育園なんてこんなものだろうと自分を納得させながら、彼はその中に初めて足を踏み入れた。

元々育児に積極的とは言えない彼は、静子が、急に子供をどこかに預けて働くと言ったときに、何かしら一抹の不安を覚えた。夫は外で働き、妻は家庭で家事と育児に専念してほしいと、心のどこかで思い描いていたのかもしれない。性差別とかそう言った類の古風な観念ではない。彼自身、幼少の頃、父母の仕事が忙しく、ほとんど構ってもらうことができなかったからだと思う。つまり、淋しかったのだろう。そんな家庭に育った彼だから子供にどのように接すれば良いのかわからなかった。

いや、本音を言えば、彼は子供が怖かった。できるだけ子供から逃げたかった。この保育園も、静子が一人でどこかから見つけてきた。彼はこの一件があるまでここへは来たことがなかった。    

中に入ると、オルガンに合わせて賑やかな子供たちの歌声が聞こえて来た。黄色いエプロン姿のかわいい保育士さんが、パタパタとせわしなくスリッパの音を立てて、子供の名前を大きな声で呼びながら駆け回っていた。

辺りに充満している、ベタッとした乳臭い匂いが鼻を衝く。当たり前と言えば当たり前だが、これが育児最前線の現場なのだと思った。

彼は、居心地の悪さと妙な感動を味わいながら、園長室のドアをノックした。

「本日はわざわざお越し下さいまして……」

どこにでもいそうな大阪のおばちゃんと言った感じの園長先生が、人の良い笑顔で彼ら夫婦を出迎えてくれた。

「いえ、こちらこそ、ご連絡いただきまして有難うございます」

「早速ですが」

先ほどまでのにこやかな表情から一転して、園長は、教育者の真剣な眼差しに変った。

「お電話でもお伝えしました、お子さんの直也君のことなのですが」

素直な心でまっすぐに成長してほしいという願いから、彼と静子は、その子に直也と名付けていた。

「これはあくまでも、私たちの主観なのですが、どうも直也君の、その行動に、ある兆候が見られます」

「ある兆候?」

静子の顔からは動揺は隠せない。

「ええ、私どもは今まで数多くのお子さんをお預かりしてその行動を見て来ましたが、直也君を含む一部のお子さんには、共通するいくつかの点がございます。おそらくご自宅でもそれはお見受けしておられたのでありませんか?」

園長はとても回りくどい言い方をした。この残酷な現実を彼らに伝えなければならない辛い立場にあるのだろう。きっと彼女も胸を痛めているに違いなかった。しかしその時の秀俊たち夫婦には、そんな他人の辛い立場を理解する余裕などはなかった。

「園長先生、その、直也は?」

「専門的なことは、私は医者ではありませんのではっきりこうだとは申し上げられませんが、ただ、ある種のその、知的部分に関する障害らしきものをお持ちなのではないかと、担当の保育士より度々報告を受けております」

「知的部分に関する障害、ですか……」

「ええ。一度、正式に検査に行かれたほうがよろしいかと思います。取り敢えず、区役所の健康福祉課に児童相談窓口がありますので、そちらで相談して下さい。わたしが書状を書いておきますので。これ以上詳しいことは私どもでは、ちょっと。こちらに保育士からの報告書をまとめたものがありますのでご参考までに」

そう言うと園長は、二人の前にA4のレポート用紙を一枚置いた。

その内容を少し要約して書いてみると――言葉が出ない。意思表示をしない。落ち着きがない。こちらの言うことが聞こえない、もしくは反応しない。いつも両手を頭ぐらいの高さまで上げて、ひらひらと動かす。高いところに登るのが好き。水に対して異常な執着がある。例えば、水道から出る流水に目を近づけてずっと見ている。一つの物に、ある種の強い拘りがあり、それが自分の思い通りにならないとき信じられないほど大きな声で泣き叫び、拒絶行動を取る、等々――

それはかなり具体的で、そのどれもが直也の行動に思い当たる部分がいくつもあった。指摘されてようやくピンと来る。そうだ、あのビデオ、おかあさんといっしょのビデオ。あれを見ている直也の異常性を彼はまざまざと思い出していた。

静子自身も少しおかしいと思うことはあったようだ。そして、もしかしたら? という一抹の不安を抱くことはあったが、母親として誰もがそうであるように、決してそれを受け入れることはなかった。

しかし、一番の問題は、秀俊自身がそれまでまったく気にも留めていなかったということ。育児のそのすべてを静子任せにしていたこと。彼はただの一度もいっしょに風呂にさえ入ったことはなかった。直也以上にこちらの方が問題だった。

それから二人は直也を保育園から引き取り、その足で、そこから歩いて二十分とかからない区役所の健康福祉課を訪ねることにした。

自転車のチャイルドシートに乗せられた直也は、いつもなら迎えに来ることのない秀俊の顔を不思議そうに覗き込んで、そして少しだけにっこり笑った。嬉しかったのだろう。

そのあどけない笑顔からは、今しがた園長先生から聞かされた残酷な事実が微塵も感じられなかった。静子はその笑顔を見て、耐え切れずにうつむいたまま無言で自転車を押していた。

これは彼のひがみ根性なのかもしれない。もちろん対応して下さった各々は皆十分に真摯な態度で誠意に溢れていたのだが、園長先生の話しに始まり、それからの彼らの行動は、まるで行政という名のベルトコンベアーに載せられた部品がどんどん組み立てられて行って最後には『障害者』と言うラベルをペタンと貼られて世に送り出されるような、そんな無機質な感じがしていた。

子供に自閉症という重い障害があるとわかった時、静子の中で、希望は絶望に変わった。毎日、毎時間、一分、一秒、光は閉ざされ、闇が静子の心を支配した。漆黒の闇の中、彼女は手探りで直也を探した。懸命に探した。でも一人では見つけることができなかった。当事者、静子、傍観者、秀俊、そのスタンスは変わらなかった。そんな状況で、どうやって直也を見つけることができようか。もう探すことを止めて、そのまま闇に飲み込まれてしまう方がきっと楽だと何度も思った。直也といっしょにこの闇を葬ってしまいたかった。



    4


――一九九八年  夏

児童相談所の勧めで、直也は、『ひかりの家』という福祉施設に入所が決まった。ひかりの家は民間の障害児童発達福祉施設であったが、保護者が希望すれば健常の子供も通所が可能だった。ここでは障害のある子も健常児も分け隔てなく同等に扱われていた。

ひかりの家に通い出して約半年が過ぎた。深い闇の底で懸命に直也を探す静子に救いの手を差し伸べたのは、秀俊ではなく、その施設に通う同胞たちだった。彼らもまた、静子同様すべてが手探りから始まった。

余裕などはない。ただ生きること、無事に明日を迎えることだけで精一杯だった。でも苦しんでいるのは自分一人じゃない。仲間がいる。そう思えることが静子にとっても大きな心の支えとなった。

静子が仲間に支えられて少しずつ進み始めていた頃、一方、秀俊は相変わらずのまま。表面上はとても献身的に尽してはいたが、それも、純粋な真心からではなかった。夫婦間に波風を立てぬよう、周りとの軋轢を感じさせぬよう細心の注意を払い、状況を分析し、そして、最善の行動を取ろうとしていた。どうすれば、妻の感情を抑えられるか、どうすれば周りとうまくやっていけるか。毎日がそれの繰り返しだった。

 気を遣っているように見せかけて、それはすべて自分を一生懸命守っていることだと気付かない。妻子を愛することのできない夫に妻子は守れない。当たり前のこと。自分を殺すことにも限界がある。やがてメッキは剥がれるだろう。

 ある日、施設に通う子供とその母親たちが、秀俊の家にやって来ることになった。ホームパーティをやろうというのだ。

なぜうちで? 他の家でも構わないだろう? 秀俊はできるならそういう接触は避けたいと願った。けれど静子がそれで少しでも気持ちが楽になるならと引き受けることにした。

約束の時間になった。インターホンが鳴る。

「あんた、ごめん、車椅子で来てやんねん。私ちょっと今手離されへんから下まで迎えに行ったってくれへん?」

「ああ、わかった。すぐ行くよ」

「ごめんやで。お願いします」

彼はメンバーを出迎えに一階まで降りた。駐車場には一台の白のフィアットが停まっていた。とてもお洒落な車だ。彼の姿を見るや、運転席のドアが開き、一人の女性がフィアットから降り立った。おそらく三十才手前ぐらいだろうか。ぴっちりした黒いレザーパンツを履き、メイクもばっちり。一見、新地辺りのホステスさん? と見まごう程の垢抜けた美人だった。かなりエロティックだ。

彼女は秀俊の方を向いてにっこり微笑みながら「伊藤と申します。はじめまして」と丁寧に頭を下げた。彼はドキッとした。 

そしてすぐにきびすを返し、後部トランクを開け、車椅子を取り出してパタパタと組み立てた。それから助手席側に回ってドアを開け、「翔ちゃん、着いたよ。さあ降りよかぁ」とやさしく話しかけながらその子供を大事そうに抱え上げ、車椅子に座らせた。そこまでがまるで流れるような一連の動作だ。まったく無駄がない。熟練の職人技のようだ。もう何度も何度も数え切れないほど同じことを繰り返して来たのだろう。

車から降ろされた、翔一くんと呼ばれるその男の子はぐにゃっとしていた。まるで骨がないように見えた。その母の出で立ちとこの子供にはあまりのギャップがあった。どこをどう考えてもこの二人は結び付かない。

続け様に日産セレナが停まり、その車からも母親らしき女性とその兄弟と思われる子供が元気よく降り立った。後部のハッチバックドアを跳ね上げ、リモコンのボタンを操作すると、中から車椅子の乗ったリフトがせり出して来て、ゆっくりと地面に着地した。その車椅子にはおそらく娘さんだろうと思われる子供が乗っていた。彼女の薄い唇からは大量の涎が流れ出し、それはオレンジ色の街灯に照らされて気味悪くぬめっていた。母親らしき女性は手早くその子の顔をハンドタオルで拭った。ユキちゃんと呼ばれるその車椅子の女の子は、翔一くんよりもずっと大きい子供だった。けれど、やっぱりぐにゃぐにゃだった。翔一くん同様に鼻にはチューブが、そして首に掛けられたハローキティのよだれかけが印象的だ。

「ユキちゃんこんばんわぁ」

「伊藤さん、翔一くん、こんばんわぁ」

その二人の母親たちは大変親しいらしい。お互い車椅子を覗き込んで明るく声を掛け合っていた。

車椅子二台、大人三人、子供一人、狭いエレベーターに乗るのも一苦労だった。途中出会ったマンションの住人が彼らを見て、挨拶したものの、その顔は驚きと不安で引き攣っていた。しかし挨拶を交わした秀俊の顔もかなり引き攣っていたが彼はそのことには気付かない。まったく怖いものなしの集団だ。


寝たきりの子、二人。自閉症児、直也を含めて三人。ダウン症児、二人。健常児、これは障害のある子供の兄弟、二人。そしてその母親たち。狭いマンションのリビングはおもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎだった。

奇声を上げる子、どこを見ているのか、もしかしたら何も見えていないのか、ただうつろな目をしてぐったり寝ている子、直也といっしょに、ほんのひと時もじっとしていない子。そしてテレビ画面は例のおかあさんといっしょが大音量で流れていた。そんな子たちを尻目に母たちは大して気にするでもなく、よく食べ、よく飲み、大声でしゃべり、そして高らかに笑う。その光景は秀俊を心底震え上がらせるには十分だった。入れない。その輪には決して。

伊藤さんは、「先にご飯食べさすわ」と言って、鞄からエンシュアと呼ばれている水色の缶を取り出し、カシュっと蓋を開け、驚くべきことに、それを翔一くんの鼻に入れた管の先に付けたバッグに移した。

透明なチューブの中を象牙色の液体がゆっくりと翔一くんの鼻から体内に入って行く。それは伊藤家の日常。でも初めて見た秀俊には痛々しく感じられた。

「この子が生まれるまではなぁ、友達とか、親戚とかなぁ、みんなめっちゃ仲良かってんけどなあ、この子生まれて、『こんな子生まれましたぁ』、言うてその写真送ったらな、返事、誰も来いへんかってん。あはははははっ」

ぐにゃぐにゃの翔一くんの美人ママ、伊藤さんは、エンシュアを与えながら大笑いしていた。

「そら、伊藤さん、あんた、あかんて。無理やって!」

「あはははは!」

「あはははっ!」

女たちの乾いた笑いが湧き起こる。もちろん静子も笑っていた。笑いに変えないと、どんどん落ちて行くのだろう。なんて悲しい笑い声なんだ。秀俊はその母親たちの会話を背中に聞きながら、一人キッチンで食事の用意に追われていたが、逆にその忙しさが心底有難かった。

(こんな輪に入れるわけないだろう。普通。おかしいだろう。普通……)

ここでは自分がマイノリティなのだと実感していた。本当は自分もあっち側の人間なのに。

「旦那さん、もうそこええからこっち来て食べてください」

物言わず動かない翔一くんのお母さんが言った。周りに対する気配りはかなりなもの。きりりとした派手目のメイク、はきはきとした物言いは、やはりどこか新地ママを連想させた。彼女だけを見ていると、重度の障害を持つ翔一くんとはまったく結び付かない。彼女の生き生きとした表情からは、その苦悩を推し量ることはできなかった。

そんな伊藤さんだけが、一人せわしなく働いている秀俊に向かって何度も声を掛けた。

「旦那さん、もう気ぃ遣わんといてください」

他の母たちも口々に同じことを言う。彼は逆に困った顔をしている。

「あんた、ちょっと静ちゃん、旦那さん、何にもせえへんて言うてたけど、すごいやさしいやんか」

「ほんまやほんまや、うちのんやったら、ほんまになんにもせんと飲んでるだけやで」

「そうかなあ」

「そうやで、なあ旦那さん、お料理も上手で、ほんま羨ましいわ」

(けど、お宅の旦那、子供の面倒はみるよ)と彼は咄嗟に思ったけれど口には出さない。

「良く気の付く、やさしい旦那様やね。お料理も上手で、あんたええ人と結婚したね」

それが方便なのか本心なのかわからないけれど、とにかくその場に居る女性たちは彼を褒めちぎった。そこまで言われてはパーティの輪に入らないわけにもいかず、彼は遠慮がちにテーブルに付いた。その時だった。

さっきまで隣の部屋でテレビ画面を食い入るように見ていた直也が、なぜか彼のところまでとことこと歩いてやって来て、膝の上にちょこんと座った。皆が一斉に直也のその行動を見つめた。

「直也! お父さん来て嬉しいんや。そうか、来てほしかったんやなあ」

「ちゃんとわかってる。この子、大丈夫やで。静ちゃん、心配せんでええよ」

直也は父をじっと見つめた。さも何かを言おうとしているようだ。

「直也、どうしたん、パパになんかしてほしいのん? おなかすいた?」

彼は自然に直也の頭を撫でていた。今までも直也の頭を撫でることはあった。でもそれは静子や、他の誰かが見ている時だけ。可愛がっていることを演じていたのだ。でもその時は違った。気が付いたときは、膝にちょこんと座る直也を抱いてその頭をやさしく撫でていた。初めてだった。勝手に体が、手が動いていた。

向かいに座っていた静子がその様子をじっと見ていた。彼女は泣いていた。と、その次の瞬間、直也は彼に向って大量に吐いた。原型を留めたイチゴをこれでもかと言うぐらい吐いた。ゲホゲホ咳をしながら。彼の服はまともに大量の吐しゃ物を受けた。皆が一斉に「あっ!」と叫んだ。そして直也が大声で泣き出した。でも元気そうだ。どうやら本当にイチゴを食べ過ぎたようだ。だから、次に場は、大きな笑い声に包まれた。

「あはははははっ! 直也!」

「あははははは、やったなあ」

辺りにイチゴの甘酸っぱい臭いが漂っていた。気持ちは悪かったが、彼は決して不愉快ではなかった。ゲロまみれになりながら、むしろ嬉しかった。 

その後の処理の手早いこと。さすがこういうことに慣れた集団だ。そして直也は何事もなかったように再びテレビの前に座った。

「直也、パパに嫌がらせしに来たんちゃうか? なかなか相手してくれへんから」

「ほんまや! けど笑わせてもろたわ」

皆、底抜けに明るい。これが、この明るさが、静子の心を救っているのだと思った。

会は終焉を向え、洗い物から片付けまでメンバー全員が協力して終わらせた。静子も彼もその手を煩わすことはなかった。そして皆、礼を言い合って、明日からの生活をお互いが心から励まし合って帰途に着いた。

後には静寂が戻った。まるで嵐の後のようだった。

「今日はほんまにありがとう。我慢してくれてほんまにありがとう」

静子が彼に改まって礼を述べた。彼は何も言えなかった。


明るい日の光が燦々と降り注ぐ尾根の道を一歩一歩登っていた。その道は、おそらくは、高みを目指す正しい道。しかし道は険しく、足元は荒れに荒れていた。今にも崩れそうな足元を一生懸命踏み固めつつ、少しずつ少しずつ前進していた。でも、目の前の荒れた道を整地する作業に少々疲れて来ていたのも事実だ。ふと横を見ると、薄暗い谷へ続く、下り坂がいくつも見える。その道は楽そうで、彼にはとても魅力的に見えた。


   


――一九九八年  秋   

 ひかりの家の恒例行事、秋の運動会がやって来た。もちろん参加者全員が障害を持つ子供たちとその父兄だ。この時期、どこの学校でも幼稚園でも運動会は催されるが、ここの運動会と他所の運動会の一番大きく違う点は、父兄や関係者、スタッフに至るまで、その異常なまでの意気込みの高さ、及び結束力の強さだろう。

秀俊以外に中途半端な気持ちの者はほぼいないと言っていい。半年も前ぐらいから運動会をとことん楽しもう、とことん楽しみにしているという連中ばかりだ。極端な父兄になると、練習から予行演習まで毎日のように見学に来ている。積極的過ぎるにも程がある。

これは運動会に限ったことではないが、そういったイベント事があると、その度、尋常ではない張り切り方をする。まるで燃え盛る炎がごとくの盛り上がりを見せる。冷めた彼にはついて行けない。なぜだ! なぜそこまで? まるで生きる全精力をつぎ込むようだ。

おそらく秀俊は例外中の例外なのだろう。秀俊には彼らのその熱気が怖かった。彼らが機嫌良く何の問題なく楽しんでいるうちはいい。だがこう言った連中は、ほんの少しでもその権利を侵害された時の怒り方と言ったらそれこそ尋常ではない。結束力の高さも相まって本当に怖い。だから余計に腫れ物扱いされる。そして被害者意識はさらに増幅される。  

どうしてそれがわからないのだろうか? あるいは、自分たちは世間の人々よりもずっと不遇な状況に置かれているのだから、少々我を通しても良いのではないか? とでも考えているのだろうか? 

しかしそんなふうに曲解する秀俊は、自分こそ完璧に当事者なのにあくまでも第三者的だった。「一体直也は誰の子なんだ?」と言う彼を揶揄する声が聞こえて来そうだ。


運動会当日。爽やかな晴天に恵まれた絶好の日和だった。抜けるような秋の空が広がり、どこからか金木犀の甘い香りが漂って来ていた。

会場の大きさはテニスコート場ぐらいしかなかった。運動場ではなく広場と言った方が正しい。トラックとトラックの中に直線コースが白線で引かれてある。スタートからゴールまでの距離は短く、健常者ならば全力で走ったらあっという間に着いてしまうだろう。しかしここでは広い会場など必要ないのだ。

ぐるっとトラックを取り囲むように保護者席が設けられており、見渡せば、競技に参加する子供よりも席を埋め尽くしている父兄や関係者の数の方がずっと多いように思えた。 

狭い会場なので大勢の人の表情までよく見える。それは逆に言うと自分も他人からしっかり見られていると言うことに他ならない。

彼は、母親同士が自分を見て「なあ、あの男の人、誰?」「ああ、あれって静ちゃんの旦那さん違う?」「ええ、そうなん? あの人が噂の直也のお父さん?」「そうそう」そんな風にこそこそ囁きあっているような気がしていた。部外者感半端ない。

その居心地の悪さを打ち消すように、彼はバッグから自慢のニコンを引っ張り出して望遠レンズに交換した。これ見よがしにわざとらしく。

そして直也が走る番になり、重厚なカメラを構える。その望遠レンズの先には直也と静子の姿があった。直也はほとんど静子に抱えられるような格好でゴールを駆け抜けて行き、会場中から大きな拍手が湧き起こった。

彼は拍手もせずに、これこそが父親の運動会での姿。世間一般の運動会にやって来た父親たちは皆一様にそうするものだろうと、どこで得た知識かわからないけれど必死でそのステレオタイプを真似た。写真を撮ることが、その時の彼に与えられた任務だと思っていた。つまりそれ以外にそこに居る意義はないし理由もない。

わが子が可愛いという衝動からシャッターを切るのではなく、妻や、妻の親、彼の母親、まわりの人すべてに、自分のその親バカぶり、ではなく、〝親バカのふり〟をアピールしたかった。

でもそれは大きな勘違いだった。

昨夜のことだ。

「明日、来てくれるのん?」

申し訳なさそうに静子が聞いた。

「行くで、もちろん」

「そう。すみません。よろしくお願いします」

「しっかり写真撮りに行くから」

「……うん、わかった」

静子は彼が写真を撮ることなど本当はどうでも良かった。自分と直也とそして秀俊と、三人で一緒にゴールを駆け抜けたかった。隣の親子も、そのまた隣の親子もそうであるように。

ここに通っている子供たちはそのほとんどが自力でゴールまで走れない。だから家族がいっしょに参加することが認められていた。それは静子にとって、家族として力を合わせることが試される場であるような気がしていた。

子供一人では何もできない。でも家族でならできる。写真やビデオを撮ることなど他の誰でもできる。けれども、一緒にゴールすることは、自分と秀俊でなければできないことだ。

「ほら、直也ぁ! ちゃんと走りなさい。走って!」

静子が嫌がる直也の手を強引に引っ張っている時、秀俊はずっとカメラのファインダーを覗いていた。それが静子にはたまらなく淋しかった。

直也たちがゴールを駆け抜けたその後に大きな拍手が湧き起こり、さらに歓声は高くなった。そして次にトラック上には車椅子に乗った一団が登場した。次の種目は車椅子競走らしい。まったく歩けない子供を乗せた車椅子を保護者が押して順位を競う。

競うと言っても安全を考慮して普段よりも少し早足で押してゴールを目指す、と言った具合だが、よく見ると、その中に見覚えのある小さな男の子とそれを押す母親らしき女性が一人。地味なジャージ姿なのに車椅子を押すそのヒップラインには妙に色気がある。

彼女は時折、その子に何かを真剣に話しかけながら必死にゴール目指して押しているが、男の子の方はぐったりした様子でぴくりとも動かない。その目はまるで死んだ魚のように、どこかを見ているのか、あるいはどこも見ていないのか、ただぼんやりと周りを眺めていた。あれは確か……

ゴールが近付くに連れ人々は皆、その二人に声高らかに声援を送った。

「ガンバレー! もうちょっとや! ガンバレー!」

秀俊も望遠レンズでその親子を追う。彼の中に二人の人間がいて、一人は、「頑張って!あと少し! 頑張って!」と声援を送り、もう一人は、「大人の自己満足や。茶番やな」と冷たい言葉を吐いていた。

周りの人が皆その親子を支えていた。彼は複雑な気持ちでその様子をずっと見ていた。危なっかしいその動作をずっと見ていた。

 二人が無事ゴールした時、更なる声援と惜しみない拍手が贈られた。そして静子はその親子のところへ駆け寄って行った。直也を連れて、にっこり微笑みながら。

彼は思っていた。どうか、自分のところへ来ませんようにと。

その時、彼の横でひとりの女性が、まるで不安な彼の心を見透かしたように話しかけて来た。

「あの子、翔一くんて言うねん。あの子な、生まれてすぐに重い病気になって、命は助かったけど、後遺症であんなふうになってしまってん。自分では、体を動かすこともできへん。食べ物も、水も飲まれへんねん。長いこと横向きで寝ることもできへんねん。痰が気管に入るからなんやって」

「あ、知ってます」

「そう」

「ええ、前にうちに遊びに来たことがあって」

「ああ、そう言うたらそんなこと言うてやったわ。あたしは行かれへんかったけど」

彼は、伊藤さんの『誰からも返事来えへんかってん。あはははは!』の持って行き場のない笑い声を思い出して次の言葉に詰まった。残酷だ。

「はじめまして、直也君のお父さんですよね?」

「あ、はい」

「いつも奥さんからお伺いしています。あたし村井友里って言います。よろしくね」

「あ、はい。こ、こちらこそ」

「あ、なんか緊張してます?」

「あ、いや、こちらこそ、いつもお世話になってます」

彼女はにっこり微笑んだ。やさしそうな大きな瞳。だが、そのつぶらな瞳の奥に、彼は何かを感じ取っていた。彼女には、五才と三才の二人の娘がおり、どちらもひかりの家に通っているらしい。下の子は健常だが五才になる長女は重度の癲(てん)癇(かん)持ちだと聞いた。

何の変哲もない普通の出逢い。子供の父兄さんとの運動会での挨拶の一幕。静子が直也の手を引いて、こっちへ来いと手招きしていた。彼は、彼女との挨拶もそこそこに直也の方へ走って行った。翔一君との挨拶が待っている。気が重かったが、顔では笑っていた。前にもこんなことがあったような気がしていた。デジャヴ? 不思議な気持ちだった。

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