少女と老人

 空は明るく、日様は真上に登った頃、少女は目を開けて、部屋を見渡した。


「おはよう」

「おじいさんって、本当に朝が早いんですね」


 礼儀を知らない少女の言葉に苦笑してから、少女に手を伸ばす。


「起きれるか?」


 甘やかしすぎだろうと少女が苦笑し、手を掴み、老人に引っ張られて身体を起こした。

 未だに血に濡れていた服装に気が付くと、老人の手から服の入った袋を手渡される。 いつの間に用意したのか。

 質の良いべべに戸惑いながら、それを受け取る。


 服を広げてみれば、少女趣味の可愛らしいものだった。 まるで貴族の令嬢が着ていそうなそれを見て、自分のあかぎれだらけの手と見比べる。

 これは身代わりとしての服とは違って、自分のための服だと思えば気が引けた。


「似合いはしませんよ」


 首元が隠れるようにしてあるのは、烙印を隠すためだろう。 そんな細やかな気遣いが嬉しくも居心地が悪いと少女は感じた。

 何か文句を言えるはずもなく、少女は老人を見る。


「ああ、すまない」


 老人は察したように部屋を出て、少女はカーテンを閉じて血塗れの服を脱いだ。

 血が皮膚にこびり付いていて気持ちが悪かったが、軽く掻けばそれも剥がれ落ちた。 新しい服を着直すが、あまり心地よくはない。 とりあえず水を浴びたいと思うが、言える立場でもないだろう。

 所詮は敵国の捕虜である。


 着終え、烙印が隠せていることを確認してから、扉を開く。

 笑みを浮かべている老人に毒気を抜かれる。


「似合っている。 まるでーー」


 老人は首を横に振り、話を変える。


「飯を食べに行こう。 ここは良い魚が食べられる」

「はあ」


 少女の気の無い返事。 本当に自分に看取らせるつもりか。

 あまり良い思いはしたことはないがーー自分は器量が良いらしい。 だから気に入ったのだろうか。 などと。


 食事をする。 食べたこともないような味に眉を顰めて食べ進めた。

 風呂に入る。 疲れが取れるようで、ゆっくりと一人で浸かるのは心地が良かった。

 服屋を巡り、買わされる。 初めての体験に心が揺れるのを覚えた。

 宿で眠る。 柔らかなベッドに包まれて目を閉じた。 昼まで寝ていたせいか、眠ることが出来ない。


「もう寝なさい」


 今までの甘いだけの言葉ではなく、ほんの少し強制するような言葉。 この老人があの鬼であることを少し思い出しながら目を閉じた。


「夜更かししていれば、戦鬼が攫いにくるぞ」


 老人は身体を少しだけ揺らして、大太刀を掴んだ。

 なんてことはなかった。 老人はただその話を信じ、少女が攫われることを拒んでいただけの話。


「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 なんてことはない。 ただの老人だった。


 老人は隣のベッドに入り、目を閉じた。 恐ろしい鬼の姿を夢に見る。 水面の鏡に映る、自身が手を伸ばし、自分の首を絞める。

 何人殺した。恐ろしい鬼は老人に問いかける。

 千人は超えている。 万には足りていないだろう。 その程度しか分かりはしない。

 首を絞める力が強まっていく。 もう問いに返すことも出来ない。

 暖かいか、少女の隣は。 鬼は問いかける。 問いに答えることは出来ない。


「うあ……ううああーーーー……」


 身体が揺らされて目が覚める。 少女の顔が目の前に合って、その顔を触れた。


「大丈夫ですか?」

「……ああ、大丈夫だ」


 額の汗が拭われる。 気持ちの悪い胃液が喉元まで出てくる。


「鬼は来ませんよ。 大丈夫です」


 老人は目を閉じて、息を吐く。 少女は元のベッドに戻って目を閉じた。

 母の夢を見た。 あまりにも、辛くなるほどに幸福な頃の夢を。


「昨日は悪い夢でも見たのですか?」


 少女は甘い菓子を口に含みながら尋ねる。 質の良い服装に、端整な顔立ちは何処ぞの姫と呼ばれても違和はない。

 けれどその行動はそこらの街娘のようで、頭を撫でやすいと感じた。


「……いや、いい夢だった。 お前は微笑んでいたが、いい夢を見たのか?」


 少女は菓子を嚥下してから答えた。


「いえ、酷い夢でした。 もう二度と、見たくない」


 昼下がりの街を散策すると、当たり前のように少女が着いてきた。 鬼の如く張り詰めていた緊張は失われて、自然に笑みが溢れれば、街の風流に感嘆を吐く。

 心地よい時間だった。

 あるいは子供の頃を思い出すような、心が揺れる時間とも言えた。


 人を殺してしまった。 何千も。

 その分、自国の人を救えたのだと思えば後悔こそないが、罪は罪であるべきなのかもしれない。

 間違ったことをしたのとは思わないけれども、償いたい。


 思い出したのは、使い道のない大量の金銭。 何か孤児院のようなものでも建てようか、少女を見て、老人はそう思った。

 喉にある首を絞められた感覚はまだ残っている。 忘れてはならないのかもしれない。


「人殺しは、良くないか」

「僕は、そう思います」


 少女は首元を抑える。 烙印が疼くように、苦い感覚がした。


「そろそろ、鬼も隠退か。 あと一仕事終えれば」

「……そうですね。 あとひとり」


 少女は呟いて首を抑えた。 酷く、痛む。


 そこから十の日を同じ街で過ごし、馬を駆けさせて西へ西。

 また次の街で姫を探しながらゆっくりと過ごしていく。

 老人に人が殺せるのか。 大太刀を素振る老人の手はやけにか細く見えた。


「お前は、何故、友を」


 ある日、少女が目を閉じたときに老人は尋ねた。 少女は答えず、反応を返さずにいた。


「私が初めて人を殺したのは、強盗だった。

この国では、今でこそ少なくもなったが、昔は皆……それこそ尊い家柄の者でさえも飢えていた。 それ故に、珍しいことでもなかった。 母を守ろうとした。

お前より少しだけ幼い歳だったよ」


 小さく老人は息を吐き出す。


「今でも感触が手に残っている。 いや、今だから思い出せる。

私がもう少し強ければ、賢ければ彼は死ななかったのか。

私がもう少し弱ければ、臆病であれば母が死んでしまったのか。 その時の彼が手招きをしているかのようだ」


 ここ数日で、老人は老いた。 鬼という病魔にでも罹っていて、それが治癒したかのように、ごく普通の老人がそこにいた。


「もう少し、生きねばならない。 もう一人、殺さねばならない」


 毎日、毎夜うなされていても、昼にはすっかりと忘れたように戻っているが、少しだけ夜寝付くのが遅くなった。

 少女は老人の話を聞き流して眠るのが得意になった。


「おやすみ」


 少女の返事はない。 眠ったらしい。 それが老人にとって、強い安堵をもたらした。


 一休み、二休み。 わざと殺すのを遅くするように牛歩の歩みで西へ向かった。 西へ、海の見えるその街へ。


 夜更けにそこに着いて、少女は馬から降りながら、老人を無視して歩き始めた。

 西へ西へと、海に向かって歩みを進める。

 老人は不思議に思いつつも、真暗闇の中で迷いなく歩く少女に必死に着いていく。

 真暗闇は当然のように歩きにくい。 二人して息を切らせながら辿り着いたそこには、海の見える廃墟があった。


 少女は座り込んで手を合わせた。 少女の暮らしていた国の、追悼の作法である。


「ここはーー」

「故郷ですよ。 この田舎町が」


 老人は神妙に頷いて、少女に倣い、手を合わせた。

 潮風が吹く。 塩気と湿気がやけに重苦しい。


「ここにいるのか。 その姫が」

「ここにいるんですよ。 お姫様が」


 少女は隅を指差した。 小さな人骨がそこにあった。


「ーーは……?」


 戦鬼はそちらを見て、呆気に取られる。 ゆっくりと少女の顔を見れば、少女はそれへと目を向けていた。


「友人を、殺したんですよ。 僕は。

この町に来ていたお姫様と偶々友達になって、お姫様と知って」


 少女は懐かしむように廃墟を撫でて行きながら、まだ残っていた蝋燭に火を灯した。 少女の顔が赤い火に照らされてよく見える。 涙が赤く零れ落ち、部屋の隅に倒れるようにもたれかかった。


「僕と彼女は、よく似ていました。 それこそ、瓜二つと言えるほどに。

この町は今でこそマシになりましたが、昔はもっと酷かったんですよ。 おじいさんが言っていたように強盗も珍しくないほどには」


 小さな財布を部屋の隅から取り出して、空の中身を老人に見せる。


「お金がなくて。 人は生きられなかった」


 老人にとっても覚えのある話だ。 利を求めた戦の裏には、働き手がいなくなり、このような中心部から離れた街は貧困に喘ぐことになる。

 特にこの町のそれは、老人が、戦鬼が起こしたものに相違なかった。


「僕は思い付いたんです。 父を失った母に、お母さんに生きさせてあげる方法を」


 父を失った。 とはつまりはそういうことに間違いはない。 少女の父の仇こそ、戦鬼である。

 少女は老人の持つ袋を指差した。


「それをください」

「ーー渡せるわけが、ないだろう」


 少女が戦鬼と出会ったときの装飾品。 それはこの国の、失われた国の王族に連なる者であることを示す。


「白く朽ちた骸に付けさせて、渡すおつもりですか?」

「お前は姫ではないのだろうが」


 少女は息を吐き出して、目を閉じた。


「成り代わったんですよ。 お姫様を殺して、それを奪って身に付けて。

おかげでこの街にお金を流すことが出来ました。 母はどうなったのかは分かりませんが……多分きっと、幸せに」

「そんなわけがーー」


 老人の言葉は止まる。 否定が出来るはずもなかった。

 少女にとっての諸悪の根源は彼にある。 戦鬼がいなければ、少なくとも少女は殺しはしていなかっただろう。


「ありますよ。 だって、邪魔な娘がいなくなれば、お母さんは、きっときっと。 お金もあれば、多分」


 少女は顔を膝に埋めて涙を染み込ませていく。


「僕を殺してください。 鬼なんでしょう」

「殺せるはず、ないだろうが!」


 少女は首の烙印を老人に見せる。


「自殺ぐらい、僕にも出来ます。 自身で灼く痛みには耐えられました」


 ーー夜更かしなぞ、するものではない。 鬼が攫いにくる。


 老人はそう思い出す。

 今の自分は姫を殺せない。 最後の一仕事を終えられないのであれば、鬼に足り得ない。

 ただの老人が、鬼に怯える。 人を殺して回ったツケだろうか。

 初めての理解者を、それこそ孫娘のような少女をーー。


「夜更かししていれば、戦鬼が攫いにくるぞ」


 老人はその場に倒れ込み、そう歌った。

 戦鬼が、以前の自分が攫いにきたかのようだった。 何物よりも大切な子を。


「大太刀で子の首を切り落とす。 その歌はそれでお終いです」


 老人は動くことが出来なかった。 孤独に喘ぐことも出来ない戦鬼に戻りたくはない。

 けれどもーーどうしようもなく、少女を殺さなければ、ならなかった。


 ーー夜更かししていれば、戦鬼が攫いにくるぞ。 馬を駆らせて血の雨降らせ、子供を取っ捕まえて、遠くに行くぞ。

西へ西へ、ああ西へ。 子の眼は東の空を見つめ続けて、ああ西へ。

空は暗く光もなく、ああ最西、果ての西。 取っ捕まえた首切り取った。

子の首、東を見詰めない。ーー


 馬鹿げた歌だ。 何も相違なかった。 ただ一つ、鬼も泣いていることぐらいは伝えてほしい。

 戦鬼はそう思った。


「この町のために、残った生命を尽くす。 金を出し惜しみはしない」


「ありがとうございます。 あと、彼女に立派なお墓があればーー。 殺してこんなところに置いている僕の言えた義理ではないですが」


 戦鬼は頷いた。 少女が立ち上がり、大太刀が振り上げられる。


「夜更かししていれば、戦鬼が攫いにくるぞ。

きっと、夜更かししている子も、おじいさんと遊びたかったんですよーーーー」


 少女の声は、少女の首から吹き出る血に掻き消されて、港町の暗闇の中に沈んでいった。


「おやすみ」


 老人の声が廃墟に残った。 老人と幼い子供の遺体が二つ。

 戦鬼が攫った二人の子供がそこにいた。

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夜更かししていれば、鬼が攫いにくるぞ ウサギ様 @bokukkozuki

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