木蓮の花の散るとき

天野秀作

第1話 黒い川面


――二〇〇五年 春

ダッシュボードの時計は深夜0時を二分ほど過ぎたところだった。

彼の運転するトヨタRAV4は、西中島ランプから真夜中の新御堂筋を猛スピードで駆け上がる。梅田の高層ビル群のシルエットが対岸の青い闇の中にぼんやりと浮かんでいた。眼前の淀川は中程まで葦の生い茂る河川敷、その向こうにある河はまるで黒く巨大な蛇が横たわっているように見えた。

新御堂筋は自動車専用道路だが、淀川を渡るこの区間だけ左右にきれいな歩道が整備されていて人も自転車も渡ることができる。大阪の玄関口である梅田と新大阪を分断する淀川に架けられたこの新淀川大橋は災害などの非常時、避難経路としての重要な役割を担っている。

しかし今はその長く大きな橋の上、見渡す限り人影はない。ただ、ずっと向こうの歩道に、ぽつんと黒っぽいシミのようなものが見えた。車が近付くに連れ、それが歩道に置き去りにされたバッグであることがわかった。

彼はその直前でハザードランプを出してブレーキを踏む。後続車が続け様に大きなクラクションを鳴らして追い抜いて行った。歩道のある大橋とは言え、信号もない高架道路だ。流れている車のスピードは高速道路のそれと変わらない。ましてや交通量の少ない夜中、どの車も時速八十キロ以上は当たり前に出ている。そんな中で急停止するのは自殺行為にも等しい。しかし今の彼にはそんなことを考慮する余裕はなかった。

彼は車を歩道脇に寄せて止め、慌てて駆け寄ると、それはいつも彼女が持ち歩いているお気に入りのトートバッグだった。ネイビーブルーに黄色い縁取り、しっかりした帆布生地。Porterのロゴ。間違いなく彼女の物だ。以前、その値段を聞いた時、洒落っ気のない彼にはたかがトートバッグにそこまで拘る気持ちを理解できなかった、そのトートバッグだ。 

上からバッグの中を覗くと、こいつも彼女のお気に入り、コムデギャルソンのオレンジ色の財布までそのままにしてあった。つまりそれは、ついさっきまで彼女がここにいたと言うことだ。彼がそれを見つけるであろうことが前提で。

「しまった! 遅かったか」

彼は慌てて欄干に身を乗り出して下を覗き込んだ。そこから見える川面は、タールのようにどす黒く、何もかもすべてを飲み込みそうに見えた。

遠い昔、彼がまだ小さな子供だった頃、同じ夢をよく見た。一面に墨を溢したような暗黒が見えた。よく見ると、その暗黒一面に無数の細かな白い筋が見える。海だ。月さえも出ていない夜の海をずっと高い空の上から見ていた。これと言って変化もなく、延々と、ただ黒い海面があるのみ。思わず引き込まれそうになる。そのどす黒い海は今も彼の脳裏から離れない。目を瞑ると、今もその真っ黒な海が見えるようだ。

彼は顔を上げてあたりを見回した。人影はまったくない。ただ、橋の上を猛スピードで走り抜ける何台もの車のシャラシャラというロードノイズだけが虚しく響き渡っていた。

これはきっと夢を見ているに違いない。人は信じ難い状況に遭遇すると、それが現実であると受け入れるのに多少の時間を要する。しかし、彼の脳が現実であるか否かを判断するより速く、彼の指は携帯電話のボタンをまさぐっていた。

「はい。百十番。どうしました?」

まるで機械の自動音声案内かと思うほど、その電話口の声は冷たく響いた。彼の頭が一瞬真っ白になる。

「もしもし! どうしました?」

再び男の声が聞こえ、彼は否応無く現実に引き戻された。声の主は機械ではなかった。

「あ、もしもし、すみません、今、私は新御堂筋の南行き、淀川の歩道にいるんですが、知り合いがここから川に飛び込んだみたいなんです」

自分でも信じられないほど冷静に対応していた。しかし心の中は尋常ではなかった。恐怖が、まるで煮えくり返った油のように沸々と泡立ち、そこへ不安の火花がパチパチと降り注いでいる。もう引火寸前だった。彼は震えながら持っている携帯電話を投げ出して、今すぐにでも橋から飛び込み、彼女を探したいという衝動に駆られていた。 

「お宅さんどちらさん? 詳しく話してくれますか?」

電話口の声のトーンが上がる。もう先ほどの無機質な対応ではなかった。只事ではない。怖い。

「あ、はい……」


 

2 

 

――二〇〇一年  秋

「なあ、もう逢えへんって言ってたやろ? せやのに、なんでまた逢うてくれたん?」

上本町近鉄百貨店の階段で、友里(ゆり)は立ち止まって聞いた。平日の昼下がり、百貨店の階段を利用する客はほとんどいない。人影もまばらなその場所は、二人にとって格好の逢瀬の場所となった。

彼女は西田友里(ゆり)。秀俊は今年三十五才になるが、彼女は今年二十六才、秀俊より九つも若い。友里は有名なメイクスクールに通っていた。年の割には童顔な秀俊に対して、身長は低めだが、元来目鼻立ちのはっきりした面立ちの上、プロのメイクを施す彼女は年よりもずっと大人びて見えた。結果的には二人ともそんなに年の違わないカップルに見えたことだろう。

彼女は自分のことを「わたし」ではなく「友里なあ」と名前で呼んだ。それは決して周りの目を意識して言うわけではない。そんなだから、大人びて見える外見と、その甘えた子供のようなしゃべり方に随分とギャップがあった。きっとそれも彼女に備わった魅力の一つなのだろう。同性には決して受け入れられないだろうが、年上の男性があの甘えた声で「友里なあ」を聞くとたちまち骨抜きにされてしまう。

「なんでまた逢うてくれたん?」の質問にもきっちり甘えた響きがあった。秀俊は答えることはできなかった。自分でもはっきりとした理由が見つからなかったからだ。元より逢いたいと思う気持ちに理由などはないのだから。

踊り場で彼女は秀俊の首に両腕を回し、そっと抱きついてやさしくキスをした。ドキドキしていた。辺りに人がいないか冷や冷やしていた。彼の胸のざわめきは、合わさった唇から彼女の中にまでゆっくりと伝わったのだろう。彼女はゆっくりと唇を離して、じっと彼の目を見つめながら言った。不遜な微笑みと共に。

「なあ、こんなとこでこんなことしたことなかった?」

「あるわけないよ。だって人が見てるやん」

「そんなこと、関係ないよ……気にしたらあかん」

彼女はこの逢瀬をまるで誰かに自慢げに見せ付けて楽しんでいるように思えた。デパートの従業員風の男性が、二人の横を怪訝な目で見ながら階段を降りて行く。

「天宮さんは、恋愛ってあんまりしたことないの?」

彼には三才年下の妻がいたが、今まで、いや友里と出会うまで、本気で誰かを好きになったことはなかった。もちろんその三才年下の妻にさえもだった。ただ彼女の気持ちに応えなければいけないと思っていただけで決してそれは愛とは言えなかった。あるのは責任感、義務感、そこに彼の真心はない。

「わたしのどこが好きなの?」

妻は彼に問い掛けた。いや、妻に限らず女は皆同じ質問をしたがる生き物だ。心の所在を確認しなければおられないのだろう。そして彼の答えはいつもこうだ。

「おまえが俺のこと好きでいてくれるところ」

彼の人生は、今まで生きて来た中で誰かの思いに応えることがすべてだった。母にも、近所の人にも、学校の先生にも、友達にさえ。自己保身。つまり、ただ自分が可愛かっただけなのだ。

「俺、人の愛し方、わからんねん」

幼少の頃、十分に親の愛を受けられなかったまま大人になったことの裏返しだろうか。それを十も年下の友里に話した時、彼女は言った。

「天宮さん……なんか淋しい生き方してるなあ。ちょっと頭良過ぎやで、何でも頭で考えたらあかんよ。人を好きになるのは、頭でなくて、ここやよ……」

そう言って友里は、秀俊の胸にやさしく手を当てた。その瞬間、彼の中で何かが大きな音を立てて崩れ去る。ようやく、彼の中の封印は解けたような気がした。


それから二人は近鉄百貨店を出て、どちら共なくひっそり寄り添い、まるでこの世のすべてから逃げるように千日前筋の信号を早足で渡った。すぐ裏にある二人だけの秘密の場所を目指して。

お互いの心は激しく求め合い、一秒でも早くあの部屋――窓もなく、煙草の臭いが染み付いた、そして限りなく淫猥な男女の念が漂う――あの部屋に入りたかった。

部屋に入るとすぐに激しく抱き合い、激しくキスをして、そしてそのままソファーに縺れ込んだ。何も止められない、誰ももう止めることはできない。二人だけの切ない時間が流れ出す。 

 友里の舌が、彼の前歯の裏側をなぞる。ゾクゾクッと感電したような快感の波が押し寄せる。

「歯って感じるやろ?」

小悪魔のような友里の笑顔。

「なあ、もう逢えへんって言うてたのに、あれウソなん? 友里なあ、こんな形でもええって思うよ。せやからまた逢うてえな」 

 彼女はいつも香水を付けていた。とても強烈な香りだ。あるとき彼は、友里にその香りのことについて聞いたことがあった。それまでは香水なんてまったく何の興味もなかったし、おおよそ彼の人生にそんなものが関わることなどないと思っていた。

「友里ちゃん、その匂い何?」 

「ええ? 何ぃ? この匂い? これな、ラッシュって言うねん。友里これ好きやねん」

友里はいつでも感覚で物を言う。そこには概念などと言うくだらない化石は存在しない。まるでたった一人でこの宇宙に広がる感覚の海の中を泳いでいるようだ。おそらく友里を捕まえようと思うなら、自分自身も友里の感覚の海の中に入って行かなければならないのだろう。だが物事すべてに理由を求めて止まない彼には不可能だ。それには一度完全に破滅することが必要だった。 

GUCCIのRUSH。彼が初めてこの香りを嗅いだ時、なんて猥雑で品性の欠片もない臭いだと感じた。しかしそれは友里の泳ぐ感覚の海へといざなう媚薬。慣れて来るに従ってとても甘く切ない香りに変貌を遂げた。そして、いつしかその匂いは、彼の脳の一番深いところに刻み込まれ、時を止めることができる記憶となった。彼の中で紛れもない彼女の匂いだ。どれだけ時間が過ぎようが、いつ如何なる場所ででも、この匂いを嗅ぐと一瞬で友里のところへ戻ることができる。不思議だ。

だが今日の友里はその媚薬を付けてはいなかった。平日昼下がりの逢瀬。当然だろう。彼にはそれが不満だった。 

「今日はいつもの香水付けてへんね」

「そらそうやわ」

 それは理不尽なことだと聞く前から重々承知していた。でもどうしてもあの匂いに包まれたいと願う。単なる我侭に過ぎない。だからそんなことを言って彼女を困らせた。付けて来られたら本当に困るのは彼の方なのに。でもそれもわかっていた。

「なあ、今持ってる? あとでシャワー浴びるから、ちょっとだけ付けてみてくれへん?」

「ほんの少しやよ。もう、ほんまに知らんで、後でちゃんと洗わな。石鹸の匂いでもわかるって言うのに!」

 そう言いながら、彼女はバッグからラッシュの赤い箱を取り出し、小指に少しだけ付けて耳の下にそっとなぞるように塗った。その途端に甘い甘い香りが漂う。紛れもない彼女の香りだ。愛しくて愛しくて思わず彼女を強く抱きしめた。そして何度も優しくキスをした。彼はいつのまにか泣いていた……


※              ※


「なあ知ってる?」

「え?」

部屋は、淫靡さの残る湿った空気で満ち満ちていた。シーツに包まり、力なく抱き合ったまま彼女が聞いた。

「なあ知ってる? 友里が一番嫌いな時間」

「一番嫌いなジカン? いや、わからへんよ」

「天宮さんの後姿を見送る時……」

そうか、もうそんな時間か。彼は淋しそうに微笑んだだけで何も言わずその体を起こした。もう現実へ帰らなければならない。

「天宮さん。一つだけ友里のお願い聞いてくれる?」

「え? うん……」

「わたしのお父さんになってくれる?」

「え? お父さん?」

「あ、忘れて。何でもない。あれ? どこ行ったんやろ。ない」

そう言うと彼女は枕もとの照明スイッチをオンにした。真っ暗だった部屋に小さなムードランプの灯りが一つ灯った。

「あ、あった! あんなとこに」

彼女は素っ裸のままでするりとベッドを抜け出した。彼女の背中から臀部に至る美しいラインがムードランプのみの薄暗い部屋に青白く浮かんだ。彼はそれを呆然と眺めた。なんてきれいな背中なのだろう。すべてが友里で出来ていた。

彼女は床に落ちている下着を拾おうと身を屈める。すると、ぽってりとした羽二重餅のような陰部が顔を覗かせた。彼はその刹那、びくっと戦慄を覚えた。しかしもう欲情はしなかった。彼女は拾い上げた黒いティーバックの下着を身に着けると彼の方を振り向き、少し淋しそうに言った。

「さっきまで、あんなに愛し合ったのに、天宮さんは、もうさっきと違う顔やね。友里の天宮さんはもうおらへん。何もなかったように、自分の世界に戻って行くねんな……」

彼女はおそらく秀俊が背後から自分を見ていたことを知っていたに違いない。だから見えたのではなく、見せたのだ。試したのだ。わざと。そして吐き捨てるように言った。

「友里、いっつもここに置いてきぼりや。なんで男の人ってそんなにすぐ変われるのかなあ。友里なぁ、この時間がやって来るのが恐いから、もう逢いたくないって思うねん」     

彼女は今にも泣きそうな顔をしている。思わずまた抱きしめたくなる。その時、彼の心の中にはもう友里しかいなくなっていた。こんな気持ちに今までなったことはなかった。大きな大きな波が、彼をさらってどこかへ連れて行く。一体どこへ行くのだろう。でもどこだっていい。どこへ流されようと、もう彼女を離せなくなっていることは間違いなかった。


ホテルから出ると、そこは明るい日の当たる世界だった。見上げると抜けるような秋の空が広がっていた。目が眩みそうなぐらい眩しかった。道路にはたくさんの車が溢れ、スーツ姿の男性も、学校帰りの制服の学生たちも、道行く人は皆、何かに追われるように急ぎ足で彼らの前を行く。秀俊と友里が今まで篭っていた世界とは相反する世界が広がっていた。現実だ。やがて彼もこの中に紛れ込むのだろう。何事もなかったように。

別れ際、いつもの待ち合わせをするドーナツショップの前で、彼は一瞬、その表情に切なさを滲ませて名残を惜しんだ。 

「な、次の日曜、ツーリングに行こか」

「え? ツーリングってバイク? どこ行くのん?」

「実はオークションで落としたバイク、ホンダのナナハンやねんけどな、週末に岐阜まで取りに行かなあかんねん。土曜の夜に電車で行って、日曜にそのバイクで帰って来るねんけど……」

「それって、もしかしてお泊りってこと?」

「うん。初めてのお泊りやね。行く?」

「連れて行ってくれるのん? ええの? 奥さん大丈夫なん?」

「俺一人で行くって言ってあるから大丈夫やで。な、行こうよ」

「うん。行く。嬉しい……」

「じゃあまた連絡するわな」

 そう言うと、彼はまた、都会の雑踏の中に消えて行った。もう振り向くことはなかった。  

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